ろくはら‐たんだい【六波羅探題】
六波羅探題
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六波羅探題(ろくはらたんだい)は、鎌倉幕府の職名の一つ。承久3年(1221年)の承久の乱ののち、幕府がそれまでの京都守護を改組し京都六波羅の北方と南方に設置した出先機関。探題と呼ばれた初見が鎌倉末期であり、それまでは単に六波羅と呼ばれていた。
注釈
出典
- ^ a b c d 木村英一「六波羅探題の成立と公家政権」『鎌倉時代公武関係と六波羅探題』(清文堂出版、2016年) ISBN 978-4-7924-1037-7(原論文2002年)
- ^ 日本史史料研究会編 2018, p. 147–148.
- ^ 石井清文 2020, p. 134–141.
- ^ 木村英一「鎌倉後期の悪党検断方式に関する覚書」『鎌倉時代公武関係と六波羅探題』(清文堂出版、2016年) ISBN 978-4-7924-1037-7(原論文2008年)
- ^ 木村英一「勅命施行にみる鎌倉後期の六波羅探題」『鎌倉時代公武関係と六波羅探題』(清文堂出版、2016年) ISBN 978-4-7924-1037-7
- ^ a b c d e f g h i 高槻市史 第2章 南北朝内乱期の高槻地方 第1節 北摂地方の戦乱 高槻市立図書館、2021年3月31日閲覧。
- ^ 熊谷隆之 2004, p. 89–90.
- ^ 熊谷隆之 2004, p. 90–91.
- ^ 熊谷隆之 2004, p. 90.
- 1 六波羅探題とは
- 2 六波羅探題の概要
- 3 六波羅探題一覧
- 4 脚注
- 5 外部リンク
六波羅探題
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承久元年(1219年)に22歳で小侍所別当就任。元仁元年(1224年)6月13日、27歳の時に父が死去し、異母兄の泰時が3代執権となる。寛喜2年(1230年)3月、京都で六波羅探題北方を務める泰時の嫡子で甥の時氏が病となったため、後任を受けて鎌倉から上洛し、33歳で六波羅探題北方に就任。以降17年間六波羅の最高責任者となる。「御成敗式目」制定に関して泰時から重時にあてた書状はよく知られている。 仁治3年(1242年)の幕府による後嵯峨天皇擁立の際には、重時の同母妹竹殿を妻としていた土御門定通と連携して工作が行われた。同年に執権泰時が重病となると、六波羅探題南方の従弟時盛と共に急ぎ鎌倉へ下った。泰時が没すると重時は六波羅に帰任したが、時盛は鎌倉に留まったため、探題は重時のみとなり、最後の5年間は重時単独で任に当たった。 泰時の死去にあたり、同母兄朝時は泰時の後継を巡って不穏な動きを見せているが、その詳細は不明。泰時と朝時の間は疎遠であり、その没後も両者の家系で嫡流争いを続ける事になるが、重時は一貫して長兄泰時との関係は良好で、重時の家系はその後も泰時の家系得宗家を支えている。 寛元4年(1246年)、宮騒動により前将軍藤原頼経が京へ強制送還される。この年の8月、重時は後嵯峨上皇院司葉室定嗣を六波羅に呼び、5代執権となった北条時頼からの書状として、事件に関与した九条道家父子の更迭を後嵯峨上皇に奏上するよう要請し、幕府と上皇の仲介を行っている。9月1日、時頼は三浦泰村に対し、自分の相談相手にするために重時を京都から呼び戻したいと打診したが、泰村は頑なにこれを拒んだ。
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