ほうじょう‐ときゆき〔ホウデウ‐〕【北条時行】
北条時行
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北条 時行(ほうじょう ときゆき/ときつら[注釈 3])は、鎌倉時代末期から南北朝時代の武将。鎌倉幕府最後の得宗・北条高時の次男。
注釈
- ^ 幼名については諸説有り。本文「#誕生」節参照。
- ^ 江戸時代の系図では豊島輝時という人物が時行の子であると伝えられているが、信憑性は疑わしいとされる(当該項目参照)。また、『佐野本系図』は、時行が伊勢国(三重県)に渡って伊勢次郎と称し、後北条氏の祖である伊勢行氏(北条行氏)なる人物をもうけたとしているが、系図の編纂者自身はこの伝承に懐疑的である(#生存説)[1]。
- ^ 『国史大辞典』「北条時行」(奥富敬之担当)では「時行」は「ときゆき」と訓むとされているが[2]、北条時行とその周辺を専門に研究を行っている鈴木由美は実際には「ときつら」と訓む可能性が高いと主張している[3]。
- ^ 北条時行の母の名の表記について、『太平記』諸本のうち神田本・玄玖本・天正本は「新殿」、松井本や南都本系諸本は「二位殿」としている[5]。
- ^ 市河文書所収「建武二年七月日市河助房着到状」には「諏訪祝并滋野一族等依企謀叛」と記されており、時行が謀叛の中心にいたことは知られていなかった[16]。
- ^ この際、北畠顕家が結城宗広に送った文書の中で時行は「坂東凶徒」と呼ばれている[17]。
- ^ 通説としては、足利直義は冷静沈着で謹厳実直な人間であったとされている[21]。しかし、日本史研究者の亀田俊和は、それは室町幕府成立後に指導者としての立場を通して後天的に形成された人格であり、室町幕府成立以前の直義はむしろ明るく多弁な人間だったのではないか、と推測している[21]。
- ^ 花田卓司は、後醍醐天皇から武士への恩賞給付が遅れがちだったことについて、武士側の文書偽造があったことや元弘の乱で日和見をしていた武士への判断が難しかったことなどを指摘し、責任は後醍醐側と武家側の双方にあったとしている[32]。
- ^ 建武政権下では後醍醐天皇と側室の阿野廉子との間に産まれた恒良親王が立太子されているが、亀田の推測によれば、これは中継ぎの天皇としての恒良の起用であり、後醍醐はより政権を安定させるために、正妃の珣子内親王との間に生まれるはずの皇子を本命と期待していたのではないか、という[33]。
- ^ ただし森茂暁は、義貞と直義の対立関係について、(尊氏ではなく)弟の直義が中先代の乱の前から武家政権樹立に積極的だったという通説寄りの見解(『梅松論』等に基づく)を念頭に置いているが[37]、亀田俊和は「中先代の乱の時点ではまだ直義にも武家政権を作る意志はなかった」としている[38]。
- ^ 『太平記』では12月28日[43]。
- ^ ただし、『太平記』では同じ北条一門の武将名越高家も同名の刀を佩用しており、話にやや錯乱がみられる[53]。
出典
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- ^ (正中2年か)11月22日付「金沢貞顕書状」。『金沢文庫古文書』武将編368号、『鎌倉遺文』38巻・29255号。
- ^ 鈴木由美『中先代の乱』中央公論新社〈中公新書〉、2021年、p.38-39
- ^ 群馬県史編さん委員会 編『群馬県史』 通史編3《中世》、群馬県、1989年12月22日、287頁。NDLJP:9644421。(要登録)
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- ^ a b 呉座 2018, 第4章 足利尊氏は陰謀家か>第1節 打倒鎌倉幕府の陰謀>足利尊氏は北条時行を恐れていた・尊氏は後醍醐の下で満足していた.
- ^ a b c 森 2017, §2.3.2 新田義貞との主導権争い.
- ^ 森 2017, §3.1 建武三年(延元元年).
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- ^ 長谷川 1998, p. 60.
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- ^ a b c d 『大日本史料』第6編之6、200頁
- ^ a b c d 『箕輪町誌』歴史編、402頁
- ^ 小川信『南北朝史100話』立風書房、1991年。ISBN 978-4-65175-022-4
- ^ 黒田基樹 著「伊勢宗瑞論」、黒田基樹 編『伊勢宗瑞』戒光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第一〇巻〉、2013年、16-17頁。ISBN 978-4-86403-071-7。
北条時行
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