同時代史料への登場
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天文13年(1544年)11月4日、連歌師宗牧が、忠盛(正忠)の居城である楠(くす)を訪れている(『東国紀行』天文13年11月4日条)。宗牧は前日3日昼過ぎに浜田城を出立、城主の羽盛光義が同道し、今の塩浜周辺に来たところで、「下浦兵部少輔」と称する城主に出迎えられ、宿の蔵春軒に宿泊した。4日、連歌会が開かれ、宗牧は楠の風景を「わだつ海のかざしの花か雪もなし」「水鳥のをりはへあやのうき藻かな」と詠んだ。宗牧が次の行き先である桑名への旅を急いだため、同日、下浦兵部少輔とその息子の彦次郎は、湊の側の小庵で宗牧と餞別の宴を開いて見送った。宗牧を賊から護るため、舟には下浦一族(楠木一族)の左馬允とその部下の武士たちが同行した。 天文22年(1553年)11月24日、権中納言(後に権大納言)山科言継に使者を送り、楠地域の中にある東福寺末寺(臨済宗)の後継者にするため、言継の子の鶴松丸(後の薄諸光)を猶子にしたいと所望した(『言継卿記』天文22年11月24日条)。言継は内々に了承した。日記には「楠兵部大輔」と記されており、9年の間に兵部少輔から昇進しており、勅免が出る前から正式でないとはいえ公家社会で楠、楠木と認められていたことがわかる。 天文23年(1554年)3月19日、出納右京進重弘が山科言継のもとに訪れて、去年九州探題が鶴松丸を所望していたと申し出てきたが、勢州(の楠木氏)へ約束していた件だから、是非に及ばず(仕方がない)と返答した(『言継卿記』天文23年3月19日条)。 弘治2年(1556年)、当時権中納言を辞していた50歳の山科言継は、駿河国の大名今川義元を訪れるため、その旅程の途上で、9月に正忠のもとに滞在している(『言継卿記』弘治2年9月条)。近江国の六角義賢被官進藤氏から千種氏・楠木氏宛の書状・過書(関所通行の許可証)を得た言継は、9月15日に伊勢国千草に到着。千種三郎左衛門(後藤賢豊の弟で、北勢四十八家千種家当主)は所用で不在だったが、馬二頭と送別の人夫を手配してくれており、15日午後には千草を出発、夕方には楠(くす)に到着し、「どろ塚」の才松九郎左衛門の宿に落ち着いた。進藤氏の使者と山科家の青侍(家臣の侍)の沢路隼人佑を楠城に使わすが、当主の楠兵部大輔(楠木正忠)は不在で、代わりに同族の藤六という者が応対した。 9月16日、楠兵部大輔から船が手配されるが、小舟であったことから言継が不安がったため、楠兵部大輔と宿の主人の才松が追加出資して、翌日に才松の船で渡海することに決まった。言継は返礼のため楠城に赴いて、楠兵部大輔と中門で対面し、太刀と「牛黄円」という漢方薬5貝を贈呈した(言継は薬剤師としても名高かった)。二人の仲は良好だったらしく、「落馬云々」ということについて、笑い合った。また、兵部大輔も先程の贈呈への再返礼として、藤六を介して言継に太刀を贈った。そこへ連蔵主(れんぞうす)という僧が来て、前々から交渉していた鶴松丸猶子の件を催促したが、言継は結局奈良の寺に入れることにした、と言って断った(実際はこれも方便であり、のちに鶴松丸は参議薄以緒の養子になる)。帰り道は兵部大輔の親族と思われる「楠左馬助」とその息子の右衛門尉が同道し、宿で一杯を酌み交わした。天文13年に正忠の家臣に左馬允という者がいるため(前述)、左馬助は昇進した同一人物とも考えられる。そこへ近所に住む病気の僧が現れたので診察を行った。 9月17日、言継が出立しようとすると、前日の病僧が一週間の追加滞在を希望したが、旅を急ぐのでといって断って薬を渡し、謝礼50疋は受け取らずに宿の主人の才松へ預けた。言継はその他各方面に薬や代金を渡し、楠を出立し、三河国に向かった。
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