長岡京とは?

Weblio|辞書<国語辞典・国語辞書・百科事典>

初めての方へ

参加元一覧


用語解説|地図|ニュース
Weblio 辞書辞書・百科事典日本史辞典長岡京の解説 

三省堂 大辞林

三省堂三省堂

ながおかきょう ながをかきやう 【長岡京】

(1)784年より10年間、現在の京都府向日(むこう)市・長岡京市付近に置かれた古代の都。桓武天皇平城京からこの地に移ったが、造都の中心人物藤原種継暗殺など、不祥事続発のため794年平安京遷都ながおかのみやこ

(2)京都府南部の市。古代の長岡京のあった所で、付近古墳が多い。近年住宅のほか工場立地。乙訓(おとくに)(たけのこ)特産物


防府歴史用語辞典

防府市教育委員会防府市教育委員会

長岡京 (ながおかきょう)

784年平城京へいじょうきょう]からうつされた都です。平安京へいあんきょう]に都がうつるまでの10年存続しました。



ウィキペディア

ウィキペディアウィキペディア

長岡京

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2009/12/30 13:21 UTC 版)

長岡宮跡
京都府向日市鶏冠井(かいで)町
長岡京朝堂院復元模型(向日市文化資料館)
奥に見える回廊に囲まれた殿舎が大極殿

長岡京(ながおかきょう)は、784年(延暦3年)から794年(延暦13年)まで山城国乙訓郡に存在した日本の首都。現在の京都府向日市長岡京市京都市西京区にあった。

概要

長岡京は桓武天皇の命により、平城京から北へ40kmの長岡の地に遷都して造営され、平城京の地理的弱点を巧みに克服しようとした都市であった。長岡京の近くには桂川宇治川など、3本の大きな川が淀川となる合流点があった。全国からの物資を荷揚げする港「山崎津」を設け、ここで小さな船に積み替える。そこから川をさかのぼると直接、都の中に入ることができた。長岡京にはこうした川が3本流れ、船で効率よく物資を運ぶことができたので、陸路を使わざるを得なかった平城京の問題を解消できた。

発掘調査では、ほぼ各家に井戸が見つかっていることから、そこに住む人々も豊かな水の恩恵を受けていた。平城京で問題となっていた下水にも対策が立てられた。道路脇の流れる水を家の中に引き込み、排泄物を流すようになっていた。長岡京の北西で湧いた豊かな水は、緩やかな斜面に作られた都の中を自然に南東へ流れ、これによって汚物は川へ押し流され、都は清潔さを保っていた。

桓武天皇は自らの宮殿を街より15mほど高い地に築き、天皇の権威を目に見える形で示し、長岡京を天皇の都であることを強調した。

歴史

続日本紀」で桓武天皇とその側近であった藤原種継のやり取りが残っており、「遷都の第一条件は物資の運搬に便利な大きな川がある場所」という桓武天皇に対し、種継は「山背国長岡」を奏上した。また、長岡は藤原種継の実家があり、支持基盤がある場所でもあった。その他の理由として、

  • 既存仏教勢力や貴族勢力に距離を置く
  • 新京の周辺地域をおさえる、母方のバックボーンたる渡来人勢力との関係
  • 父の光仁天皇の代から天智系に皇統が遷った事による一新

等の説がある。784年(延暦3年)は甲子革令の年であり、桓武帝は天武系から天智系の天皇であったことも興味深い。

785年(延暦4年)の正月に宮殿で新年の儀式を行ったが、都の建築開始からわずか半年で宮殿が完成していたことを意味する。その宮殿建設では、反対勢力や遷都による奈良の人々への影響を意識した段取りをする。当時、宮殿の建設は今ある宮殿を解体して移築するのが一般的であったが、平城京から宮殿を移築するのではなく、難波宮と長岡京は淀川で通じていることから、難波宮の宮殿を移築した。また、遷都の際に桓武天皇は朝廷内の改革に取り組み、藤原種継とその一族を重用し、反対する勢力を遠ざけた。

しかし、同年9月に造長岡宮使の藤原種継が暗殺された。首謀者の中には、平城京の仏教勢力である東大寺に関わる役人も複数いた。そして桓武天皇の皇太弟早良親王もこの反逆に組していたことが明らかになり、早良親王が配流され、親王は恨みを抱いたまま死去する。その後

  • 日照りによる飢饉、疫病の大流行や、皇后や皇太子の発病
  • 原因を探るために占ったところ、早良親王の怨霊であることがわかり、御霊を鎮める儀式を行う
  • しかし、その2ヵ月後に大雨が襲い、都の中を流れる川が氾濫し、大きな被害となる

など、次々と発生していた。災難、身内の不幸、祟りが起こる原因を、天皇の徳のない証拠、天子の資格がないと民衆に判断されるのを桓武天皇は恐れ、わずか10年後の794年(延暦13年)に平安京へ遷都することになる。

なお、近年まで「幻の都」とされていたが、1954年(昭和29年)より、高校教員であった中山修一(後、京都文教短期大学教授)を中心として発掘が開始され、翌1955年(昭和30年)、大内裏朝堂院の門跡が発見されたのを皮切りとして、今日までにかなり発掘調査が進み(当該地域で急速な宅地化、工業地化が進み、緊急調査を強いられ続けた側面もあるのだが)、1964年(昭和39年)に国の史跡に指定された。発掘の結果わかったことは次の通りである。

  • 未完成で放棄されたとした従来の定説と異なり、難波宮や他の旧宮、平城京の建造物を移築し、かなり完成した姿であった
  • 平城京、平安京と並ぶ京域を持つ都であった。

また、その期間の短さから形だけの遷都、本来の目的は山背国で長岡の地は大規模な遷都への準備であり方違えではなかったのかとの説もある。

関連項目

先代:
平城京
日本の首都
784年(延暦3年) - 794年(延暦13年)
次代:
平安京






固有名詞の分類



関連した本


このページへのリンク
「長岡京」に関連した用語
長岡京のお隣キーワード
Weblioモバイル
QRコード
URL:【http://m.weblio.jp/
ケータイでバーコードを読み取るか、URLを直接入力してアクセスして下さい。
» モバイルで「長岡京」を見る

_ _   


このページの著作権について
Weblio 辞書情報提供元は参加元一覧にて確認できます。

  
三省堂三省堂
Copyright (C) 2001-2010 Sanseido Co.,Ltd. All rights reserved.
株式会社 三省堂三省堂 Web Dictionary
防府市教育委員会防府市教育委員会
Copyright 2010,Hofu Virtual Site Museum,Japan
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの長岡京 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したのにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2010 Weblio RSS