長尾景春の乱
長尾景春の乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/05/30 09:00 UTC 版)
康正元年(1455年)、前年に勃発した古河公方足利成氏と山内上杉家・扇谷上杉家・室町幕府・鎌倉公方(堀越公方)足利政知の対立による騒乱(享徳の乱)で下総の千葉氏も内紛が勃発する。宗家・14代千葉介の胤直・胤宣父子は一族の馬加城主・馬加康胤と重臣の小弓城主原胤房らに居城の亥鼻城を急襲され城が陥落。千葉胤直父子は志摩城・多古城にて自刃し、名族千葉氏の宗家は滅亡した。翌康正2年(1456年)、胤直の弟の胤賢の子、実胤・自胤兄弟は東常縁の援軍を得て国府台城に立て籠もったが、奮戦空しく敗れて武蔵石浜城、武蔵赤塚城に逃れ、扇谷上杉家重臣の太田道灌に庇護された。 20年後の文明8年(1476年)12月、長尾景春は山内上杉家の家宰職の後嗣を巡って上杉顕定に背き鉢形城で挙兵、長尾景春の乱がおきる。景春は翌文明9(1477年)正月、五十子陣の上杉氏本陣を襲撃し落城、上杉氏は上野に逃れた。扇谷上杉家の家宰・太田道灌は景春に帰服を呼びかけるが景春は拒否する。5月に用土原の戦いが行われ、道灌ら上杉軍は景春を破った。景春は敗れて鉢形城に立て籠もり、再起を図る。上杉氏は鉢形城を包囲し、降伏勧告を再三行う。景春は不利を挽回しようと、古河公方足利成氏に支援を要請した。7月には成氏が結城氏、宇都宮氏、那須氏、佐々木氏、横瀬氏といった関東各地の土豪らを引き連れて上野の滝まで進軍する。上杉顕定、上杉定正らは鉢形城の包囲を解いて上野の防衛を固めた。文明10年(1478年)正月、上杉氏と足利成氏の間で和議なり、景春も成氏の説得で鉢形城に帰還した。 しかし、千葉孝胤は停戦に従わず、長尾景春と結んで上杉氏に対抗した。これを討伐するため、太田道灌・千葉自胤は国府台城に着陣。これにより両者の戦闘は避けられない事態となり、境根原合戦が始まる。
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長尾景春の乱
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文明5年(1473年)、山内家家宰・長尾景信が死去した。跡を子・長尾景春が継いだが、山内顕定は家宰職を景春ではなく景信の弟・長尾忠景に与えてしまい、これを景春は深く恨んだ。 文明8年(1476年)2月、駿河国守護の今川義忠が遠江国で討ち死にし、家督をめぐって遺児の龍王丸と従兄の小鹿範満が争い内紛状態となった。小鹿範満は堀越公方の執事・犬懸上杉政憲の娘を母としており、道灌は小鹿範満を家督とするべく、犬懸政憲とともに兵を率いて駿河に入った。 この今川氏の家督争いは、龍王丸の叔父の伊勢宗瑞 (北条早雲)が仲介に入って、小鹿範満を龍王丸が成人するまでの家督代行とすることで和談を成立させ、駐留していた道灌と犬懸政憲も撤兵した。『別本今川記』によると、この際に道灌と宗瑞が会談して、宗瑞の提示する調停案を道灌が了承したとある。従来、道灌と宗瑞は同じ永享4年(1432年)生まれとされ、道灌と宗瑞というタイプの異なる名将が会談したエピソードとして有名であるが、近年の研究によって宗瑞は幕府の政所執事を代々務めた伊勢氏の系譜に連なり、年齢も24歳若い康正2年生まれ説が有力となっている。 道灌が駿河に出張していた同年6月、長尾景春は鉢形城(埼玉県大里郡寄居町)に拠って古河公方と結び挙兵した(長尾景春の乱)。長尾景春は従兄弟である道灌に謀反に加わるよう誘った。道灌はこれを断り、主君・扇谷定正と父・道真もいる五十子の陣に赴き関東管領・山内顕定へ、長尾景春を懐柔するために長尾忠景を一旦退けるよう進言したが、山内顕定は受け入れなかった。次善の策として長尾景春を武蔵国守護代につけることを提案したが、却下された。それでは、直ちに長尾景春を討つよう進言するが、山内顕定はこれも受け入れなかった。翌文明9年(1477年)正月、長尾景春は五十子の陣を急襲し、山内顕定、扇谷定正は大敗を喫して敗走。長尾景春に味方する国人が続出して上杉氏は危機に陥った。さらに、石神井城(東京都練馬区)の豊島泰経が長尾景春に呼応したため、江戸城と河越城の連絡が絶たれる事態となる。 同年3月、道灌は兵を動かして長尾景春方の溝呂木城(神奈川県厚木市)と小磯城(神奈川県大磯町)を速攻で攻略。江戸城の至近に拠る豊島氏を早期に討たねばならず、4月、道灌は兵を発して豊島泰経・泰明兄弟を江古田・沼袋原の戦いで撃破し、そのまま石神井城を落して豊島氏は没落した。5月、道灌は用土原の戦いで長尾景春を破り、景春の本拠・鉢形城を囲んだが古河公方成氏が出陣したため撤退して、早期に景春を討つ好機を逃した。 道灌は上野国へ侵攻して塩売原で長尾景春と対陣するが決着はつかなかった。道灌の東奔西走の活躍により景春は早々に封じ込められた格好になり、翌文明10年(1478年)正月、古河公方成氏は和議を打診してきた。 同年4月に武蔵の小机城(神奈川県横浜市港北区)を包囲した。『太田家記』によると城の守りが堅固な上に、攻め手が小勢なため包囲は数十日に及んだが、道灌は「小机は先ず手習いのはじめにて、いろはにほへとちりぢりになる」という戯れ歌をつくって兵に歌わせ士気を鼓舞してこれを攻め落とした。続いて長尾景春方の諸城を落として相模から一掃。 12月に和議に反対する古河公方の有力武将であった千葉孝胤を境根原合戦で破り、翌年には孝胤と千葉氏当主の座を争っていた千葉自胤を擁して、甥の太田資忠を房総半島に出兵させ、反対派を一掃した。だが、千葉氏の拠点の一つであった臼井城攻略中に資忠は戦死、臼井城を落として千葉孝胤を放逐したものの、太田軍が撤退するとすぐに孝胤が巻き返して自胤側勢力を下総から一掃したために、千葉孝胤と長尾景春の連携を絶つという目標は達したが、もう一つの目標である千葉自胤の下総復帰は達成できなかった。その後、道灌は文明16年(1484年)に馬橋城(千葉県松戸市)を築城しており、孝胤を牽制するとともに下総に進出する拠点を確保するが、道灌の死によって扇谷上杉勢力は馬橋から撤退することになる。 なおも抵抗を続けていた長尾景春も文明12年(1480年)6月、最後の拠点である日野城(埼玉県秩父市)を道灌に攻め落とされ没落した。そして文明14年(1482年)、古河公方成氏と両上杉家との間で「都鄙合体(とひがったい)」と呼ばれる和議が成立。30年近くに及んだ享徳の乱は終わった。 道灌は30数回の合戦を戦い抜き、ほとんど独力で上杉家の危機を救った。『太田道灌状』で「山内家が武・上の両国を支配できるのは、私の功である」と自ら述べている。
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