最澄とは? わかりやすく解説

最澄


最澄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/06 00:02 UTC 版)

最澄(さいちょう、766年天平神護2年〉[1]もしくは767年神護景雲元年〉 - 822年弘仁13年〉)は、平安時代初期の日本仏教[2][3]日本の天台宗の開祖であり、伝教大師(でんぎょうだいし)として広く知られる[注釈 1]近江国(現在の滋賀県滋賀郡古市郷(現:大津市)もしくは生源寺(現:大津市坂本)の地に生れ、俗名は三津首広野(みつのおびとひろの)。に渡って仏教を学び、帰国後、比叡山延暦寺を建てて日本における天台宗を開いた[4]


注釈

  1. ^ 最澄に対する称名は「南無宗祖根本伝教大師福聚金剛」である。
  2. ^ 「百枝」は浄足の音をとった「巨枝」を誤ったもので、同一人物とする説もある[6]。また最澄の父が戸主であったとは限らない為、浄足は父ではないとする説もある[5]
  3. ^ 古市郷について『大日本地名辞典』では大津市粟津と考証されている[7]
  4. ^ 新撰姓氏録』には近江には志賀忌寸や志賀穴大村主といった帰化漢人が早くから居住していたことがわかる[7]。また三津首の記述はないものの可能性は否定できないとされる[5]
  5. ^ この鑑真将来の経典について伴国道は東大寺所蔵のものと伝えている[19]
  6. ^ この法会に召集された高僧は、前年に最澄が行った法華十講の講師10人が含まれている。また最澄への招請状から弘世は最澄に帰依していたことがわかる[25]
  7. ^ 還学生(げんがくしょう)は1年程度で戻る短期滞在の学生。対して留学生(るがくしょう)は20年ほどの長期滞在をする学生
  8. ^ 妙澄は後に最澄と空海の書簡に名が見えるが入唐はしていないと考えられる。円基については不明[29]
  9. ^ 詳細な割り当ては、華厳宗2名、天台法華宗2名、律宗2名、三論宗3名(小乗成実宗を含む)、法相宗3名(小乗倶舎宗を含む)である[37]
  10. ^ 天台宗はこの日をもって開宗としている。
  11. ^ 比叡山に総と中、その他に東西南北に各一か所である。安中山城宝塔院(比叡山東塔)、安国近江宝塔院(比叡山西塔)、安東上野宝塔院(上野国緑野郡、浄法寺)、安南豊前宝塔院(豊前国宇佐郡宇佐弥勒寺)、安西筑前宝塔院(筑前国太宰府竈門山寺)、安北下野宝塔院(下野国都賀郡大慈寺[47][48]
  12. ^ 具足戒は僧侶となるために守るべき規範である。を棄てる事は僧の資格を棄てる事と同義であるが、朝廷や南都の僧綱がそのように扱った様子はない[57]
  13. ^ 『天台法華宗年分学生式(六条式)』(弘仁9年5月13日)、『勧奨天台宗年分学生式(八条式)』(弘仁9年8月)、『天台法華宗年分度者回小向大式(四条式)』(弘仁10年3月15日)の3部からなる書。
  14. ^ この文面について天台宗では「照于一隅」(一隅を照らす)と解釈する。一方で薗田香融威王の「国宝とは国の一隅を守れば他国が侵入できず、将となれば千里を照らす者である」の故事を引いたもので、正しくは「照千一隅」(一隅を守り千里を照らす)とする説を唱えている。ここでは天台宗の解釈に従う[58]
  15. ^ 菩薩戒。天台宗は梵網経に基づく菩薩戒を円頓戒とよぶ。
  16. ^ 正式な僧になるための戒。比丘250戒、比丘尼348戒[60]
  17. ^ 戒を授ける直接の責任者である戒和尚、戒場で白四羯磨(びゃくしこんま)の作法を受け持つ羯磨師、威儀作法を教える教授師の三師と、7人の立ち会いの僧の事[60]
  18. ^ 梵網経に説かれる十重四十八軽戒。
  19. ^ この最澄の最期は『叡山大師伝』を根拠としているが、佐伯有清や張堂興昭は後年の脚色である可能性を指摘している。それによれば『類聚国史』に入滅前日である6月3日に勅許が降りたことが記されており、最澄はこれを聞いてから入滅した事になる[72]
  20. ^ 現代の天台宗ではこれを「四宗相承」(四宗とは円・密・禅・戒のこと)と称するが、この言葉は近世に敬光が唱えた「四宗脈譜」が元で、近代に一般化した[75]
  21. ^ 四種とは常坐三昧・常行三昧・半行半坐三昧・非行非坐三昧を指す[80]
  22. ^ 現存する三昧堂は西塔の法華堂・常行堂(にない堂)のみである[81]
  23. ^ 五性とは声聞種性・独覚種性・菩薩種性・不定種性・無性有情の事[88]

出典

  1. ^ a b なお、最澄自身の撰とされる『内証仏法相承血脈譜』では、13歳で弟子入りし、宝亀11年11月10日作成の「近江国府牒」に“三津首広野年拾五”との記述があり、天平神護2年出生説を採る学者もいる。
  2. ^ "The Sutra of the Sixth Patriarch." Dumoulin, Heinrich. Zen Buddhism: A History, India and China. New York: World Wisdom, 2005, p128.
  3. ^ 塩入良道、「最澄」 -日本大百科全書(ニッポニカ) 、小学館。
  4. ^ 書家101 p.118
  5. ^ a b c d e 田村晃祐 1988, p. 1-7.
  6. ^ a b c d 木内堯央 2020, p. 28-30.
  7. ^ a b c d e 木内堯央 2020, p. 26-28.
  8. ^ 木内堯央 2020, p. 30-31.
  9. ^ a b 木内堯央 2020, p. 32-34.
  10. ^ 木内堯央 2020, p. 34-36.
  11. ^ 木内堯央 2020, p. 42-43.
  12. ^ 木内堯央 2020, p. 57-58.
  13. ^ a b 田村晃祐 1988, p. 7-19.
  14. ^ 木内堯央 2020, p. 13-16.
  15. ^ a b 木内堯央 2020, p. 48-51.
  16. ^ 木内堯央 2020, p. 44-46.
  17. ^ 田村晃祐 1988, p. 23-25.
  18. ^ a b 木内堯央 2020, p. 51-54.
  19. ^ a b 田村晃祐 1988, p. 30-33.
  20. ^ 田村晃祐 1988, p. 264.
  21. ^ 木内堯央 2020, p. 59-61.
  22. ^ a b c 田村晃祐 1988, p. 33-38.
  23. ^ a b c 木内堯央 2020, p. 61-64.
  24. ^ 田村晃祐 1988, p. 42-52.
  25. ^ a b c d 田村晃祐 1988, p. 53-59.
  26. ^ 木内堯央 2020, p. 46-48.
  27. ^ a b 木内堯央 2020, p. 69-71.
  28. ^ 木内堯央 2020, p. 67-69.
  29. ^ a b c d e 田村晃祐 1988, p. 66-74.
  30. ^ 木内堯央 2020, p. 72-73.
  31. ^ 木内堯央 2020, p. 73-76.
  32. ^ a b 田村晃祐 1988, p. 74-88.
  33. ^ a b c 木内堯央 2020, p. 76-78.
  34. ^ a b 田村晃祐 1988, p. 89-94.
  35. ^ a b 木内堯央 2020, p. 85-87.
  36. ^ 田村晃祐 1988, p. 95-97.
  37. ^ a b c 木内堯央 2020, p. 87-90.
  38. ^ 田村晃祐 1988, p. 101-107.
  39. ^ a b 田村晃祐 1988, p. 108-112.
  40. ^ a b 田村晃祐 1988, p. 113-118.
  41. ^ a b c d e 田村晃祐 1988, p. 118-131.
  42. ^ a b c d 木内堯央 2020, p. 90-93.
  43. ^ 木内堯央 2020, p. 82-84.
  44. ^ 渡辺凱一 1995, p. 151-154.
  45. ^ 田村晃祐 1988, p. 139-145.
  46. ^ 田村晃祐 1988, p. 132-138.
  47. ^ a b c 田村晃祐 1988, p. 154-157.
  48. ^ a b 天台宗 2009, p. 1.
  49. ^ 田村晃祐 1988, p. 157-159.
  50. ^ a b 田村晃祐 1988, p. 150-154.
  51. ^ 木内堯央 2020, p. 106-108.
  52. ^ a b 木内堯央 2020, p. 108-110.
  53. ^ 木内堯央 2020, p. 108-109.
  54. ^ 田村晃祐 1988, p. 161-183.
  55. ^ 田村晃祐 1988, p. 158-161.
  56. ^ a b 田村晃祐 1988, p. 183-189.
  57. ^ a b 田村晃祐 1988, p. 190-195.
  58. ^ a b c d 田村晃祐 1988, p. 195-206.
  59. ^ a b c 田村晃祐 1988, p. 206-214.
  60. ^ a b c d e 田村晃祐 1988, p. 215-222.
  61. ^ 田村晃祐 1988, p. 222-232.
  62. ^ 田村晃祐 1988, p. 232-240.
  63. ^ a b 田村晃祐 1988, p. 252-257.
  64. ^ a b 木内堯央 2020, p. 101-104.
  65. ^ a b c d e f g h 田村晃祐 1988, p. 240-244.
  66. ^ a b c 上原雅文 1999, p. 60-61.
  67. ^ 木内堯央 2020, p. 95-98.
  68. ^ 木内堯央 2020, p. 98-100.
  69. ^ 古田榮作 1999, p. 68-69.
  70. ^ a b c d e f g h i j k 田村晃祐 1988, p. 245-252.
  71. ^ 木内堯央 2020, p. 111-113.
  72. ^ 張堂興昭 2018, p. 28-33.
  73. ^ 「延暦寺で1200年大遠忌法要、最澄の遺徳しのぶ」朝日新聞デジタル(2021年6月4日配信)同日閲覧
  74. ^ 伊吹敦 2017, p. 70-71.
  75. ^ 伊吹敦 2017, p. 74-76.
  76. ^ 新川哲雄 2008, p. 429.
  77. ^ 新川哲雄 2008, p. 433-438.
  78. ^ a b c d 景山春樹 1975, p. 80-81.
  79. ^ 景山春樹 1975, p. 85-86.
  80. ^ a b c 清水擴 2004, p. 88-89.
  81. ^ a b c 清水擴 2004, p. 89-94.
  82. ^ 景山春樹 1975, p. 73-74.
  83. ^ 景山春樹 1975, p. 81-82.
  84. ^ 木内堯央 1980, p. 746.
  85. ^ 景山春樹・村山修一 1970, p. 65-68.
  86. ^ 新纂浄土宗大辞典: 一切衆生悉有仏性.
  87. ^ a b 新川哲雄 2008, p. 438-442.
  88. ^ 新纂浄土宗大辞典: 五姓各別.
  89. ^ 松尾剛次 2006, p. 14-22.
  90. ^ 沖本克己 2006, p. 152-155.
  91. ^ a b c 景山春樹 1975, p. 63-67.
  92. ^ a b c d e f g 塩入亮忠 1937, p. 461-464.
  93. ^ a b c 景山春樹 1975, p. 58-59.
  94. ^ 景山春樹 1975, p. 59-61.
  95. ^ 木内堯央 1978, p. 8-9.
  96. ^ 景山春樹 1975, p. 61-63.
  97. ^ a b c d 宮坂宥勝「風信帖と久隔帖」(「空海の風信帖」『墨』P.16 - 20)
  98. ^ 寺山旦中「弘法の展開と最も澄んだ書」(「空海の風信帖」『墨』P.54)
  99. ^ 景山春樹 1975, p. 57.
  100. ^ 平野多恵 2014, p. 21.


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念仏」の記事における「最澄」の解説

日本天台宗開祖・最澄(伝教大師)は、止観によって阿弥陀仏自己の一体を観想する念仏修法導入した

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空海の風景」の記事における「最澄」の解説

日本における天台宗開祖近江国出身で、俗名は「三津広野」(みつのおびとひろの)。若くして官僧となるが、既存奈良仏教に不満を持ち二十歳時に官寺去って後の比叡山延暦寺の元となる寺を起こすほどなくして桓武帝平安遷都によって都が遷され、たまたま自身の寺が都の鬼門位置していたために桓武帝から目をかけられ宮中侍僧である内供奉十禅師任命されて手篤い庇護を受けることとなる。

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烈火の炎」の記事における「最澄」の解説

紙演舞 紙の帯を相手巻きつける芙蓉 紙の帯を刀のように硬く鋭くする。精神力高ければ炎の刃交えて燃えなくなる。 六歌仙 文屋黒主業平小町、偏昭、喜撰の形にそれぞれ紙を折り相手に飛ばす。 千鶴 式紙で操る千羽鶴一気相手にぶつける大技

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