小山氏の乱
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小山氏の乱(おやましのらん)とは、室町時代前期に下野守護であった小山義政が鎌倉公方足利氏満に対して起こした反乱(小山義政の乱、天授6年/康暦2年(1380年) - 弘和2年/永徳2年(1382年))及び、義政の滅亡後に遺児の小山若犬丸(隆政)に引き継がれて続けられた反乱(小山若犬丸の乱、元中3年/至徳3年(1386年) - 応永4年(1397年))の総称。17年にわたって繰り広げられた結果、小山氏嫡流は滅亡することとなる。
- ^ かつては、宇都宮氏の守護補任説や小山氏と宇都宮氏の半国守護説もあったが、松本一夫・江田郁夫らの研究によって少なくても小山義政の乱以前は小山氏の世襲がほぼ一貫され、宇都宮氏など他の下野諸氏の補任はなかったとする説が有力視されるようになり、宇都宮氏や那須氏の存在が下野において小山氏による守護領国制が十分確立できなかった背景と考えられるようになった。なお、江田は宇都宮成綱を宇都宮氏最初の下野守護とする。(江田、2008年、P51-56)
- ^ 通説では、憲春の関東管領就任を永和3年とするが、小国浩寿は能憲の存命中は憲春が管領であったことを示す文書が存在しないとして、円覚寺造営の棟別銭徴収命令時の憲春は関東管領の職務代行の立場で、正式な就任は翌年の能憲の没後の人事によるとしている(小国、2001年、P149-160)。
- ^ 『下野国誌』は実名を「隆政」とするが、それを明証する裏付けがない。実際に元服を行ったかも不明で、江田郁夫は呪術を行う者が意図的に童名・童形を保ち続けたという網野善彦の説を元に、若犬丸が指導者としての特異性を維持するために意図的に元服をしなかった可能性を指摘する。(江田、2008年、P84-86)
- ^ だが、小山氏の乱の影響によって諸氏による棟別銭徴収は困難をきわめ、孝朝は元中2年/至徳2年(1385年)に憲方より督促を受けている。当然、小田側が対応を間違えれば鎌倉府による小田氏への制裁の口実と成り得るものであった(小国、2001年、P205-206)。
- ^ 若犬丸の祇園城占拠の前年の応永2年の段階で既に「田村御退治」の戦いが始まっており、田村荘・阿武隈川一帯では戦いが始まっていた。(大石直正「田村・若犬丸の乱」(『国史大辞典 9』(吉川弘文館、1988年) ISBN 978-4-642-00509-8))
- ^ なお、乱後田村(庄司)氏の所領であった田村荘は鎌倉府に献上され、白河結城氏がその代官となっている(小国、2001年、P271-282)。
- ^ 若犬丸が会津に逃れた背景には、臨済宗幻住派の復庵宗己の法統(「大光派」と称される)によるネットワークを頼ったとする見方もある。復庵宗己の庇護者が小田孝朝であり、田村氏や蘆名氏などの関係者にも信者が多く、若犬丸の逃走経路と大光派の信仰地域が重なっていることによる。だが、当時伊達氏とともに鎌倉府や奥州管領から警戒されていた蘆名氏は田村庄司の乱に参加せず、若犬丸を討つことで次の討伐対象になることを避けたのである。(小国、2001年、P274-277)
- ^ 「小山系図」「結城系図」ともに泰朝の没後に子の満泰が継承したとしている。ただし、満泰の「満」は氏満からの一字拝領と考えられ(次代の鎌倉公方足利満兼は「兼」の字を与えている)、応永5年当時31歳であったとされる結城満広(結城基光の長男・泰朝の兄)の甥に元服して一字を授けられる人物がいたかどうか謎とされている。そのため、両系図ともに何らかの事情で誤伝・錯簡しており、満泰が泰朝の一字拝領による名乗り替えであった可能性もある(江田、2008年、P90-92)。
- 1 小山氏の乱とは
- 2 小山氏の乱の概要
- 3 小山若犬丸の乱
- 4 小山氏の再興
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