長尾景春の乱とは? わかりやすく解説

長尾景春の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/26 14:34 UTC 版)

長尾景春の乱(ながおかげはるのらん)は、文明8年(1476年)から文明12年(1480年)にかけて起こった関東管領上杉氏の有力家臣長尾景春による反乱。太田道灌の活躍によって鎮圧された。


  1. ^ a b c 黒田 2010, 黒田基樹「長尾景春論」
  2. ^ a b 山田邦明「長尾景春と長尾忠景」『日本歴史』600号、吉川弘文館、1998年。 /所収:黒田 2010
  3. ^ 加茂下仁「長尾景春の乱と太田道灌」『新編埼玉県史 通史編二 中世』埼玉県、1988年。第三章第一節第三項。 /所収:黒田 2010
  4. ^ 黒田 2013, 「惣社長尾氏に関する基礎的考察」
  5. ^ 大日本史料8編8冊936頁(大日本史料総合データベース)”. 東京大学史料編纂所. 2017年6月27日閲覧。
  6. ^ 黒田基樹「上杉憲房と長尾景春」『千葉史学』58号、2011年。 /所収:黒田 2013


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長尾景春の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/05/30 09:00 UTC 版)

境根原合戦」の記事における「長尾景春の乱」の解説

康正元年1455年)、前年勃発した古河公方足利成氏山内上杉家扇谷上杉家室町幕府鎌倉公方堀越公方足利政知対立による騒乱享徳の乱)で下総千葉氏内紛勃発する宗家14千葉介の胤直・胤宣父子一族馬加城主・馬加康胤と重臣小弓城原胤房らに居城亥鼻城急襲され城が陥落千葉胤直父子志摩城多古城にて自刃し、名族千葉氏宗家滅亡した。翌康正2年1456年)、胤直の弟の胤賢の子、実胤・自胤兄弟東常縁援軍得て国府台城立て籠もったが、奮戦空しく敗れて武蔵石浜城武蔵赤塚城逃れ扇谷上杉家重臣太田道灌庇護された。 20年後の文明8年1476年12月長尾景春山内上杉家家宰職の後嗣巡って上杉顕定背き鉢形城挙兵、長尾景春の乱がおきる。景春は翌文明9(1477年正月五十子陣の上杉氏本陣襲撃し落城上杉氏上野逃れた扇谷上杉家家宰太田道灌は景春に帰服呼びかけるが景春は拒否する5月用土原の戦いが行われ、道灌上杉軍は景春を破った。景春は敗れて鉢形城立て籠もり再起を図る。上杉氏鉢形城包囲し降伏勧告再三行う。景春は不利を挽回しようと、古河公方足利成氏支援要請した7月には成氏が結城氏宇都宮氏那須氏佐々木氏横瀬氏といった関東各地土豪らを引き連れて上野の滝まで進軍する上杉顕定上杉定正らは鉢形城包囲解いて上野防衛固めた文明10年1478年正月上杉氏足利成氏の間で和議なり、景春も成氏の説得鉢形城帰還した。 しかし、千葉孝胤停戦従わず長尾景春結んで上杉氏対抗した。これを討伐するため、太田道灌千葉自胤国府台城着陣。これにより両者戦闘避けられない事態となり、境根原合戦が始まる。

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長尾景春の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 08:12 UTC 版)

太田道灌」の記事における「長尾景春の乱」の解説

文明5年1473年)、山内家家宰長尾景信死去した。跡を子・長尾景春が継いだが、山内顕定家宰職を景春ではなく景信の弟・長尾忠景与えてしまい、これを景春は深く恨んだ文明8年1476年2月駿河国守護今川義忠遠江国討ち死にし家督めぐって遺児龍王丸従兄小鹿範満争い内紛態となった。小鹿範満堀越公方執事上杉政憲の娘を母としており、道灌小鹿範満家督するべく懸政憲とともに兵を率いて駿河入った。 この今川氏家督争いは、龍王丸叔父伊勢宗瑞 (北条早雲)が仲介入って小鹿範満龍王丸成人するまで家督代行とすることで和談成立させ、駐留していた道灌懸政憲も撤兵した。『別本今川記』によると、この際道灌と宗瑞が会談して、宗瑞の提示する調停案を道灌了承したとある。従来道灌と宗瑞は同じ永享4年1432年生まれとされ、道灌と宗瑞というタイプ異な名将会談したエピソードとして有名であるが、近年の研究によって宗瑞は幕府政所執事代々務めた伊勢氏系譜連なり年齢24歳若い康正2年生まれ説が有力となっている。 道灌駿河出張していた同年6月長尾景春鉢形城埼玉県大里郡寄居町)に拠って古河公方と結び挙兵した(長尾景春の乱)。長尾景春従兄弟である道灌謀反に加わるよう誘った道灌はこれを断り主君扇谷定正と父・道真もいる五十子の陣に赴き関東管領山内顕定へ、長尾景春懐柔するために長尾忠景を一旦退けるよう進言したが、山内顕定受け入れなかった。次善の策として長尾景春武蔵国守護代につけることを提案したが、却下された。それでは、直ち長尾景春を討つよう進言するが、山内顕定はこれも受け入れなかった。翌文明9年1477年正月長尾景春五十子の陣急襲し山内顕定扇谷定正大敗喫して敗走長尾景春味方する国人続出し上杉氏危機陥った。さらに、石神井城東京都練馬区)の豊島泰経長尾景春呼応したため、江戸城河越城連絡絶たれ事態となる。 同年3月道灌は兵を動かして長尾景春方の溝呂木城神奈川県厚木市)と小磯城(神奈川県大磯町)を速攻攻略江戸城至近拠る豊島氏早期に討たねばならず、4月道灌は兵を発して豊島泰経泰明兄弟江古田・沼袋原の戦い撃破しそのまま石神井城落して豊島氏没落した5月道灌用土原の戦い長尾景春破り、景春の本拠鉢形城囲んだ古河公方成氏が出陣したため撤退して早期に景春を討つ好機逃した道灌上野国侵攻して塩売原で長尾景春対陣するが決着はつかなかった。道灌東奔西走活躍により景春は早々に封じ込められ格好になり、翌文明10年1478年正月古河公方成氏は和議打診してきた。 同年4月武蔵小机城神奈川県横浜市港北区)を包囲した。『太田家記』によると城の守り堅固な上に、攻め手小勢なため包囲数十日に及んだが、道灌は「小机先ず手習いはじめにて、いろはにほへとちりぢりになる」という戯れ歌つくって兵に歌わせ士気鼓舞してこれを攻め落とした続いて長尾景春方の諸城落として相模から一掃12月和議反対する古河公方の有力武であった千葉孝胤境根原合戦破り翌年には孝胤と千葉氏当主の座を争っていた千葉自胤擁して、甥の太田資忠房総半島出兵させ、反対派一掃した。だが、千葉氏拠点一つであった臼井城攻略中に資忠は戦死臼井城落として千葉孝胤放逐したものの、太田軍が撤退するとすぐに孝胤が巻き返して自胤側勢力下総から一掃したために、千葉孝胤長尾景春連携絶つという目標達したが、もう一つ目標である千葉自胤下総復帰達成できなかった。その後道灌文明16年1484年)に馬橋城(千葉県松戸市)を築城しており、孝胤を牽制するとともに下総進出する拠点確保するが、道灌死によって扇谷上杉勢力は馬橋から撤退することになる。 なおも抵抗続けていた長尾景春文明12年1480年6月最後拠点ある日野城埼玉県秩父市)を道灌攻め落とされ没落した。そして文明14年1482年)、古河公方成氏と両上杉家との間で「都鄙合体(とひがったい)」と呼ばれる和議成立30年近く及んだ享徳の乱終わった道灌30数回合戦戦い抜き、ほとんど独力で上杉家危機救った。『太田道灌状』で「山内家が武・上の両国支配できるのは、私の功である」と自ら述べている。

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