上杉氏
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上杉氏(うえすぎし / うえすぎうじ)は、武家・華族だった日本の氏族。京都の地下家だったが鎌倉将軍宗尊親王の関東下向に供奉して武家になったとされ、室町時代には足利氏との血縁から関東管領を世襲して関東に広く勢力を広げた。やがて扇谷・宅間・犬懸・山内の4家に分かれ、扇谷と山内の上杉家が栄えたが、後北条氏との戦いで扇谷が滅ぼされ、山内当主上杉憲政も越後へ逃れ、長尾家出身の長尾景虎(後の上杉謙信)に家督を譲った。謙信は越後を代表する戦国大名となった[1]。その養子の上杉景勝は会津120万石を領して豊臣政権で五大老になったが、関ヶ原の戦いで西軍に付いて敗北し出羽国米沢藩30万石(直江兼続が51万石にまで上げた)に減転封され、江戸時代前期にさらに15万石に減封された。明治維新後は華族の伯爵家に列した[2]。
- 1 上杉氏とは
- 2 上杉氏の概要
上杉氏
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上杉氏
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藤原北家良門流(勧修寺流)の勧修寺重房を祖とする上杉家も同様に竹に雀紋を使用する。上杉氏の竹に雀は『見聞諸家紋』では、竹輪に五枚笹を5つ並べ中央に対い雀を描く図案〔図1-1〕が載るが、江戸期には丸に九枚笹の上中央に対い雀を描く上杉笹(うえすぎざさ)の図案〔図1-2〕となった。 安土桃山時代末期、会津などを領していた上杉氏であったが、江戸時代初期出羽国米沢に転封となった。その時の竹に雀の紋は、丸の内に九枚笹を上部に描き下部に対い雀を描く〔図1-3〕の図案が使用されていた。この図案の上杉氏竹に雀を特に米沢笹(よねざわざさ)という。 上杉氏の竹に雀は、家の交際相手や家臣、配下に下賜したことから広まることとなった。関東管領であった上杉憲実が管領職を辞した後に西国を廻った際、周防国の大内義興に厚くもてなされたことから「竹に雀」を贈ったというエピソードがある。これに由来し、江戸期に大名となった周防大内家の庶流である牛久山口氏は、丸に露付きの九枚笹に二羽飛び雀を描いた山口笹を使用している。後述するが伊達氏の仙台笹も上杉氏との交際関係から発生した家紋である。 〔図1-1〕上杉氏竹に雀(見聞諸家紋) 〔図1-2〕上杉笹 〔図1-3〕米沢笹
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上杉氏
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上杉定実 越後国守護上杉氏の当主。本来は上杉氏の傍系の出身であったが、為景が上杉房能を弑した際に後継に立てられて守護職に就任する。温厚な徳人であるがこれといった能はなく、すべての権力は為景が掌握し、飾りものの守護として政治的実権を持たされなかった。為景の娘を娶ったため、謙信や晴景とは義兄弟の関係になる。 為景の死後は、引き続き晴景の体制の上で守護を務めた。晴景の悪政を不快に思いながらもどうする力もないために傍観していたが、年少の謙信の才覚に期待を寄せ、折にふれて厚情を見せた。謙信には終始好意的で、若年のために諸事につけて動きにくい謙信を庇護し、守護の権威をもってたびたびその行動を助けた。 謙信による越後再統一の直後、病に斃れて病没する。上杉家に人が絶えていたこともあり、謙信はその跡を継いで守護職に就くこととなる。 上杉憲政 関東管領・山内上杉氏の当主。新興の北条氏との抗争に敗れ、謙信を頼って越後に逃れてきた。北条氏を下して上野国を領国として回復してくれれば、管領の職と上杉氏の名跡を譲ると提案し、謙信はこれを快諾する。信玄との戦いの合間を縫って関東に攻め込んだ謙信は北条氏に痛撃を与え、上杉家の名跡を継いで「政」の字を偏諱されて「上杉政虎」と改名し、関東管領に就くこととなる。 政軍ともに何の能もない人物だが詩歌管弦に造詣の深い文化人であり、謙信に音曲の手ほどきをして謙信が琵琶にのめり込むきっかけを作った。
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