北条時頼の遺偈
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北条時頼について八代国治が指摘するのは、弘長3年(1263年)11月22日条の卒去の記述である。時頼の「頌云」の「業鏡高懸、三十七年、一槌撃砕、大道坦然」は、『増集続伝燈録妙堪』の伝記にある遺偈の年齢を変えただけのものである。八代国治はこれを編纂者の「舞文潤飾」と断定する。しかし別人の遺偈を本人の遺偈として紹介することは、後世の史料にはよく見られることである。その例としては、『扶桑五山記』にある蘭渓道隆の遺偈があり、そこでも妙堪の遺偈が使われている。当然ながら蘭渓道隆が人の遺偈の盗作を行ったわけではなく、蘭渓道隆本人の遺偈は別に存在する。 北条時頼の遺偈に戻れば、『吾妻鏡』とそれほど深い関係があるとは見られていない『鎌倉年代記』にも北条時頼の遺偈として『吾妻鏡』と同じく妙堪のものを載せており、益田宗は「時頼が死んだ弘長3年(1263年)から、吾妻鏡の編纂時期まで3〜40年ある以上、巷間に作られていた時頼遺偈なるものを、編纂者がそのまま本文に採用したと考えるのが当たっているのではあるまいか」とする。
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