四條畷の戦い
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四條畷の戦い(しじょうなわてのたたかい)は、南北朝時代の正平3年/貞和4年1月5日(1348年2月4日)、河内国讃良郡野崎(大阪府大東市野崎)から北四条(同市北条)にかけて行われた、南朝河内守で楠木氏棟梁の楠木正行・実弟正時と、北朝室町幕府執事高師直・引付方頭人佐々木導誉との間の戦い[1] 。
注釈
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 『大日本史料』6編11冊297-330頁.
- ^ a b 『大日本史料』6編11冊37–40頁.
- ^ 『大日本史料』6編11冊340–342頁.
- ^ a b c 『大日本史料』6編11冊58–61頁.
- ^ 『大日本史料』6編11冊42頁.
- ^ 『大日本史料』6編11冊50–56頁.
- ^ 『大日本史料』6編11冊61–62頁.
- ^ a b c d e 『大日本史料』6編11冊291–293頁.
- ^ a b c d e f 生駒 2019.
- ^ 生駒 2017, pp. 82–84.
- ^ a b c d e f g h i 藤田 1938, pp. 331–334.
- ^ 藤田 1938, pp. 331–337.
- ^ 藤田 1938, p. 332.
- ^ 生駒 2017, p. 83.
- ^ a b 『大日本史料』6編11冊323頁.
- ^ 『大日本史料』6編4冊106–108頁.
- ^ 生駒 2017, pp. 83–84.
- ^ 『大日本史料』6編11冊331頁.
- ^ 大阪市史編纂所 & 生駒 2019, p. 119.
- ^ a b c 博文館編輯局 1913, pp. 746–760.
- ^ 生駒 2017, p. 86.
- ^ 新井 2011, pp. 123–124.
- ^ a b c d 藤田 1938, pp. 334–337.
- ^ 平凡社『日本歴史地名大系』大阪府:四條畷市 > 南野村 > 楠木正行墓
- ^ 博文館編輯局 1913, p. 760.
- 1 四條畷の戦いとは
- 2 四條畷の戦いの概要
- 3 背景
- 4 結果
- 5 その後
- 6 考察
- 7 『太平記』での描写
四條畷の戦い
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詳細は「四條畷の戦い」を参照 山城国(京都府)から河内国(大阪府東部)へ入る手前で年を越した幕府軍は、正平3年/貞和4年(1348年)1月2日、ついに総大将の師直の第一軍が国境を越えて河内守正行の領国である河内国に入り、同国讃良郡野崎(大阪府大東市野崎)の辺りに逗留した(『醍醐地蔵院日記』同日条)。 それから3日後、正平3年/貞和4年1月5日(1348年2月4日)、讃良郡北四条(大阪府大東市北条)で正行と師直は激突した(『園太暦』同日条)。世上に名高い四條畷の戦いである。 ところが、この戦いについても史料は極めて乏しい。戦闘経過について確実にわかっていることは、以下の程度である。 師直が讃良郡野崎(大阪府大東市野崎)に陣を敷いていたこと(『醍醐地蔵院日記』)。 正行率いる南朝軍の方から攻撃を仕掛けたこと(『園太暦』)。 主戦場および正行が討ち取られた場所は讃良郡北四条(大阪府大東市北条)であったこと(『薩藩旧記』「足利直義書状」等)。なお、ここで注意すべきは、主戦場となった北四条は、師直の陣がある野崎の「北隣の」地域である、言い換えれば南征を試みる師直の進行方向とは、逆方向なことである。 熾烈な戦いになったこと(『園太暦』「合戦頗火出程事成」)。 生駒孝臣によれば、師直の勝因は兵数だけではなく、戦術でも正行に比べ一枚も二枚も上手であったためという。まず野崎に本陣を敷いた師直は、その東部から北東部にある飯盛山も占拠した。それに対し正行の行動は一歩遅れたため、東を飯盛山に、西を深野池(ふこうのいけ)に挟まれた東高野街道を一直線に進まざるを得ず、正面の師直本軍と右手の飯盛山支軍を同時に相手にすることになってしまった。必然的に、正行は正面の師直本陣に切り込むしかなかったのである。その一方、藤田精一は、正行があえてここで開戦に踏み切ったのは、当時の野崎から北四条(北条)は西方に深野池が流れる湿地帯であったため、大軍の運用に余り適しておらず、少数の手勢で奇襲すれば師直を討ち取れると考えたのではないかと指摘する。また、『太平記』では、南朝軍は最初騎兵だったのが途中から馬を降りて歩兵になったと描かれているが、藤田は正行は最初から歩兵を運用していたものとして説明し、また『太平記』の正行が南朝軍を三部隊に分けたとする描写とは違い、実際は前軍と後軍の二部隊に分けたのだろうとしている。 藤田・生駒ともに、圧倒的な兵力差でもなお一時的には正行が優勢であったとする。しかし、藤田によれば、東の飯盛山から降りてきた師直軍支隊に挟撃される格好となってしまい、南朝軍の後軍がそれによって機能しなくなってしまったという。それでもなお、正行率いる前軍は正面に攻撃を続けた。藤田によれば、四條畷の戦いの主戦場が北四条となっており、師直の本陣である野崎から北にずれているのは、正行の猛攻によって師直が撤退したからだという。湿地帯であるため、騎兵である師直の後退速度が遅いのも正行の作戦の範疇であり、南朝軍は追撃を続けた。しかし、ついに決定打を与えることが出来ないまま、幕府軍大将の師直は戦域からの離脱を完了した上に、南朝軍の戦線が伸びきってしまい、時刻も夕方を迎えて、正行らは力尽きてしまった。 『園太暦』によれば、進退窮まった楠木正行とその弟(楠木正時)、そして親族の和田新発(しんぼち)は自害した。その他、南朝の中院義定が阿蘇惟時に送った書状によれば、開住良円、吉野の衆徒青屋刑部らも討死し、正行も含めて27人もの武将が死亡したという(『阿蘇文書』)。また、幕府の指導者の足利直義が喧伝するところでは、正行・正時・新発に加え、幕府は和田新発の弟の新兵衛尉(和田行忠)も討ち取り、さらに雑兵まで数えると、正行側の戦死者は数百人を数えたという(『薩藩旧記』「足利直義書状」)。『園太暦』によれば、首を切られたものだけではなく、生け捕りになったものも多かった。
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