北条時頼とは? わかりやすく解説

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ほうじょう‐ときより〔ホウデウ‐〕【北条時頼】

読み方:ほうじょうときより

[1227〜1263]鎌倉幕府5代執権在職1246〜1256。泰時の孫。法名、道崇。豪族三浦一族滅ぼし執権北条氏権力確立執権辞してから出家。禅を信仰し中国宋より蘭渓道隆招き建長寺建立仁政諸国遍歴伝説がある。最明寺殿。

北条時頼の画像
本朝百将伝」より/国立国会図書館
北条時頼の画像

北条時頼

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/16 16:27 UTC 版)

北条 時頼(ほうじょう ときより)は、鎌倉時代中期の鎌倉幕府第5代執権(在職:1246年 - 1256年)である。北条時氏の次男で、4代執権北条経時の弟。8代執権北条時宗らの父。通称は五郎、五郎兵衛尉、武衛、左近大夫将監、左親衛、相州、また出家後は最明寺殿、最明寺入道とも呼ばれた[1]


注釈

  1. ^ 鎌倉期の足利嫡流家の歴代当主のは「得宗家当主の偏諱通字の「氏」」で構成されていた[29]
  2. ^ 鎌倉遺文』を見ると、建長5年(1253年7月30日の「関東下知状案」(『豊後詫磨文書』[31])では「大友式部大夫泰直」となっているものが、同8年(1256年)建長8年8月11日 「関東下知状案」(『筑後大友文書』[32])では「頼泰」と名が変わっており、この間に執権である時頼から一字を与えられて改名を行ったのは確かであり、「大友系図」[33]を見ると、頼泰の付記に「姓改平氏 出羽守 北條時賴賜一字」とある。これは頼泰が時頼の猶子となって平姓と「頼」の一字を与えられたことによるものとする見解が出されている[34]
  3. ^ 六角頼綱は時頼の邸宅で元服したことが『吾妻鏡建長2年(1250年12月3日条に記載されており、時頼が烏帽子親となって「頼」の一字を与えたと考えられている[35]
  4. ^ 近年の研究で、曽我兄弟を例に、兄弟を通じた関係が媒体となって烏帽子親の決定がなされるケースがあったことが指摘されており[36]、佐々頼起の場合も時頼の邸宅で元服した兄・頼綱に導かれて同様に「頼」の字を受けたものと考えられる。
  5. ^ 「平賀氏系譜」(『平賀家文書』二四八号[41])の惟時の付記に「於西明寺殿亭元服」と、西明寺殿(=最明寺殿、時頼)の邸宅で元服した旨の記載があり(時期については記載はなく不明)、その名乗りから烏帽子親である時頼から「時」の字を受けたと考えられている[42]

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j 北条氏研究会 2001, p. 280
  2. ^ a b c d 佐藤 & 樋口 2000, p. 253.
  3. ^ 奥富敬之『鎌倉北条氏の興亡』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー〉、2003年。 
  4. ^ a b c d 高橋 2013, p. 25.
  5. ^ a b 高橋 2013, p. 38.
  6. ^ 高橋 2013, p. 39.
  7. ^ 高橋 2013, pp. 39–40.
  8. ^ 高橋 2013, pp. 40–41.
  9. ^ 高橋 2013, p. 40.
  10. ^ a b 高橋 2013, p. 151.
  11. ^ a b 高橋 2013, p. 152.
  12. ^ 佐藤 & 樋口 2000, p. 272。なお、同日には元将軍の藤原頼経が亡くなっている。
  13. ^ a b c 高橋 2013, p. 153.
  14. ^ a b c d 吾妻鏡
  15. ^ a b c 高橋 2013, p. 154.
  16. ^ 『吾妻鏡』11月23日条
  17. ^ a b c 高橋 2013, p. 156.
  18. ^ 佐藤 & 樋口 2000, p. 272.
  19. ^ 高橋 2013, p. 160.
  20. ^ 佐藤 & 樋口 2000, p. 273.
  21. ^ 高橋 2013, p. 162.
  22. ^ 高橋 2013, p. 168.
  23. ^ a b 高橋 2013, p. 216.
  24. ^ a b c d 高橋 2013, p. 217.
  25. ^ 本郷和人 (2019年7月6日). “北条時頼 「撫民」掲げ統治者として歩む”. 日本経済新聞. 2021年2月8日閲覧。
  26. ^ 高橋 2013, pp. 231–232.
  27. ^ 仏教説話大系編集委員会『名僧物語(一) 宗祖伝』 32巻、鈴木出版〈仏教説話大系〉、1985年、266頁。ISBN 9784790200321 
  28. ^ 田中 2013, p. 67, 臼井信義「尊氏の父祖 -頼氏・家時年代考-」.
  29. ^ 田中 2013, p. 25, 田中大喜「中世前期下野足利氏論」.
  30. ^ a b c d e f g h 紺戸淳「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」『中央史学』二、1979年、p.15系図ほか。 
  31. ^ 『鎌倉遺文』 10巻。7604号。 
  32. ^ 『鎌倉遺文』 11巻。8020号。 
  33. ^ 群書系図部集 四』続群書類従完成会、1985年、361頁。 
  34. ^ 渡辺澄夫『増訂 豊後大友氏の研究』第一法規出版、1982年、p.8・11 脚注(12)頁。 
  35. ^ 山野 2012, p. 166.
  36. ^ 山野 2012, p. 175.
  37. ^ 佐々木哲 (2009年11月8日). “一遍踊念仏と隠岐佐々木氏(5)”. 2020年3月1日閲覧。弟である佐々木宗清の項も参照のこと。
  38. ^ 「甲斐信濃源氏綱要」(『系図綜覧』第一)の時綱項に「後深草院建長三年正月十五首服、(九)加冠平時頼、因例號名時綱」とある。
  39. ^ 肥前千葉氏調査委員会「「服部英雄 中世小城の景観・海から考える」」『中世肥前千葉氏の足跡 : 小京都小城の源流』佐賀県小城市教育委員会、2011年。hdl:2324/20437CRID 1130282270956311040https://hdl.handle.net/2324/20437 
  40. ^ 細川 2000, p.214 注(24).
  41. ^ 東京帝国大学文学部史料編纂所 編『大日本古文書 家わけ第十四』1937年、727頁。 
  42. ^ 山野 2012, p.181 脚注(5)・(6)・(8).


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北条時頼

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夢語りシリーズ」の記事における「北条時頼」の解説

鎌倉幕府5代執権北条時輔時宗の父。「六月の子守唄」に登場

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