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歴史民俗用語辞典

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陸奥国

読み方:ムツノクニ(mutsunokuni)

旧国名。現在の福島県宮城県岩手県青森県



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陸奥国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/02/03 16:47 UTC 版)

令制国一覧 > 東山道 > 陸奥国
-陸奥国
-東山道

陸奥国(むつのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に位置する。別称は奥州(おうしゅう)または陸州(りくしゅう・ろくしゅう)。領域は変遷があるが、おおむね青森県岩手県宮城県福島県にあたる。陸奥はもと道奥(みちのおく)で、平安時代まで「みちのく」とも呼ばれた。『延喜式』での格は大国遠国

明治維新後、出羽国とともに分割された。分割後の陸奥国については、陸奥国 (1869-)を参照。

目次

概要

畿内から見て山道(のちの東山道)と海道(のちの東海道)の奥に位置し、中央政権に新規に服従した地域を同国に含めていったため、時期によって範囲は変遷する。概ね本州の北東部にあたる今日の福島県宮城県岩手県青森県と、秋田県北東の鹿角市小坂町にあたる。明治元年12月7日西暦1869年1月19日)に出羽国と共に分割・再編され、青森県と岩手県二戸郡にかけての地域に新たに「陸奥国」がおかれた。

「陸奥」の名称と表記

古事記』には道奥とあり、『日本書紀』は陸奥が多いが古い時代に道奥もみられ、ともに道奥を「みちのおく」と訓じる。和名抄は陸奥を「みちのおく」とする。道は古い時代には国と同義に使われており、道奥の語源は都からみて遠い奥にある国の意である。道を陸にかえた積極的理由はわからないが、常陸国の場合と同じく、陸道の意であてたものであろう。平安時代の和歌で陸奥は「みちのく」として詠まれていた。「みちのく」は「みちのおく」が訛って縮まったものである。

「みちのく」が「むつ」に変わった事情には、江戸時代から二説ある。一つは陸が六の大字として用いられることをふまえて、陸を六と書き、それに訓読みをあてて「むつ」にしたというもので、本居宣長が『古事記伝』で唱えた[1]。陸州は古代・中世によく使われた略し方で、「六奥国」「六奥守」「六国」という書き方も平安時代にはあった[2]。もう一つは「みちのく」が「みちのくに」になり、「むつのくに」に転訛したという説で、保田光則『新撰陸奥風土記』にある[3]。「みちのくに」は『伊勢物語』などに見える。

沿革

「道奥国」設置と当時の領域

7世紀末から712年までの陸奥国

初め道奥みちのおく)といい『常陸国風土記』には孝徳天皇在位の末年(654年)、足柄峠の東方に常陸国を始め8国を置いたとの記述がありこの8国の中に道奥が含まれると解されている。現在の東北地方のうち徐々に律令国家日本に組み込まれた区域、すなわち宮城県南部までの広大な領域を暫定的に含む辺境の大国であった常陸国から分割される形で成立し、以後、平安時代まで陸奥(みちのく)と呼ばれた。7世紀の設置時の範囲は、おおよそ現在の宮城県の中南部、山形県の内陸部、および福島県のほぼ全域に相当し、太平洋側のみならず、奥羽山脈の西側、すなわち、日本海側に当たる現在の山形県内陸盆地群や福島県会津地方を含んだ。

6世紀の陸奥の国造は、道奥菊多(のちの菊多郡に相当)、石城(磐城郡)、染羽(締葉郡)、浮田(宇多郡)、思(日理の誤り)、白河(白河郡)石背(磐瀬郡)、阿尺(安積郡)、信夫(信夫郡)、伊久(伊具郡)の10国造である(「国造本紀」)。孝徳朝の後半に第二次の使者が派遣されて、国造制が制へと変わり、道奥国(みちのおくくに)が設けられた。

律令制下の陸奥国

718年から数年間の陸奥国

和銅5年(712年)に、最上川流域の最上郡(最上地方および村山地方)と置賜郡(置賜地方)を越後国から分割されて新しく成立した出羽国(現在の庄内地方)に譲ったため、陸奥国は上述の宮城県域と福島県域のみになった。

養老2年(718年)に、陸奥国は、陸奥国・石城国石背国の三つに分割された。このときの陸奥国の範囲は阿武隈川下流の北岸から宮城県中部までの狭い範囲であった。阿武隈川下流の南岸以南の浜通りは石城国、阿武隈川流域の盆地群、中通り、および会津で石背国とした。石城国は、分立する際に常陸国から菊多郡をあわせた。しかし、養老4年(720年)年以降神亀元年(724年)以前のいつかの時点で、三国は合同して元の陸奥国に戻った。菊多郡はそのまま陸奥に属した。

蝦夷(えみし)の領域に接する陸奥国には、陸奥・出羽両国を統括する陸奥按察使が置かれた。陸奥国府には鎮守府が置かれ、他国から送られた鎮兵の統括を任務とし、鎮守将軍(後に鎮守府将軍)が両国を軍事的に統括した。大同3年(808年)以前には、陸奥・出羽按察使、鎮守将軍とも、陸奥守が兼任することが多かった。延暦21年(802年)に胆沢城が造営されると、鎮守府はここに移された。この後鎮官[4]が国司と別に任じられるようになり、胆沢城の城司に鎮官を充てた。国府多賀城は胆沢城鎮守府を後方から守る役割になった。[5]

陸奥国は、蝦夷との戦争をへてしだいに領域を北に拡大し、最終的に突出して面積の大きな国になった。版図の拡大には城柵を設置する政策がとられた。689年(持統3年)に優嗜曇評の柵(のち出羽国置賜郡)、724年(神亀元)に多賀城(宮城県多賀市)、737年(天平9年)に玉造柵(宮城県大崎市富沢遺跡か)、同年新田柵(宮城県大崎市大嶺八幡遺跡)、同年牡鹿柵(宮城県東松島市赤井遺跡か)、同年色麻柵、759年(天平宝字3年)に桃生城(宮城県石巻市)、767年(神護景雲元)に伊治城(宮城県栗原市)、780年(宝亀11年)に覚(上幣と下魚)城(未造営か)、804年(延暦23年)に中山柵(小田郡)、802年(延暦21年)に胆沢城(岩手県奥州市)、803年(延暦22年)に志波城(岩手県盛岡市)、812年(弘仁3年)に徳丹城(岩手県矢巾町)、遺跡として7世紀中頃の郡山遺跡(宮城県仙台市)、8世紀前半の城生柵遺跡(宮城県加美町)の15柵がつくられた。

和名類聚抄による田の面積は、5万1440町3反99歩。延喜式による租稲(の税収)は158万2715束。都への貢進物は昆布・縒昆布・策昆布・細昆布・広昆布、薬草として甘草・秦膠・大黄石斛人参附子・猪脂、筆、零羊の角。交易雑物には鹿の革、独犴(ラッコまたは犬)の皮、砂金、昆布・策昆布・細昆布があった。また、特産物の金、名馬、毛皮、羽根は都の貴族に珍重された。

延喜式での租稲配分
名目 支出(束)
正税 60万3000
公廨 80万3715
うち国司 (64万1200)
うち鎮官 (16万2515)
国分寺 4万0000
文殊会料 2000
救急料 12万0000
塩竃神 1万0000
学生料 4000
158万2715

平安時代

陸奥国南西部(後の岩代国)の会津地方では、807年(大同2年)年創建の伝承を持つ恵日寺が強大な勢力を持ち、11世紀から12世紀に最盛期を迎えて陸奥国から北陸地方北部まで影響力を持った。

平安時代後期になって中央からの統制が弛緩すると、俘囚の長安倍氏が陸奥の北部(現在の岩手県青森県)、奥六郡から下北半島、さらに十三湊[6]からの大陸交易に至る多大な権益に力を持つようになった。安倍氏は国司に従わず、前九年の役で戦って滅亡した。このとき出羽国から参戦した清原氏が陸奥・出羽両国で勢威を持ったが、後三年の役で滅亡した。これにかわって奥州藤原氏が陸奥・出羽の支配者になった。彼らはいずれも陸奥・出羽の地元で力を伸ばした一族で、都から派遣された国司が統治するという律令制の大原則を侵食し、奥州藤原氏にいたって自治的領域を築くようになった。奥州藤原氏の勢力圏は陸奥国全域におよび、南部となる現在の福島県域では、信夫佐藤氏が信夫郡を本拠地として宮城県南部、山形県南部、福島県中部、後に恵日寺衰退後の会津を支配した。福島県南東部(分国後の磐城国)では、前九年の役に従軍した後石川郡に定住した清和源氏石川氏や、浜通り南部を支配した桓武平氏岩城氏もあったが、いずれも藤原氏に服属していた。

奥州藤原氏は後の陸中国域(岩手県)にあたる平泉を本拠に、平氏政権のもとでも半独立の状態を維持した。しかし1189年源頼朝の攻撃を受けて滅亡した。

鎌倉時代

鎌倉時代から1868年までの陸奥国

頼朝は、陸奥国に関東の武士を地頭として配置した。奥州土着の武士は衰退し、鎌倉以来の武士が戦国時代まで陸奥国に割拠した。その中で、葛西清重ら葛西氏が下総国葛西郡から奥州へ移り、平泉の統治を任され、「奥州惣奉行」職に就任した。守護は置かれなかった。

なお、平安時代の陸奥国および出羽国は、北東北領域で境界不明瞭なことが多く、平安末期には、奥州藤原氏の勢力範囲の秋田県領域(仙北三郡など)も陸奥国と見なされていたようである(→出羽国)。

鎌倉時代後期には蝦夷大乱が起きた。

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南北朝・室町時代

後醍醐天皇建武の新政期には一時期親王任国とされ、義良親王が陸奥太守として赴任した。 その後室町幕府によって奥州探題が置かれた。 当初、陸奥国中部(現在の宮城県北部)を勢力圏とする足利氏一門で斯波氏の支族、大崎氏奥州探題を世襲していたが、その権威は名目的なもので、権威が及ぶ範囲も限られていた。後に陸奥国南部(現在の福島県北部)の伊達氏が台頭し、伊達稙宗が陸奥国守護を任ぜられ、大崎氏が伊達氏の勢力下に組み込まれるに至って、奥州探題の地位も伊達氏に奪われた。

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江戸時代

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明治期の陸奥国

分割された陸奥国(むつ)
1869年以降の陸奥国(りくおう)

1869年1月19日明治元年12月7日)、戊辰戦争に敗けた奥羽越列藩同盟に対する処分が行われた。同日、陸奥国と出羽国は分割され、陸奥国(むつ)は、陸奥国(りくおう)・陸中国(りくちゅう)・陸前国(りくぜん)・岩代国磐城国の5国に分割された。陸奥国(りくおう)は、現在の青森県岩手県西北の二戸郡を加えた範囲となり、初期の陸奥国(みちのく)から300kmも離れた土地を指すことになった。

陸奥国(りくおう)の領域にあった藩は下記のとおりである。

明治政府の地方支配体制は、その後の廃藩置県鎮台などによって実現されたため、明治元年の陸奥国分割は、政治的にも地域圏・文化圏成立にもほとんど意味を成さなかった。ただし、分割後の国名は、鉄道の駅名や陸前高田市などの地名に利用されている。また、陸奥・陸中・陸前の三国を総称した「三陸」の呼称は三陸海岸を始め現在も定着している。

国内の施設

国府

当初の国府郡山遺跡と推定されており、名取郡(現 宮城県仙台市太白区地図)にあった。神亀元年(724年)、宮城郡多賀(現 宮城県多賀城市地図)に多賀城が建設されると同時に国府もここに移った。遺跡調査からこの国府が10世紀に廃絶したことがわかっているが、文献史料からはその後も多賀国府が鎌倉時代、南北朝時代に存在したことがわかっている。場所がやや西の岩切(現在の仙台市北東部)付近に移ったと推測されている[7]

過去には、多賀城・多賀国府が岩切や利府にあったとする説もあり、多賀城の位置が定まったのは明治に入ってからである[8]。その後も、歌枕の武隈の松から武隈(現在の岩沼市)に一時期の国府があったとする説や、現在の福島県に国府が置かれた時期もあったはずだとする推定もなされた[9]。いずれも発掘調査の進展により否定された。

国分寺・国分尼寺

陸奥国分寺
国分僧寺は宮城郡(現 宮城県仙台市若林区木の下、地図)にあった。1189年奥州合戦で焼失したが、同じ位置に慶長12年(1607年)、伊達政宗陸奥国分寺を再建し、真言宗智山派の護国山医王院陸奥国分寺(本尊:薬師如来)として今日に至る。後に古い国分寺の遺跡が発掘され、国の史跡に指定された。

尼寺も宮城郡(現 宮城県仙台市若林区白萩町、地図[10])にあった。現在は隣接地に曹洞宗の護国山国分尼寺(本尊:聖観世音菩薩)があって、その法燈を伝承する。

神社

延喜式内社
延喜式神名帳』には、大社15座15社・小社85座85社の計100座100社が記載されている。大社15社は以下に示すもので、全て名神大社である。
総社一宮以下

安国寺利生塔

利生塔は未詳。




  1. ^ 本居宣長『古事記伝』20巻(筑摩書房『本居宣長全集』第10巻449-450頁)。
  2. ^ 高橋富雄『蝦夷』190頁。
  3. ^ 保田光則『新撰陸奥風土記』歴史図書社、1頁。
  4. ^ (ちんかん)鎮守府の鎮守将軍・副将軍・軍監・軍曹などの官職
  5. ^ 今泉隆雄「律令国と蝦夷」55ページ(渡辺信夫・今泉隆雄・大石直正・難波信雄『宮城県の歴史』山川出版社 1999年3月)
  6. ^ 後に十三湊の支配者となる安東氏は安倍氏を出自として持つが、12世紀にはすでに遺構が存在することが国立歴史民俗博物館などの調査によって知られている
  7. ^ 『みちのくの都 多賀城・松島』、『中世陸奥国府の研究』所収の諸論文による。
  8. ^ 豊田武・編『東北の歴史』上巻91頁(工藤雅樹・執筆「多賀城」)。
  9. ^ 大塚徳郎「古代および中世の宮城県」、『宮城県の地理と歴史』第2巻71頁。
  10. ^ 陸奥国分尼寺跡(宮城県)


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