四条畷の戦いとは? わかりやすく解説

四条畷の戦い

作者阿井景子

収載図書太平記残照
出版社講談社
刊行年月1991.11


四條畷の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/20 21:07 UTC 版)

四條畷の戦い(しじょうなわてのたたかい)は、南北朝時代正平3年/貞和4年1月5日1348年2月4日)、河内国讃良郡野崎(大阪府大東市野崎)から北四条(同市北条)にかけて行われた、南朝河内守楠木氏棟梁の楠木正行・実弟正時と、北朝室町幕府執事高師直引付方頭人佐々木導誉との間の戦い[1]


注釈

  1. ^ a b 『太平記』では、南朝が3,000、幕府/北朝が60,000。駐留中の師泰軍は20,000。
  2. ^ 『細川系図』では細川直俊も四條縄手で討死したとするが[15]、一次史料によれば実際はこの10年前、延元2年/建武4年(1337年)3月10日に大塚惟正らとの戦いで死亡している(『和田文書』所収『岸和田治氏軍忠状』[16])。

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四條畷の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/07 14:22 UTC 版)

楠木正行」の記事における「四條畷の戦い」の解説

詳細は「四條畷の戦い」を参照 山城国京都府)から河内国大阪府東部)へ入る手前年を越した幕府軍は、正平3年/貞和4年1348年1月2日、ついに総大将師直第一軍国境越えて河内守正行領国である河内国入り同国讃良郡野崎大阪府大東市野崎)の辺り逗留した(『醍醐地蔵院日記同日条)。 それから3日後、正平3年/貞和4年1月5日1348年2月4日)、讃良郡北四条大阪府大東市北条)で正行師直激突した(『園太暦同日条)。世上名高い四條畷の戦いである。 ところが、この戦いについて史料極めて乏しい。戦闘経過について確実にわかっていることは、以下の程度である。 師直讃良郡野崎大阪府大東市野崎)に陣を敷いていたこと(『醍醐地蔵院日記』)。 正行率い南朝軍の方から攻撃仕掛けたこと(『園太暦』)。 主戦場および正行討ち取られた場所は讃良郡北四条大阪府大東市北条であったこと(『薩藩旧記』「足利直義書状」等)。なお、ここで注意すべきは、主戦場となった北四条は、師直の陣がある野崎の「北隣の」地域である、言い換えれば南征試み師直進行方向とは、逆方向なことである。 熾烈な戦いになったこと(『園太暦』「合戦頗火出程事成」)。 生駒孝臣によれば師直勝因兵数だけではなく戦術でも正行比べ一枚も二枚も上手であったためという。まず野崎本陣敷いた師直は、その東部から北東部にある飯盛山占拠した。それに対し正行行動一歩遅れたため、東を飯盛山に、西を深野池(ふこうのいけ)に挟まれ東高野街道一直線に進まざるを得ず正面師直本軍右手飯盛山支軍を同時に相手にすることになってしまった。必然的に正行正面師直本陣切り込むしかなかったのである。その一方藤田精一は、正行があえてここで開戦踏み切ったのは、当時野崎から北四条北条)は西方深野池流れ湿地帯であったため、大軍運用余り適しておらず、少数の手勢で奇襲すれば師直討ち取れると考えたではないか指摘するまた、『太平記』では、南朝軍は最初騎兵だったのが途中から馬を降りて歩兵になった描かれているが、藤田正行最初から歩兵運用していたものとして説明し、また『太平記』正行南朝軍を三部隊に分けたとする描写とは違い実際前軍後軍二部隊に分けたのだろうとしている。 藤田生駒ともに、圧倒的な兵力差でもなお一時的に正行優勢であったとする。しかし、藤田によれば、東の飯盛山から降りてきた師直支隊挟撃される格好となってしまい、南朝軍の後軍がそれによって機能しなくなってしまったという。それでもなお正行率い前軍正面攻撃続けた藤田によれば、四條畷の戦いの主戦場北四条となっており、師直本陣である野崎から北にずれているのは、正行猛攻によって師直撤退したからだという。湿地帯であるため、騎兵である師直後退速度が遅いのも正行作戦範疇であり、南朝軍は追撃続けた。しかし、ついに決定打与えることが出来ないまま、幕府軍大将師直戦域からの離脱完了した上に、南朝軍の戦線伸びきってしまい、時刻夕方迎えて正行らは力尽きてしまった。 『園太暦によれば進退窮まった楠木正行とその弟(楠木正時)、そして親族和田新発しんぼち)は自害した。その他、南朝中院義定が阿蘇惟時送った書状によれば、開住良円吉野衆徒青屋刑部らも討死し、正行含めて27人もの武将死亡したという(『阿蘇文書』)。また、幕府指導者足利直義喧伝するところでは、正行正時新発加え幕府和田新発の弟の新兵衛尉(和田行忠)も討ち取り、さらに雑兵まで数えると、正行側の戦死者数百人を数えたという(『薩藩旧記』「足利直義書状」)。『園太暦によれば首を切られたものだけではなく生け捕りになったものも多かった

※この「四條畷の戦い」の解説は、「楠木正行」の解説の一部です。
「四條畷の戦い」を含む「楠木正行」の記事については、「楠木正行」の概要を参照ください。

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