享徳の乱
享徳の乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/05 03:59 UTC 版)
享徳の乱以降関東においては古河公方足利成氏と関東管領上杉氏が対立しており、正綱は小山持政に従い、成氏方について転戦していた。 しかし、1470年頃になると成氏方は押されつつあり、厳しい状況になっていた。その際に重臣芳賀高益の献策により宇都宮氏は一時的に上杉方に寝返っている。 1476年、上杉方の長尾景春が反乱を起こした(長尾景春の乱)。 1477年正月には、翌年に行われる予定の宇都宮社社殿の式年遷宮に向けて日光山と宇都宮社の関係を説き描いた『日光山縁起』絵巻の転写などの準備をしていた。 1477年、正綱は成氏に従い長尾景春の救援に向かったが、上野国の川曲の戦いで陣没した。更に従軍していた宇都宮一族の横田綱親・保業・清業父子、今泉盛泰も討死し、紀党の棟梁益子唯正・延正父子も討死する等甚大な被害を受けた。享年31。 宇都宮社社殿の式年遷宮は、翌年(1478年)に宇都宮氏17代当主となった成綱により無事行われた。
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