軍記物
軍記物
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『甲陽軍鑑』の11品によると、山本勘助は今川家への仕官を京流の兵法者として推薦されたが、今川義元は他の理由に加えて「新當流の兵法こそ本なれ」という理由で却下した。 『甲陽軍鑑』の40品下によると、兵法を習う者は、兵法つかい、兵法者、兵法仁の3つに分けられ、山本勘助、波合備前、塚原卜伝の3人は兵法仁に相当する。砥石崩れで今井伊勢守が敵兵に出会った時、敵の長槍を見て相性の不利を悟った今井は顔見知りの振りをして呼びかけた。すると、敵も構えていた槍を下ろして挨拶を返してきたので時間を稼ぎ、追いついてきた味方と共に敵兵を殺した。このように、兵法仁は太刀も兵法も使わない例があり、これが塚原卜伝の一ツ太刀である。卜伝は、一ツの太刀、一ツの位、一太刀の3段を極意とした。 『甲陽軍鑑』の末書結要本5巻によると、塚原卜伝は太刀の極意を一ツ乃太刀と名付た。これは松本備前守(諱不詳)が使いはじめたものであった。名声を得た後、卜伝は一ツ乃太刀を日本中に広め、公方の万松院殿(足利義晴)、光源院殿(足利義輝)、霊陽院殿(足利義昭)に一ツ乃太刀を伝えた。ただし、40品と末書結要本には新当流の名は出てこない。 『勢州軍記』によると、飯篠家直が天真の伝として剣術の流派を興し、そのうち四伝を受け継いだ塚原卜伝がさらに新たな流派を興した。その後、塚原卜伝に学んだ北畠具教は一之太刀を極めた。一之太刀を受け継ぐことができるのは1人だけと定めていた卜伝は、嫡男の塚原秀幹にあてて具教に教えを請うように遺言したところ、秀幹は既に一之太刀を習得したと偽って、比較のために見せてほしいと具教に頼んだ。騙された具教は秀幹に一之太刀を見せてしまった。なお、『勢州軍記』にも新当流という単語は出てこない。 『昔阿波物語』によると、阿波国の三好家では、三好実休や十河一存を初め、家中の者が新當流の内藤太郎兵衛に教えを受けていた。一方、篠原長房は上方の兵法名人の式部を師としていた。式部は実休に「新當流は役に立たない」と言ったので、弟子同士の実休と長房が木刀の試合をすることになり、この試合では長房が勝った。その後、一存の家来が式部を暗殺したので、恨みに思った長房が兵を率いて一存の館を取り囲む騒ぎとなったが、実休が取りなした。 『関八州古戦録』によると、武田家により長野家の箕輪城が陥落した際、武田家に仕えていた内藤昌豊は長野家の旧臣250名を召抱えて箕輪城の城代となり、西上野の目代となった。長野家に仕えていた上泉信綱は、落城の際は切り抜けて東上野へ落ち延びていたが、後にかつての同僚たちを頼って西上野へ戻り、昌豊に仕えた。信綱は香取の飯篠家直が興した流派、天眞正ノ流を修めていたが、これに工夫を加えて新當流を興した。この後、信綱は「武田信玄の許可なく他家に仕官しない」という誓約のもと自由行動をゆるされ、呼び名を伊勢守から武蔵守に改めて上方へ行き、また柳生で柳生宗厳に剣術を教えて、同地で没した。 また、同書によると、天眞正は海に住む河童で香取大明神(フツヌシ)の化身である。この天眞正を師とする鹿伏兎刑部少輔が飯篠家直に刺撃ノ法を伝授し、その流派が家直から松本備前守を経由して塚原卜伝に伝わった。 『本朝武芸小伝』の「塚原卜傳」によると、常陸国の塚原卜伝の父は天眞正傳を修めていた。はじめ、父の教えを受けたのは卜伝の兄だったが、兄は早世したため卜伝が兄の流派を受け継いだ。一方、上野国の上泉信綱は陰流の祖で刀槍術の達人だったので、卜伝は上野国へ行き信綱の下で研鑽を積んだ。後に卜伝は京へ上り、将軍の足利義輝と足利義昭に刀槍術を教え、一太刀を北畠具教に授けた。この時、松岡則方は本旨を悟ったので、後に一之太刀を徳川家康に伝授した。この流派は則方の弟子、甲頭刑部少輔と多田右馬助などに受け継がれた。この本の「塚原卜傳」の項目にも新当流の名はないが、「飯篠山城守家直」の項目では飯篠家直が興した流派を天眞正傳神道流としている。
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軍記物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/01/21 16:35 UTC 版)
『甲陽軍鑑』の11品によると、山本勘助は今川家への仕官を京流の兵法者として推薦されたが、今川義元は他の理由に加えて「新當流の兵法こそ本なれ」という理由で却下した。 『甲陽軍鑑』の40品下によると、兵法を習う者は、兵法つかい、兵法者、兵法仁の3つに分けられ、山本勘助、波合備前、塚原卜伝の3人は兵法仁に相当する。砥石崩れで今井伊勢守が敵兵に出会った時、敵の長槍を見て相性の不利を悟った今井は顔見知りの振りをして呼びかけた。すると、敵も構えていた槍を下ろして挨拶を返してきたので時間を稼ぎ、追いついてきた味方と共に敵兵を殺した。このように、兵法仁は太刀も兵法も使わない例があり、これが塚原卜伝の一ツ太刀である。卜伝は、一ツの太刀、一ツの位、一太刀の3段を極意とした。 『甲陽軍鑑』の末書結要本5巻によると、塚原卜伝は太刀の極意を一ツ乃太刀と名付た。これは松本備前守(諱不詳)が使いはじめたものであった。名声を得た後、卜伝は一ツ乃太刀を日本中に広め、公方の万松院殿(足利義晴)、光源院殿(足利義輝)、霊陽院殿(足利義昭)に一ツ乃太刀を伝えた。ただし、40品と末書結要本には新当流の名は出てこない。 『勢州軍記』によると、飯篠家直が天真の伝として剣術の流派を興し、そのうち四伝を受け継いだ塚原卜伝がさらに新たな流派を興した。その後、塚原卜伝に学んだ北畠具教は一之太刀を極めた。一之太刀を受け継ぐことができるのは1人だけと定めていた卜伝は、嫡男の塚原秀幹にあてて具教に教えを請うように遺言したところ、秀幹は既に一之太刀を習得したと偽って、比較のために見せて欲しいと具教に頼んだ。騙された具教は秀幹に一之太刀を見せてしまった。なお、『勢州軍記』にも新当流という単語は出てこない。 『昔阿波物語』によると、阿波国の三好家では、三好実休や十河一存を初め、家中の者が新當流の内藤太郎兵衛に教えを受けていた。一方、篠原長房は上方の兵法名人の式部を師としていた。式部は実休に「新當流は役に立たない」と言ったので、弟子同士の実休と長房が木刀の試合をすることになり、この試合では長房が勝った。その後、一存の家来が式部を暗殺したので、恨みに思った長房が兵を率いて一存の館を取り囲む騒ぎとなったが、実休が取りなした。 『関八州古戦録』によると、武田家により長野家の箕輪城が陥落した際、武田家に仕えていた内藤昌豊は長野家の旧臣250名を召抱えて箕輪城の城代となり、西上野の目代となった。長野家に仕えていた上泉信綱は、落城の際は切り抜けて東上野へ落ち延びていたが、後にかつての同僚たちを頼って西上野へ戻り、昌豊に仕えた。信綱は香取の飯篠家直が興した流派、天眞正ノ流を修めていたが、これに工夫を加えて新當流を興した。この後、信綱は「武田信玄の許可なく他家に仕官しない」という誓約のもと自由行動をゆるされ、呼び名を伊勢守から武蔵守に改めて上方にへ行き、また柳生で柳生宗厳に剣術を教えて、同地で没した。 また、同書によると、天眞正は海に住む河童で香取大明神(フツヌシ)の化身である。この天眞正を師とする鹿伏兎刑部少輔が飯篠家直に刺撃ノ法を伝授し、その流派が家直から松本備前守を経由して塚原卜伝に伝わった。 『本朝武芸小伝』の「塚原卜傳」によると、常陸国の塚原卜伝の父は天眞正傳を修めていた。はじめ、父の教えを受けたのは卜伝の兄だったが、兄は早世したため卜伝が兄の流派を受け継いだ。一方、上野国の上泉信綱は陰流の祖で刀槍術の達人だったので、卜伝は上野国へ行き信綱の下で研鑽を積んだ。後に卜伝は京へ上り、将軍の足利義輝と足利義昭に刀槍術を教え、一太刀を北畠具教に授けた。この時、松岡則方は本旨を悟ったので、後に一之太刀を徳川家康に伝授した。この流派は則方の弟子、甲頭刑部少輔と多田右馬助などに受け継がれた。この本の「塚原卜傳」の項目にも新当流の名はないが、「飯篠山城守家直」の項目では飯篠家直が興した流派を天眞正傳神道流としている。
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軍記物
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『北条五代記』に、関八州に鉄炮はじまる事、という記述がある。ここでは、1510年(永正7年)に唐(中国)から渡来したという。 見しは昔、相州小田原に玉瀧坊と云て年よりたる山伏有。愚老若き頃、其山臥物 語せられしは、我関東より毎年大峯へのぼる。享禄はじまる年、和泉の堺へ下りしに、あらけなく鳴物の声する、是は何事ぞやととへば、鉄炮と云物、唐国より永正七年に初て渡りたると云て、目当とてうつ。我是を見、扨も不思議奇特 成物かなとおもひ、此鉄炮を一挺買て、関東へ持て下り、屋形氏綱公へ進上す。(中略)氏康時代、堺より国康といふ鉄炮張りの名人をよび下し給ひぬ。扨又根来法師に、杉房・二王坊・岸和田などといふ者下りて、関東をかけまはつて鉄炮ををしへしが、今見れば人毎に持し、と申されし 大久保忠教の『三河物語』では、松平清康が、熊谷実長が城へ押し寄せた際に、四方鉄砲を打ち込むと記載されている。1530年(享禄3年)のこととされる。また、今川殿の名代として、北条早雲が松平方の西三河の岩津城を攻撃した際に、四方鉄砲を放つとある、出版社の欄外の解説には、この役は、1506年(永正3年)のことで、鉄砲はこのときないとして、『鉄炮記』の記述を支持している。
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『承久記』:全2巻。承久の乱を記した軍記物。乱の原因を後鳥羽上皇の不徳であると記している。異本が多い。これを基に江戸時代に描かれた『承久記絵巻』が個人蔵で現存している。
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軍記物
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院政期文化の主たる担い手は依然貴族層や僧侶であったが、新興勢力である武士や庶民の生活にも目が向けられるようになり、そこに文化的関心が寄せられたのもこの時代の特徴であった。承平天慶の乱における平将門の東国での反乱を描いた『将門記』、陸奥における前九年の役の経過を記した『陸奥話記』はともに地方の合戦に取材したもので、地方武士の様相がよく描かれている。軍記物のさきがけをなすものとして文学史上の意義も大きく、いずれも日本風の漢文で書かれている。
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軍記物
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この時代の文学の特色を示すものに軍記物がある。いずれも漢語や仏語、俗語とくに武士ことばをまじえた力強く簡潔な和漢混淆文でつづられた。従来の漢文体の合戦記では表現できない躍動性が発揮され、実際の武士の活躍ぶりが描かれている。 本格的な軍記物のさきがけをなすものとして、保元の乱を題材とする『保元物語』、平治の乱を描いた『平治物語』が知られる。ともに成立年代は不明だが、『平家物語』に先だって成立したと考えられ、前者は鎮西八郎源為朝を、後者は悪源太源義平を主人公とし、両乱を題材としながらも主人公の悲壮な武運を描いている。 軍記物のなかでもとくに傑作とされるのが、治承・寿永の乱を中心に平氏の興亡をテーマとした『平家物語』である。『徒然草』では、作者を遁世して慈円のもとにいた信濃前司行長としており、それを東国出身の盲目の僧生仏に語らせたのが始まりであると伝えているが、その内容からは複数の作者の介在が想定され、異本も多い。優れた文学というだけでなく、盲目の琵琶法師によって平曲(平家琵琶)として語り広められて、文字の読めない人びとにも親しまれた。琵琶法師は、平安時代のころから琵琶をかきならしながら叙事詩を語って活躍していたが、楽器の伴奏にあわせて物語に節をつけて語る「語りもの」は、新仏教の形成とともにこの時代を特色づける新しい傾向である。 『平家物語』は、全編を「盛者必衰」の無常観によりながら平清盛・木曽義仲ら個性的な武士像や運命に翻弄される女たちの悲哀などを和漢混淆文によって描いており、合戦場面のきびきびとした簡潔な文体、女性の哀話における叙情的な和文体など多様な文体が駆使されている。一族の運命をみずからの運命として受容し、いさぎよく最後まで戦い抜いた武士たちを生き生きと描ききったところにこの物語の魅力があり、また、「祇園精舎の鐘の声…」ではじまる韻律的な書き出しは特に有名である。 後続する『源平盛衰記』は『平家物語』読み本系の写本中の一異本と考えられ、異説・異伝も載せるなど一種の史書としての体裁をとっている。他に戦乱に取材したものとしては1221年(承久3年)に後鳥羽上皇が討幕の兵をあげた承久の乱を描いた『承久記』がある。なお、そのころに著述されたと思われる『平家物語』巻十二「六代被斬」では、「承久に御謀反おこさせ給ひて」という一節がある。
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軍記物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 03:21 UTC 版)
「埼玉県を舞台とした作品一覧」の記事における「軍記物」の解説
鎌倉大草紙(作者不詳)- 享徳の乱の時期の関東が描かれている。 関八州古戦録(槙島昭武)- 河越夜戦から小田原征伐までの関東が描かれている。 太平記(作者不詳)- 巻第十「新田義貞挙兵の事」、巻第三十一「武蔵野合戦の事」では所沢市とその周辺での合戦の模様が描かれている。 成田記(小沼十五郎保道)- 成田氏の盛衰が描かれている。 坂東忠義伝 / 関東古戦録(三木成為)- 戦国期を舞台に足利義連(架空の人物)を主人公とした架空戦記。
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軍記物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/24 08:31 UTC 版)
→「軍記物」 『将門記』 『陸奥話記』 この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:日本/P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。
※この「軍記物」の解説は、「平安時代史料の一覧」の解説の一部です。
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軍記物
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→「軍記物」 『信長公記』 太田牛一著 『大かうさまくんきのうち』 太田牛一著 『明智軍記』 著者不詳。元禄頃の成立。明智光秀の唯一の伝記。しかし史料的価値は低いとされる。 『浅井三代記』 『陰徳太平記』 安芸毛利氏を中心に中国地方の戦国時代を描写した戦国軍記。17世紀末頃の成立。岩国藩の家老香川正矩著。毛利元就礼讃の傾向が強い。 『大友記』 『奥羽永慶軍記』 東北地方の戦国時代を描写した戦国軍記。元禄11年の成立。久保田藩の医師戸部正直著。 『蒲池物語』 蒲池豊庵著 蒲池氏の盛衰記。 『官知論』 加賀冨樫氏と加賀一向一揆の抗争を記した軍記。 『九州治乱記』友松玄益著 大友氏を中心とした九州北部の軍記。 『江濃記』 『江北記』 『甲陽軍鑑』 高坂昌信著?小幡景憲編 甲斐武田氏の歴史、戦術などを記した軍学書。武田信玄の重臣高坂昌信が書き残した記録をもとに江戸時代に軍学者小幡景憲が脚色・創作を加えたものとされるが、史実と大きく異なっている点も多く、史料としての評価は分かれている。 『佐久間軍記』佐久間常関著。 織田信長家臣の佐久間氏と一部柴田氏について桶狭間の戦いから大坂の陣までの記録。 『信長記』小瀬甫庵著 太田牛一の著作『信長公記』を底本に儒教的価値観に基づき創作や脚色加えて書いたもの。資料的価値は低いが、江戸時代を通して広く読まれた。 『勢州軍記』 『総見記』(『織田軍記』) 『太閤記』 小瀬甫庵著 豊臣秀吉の一代記。『信長記』と同じく創作や脚色が多いが、江戸時代に大いに流布した。 『筑後国史』(筑後将士軍談)鈴木一貞著 『土佐物語』吉田孝世著 長宗我部氏の興亡を描いた軍記物語。 『南海治乱記』 阿波三好氏を中心とした軍記。 『肥陽軍記』 龍造寺氏の興隆を描いた軍記。実際の出来事の前後の間違いや年号の間違い、またこれにしか記述のない常識的ではない出来事などが散見される。 甫庵信長記 → 信長記 『豆相記』 『北条記』『東乱記』『小田原記』『異本小田原記』『関侍伝記』『相州兵乱記』『関東兵乱記』 三浦浄心『北条五代記』寛永18版、万治2版 『北条盛衰記』改題本『北条五代実記』現代語訳『小田原北条記』 『関八州古戦録』 『南藤蔓綿録』 梅山無一軒著 相良氏についての軍記。 『北越軍談』 越後上杉氏についての軍記。甲陽軍鑑の影響と上杉流軍学喧伝の傾向が顕著であり、史料価値は高くない。 『北肥戦誌(九州治乱記)』 馬渡俊継著 龍造寺氏を中心とした肥前国に関する軍記。 『元親記』 長宗我部元親についての軍記。
※この「軍記物」の解説は、「戦国時代史料の一覧」の解説の一部です。
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