九鬼氏とは? わかりやすく解説

九鬼氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/26 07:27 UTC 版)

九鬼氏
七曜(定紋)
本姓 藤原北家坊門家[1]?
家祖 九鬼隆信
種別 武家
華族子爵
出身地 紀伊国牟婁郡(室郡)九木浦(九鬼浦)[1][注釈 1]
主な根拠地 紀伊国
志摩国
兵庫県神戸市
著名な人物 九鬼嘉隆
九鬼喜久男
九鬼隆一
九鬼隆平
支流、分家 綾部九鬼家(武家・子爵)
九鬼隆重家(武家・男爵)
凡例 / Category:日本の氏族

九鬼氏(くきし)は、武家華族だった日本の氏族。南北朝時代から安土桃山時代志摩国伊勢国を中心に水軍として活躍した豪族で、江戸時代には摂津三田藩主家と丹波綾部藩主家の2家が続き、明治維新後、両家とも華族の子爵家に列した[4]

南北朝時代・室町時代

出自は詳しくわかっていない。九木浦(九鬼浦)に移住した熊野本宮大社八庄司の一派が地名から九鬼を名乗ったと『寛永諸家系図』に記されているが、異論が多い[5]。南北朝時代に京都で生まれた藤原隆信が伊勢国佐倉[注釈 2]に移住したのちに紀伊国九木浦に築城し、九鬼隆信を名乗ったとする説もある[5]

九鬼氏は熊野で勢力を伸ばせずにおり、3代隆房の次男の九鬼隆良は新天地を求め波切村の川面家の養子となり、波切城城主になった。この時期は貞治年間(1362年 - 1366年)とするのが定説であるが、元中年間1384年 - 1393年)とする異論もある。隆良は子に恵まれなかったため、志摩和具の和具(青山)氏から養子を迎え、波切九鬼2代目の隆基となった。この時点で本来の九鬼氏の血統は断絶している[6]

ただし『系図研究の基礎知識』(近藤安太郎、1990年)によれば、3代目とされる九鬼隆良は分家であり、本家は隆良の兄・隆長であるとする(隆良系は7代で絶える)。隆長のあとは光長・政長・政隆・浄隆澄隆と続き、澄隆の異母弟・光隆が家督を継いだが熊野地方に留まり、光隆の弟の嘉隆は北畠氏に仕えたと伝える[7]

戦国時代・安土桃山時代

戦国時代初期、九鬼氏は伊勢北畠氏に仕えていたが、北畠氏の勢力範囲が弱まると、織田信長の幕下に入った。信長が北畠氏を侵攻した際、当時の当主であった九鬼嘉隆は織田勢を後ろ盾に、妻の実父である橘宗忠他、付近の小勢を制圧し、志摩国一円を手中に収めた。

その後、九鬼氏の九鬼水軍織田家織田信長)の海戦部隊として伊勢長島の一向一揆の討滅戦において活躍、石山本願寺攻略戦において、第二次木津川口の戦いでは鋼鐵で外板を覆った鉄鋼船を用いて能島村上氏率いる毛利水軍をことごとく追い払った。信長没後は織田信雄に仕えたが、蟹江城合戦にて羽柴秀吉方に寝返り、天正13年(1585年)、従五位下・大隅守に叙位・任官された。九州征伐小田原征伐に参加し、文禄・慶長の役では水軍の主力として功を挙げた。このような戦功の結果、紀伊半島制海権を与えられ、5万石の大名になった。この後、嘉隆は息子守隆に家督を譲って隠居する。こうした経歴から、江戸時代には軍記物などで海賊大名の異称をとった。

関ヶ原の戦い

石田三成挙兵の報を受け、徳川家康上杉討伐に参加していた九鬼守隆は急遽志摩に戻る。そして西軍方で桑名城に篭城した氏家行広行継らを破り、東軍最初の勝報を挙げた。一方で、三成に加担要請され西軍についていた嘉隆は、娘婿である堀内氏善鳥羽城を占拠してしまう。この後、守隆と嘉隆は城外で合戦するも決着はつかなかった。しかし関ヶ原の戦いでの西軍敗北が伝わると、氏善が逐電、嘉隆は退去、逃亡したため、騒乱は収束した。

そののち、守隆は桑名城戦での功で鳥羽城安堵された。また守隆は家康から嘉隆の助命の許しを得るが、その報を受け取ることなく嘉隆は逃亡先で自刃した。

江戸時代

九鬼守隆鳥羽城主として5万6000石を領したが、仏門に帰していた五男九鬼久隆還俗させ、後継者にしようとしたところ、三男の九鬼隆季から猛反発をうけ、家督争いとなった。守隆の死後も家督争いは続き、1633年江戸幕府により九鬼家は代々領土を守ってきた志摩国の領地を召し上げられ、久隆は摂津国三田藩3万6000石、隆季は丹波国綾部藩2万石に移された。いずれも海には面しておらず、これにより九鬼氏はその水軍力を喪失した。

その後は廃藩置県までそれぞれの領地で存続する。両家とも他家から養子を迎えており、江戸時代中期から幕末に三田九鬼家では7代隆由、8代隆邑、13代隆義を綾部九鬼家から養子に迎えている。

幕末には三田・綾部の両藩は共に官軍につき倒幕に参加した[8]

明治以降

両九鬼家とも明治2年(1869年)の版籍奉還華族に列するとともにそれぞれの藩の藩知事に任じられ、明治4年(1871年)の廃藩置県まで務めた[9]

明治17年(1884年)に華族令の施行で華族が五爵制になると、両家とも旧小藩知事[注釈 3]として子爵家に列せられた[11]

昭和前期に三田九鬼子爵家の邸宅は兵庫県神戸市須磨区千守町[12]、綾部九鬼子爵家の邸宅は兵庫県明石市上ノ丸にあった[13]

分家・支族

  • 九鬼守隆の四男九鬼隆重は、綾部藩において兄の藩主隆季から寛文元年(1661年)に500石の分知を受け、その子孫は綾部藩の一門家老家として続いた。明治維新後には文部官僚として活躍し、その勲功により男爵に叙爵された九鬼隆一を輩出した。哲学者の九鬼周造はその四男である。

系譜

脚注

注釈

  1. ^ 北牟婁郡九鬼村九木浦。三重県尾鷲市九鬼町。九木峠、九木崎、九木神社などに「木」の名が残る[2][3]
  2. ^ 三重郡佐倉村、桜村佐倉、現・四日市市桜地区 — 桜町、桜新町、桜台、桜台本町、桜花台、および智積町の一部。桜駅、智積寺、智積養水などの所在地
  3. ^ 旧三田藩は現米1万5290石(表高3万6000石)、旧綾部藩は現米7160石(表高1万9500石)でいずれも現米5万石未満の旧小藩に該当[10]

出典

  1. ^ a b 太田 1934, p. 2007.
  2. ^ 九鬼町について[リンク切れ]
  3. ^ 九木浦共同組合
  4. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)『九鬼氏』 - コトバンク
  5. ^ a b 近藤 1990, p. 2752.
  6. ^ 大王町史編さん委員会 1994, p. [要ページ番号].
  7. ^ 近藤 1990, p. 2754.
  8. ^ 藩名・旧国名がわかる事典『三田藩』 - コトバンク
  9. ^ 新田完三 1984, p. 50/383.
  10. ^ 浅見雅男 1994, p. 151.
  11. ^ 小田部雄次 2006, p. 331.
  12. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 173.
  13. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 228.

参考文献

系譜参考

関連項目


九鬼氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/09 02:25 UTC 版)

戦極姫 -戦乱の世に焔立つ-」の記事における「九鬼氏」の解説

九鬼氏は大名家ではなく独立勢力扱いなので各武将引き抜きコマンド配下にしたり、武将の方から帰順してくることがあるモデルは九鬼氏。 九鬼嘉隆くき よしたかモデル九鬼嘉隆 絵師真紅 CV:なし 伊勢・志摩勢力持った九鬼水軍海賊)の棟梁女に優しく男に厳しいという端的なフェミニスト気取り女尊男卑主義者海賊仲間村上さんと通づるところがある。 鉄鋼鬼宿てっこうせん きしゅくモデル鉄甲船鬼宿絵師:米柄了 CV狛乃ハルコ 鉄鋼船を擬人化した武将それゆえか、物言い機械的である。

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九鬼氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 00:20 UTC 版)

九鬼水軍」の記事における「九鬼氏」の解説

詳細は「九鬼氏」を参照 九鬼氏の祖は、熊野別当務め熊野水軍率いた湛増さかのぼるという説がある。紀伊国牟婁郡木浦現在の三重県尾鷲市九鬼町)を根拠地とし、鎌倉時代には既に志摩国まで勢力拡大していた。南北朝時代志摩国の波切へ進出して付近豪族戦い滅亡させた。当代九鬼隆良は波切の地頭であった川面氏の娘と結婚し以来波切の地に留まることとなったこの頃越賀氏や和田氏とともに海上交通支配するようになったとは言え当時の九鬼氏は地元領主らの連合である「嶋衆」(しましゅう)の一員過ぎずとりわけ勢力強かったわけではなかった。当時志摩国では、地頭13人衆と呼ばれる13人の土豪たちが互いに勢力競っていた。九鬼一族もその中の1つ波切城設置していた。九鬼嘉隆戦国国盗り物語絵に描いたように、次々に隣の豪族攻め滅ぼして自分配下にした。 九鬼嘉隆最初伊勢国北畠氏属していたが、後に織田信長仕えて長島一向一揆攻めには九鬼水軍率いて加わり手柄立て志摩国支配認められ国主任命された。その後石山本願寺攻めでは、大砲をのせた張りの船を製造して毛利軍打ち破った。この時堺港張り船を見た南蛮人は大変驚いた九鬼水軍小田原城北条氏攻め豊臣秀吉朝鮮出兵の時も活躍した朝鮮出兵の時は伊勢国大湊製造した日本丸云う巨大船団率いて九鬼水軍の長として戦った日本の船団の中心となった日本丸長さ33メートル漕ぎ手100人だった。日本丸豊臣秀吉名づけた。 九鬼嘉隆志摩国3万石大名として鳥羽城築城した。鳥羽城は海に向かって大手門開いて建造されたため「浮き城」と呼ばれ志摩国海賊九鬼水軍)に似合った城だったと古文書記述されている。関ヶ原の戦いでは父の九鬼嘉隆西軍)と子の九鬼守隆東軍)が東西分かれて戦い西軍負けたため答志島自害した

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