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せきがはら-のたたかい ―たたかひ 【関ヶ原の戦い】
1600年9月15日関ヶ原で徳川家康らの東軍が石田三成らの西軍を破った戦い。豊臣秀吉の死後、天下の実権を握った家康は三成と対立し、それぞれ諸大名を糾合して戦ったが、小早川秀秋の寝返りにあった西軍は惨敗し、三成らは処刑され、豊臣秀頼は摂津・河内・和泉六〇万石の一大名に転落した。この結果、徳川氏の覇権が確立。俗に「天下分け目の戦い」という。
防府歴史用語辞典 |
関ヶ原の戦い (せきがはらのたたかい)
1600年に石田三成[いしだみつなり]が徳川家康[とくがわいえやす]を倒すために、毛利輝元[もうりてるもと]を総大将にたてて兵を挙げたのがはじまりです。岐阜県の関ケ原[せきがはら]で戦いになりましたが、徳川方が勝利しました。
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関ヶ原の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/02/04 23:51 UTC 版)
関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)は、安土桃山時代の慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原[1](岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦。- ^ 近衛前久書状、三河物語には、青野か原にての合戦となっている。東照宮御実紀においては、関原青野が原に陣取て、関原の戦、と記載されている。近衛前久書状では、大垣表、という記載もある。
- ^ この二派を、東軍・西軍と呼んだのは後世のことである。
- ^ 西軍の総大将は毛利輝元であり、副将は宇喜多秀家である。しかし、西軍は石田三成を中心とする派閥を元に構成されたため、三成が実質的に主導した。
- ^ 藤木久志『織田・豊臣政権』『天下統一と朝鮮侵略 織田・豊臣政権の実像』、笠谷和比古『近世武家社会の政治構造』『関ヶ原合戦』など
- ^ 森山恒雄『豊臣氏九州蔵入地の研究』、藤木『天下統一と朝鮮侵略』p.355
- ^ a b 藤木『天下統一と朝鮮侵略』p.p.347-358。藤木は「太閤蔵入地をめぐる政権中枢の大名たちの暗闘のなかに、すでに関ケ原戦への予兆をはっきりと読み取ることができる」と述べている。
- ^ 『義演准后日記』ではこの他に藤堂高虎・蜂須賀家政・脇坂安治の3名も参加したとある
- ^ この時、三成が家康の屋敷に逃げ込んだとされるのは俗説。
- ^ この時に家康に宛てられた返書がいわゆる「直江状」である。この書状の信憑性については疑問もあるが、詳しくは直江状のページを参照。
- ^ 徳川家の大名は多くが領国の北側に配されている。但し、井伊の様に軍監として東海道先発隊に加わったり、大久保忠隣の様に秀忠の補佐として中山道隊に加わったりと若干の入れ替えはある。
- ^ 「森家先代実録」によれば森忠政は自領である川中島に待機するよう家康から厳命されており中山道隊参加の形跡は一切無い。また川中島待機を命じる家康からの書状も森家に現存している。
- ^ 「史料綜覧11」。真田昌幸の西軍転身を受けて家康より帰領申し付け。よって中山道隊には不参加で在国。
- ^ このことから、秀家が先に決起し、三成はあとから挙兵を決意したという見解がある。
- ^ ガラシャはキリシタンであったため自害はできず、家臣に胸を突かせて死亡した。
- ^ 両名とも秀次に仕えていたが秀次事件では連座を免れている。
- ^ 新井白石編『藩翰譜』によると、一豊が盗んだとされる。
- ^ 笠谷和比古は秀次事件の影響を(『近世武家社会の政治構造』『関ヶ原合戦』など)、田端泰子は秀頼へのスムーズな継承を実現するため秀吉による家康への対応策が友好的なものへ変化したこと(『山内一豊と千代』など)を挙げる。
- ^ 笠谷和比古『関ヶ原合戦と大坂の陣』。
- ^ このことから、笠谷和比古は関ヶ原の戦いの要因のひとつが北政所(及び北政所派の武将)と淀殿・秀頼(及び淀殿派の武将)の確執にあると推定したが、支持は少ない。
- ^ 秀忠は上田城で足止めを食らい関ヶ原の戦いには間に合わず、関ヶ原合戦後に家康への拝謁が3日許されない罰を受けた。また秀忠遅参の責任を問われた牧野康成は、禁固刑となった。秀忠軍が家康から受けた本来の任務は中山道の制圧であり、上田城攻城は秀忠の独断ではなく家康の直近の命令に沿ったものである。家康の西進の知らせと関ヶ原への合流という新たな命令は利根川の増水により使者が遅れ、秀忠の手に渡ったのは9月9日であり15日に関ヶ原に布陣するのはすでに不可能であった。
- ^ 霧の為に山の上からでは戦況が見えなかったためと言われている。
- ^ 『敗者から見た関ヶ原合戦』洋泉社、2007年05月
- ^ これらの部隊は、小早川の裏切りに備えて配置されていた。
- ^ 『日本戦史 関原役』より、ただし吉川広家書状並びに各合戦記では3000人となっている。また後退時は陣防衛戦で300人程度まで減少していたとされる
- ^ 直政はこの時の戦傷が元で、2年後病没している
- ^ a b c d 光成準治『関ヶ原前夜 西軍大名達の戦い』2009年
- ^ a b c d e f 林千寿「慶長五年の戦争と戦後領国体制の創出--九州地域を素材として」2010年
- ^ 光成準治「関ヶ原前夜における権力闘争」2007年
- ^ 中野等『立花宗茂』2001年
- ^ これについて、中山道軍の遅参のため徳川本軍は合戦で大きな役割を果たすことができず、外様大名に戦功を挙げられてしまい、そのため戦後処理で主導権を取りづらくなったことが原因であるとの説がある。
- ^ 朝尾直弘「幕藩制と天皇」、高木昭作「『法度』の支配」など
- ^ 旧暦10月18日に自刃したとする説もある。
- ^ 詳細な研究について、光成準治「関ヶ原前夜における権力闘争 毛利輝元の行動と思惑」(吉川弘文館『日本歴史』2007年4月号 No.704 p1~p19)を参照。
- ^ ただし、これについては吉川氏は関ヶ原以前より毛利氏庶家の筆頭の地位に過ぎず、万一の際の毛利宗家継承権を有していた長府毛利家や徳山毛利家とは同列には出来ないとする見解もある(脇正典「萩藩成立期における両川体制について」(藤野保先生還暦記念会 編『近世日本の政治と外交』(雄山閣、1993年) ISBN 4-639-01195-4)。
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関ヶ原の戦いに関連した本
- 異戦 関ヶ原〈2〉義将奮迅 (歴史群像新書) 中里 融司 学習研究社
- 異戦関ヶ原〈5〉上方大返し (歴史群像新書) 中里 融司 学習研究社
- 異戦関ヶ原〈7〉 (歴史群像新書) 中里 融司 学習研究社
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