戦闘経過とは? わかりやすく解説

戦闘経過

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 02:16 UTC 版)

武蔵 (戦艦)」の記事における「戦闘経過」の解説

詳細は「レイテ沖海戦」を参照 午前6時32分、武蔵は距離40kmに敵味方不明飛行機発見した午前8時20分、栗田艦隊第38任務部隊索敵第2群カボットイントレピッド索敵機に発見された。イントレピッド爆撃隊モート・エスリック中佐は、「戦艦4隻、重巡洋艦8隻、駆逐艦13隻」と報告する。「ブル・ハルゼー」(雄牛猛牛の意)の異名をもつ積極的な性格ハルゼー大将即座に攻撃命令下した。このアメリカ軍の動き対し日本軍第六基地航空部隊福留繁司令官)が第38任務部隊第3群に零戦111機(爆弾装備機含む)、紫電一一型11機、彗星12機、九九式艦爆38機、天山8機という規模攻撃隊を送り込んだ。この攻撃隊はアメリカ軍的確な迎撃により壊滅し空母対す戦果軽空母プリンストン撃沈のみだった。エセックス隊だけでF6F戦闘機1機の損失引き換え海軍零戦27機、一式陸上攻撃機2機、夜間戦闘機月光1機、天山2機、九九艦爆4機、銀河1機、彗星1機、陸軍一式戦3機、三式戦1機撃墜記録している。 午前9時30分、3機の哨戒機型B-24爆撃機「PB4Y-1」が栗田艦隊接触し武蔵見張員が発見した武蔵左舷高角砲戦艦金剛重巡洋艦筑摩発砲した同時に栗田中将武蔵通信妨害電波発信命じた10時頃、大和軽巡洋艦能代が約100kmにアメリカ軍40機を探知する10時26分、第1次攻撃隊(イントレピッドカボット45機(F6Fヘルキャット戦闘機21機、カーチスSB2Cヘルダイバー急降下爆撃機12機、TBFアヴェンジャー雷撃機9機、誘導機ビル・エリス中佐)が攻撃開始する。この時点猪口砲術長の主砲発射要請拒否して主砲発砲許さず副砲迎撃させた。予定されていた海軍基地航空隊援護天候不良という理由取りやめとなったことに武蔵猪口艦長嘆いていたという。 第一次空襲では小型爆弾1発が武蔵の一番主砲塔天蓋命中し室内灯が笠ごと落ちた。6機の雷撃機による攻撃では、魚雷2本が艦底通過(この2本は命中した不発だったという証言もある)、1本が武蔵右舷中央命中、第7、第11罐室に漏水発生したが、これは機関科兵が罐の熱気大火傷負いつつ行った応急作業食い止めた武蔵バルジへの浸水右舷に5.5度傾斜したが、左舷への注水バランス取り戻した。この被雷衝撃艦橋トップの九八式方位盤照準装置一の台座が歪んで旋回不能となり、全主砲塔統一射撃不可となったとされるその後それぞれの主砲塔設置してある照準システム及び後部艦橋予備システム射撃続行した。ただし、主砲方位盤にもともと対空射撃機能がなかった可能性がある。なお「被弾ではなく主砲斉射衝撃方位盤故障した」と証言する乗員もいるが、公式記録によれば第一次空襲に於ける主砲発砲は無い。また、主砲発射衝撃堪え方位盤魚雷1本の命中故障するなどありえず、高速急転舵の連続による艦体震動原因考え乗員もいる。さらにイントレピッド攻撃隊のビル・バン・アントワープ雷撃隊長は、武蔵艦首に魚雷命中させたと証言している。武蔵艦首至近弾と記録した1115分、武蔵は『雷撃機五機の挟撃を受け4本を避けたるも1本右舷後部命中、右1214区浸水した激動により主砲方位盤旋回不能となりたる他故障なし。目下詳細調査中』と艦隊司令部報告する1136分には存在しない潜水艦からの雷撃回避し1157分に『出し得る最大速力26ノット』と報告した12時6分空母イントレピッドからの第2次攻撃33機(戦闘機12爆撃機12雷撃機9)が攻撃開始したアメリカ軍機は栗田艦隊外周駆逐艦巡洋艦対空砲火くぐりぬけ武蔵殺到していった。殺到原因についてレイテ沖海戦主軸にした書物などでは、リンガ泊地に於いて武蔵だけが塗装塗りなおしたため、一番目立っていたのも要因とされることがある。46cm主砲三式弾9発発射。事前ブザーがなかったために多く甲板員爆風受けたという。被害は、左舷魚雷3本艦首と艦中央部爆弾2発というものだった僚艦武蔵被害目撃しており、大和12時11分、武蔵複数魚雷命中した時に発生する水柱認めている。その武蔵では指揮装置故障高角砲一斉射撃ができなくなり、各砲個別照準となって命中率低下した左舷中央部命中した爆弾は、甲板2層貫通して中甲板兵員室で炸裂した。爆風通気孔通じてタービン室に突入し蒸気管が破損したために内側1つ機械室内が高温となって使用不能となる。武蔵は3軸運転を余儀なくされ、最大速力22ノット落ちた。一番、二番主砲魚雷命中による弾薬庫直接の被害無かったが、庫内温度上昇し弾薬庫注水作業したため使用不能となったとする文献もある。ただし、武蔵の一番砲塔中央砲で三式弾事故発生して射撃不能になったものの、二番主砲塔三番主砲塔空襲が終わるまで射撃続けている。また至近弾による弾片やアメリカ軍機の機銃掃射が、甲板上の機銃兵員達を殺傷した武蔵甲板備え付けられている25mm対空機銃のほとんどは外気晒されており、46cm主砲発砲爆風から対空兵器と砲員を保護するシールドも、アメリカ軍F6Fヘルキャットが6門装備するブローニング12.7mm重機関銃掃射ロケット弾攻撃の前では無力だった武蔵乗組員中にはアメリカ軍反跳爆撃スキップボミング)を行ったとする者もいる。1313分、武蔵司令部に以下の報告を行う。 主砲方位盤旋回不能予備盤にて射撃可能。 一番砲塔中三自爆信管破裂に依り使用不能第二機械室蒸気噴出左内軸使用停止、三軸運転、発揮し得る速力22ノット第二次空襲第三次空襲の間に1時間ほど小休止があったため、武蔵では猪口艦長指示により戦闘配食配られた。1330分、ミッチャー中将直率第3群の空母エセックスレキシントン (CV-16)発進した第3次攻撃83機が栗田艦隊上空到達したエセックス隊が第一部隊輪形陣大和、武蔵長門 )、レキシントン隊が第二部隊輪形陣金剛榛名)を攻撃したアメリカ軍機が撤退するまで武蔵魚雷5本、爆弾4発、至近弾2発を受けた武蔵浸水傾斜復元のための注水艦首水面近くまで沈み速力低下した大和中心とする第一部隊から落伍し金剛中心とした第二部隊追いつかれていた。なお第二艦橋勤務細谷は、武蔵初め主砲発射した時刻1357分頃としている。第二部隊軽巡洋艦矢矧1354分に武蔵発砲長門14時06分に「武蔵砲撃始む」と記録している。 14時15分、第4群の空母フランクリンから発進した第4次攻撃65機が来襲し、大和爆弾1発が命中した一連の攻撃フランクリン攻撃隊(ジョー・キービー中佐)は武蔵爆弾4発、魚雷1-3本命中、軽巡洋艦1隻撃沈主張14時45分重巡洋艦利根黛治夫艦長鈴木義尾中将第二部隊指揮官)に『武蔵に近寄る雷撃機を射つ為近寄られては如何』と意見具申する。20分後に『利根暫く武蔵北方在りて敵機来襲備えよ』との返信があったが、これは「利根単艦で武蔵護衛せよ」という意味であり、黛は鈴木を罵っている。それでも利根武蔵寄り添い駆逐艦清霜と共に護衛開始した14時50分、武蔵大和対し以下の報告送った射撃能力は該砲(一番砲塔)以外さしたる故障なし。 両舷防水区画殆ど全部浸水又は注水の為速力出し得ず出し得る速力20ノット見込み 14時53分、栗田中将は『武蔵被雷1、計5、戦闘力発揮支障あり。武蔵清霜を附し要すれば「コロン島経由馬公市向かえ』と命じた栗田中将武蔵撤退命令を出す中、第4群空母エンタープライズから発進した攻撃隊が栗田艦隊上空到達した武蔵もこれを探知し14時50分にアメリカ軍70接近中と報じ、さらに1454分、旗流信号で『飛行機20発見』を知らせた。5分後の14時59分、第2群空母第3波攻撃30機(戦闘機15爆撃機12雷撃機3)が来襲した。この頃シブヤン島ボアク島では、地元猟師達が山の中腹から「島のような巨大戦艦」とアメリカ軍機の激し戦闘観戦している。 エンタープライズ隊は栗田艦隊変針し、戦艦武蔵巡洋艦1隻、駆逐艦1隻が西に向かって分離する光景見たロケット弾装備したヘルキャット利根清霜狙い急降下爆撃機雷撃機武蔵狙ったアメリカ軍機から観察する武蔵は油を引いているだけで火災起きておらず、艦体も平だった。だが、武蔵注水被雷により大量海水飲み込んでおり、動き鈍くなっていた。武蔵回避行動ままならず、『武蔵被害累加せる如き詳細不明』というほどの損害を受ける。特に前部艦橋防空指揮所(艦橋最上部)に命中した爆弾は、防空指揮甲板第一艦橋作戦室甲板貫通して爆発爆風第一艦橋逆流し武蔵幹部達を殺傷した防空指揮所では、高射長の広瀬栄少佐、測的長の山田武男大尉を含む13名が戦死猪口艦長を含む11名が負傷する猪口艦長右肩重傷を負うが、指揮続行した作戦室では前日救助され摩耶副長永井貞三大佐軍医を含む5名が戦死、2名が負傷した。そして第一艦橋では、仮屋航海長を含む39名が戦死、8名が負傷加藤副長指揮継承し三浦四郎通信長臨時航海長となったエンタープライズ攻撃隊(戦闘機12艦爆9、艦攻12)は戦闘レポート武蔵に1,000ポンド爆弾11発、魚雷8本命中、重巡洋艦利根)に爆弾命中駆逐艦2隻撃破または撃沈主張するアメリカ軍機は艦首沈下し大火災起こして完全に停止した武蔵目撃している。また利根には爆弾2発が命中(250kg爆弾1発不発)、小火災が発生した清霜にも一番発射管小型爆弾1発が命中し最大発揮可能速力24ノット低下した最終的に武蔵爆弾10発以上被弾魚雷10本以上を被雷した。「軍艦武蔵戦闘詳報」では魚雷命中20被雷爆弾17命中至近18発と結論づけている。生存者戦後結成した武蔵戦友会」は、右舷に5本、左舷20本以上、合計33本と推定した。艦の前部著し浸水見た武蔵前後傾斜差が8メートル超え前部主砲の一番低い箇所は波に洗われるほどになったこのため必死浸水防止対策が採られた。大和からは、左に15度傾斜した武蔵の姿が目撃されている。武蔵15時30分に舵取機電源切断による『我舵故障』を報告し長門確認した第七発電機タービン担当していた玉沢兵曹は、被害累加と共に次々と発電機使用不能になり、最後第七発電機第五次空襲停止操舵不能になったと証言している。それでも約30分後には直接操舵が可能となった武蔵復旧作業おこないながら重巡洋艦利根駆逐艦島風清霜浜風伴われ栗田艦隊から分離しコロン湾目指した。武蔵大損害をうけながらも僅かながら戦闘力維持しており、16時55分にはアメリカ軍機を撃墜したという。 宇垣纏第一戦隊司令官著作戦藻録」に『本反転に於いて麾下片腕たる武蔵の傍を過ぐ損傷の姿いたましき限りなり。凡て注水能部満水終り左舷傾斜10度位、御紋章表し居るも艦首突込み砲塔の上甲板最低線漸く水上在り慰め言葉適当なるもの即座に出でぬなり』と述べている。宇垣16時24分『全力尽して保全努めよ』、17時5分『自力又は曳航にて遠距離移動不能な場合一時附近島陰適当なる深所に曳航艦首をのし揚げ応急対策講ずることを研究しおけ』と命じた栗田中将は「第一遊撃部隊戦闘詳報」にて『即ち敵機空襲逐次其の頻度来襲機数とを増大する反しラモンレガスピー方面敵機部隊対す我が航空攻撃成果未だ見るべきものなく。他方我が機動部隊本隊牽制攻撃其の実効なき等、各部隊協同結実する至らず為に第一遊撃部隊孤立奮戦となり徒らに被害累増すると共に現在の東進せば日没前シブヤン海東方狭小海域に於いて敵機攻撃受く惧れあり(以下略)』と述べている。宇垣も『即ち武蔵大和救い戦隊のみならず艦隊全般を自らの犠牲において掩護救出せるものといざるべからず』と記した武蔵は各艦隊航空部隊連携不徹底から結果として猪口艦長遺書あるように「栗田艦隊被害担当艦」となり、致命傷負ったのである

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戦闘経過

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ブレスラウの戦い」の記事における「戦闘経過」の解説

西南西から進撃してくるオーストリア軍対しアウグスト・ヴィルヘルム全軍率いて出撃ブレスラウ郊外村落野戦築城行い陣地化してオーストリア軍迎え撃つことにした。11月22日会戦開始されオーストリア軍は猛砲火浴びせたうえで西から南にかけて幅広い戦線総攻撃をかけた。両軍の間で一日通して激し戦闘が行われたが、夜に入りプロイセン軍は力尽きて敗走アウグスト・ヴィルヘルム捕虜になった彼の作戦についてクラウゼヴィッツはその著書戦争論のなかで、オーストリア軍戦闘求めて前進してきたらブレスラウ方面戦線下げて本格的な戦闘に入るのを避け時間稼いで大王率いプロイセン軍主力来援を待つべきであった論評している。 プロイセン軍敗走後もブレスラウ市内にはまだ10大隊規模守備部隊残っていた。しかしこの部隊地元市民ザクセン軍の捕虜編制されていたこともあって、市郊外での敗報が届くや戦意喪失して次々逃亡残った将兵にもブレスラウ市民から抗戦しないよう圧力かけられる有様で、抵抗断念した指揮官11月25日降伏した一連の戦いによってオーストリアシュレージェン主要部制圧下に置くことができた。しかし同じころ西方では大王軍事史上に名高いロスバッハの勝利を得てシュレージェン転戦ロイテンの戦いオーストリア軍大勝するシュレージェンを巡る戦いはなお5年も続くのであった

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ティキヌスの戦い」の記事における「戦闘経過」の解説

この戦闘における両軍の戦力詳細不明であるが、おそらくカルタゴ軍騎兵全力で約6,000名、ローマ軍騎兵ウェリテス軽装歩兵)を合わせて約4,000程度であろう推測されるハンニバル両翼精強ヌミディア騎兵を置き、中央にガリア・ヒスパニア騎兵置いたローマ側前面ウェリテス戦列並べその後方に騎兵置いたカルタゴ軍騎兵突撃すると、ローマ軍軽装歩兵ピルム投げ槍)を投擲した。しかし、カルタゴ軍前進阻止できず、逆に突入されて歩兵戦列は乱れまたたくま壊走した。続いてカルタゴ騎兵ローマ騎兵交戦始まったもとよりローマ軍は数で劣っており、次第圧倒されだした。両翼ヌミディア騎兵早々にローマ騎兵両翼撃破しローマ軍中央包囲されそうになった。さらにスキピオカルタゴ騎兵によって負傷させられたため、ローマ軍野営地まで撤退した。 なお、負傷したスキピオ包囲下から救い出したのは、リグリア人奴隷という説と、息子プブリウス(後のスキピオ・アフリカヌス)という説が存在する。ただし、後者スキピオ・アフリカヌス偉大さ顕彰するための創作ではないか考えられている。

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第2次シルテ湾海戦」の記事における「戦闘経過」の解説

3月22日、海は大荒れであった午前中イギリス船団数度航空攻撃受けたが、損害はなかった。14時10分、軽巡洋艦ユーライアラスイタリア艦隊発見報告した。それはパロナ少将指揮するイタリア巡洋艦部隊であったヴィアン少将ハント級駆逐艦5隻を護衛につけて船団南西退避させ、煙幕を張った南東から風により煙幕イタリア艦隊のほうへ流れ効果的に働いた。この時の戦闘では両軍とも損害はなく、イタリア艦隊15時15分に戦場離脱した。この戦闘中船団空襲受けた被害はなかった。 ヴィアン少将イタリア艦隊追い返したので敵艦隊の脅威なくなった考え船団との合流向かった。だが、イタリア軍撤退したわけではなかった。イタリア艦隊をまとめたイアキーノ中将イギリス艦隊向かい16時37分に英駆逐艦ズールーが再びイタリア艦隊発見した16時43分に戦闘開始され悪天候煙幕による視界不良の中で砲撃戦繰り広げられた。悪条件の中で、イタリア艦隊大型艦見事な射撃見せた。英軽巡洋艦クレオパトラ旗艦)にイタリア軽巡洋艦ジョバンニ・デレ・バンデ・ネレの砲撃命中して15名が戦死、また伊戦艦リットリオ砲弾の破片で英軽巡洋艦ユーライアラス損傷した軽巡洋艦防空巡洋艦主戦力とするイギリス艦隊砲撃戦勝て見込みはなく、駆逐艦による魚雷攻撃賭けるしかなかった。そのためイタリア艦隊接近し戦艦重巡洋艦砲撃被害を出す。イギリス駆逐艦ハヴォックキングストンライヴリィ損傷した戦闘1856分に終了しレーダー持たないイタリア艦隊夜戦避けて北へ引き揚げた。

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漢口大空襲」の記事における「戦闘経過」の解説

12月18日朝、第20爆撃集団B-29前進基地離陸した。その数時間前、シェンノート第14空軍司令官は、ルメイ第20爆撃集団司令官に対して空襲開始時刻45分繰り上げるよう要請していたが、ルメイ少将から攻撃隊への連絡失敗して出撃する第20爆撃集団第58爆撃団のうち第40爆撃群には変更命令届かないでしまった。 12時7分頃、第20爆撃集団B-29による第一波攻撃隊は、東側から回りこむように漢口上空侵入開始した最初に侵入した3編隊合計33機のB-29予定通りの手順で爆撃行ったが、後続編隊のうち3個編隊誤った手順爆撃行ったため火災の煙が目標上空覆ってしまい、後続編隊正し目標爆撃できたのは単独行動した数機のみで、残り多く中国人民間人居住する市街地誤爆してしまった。 日本側は、B-29多数武漢方面接近中であるのを発見すると、第8飛行団長の青木喬少将統一指揮の下で、飛行85戦隊四式戦闘機18機および飛行25戦隊・第48戦隊一式戦闘機20機を迎撃発進させた。日本側は、B-29爆撃機2機を撃墜(ただし不確実)・11機を撃破記録している。1310分頃に第一波攻撃隊が去ると、日本軍戦闘機補給整備乗員休養のため着陸した14時36分頃、第二波攻撃隊として第14空軍のB-24爆撃機34機・各種戦闘機149機が、5群に分かれて漢口上空飛来した。第二波攻撃隊は、市街地爆撃するとともに日本軍飛行場襲撃した日本側は空襲警報発して戦闘機隊の稼動全機迎撃繰り出したが、多数アメリカ軍護衛戦闘機阻まれてB-24爆撃機にはたどり着けなかった。空中戦結果日本側はP-51戦闘機4機撃墜・3機撃破戦果主張しているが、代償日本機4機が撃墜された。飛行場では日本軍航空機13機が離陸できないまま攻撃受けて炎上し、6機が大破したほか、施設にも若干損害があった。なお、アメリカ14空軍側は、夕刻出撃した中米混成航空団(CACW, en)のP-40N戦闘機3機が、帰還時刻夜間になって無灯火基地着陸できず、乗機捨ててパラシュート脱出している。そのうちの1機にはCACW司令のウィリアム・ノーマン・リード(en少佐乗っており、脱出失敗して死亡した漢口市街地では焼夷弾による大火災発生し長江岸から5km以内範囲3日間にわたって燃え続けた

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常陸丸事件」の記事における「戦闘経過」の解説

6月12日ウラジオ艦隊のうち「リューリク」、「ロシア」および「グロモボーイ」はピョートル・ベゾブラーゾフ(ロシア語版英語版中将率いられウラジオストク出撃ウラジオ艦隊司令官カールル・イェッセン少将損傷修理中の「ボガトィーリ(英語版)」に将旗掲げた。ところで、艦隊出撃6月12日であるが、過去ウラジオ艦隊行動日本側にはトラウマとなっており、巡洋艦出撃前の6月9日には松前弁天島近海で「軍艦しきもの見た」との報告上がっていた。 問題6月15日8時ごろ、防護巡洋艦対馬」から沖ノ島近海ウラジオ艦隊発見したとの報を受けた第二艦隊は、水雷艇隊を急行させる同時に往来船舶竹敷などへの退避指令したウラジオ艦隊日本側の動き構わず対馬海峡達し、まず輸送船和泉丸」(日本郵船、3,225トン肥後之丞船長)を発見する。「和泉丸」は6月13日遼東半島の塩大澳出港して日本向かっていたものである。ウラジオ艦隊は「和泉丸」を停船させて乗船者対し退去勧告し退去確認砲撃加えて撃沈した。「和泉丸に関して日本側の情報少なく、4名が死亡して退去し乗船者のほとんどはウラジオ艦隊収容されたものとみていた。戦争終結後調査により、陸軍兵2名、海軍兵1名の便乗者3名を含む112名のうち、戦死者7名、倉野兵衛海軍上等兵曹を含む83名が捕虜として収容され、残る22名が生還したことが分かった。 「常陸丸」は「佐渡丸」(日本郵船、6,219トンジョージ・アンダーソン船長とともに6月14日宇品出港し、「常陸丸」は大孤山、「佐渡丸」は塩大澳目的地であった。両船の搭載部隊船員その他便乗者は以下のとおりであった。 「常陸丸」(輸送指揮官連隊長須知源次郎中佐運送監督官山村彌四予備役海軍中佐後備近衛歩兵第一連隊本部および第二大隊第八中隊:727名(うち将校20名) 第一大隊三中隊:不明 第十師団糧食縦列359名(うち将校4名) 海軍関係者:4名(うち将校1名) 各種乗組員148総計:1,238名 「佐渡丸」(輸送指揮官田村義一陸軍工兵大佐運送監督官小椋元吉後備役海軍少佐野戦鉄道提理部:867名(うち将校18名) 第二臨時築城団:34名(うち将校9名) 攻城砲兵司令部:14名(うち将校3名) 戊碇泊場司令部169名(うち将校4名) 海軍関係者:4名(うち将校1名) 便乗者:3名 各種乗組員167総計:1,258名 「常陸丸」がウラジオ艦隊遭遇したのは午前10時から11時の間とみられ、艦隊ははじめ空砲発射し間もなく実弾発射切り替えられ、「常陸丸」は全速力後方への遁走を図るも一発が「常陸丸」の機関部命中したのをはじめに近接射撃によりおよそ100発もの射撃受けて戦死者続出し機関破裂し、やがて第三甲板から出火した。「常陸丸船内血の海そのものといった様相となり、わずかに残った第一連隊将兵直ち小銃反撃するが、圧倒的な攻撃力の差は如何とも難くイギリス人船長ジョン・キャンベルJohn Campbell)、機関長ジェームズ・ヒュー・グラス(James Hugh Grass)、運転士サミュエル・ジョゼ・ビショップ(Samuel Jose Bishop)も相次いで敵弾倒れた須知運命悟り軍旗奉焼と旗竿破壊命じ軍旗奉じていた藤崎乕一陸軍二等卒に対して生き残って事の仔細報告するよう命じたが、直後砲弾命中して負傷したのち切腹軍旗大久保正少尉旗竿折って点火焼却した。連隊旗や重要書類焼却見届けると、残る将校切腹拳銃自殺および海中への投身自殺須知と沈む「常陸丸」に殉じた。「常陸丸」は三度目一斉射撃を受け、15時ごろに沈没した。「常陸丸」の戦死者陸軍958名、海軍3名、乗組員130名の総計1,091名に達した。残る生存者のうち須知遺命により脱出した藤崎を含む37名は御用船土佐丸」(日本郵船、5,402トン)に救助され六連島上陸生存者内訳は、後備近衛歩兵第一連隊本部96名、第十師団糧食縦列32名、海軍関係者1名、各種乗組員18名の計147であった。 「佐渡丸」は午前6時20分に関門海峡通過し、「常陸丸」に近接して航行していた。「常陸丸」と相前後して艦隊遭遇し反転して遁走開始した砲撃を受け、艦隊から軍使派遣され非戦闘員の「佐渡丸」からの退去促した1時間40分の猶予ののち、艦隊は「佐渡丸」に対して砲撃開始し続いてロシア」と推定され巡洋艦が「佐渡丸」の左右両舷に魚雷命中させて退去した。魚雷機関部命中して浸水激しく乗船部隊天皇陛下歳を三唱したのち最後の「儀式」の準備整えていたが、艦隊急速に去って行ったのを見て生き残るための方策切り替えた。そして、30時間もの漂流ののち沖ノ島にたどり着き危機脱した。「佐渡丸」の戦死者陸軍219名、乗組員17名の総計236名、捕虜陸軍宮沢次郎陸軍三等軍医)と海軍小椋)の将校各1名、文官14名、乗組員その他13名の計29名、生存者野戦鉄道提理部694名(うち将校12名)、第二臨時築城22名(うち将校5名)、攻城砲兵司令部13名(うち将校3名)、戊碇泊場司令部135名(うち将校4名)、海軍関係者3名、便乗者2名、各種乗組員124名の計993であった

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テニアンの戦い」の記事における「戦闘経過」の解説

1944年7月24日早朝米軍は第2海兵師団の上陸用舟艇100隻以上を島の南西部テニアン前方一斉に前進させた。しかし、米軍上陸部隊海岸から200m程に接近した瞬間一斉に重砲攻撃開始米軍撃退したまた、日本海軍56警備隊ペペノゴル砲台小川和吉海軍大尉)、二本椰子砲台柴田卯助海軍中尉)両砲台戦艦コロラド22発の命中弾を与え駆逐艦ノーマン・スコットen:USS Norman Scott (DD-690))も命中弾を浴びシーモア・D・オーウェンス艦長以下多数死傷した。しかしこれは米軍陽動作戦であった7時頃、米軍第4海兵師団LCVPヒギンズ・ボート)、LVT水陸両用装軌車)からなる上陸用舟艇150隻で、陽動作戦のため手薄となった北西部のチューロ海岸上陸した水際配備され第3中隊海軍警備部隊は、米軍の砲爆撃水際戦闘のためほとんど全滅し米軍日没までに第4海兵師団主力と第2海兵師団の1個大隊、さらに山砲75ミリ曲射砲)4個大隊上陸させた。この上陸での、米軍死傷者240名(うち戦死15名)であった。 そして、24日深夜日本軍による反撃開始されたが、米軍猛烈な弾幕射撃照明弾による妨害により、日本軍の進撃遅れた。それにより、調整取れない攻撃行い、約2,500名にも及ぶ損害受けて反撃失敗終わった。この攻撃で、第50連隊第1大隊、同第2大隊、第135連隊第1大隊長は戦死し戦車は4両を残すだけとなった日本軍攻撃撃退したアメリカ軍は、25日、第2海兵師団残余上陸させ、南下開始した日本軍は新防衛線を構築するとともに民間人の中から16歳から45歳までの男子、約3,500名を集め民間義勇隊6個中隊を編制し戦闘協力させた。だが、7月30日までにアメリカ軍防衛線を突破しテニアン市街占領した7月31日、カロリナス高地北方に新防衛線を構築した日本軍反撃開始、マルポ水源地テニアン町南付近第三飛行場南側戦闘行った戦闘夕刻まで続いた日本軍敗れ、島南端のカロリナス高地撤退した。この戦いで同島唯一の水源地であるマルポの井戸米軍占領し日本軍長期抵抗を行うことが困難となった夜半緒方連隊長グアム島第31軍司令官小畑英良中将対し最後報告打電する。 翌8月1日日本軍前夜半から早朝にかけて三度にわたる反撃行ったが、失敗海軍栗野原大佐、設営隊技術少佐をはじめ多く将兵戦死した8月2日緒方連隊長軍旗を奉焼、残存部隊と民間義勇隊等約1,000名が、アメリカ軍対し突撃敢行した。アメリカ軍は、機関銃などにより猛烈な防御砲火あたえたため、日本軍死傷者続出し緒方連隊長後退中に戦死した。 また角田司令長官手榴弾持って壕を出たまま戻ることはなく、三和参謀長以下海軍幕僚自決し、第56警備隊司令大家大佐戦死した結果日本軍玉砕という形で、テニアン島における組織的戦闘8月3日夜明け終結したその後生存者何人かの集団となって米軍施設などを破壊して遊撃戦続けたが、テニアン島隆起珊瑚礁からなる平坦な島で、遊撃戦には不向きな地形であった

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フロリダ諸島の戦い」の記事における「戦闘経過」の解説

1942年昭和17年8月6日午後10時ラバウルから異常電波傍受報せ受けた横浜海軍航空隊は、大艇の発進時間をいつもより繰り上げ、その発進準備かかった。 そして翌7日午前4時10分、発進準備終えた大艇はいよいよ離水開始しようとする。しかし、その瞬間に米艦載機10機が来襲泊地の大艇は全滅しフロリダ島水上戦闘機隊も同じ頃全滅した午前7時過ぎに第二波空襲行った米軍は、午前9時に上陸用舟艇100隻をフロリダ島の湾に向け発進させたが、途中で引き返して午前10時にガブツの東岸上陸した。ガブツの守備隊には武器がなく、タナンボゴからの援護受けたものの、同日中に占領された。 午後9時、米軍はタナンボゴの北側から6隻の上陸用舟艇進撃開始した。しかし、進撃途中に陸岸から50m程先にあるリーフ先頭艇が座礁し、これを見ていた日本軍守備隊はこの舟艇襲撃した。この攻撃驚いた米兵慌てて後続艇に乗り移り撤退した。この攻撃により、米兵10数名戦死し日本軍舟艇置き去りにされた機銃鹵獲した。 翌8日午後3時米軍はガブツとタナンボゴをつなぐ土手づたいに進撃開始した米軍日本軍陣地200m手前まで進撃するも、日本軍抵抗にあい後退した午後4時米軍兵員輸送用水陸両用車輛(LVT)2両を以ってタナンボゴに上陸試みた。これを見た日本軍守備隊50名は、LVT駆け寄ると、転輪キャタピラの間に鉄棒棍棒をこじ入れLVT動き止めガソリンをかけてトラクター火を放った。これにより二輛のLVT炎上したが、ガブツからの機銃弾により日本兵42名が戦死した午後5時、米軍はタナンボゴ島の前面500m至近距離軽巡洋艦1隻(サンファン)、駆逐艦2隻(モンセンブキャナン)を進出させた。3隻は一列並び砲戦隊形をとると、タナンボゴ島に対して艦砲射撃開始した。この砲撃により日本軍守備隊は3名を残して全員玉砕し司令宮崎大佐は壕内で自決した。 この砲撃の後、米軍は同島に上陸し無血占領果たした

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リュッツェンの戦い (1632年)」の記事における「戦闘経過」の解説

1632年11月16日、この日は早朝から濃く午前中両軍共に行動できなかった。午前11時頃、ようやく薄れてきたので、グスタフ・アドルフ攻撃開始命令した砲列火蓋を切ったのを合図に、プロテスタント軍は前進開始した間もなくプロテスタント軍中央の歩兵塹壕突破し皇帝軍の歩兵戦列を押し込んで陣地踏み入り大砲奪い取った。これに対しヴァレンシュタインは自ら騎兵率いて援護駆けつけプロテスタント軍中央を押し戻し大砲奪還したプロテスタント左翼は、風車の丘からの皇帝軍の砲撃によりほとんど前進することができなかった。グスタフ・アドルフ指揮プロテスタント右翼だけが皇帝左翼圧倒しつつあった。 中央の攻撃失敗したとの報告受けたグスタフ・アドルフは、自ら騎兵一部率いて中央の援護回った。しかし、戦場を覆う硝煙自身近眼のために、グスタフ・アドルフ少数護衛兵とともに敵中突出してしまった。皇帝軍の騎兵襲い掛かりグスタフ・アドルフは腕を撃たれ負傷護衛兵と共に後退しようとしたが、皇帝騎兵突撃による乱戦巻き込まれ戦死した背中銃弾受けて落馬したところを、ピッコロミーニ指揮下の騎兵によって頭を撃ち抜かれたという。 ところが、あまりの視界悪さのために両軍ともグスタフ・アドルフの死を直後には察知しておらず、そのまま交戦続けていた。騎兵援護得たプロテスタント軍中央の歩兵は、皇帝軍中に対して猛攻加えたが、皇帝軍の砲兵歩兵射撃騎兵突撃によって撃退された。プロテスタント軍はあきらめずその後何度も攻撃仕掛け中央では陣地大砲奪い合い続いた午後2時、パッペンハイム率い騎兵隊戦場到着劣勢に陥っている皇帝左翼援護するために、プロテスタント右翼向けて突撃した。これを見たヴァレンシュタインは「あれぞ我らパッペンハイムだ!」と叫んだパッペンハイム5度わたって突撃敢行し、プロテスタント軍の攻勢頓挫させて、皇帝左翼劣勢立て直すことに成功した。しかし、プロテスタント右翼堅固であり、これを撃破することまではできなかった。午後3時五度目の突撃の際にパッペンハイム銃弾受けて負傷し後方送られると、騎兵突撃停止したパッペンハイム戦傷がもとで、翌17日死亡したこの頃にはグスタフ・アドルフ戦死の噂が戦場駆け巡り始めていた。プロテスタント軍は一時的なパニックに陥り、前線部隊後退しようとした壊走一歩手前の状態だったが、序列三位指揮官であるクニップハウゼンが冷静になるよう全軍呼びかけ崩壊を防ぐことに成功した午後3時序列二位指揮官であるベルンハルトグスタフ・アドルフの死を知り全軍指揮権掌握宣言したスウェーデン宰相であるオクセンシェルナも、直ちベルンハルト補佐し戦闘継続させた。 午後4時プロテスタント軍は最後突撃移ったベルンハルトグスタフ・アドルフの死を全軍伏せていたが、おそらく指揮権移動した時点大半将兵王の死悟っていたと思われるプロテスタント軍はグスタフ・アドルフの仇をとるべく猛烈な勢いで突撃仕掛けた皇帝軍もこれに応戦し両軍ともに多大な死傷者出した。しかし、最終的にプロテスタント軍の勢い勝り皇帝軍を圧倒して中央陣地制圧し全ての大砲奪い取った左翼右翼同様な状況であり、士気衰えた皇帝軍は全戦線後退した午後6時パッペンハイム軍の後続歩兵約3000-4000が戦場到着した。すでに日は落ちて敵味方の識別困難になっていたため、ヴァレンシュタインは彼らを戦闘参加させなかった。この頃には、同様の理由からプロテスタント軍も攻撃停止していた。翌17日早朝ヴァレンシュタインパッペンハイム軍の歩兵後退援護をさせ、全軍ライプツィヒまで撤退するように命じた整然とした撤退つけ入る隙を見つけられず、また一時勢い失われていたため、プロテスタント軍は追撃をしなかった。 こうしてリュッツェンの戦い終わった皇帝軍が撤退すると、プロテスタント軍はグスタフ・アドルフ遺体探した。王の遺体は、折り重なった遺体の間から発見され、その身体からはシャツ以外の全ての装備奪い取られていた。この日着用していた黄色のバフコート(上図中央参照)は、戦利品として皇帝元に送られたが、第一次世界大戦後オーストリアからスウェーデン返還された。

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祁山の戦い」の記事における「戦闘経過」の解説

諸葛亮祁山出撃するとともに、魏の北方でしばしば魏と対峙していた鮮卑族軻比能使者送り、もとの北地郡現在の甘粛省東部寧夏回族自治区および陝西省北西部にまたがる地域石城県にまで進出し諸葛亮呼応させた。曹叡荊州より司馬懿詔勅招き寄せて長安駐留させ、張郃郭淮費曜戴陵中国語版)らを指揮下に置かせた。また、詔勅下して牽招軻比能討伐命じた

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レイテ島の戦い」の記事における「戦闘経過」の解説

山下大将危惧現実のものとなる。台湾沖航空戦大損害を被ったはずのアメリカ海軍機動部隊健在で、逆に日本航空兵300機以上の喪失により、事実上フィリピン制空権失った状態で戦う状況となった10月20日上陸してきたアメリカ軍敗残兵などではなく第6軍クルーガー中将)の兵員10万名(最終的に20)の大部隊だった。その総指揮官は、かつて「私は戻ってくる。(I shall return. アイシャル・リターン)」という台詞残してフィリピン去ったダグラス・マッカーサー大将であった

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根白坂の戦い」の記事における「戦闘経過」の解説

この時の両軍の兵力諸説があって定かではないが、豊臣軍は8島津軍は35000ほどだったといわれる。砦の守将 宮部継潤らを中心にした1万軍勢が、空堀板塀などを用いて砦を堅守。これを島津軍突破できずに戦線膠着状態に陥った。ここに秀長の本隊救援にきたが、状況見た軍監尾藤知宣救援不可能、島津の軍に当たるべからずと秀長に進言し、秀長本隊軍監の言に従い救援中止受け入れた。しかし豊臣秀長麾下藤堂高虎500名と宇喜多秀家麾下戸川達安の手勢らが宮部継潤救援向かい島津軍翻弄。ここに小早川黒田勢が挟撃仕掛けたため、島津軍大将格の島津忠隣猿渡信光等のほぼ全員討死完敗した。秀長らは追撃行おうとしたが、尾藤深追いの危険を主張したために追撃戦行われなかった。後に、日向国高城にて島津家久軍を撃退し大軍防いだことから、秀吉は「法印(継潤)事は今にはじめぬ巧者ものなり」(『川角太閤記』)と継潤を褒賞した。この戦いは、豊後国にて防備固めよという秀吉命令順守せず、独断会戦(戸次川の戦い)に望んだ上で敗北した仙石秀久失態挽回秀吉による九州平定盤石なものにし、窮地陥った大友義鎮救った戦いでもあった。

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ヘンダーソン基地艦砲射撃」の記事における「戦闘経過」の解説

1942年昭和17年10月11日第二次挺身攻撃隊 トラック島出撃10月12日、ルンガ沖に軽巡洋艦1、駆逐艦7、大型輸送船2隻という航空隊報告受けた10月13日朝、南進続け第二次挺身攻撃隊悪い知らせ届いた先に出撃した第一次挺身攻撃隊の重巡洋艦4隻が、ガダルカナル島に向かう途中サボ島沖で連合軍艦隊アメリカ巡洋艦隊に待ち伏せされ重巡古鷹駆逐艦吹雪沈没し重巡青葉大破された(サボ島沖海戦)。ラバウル第十一航空艦隊から、ガダルカナル島にいないはずの、輸送船2隻、駆逐艦2隻からなるアメリカ艦隊支援艦隊が同方面進行中、との報告届いた10月13日夕刻に、第二航空戦隊の上空直衛機6機が空母帰艦し、第二次挺身攻撃隊28ノット高速ガダルカナル島進撃した。 以下時系列は「昭和17年10月5日昭和17年10月14日 挺身攻撃記録第三戦隊.金剛.榛名ガ島飛行場砲撃)」による。 13日20時30分総員戦闘配置完了2238分、エスペランス岬海軍陸戦隊によるかがり火確認夜戦のため、エスペランス岬タサファロング岬クルツ岬の計3か所に灯したかがり火を目標に、三角法測距して飛行場位置割り出す作戦事前に進められた。 23時00分、クルツ岬を右13度8kmに見て艦隊進路130度に変針23時17分、栗田司令官射撃開始命令23時33分、空中班の重巡古鷹衣笠零式水上偵察機が、ヘンダーソン飛行場上空から赤、白、緑の吊光弾投下して攻撃目標示した23時37分、砲撃開始金剛新型三式弾104発を交互射撃23時38分、榛名対空零式弾189発を交互射撃23時46分、ルンガ岬配置するアメリカ海兵隊探照灯金剛発見し報復射撃開始沿岸配置していた12.7cm砲6門で金剛狙ったが、射程9,000メートル金剛届かず手前駆逐艦を狙うも命中弾は無かった23時53分、金剛榛名探照灯対し副砲反撃23時57分、三式弾撃ち尽くす。 14日0013分、全艦、取り舵反転0020分、砲撃再開金剛榛名ともに徹甲弾一式弾を射撃開始三式弾零式弾共に打ち尽くし徹甲弾変更している。 0027分、敵魚雷発見の報を受け、右45度艦隊進路変更0033分、魚雷発見誤認とわかり、艦隊進路元に戻す0050分、アメリカ軍魚雷艇1隻を、前路警戒隊の駆逐艦長波が発見し撃破0056分、全艦に「撃ち方止め」の命令転舵面舵3度最大戦速29ノット戦線より離脱開始0122分、敵魚雷艇発見長波魚雷艇3隻を撃退0448分、第二航空戦隊零戦第三戦の上空直衛を開始12時00分、前進部隊本隊合流

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フランスのノルマンディー侵攻 (1202年-1204年)」の記事における「戦闘経過」の解説

戦争開始されると、ジョン前回(1199年)の戦争の時と同様に守勢徹した会戦避け用心深く大陸領内重要な城を堅く守備した 。しかしジョン王軍事作戦は、戦争が進むにつれて秩序欠き始めた。そしてフィリップ2世イングランド大陸東部向けて着実に進軍していた。1202年7月ブルターニュアルテュール1世率いブルターニュ軍がミラボー城(英語版)を包囲したミラボー城にはジョン王の母、アリエノール滞在しており、ジョン王急遽家臣のウィリアム・ド・ロッシュ(英語版率い傭兵部隊援軍としてミルボー差し向けた。このジョン王機敏な対応にアルテュール対応しきれず、1202年8月ミラボー戦い英語版)にてアルテュールウィリアム率いイングランド傭兵軍敗れアルテュールと共にいた反乱軍首謀者全てイングランド側に捕らえられた。この戦いにより、英仏間の南方戦線が危ういことを知ったフランス王フィリップ2世は、イングランド大陸東部より軍を引き、南部方面に軍を進軍させイングランド軍の南進抑えたミラボー戦いの後ジョンはフランス・ブルターニュに対して優勢となったしかしながらジョン王彼の大陸における有力な同盟者であるウィリアム・ド・ロッシュやミラボーにて手に入れた捕虜対す扱い酷さにより、その有利さを無にしてしまった。ロッシュアンジューにおいて有力な貴族であったにもかかわらずジョンロッシュのことをまともに相手をせず、ロッシュ屈辱的な思いをした。また捕虜の扱い非道なものであり、22人もの捕虜悪環境に耐えきれず亡くなったこの頃多く貴族たちは婚姻関係通じて密接に結びついていたため、このジャン王横暴は到底受け入れられないものとして、彼らの親戚通じて広く貴族たちの反感を買うこととなった 。この事件ののち、ロッシュ始めとするアンジュー・ブルターニュ地域におけるイングランド側の貴族たちはジャン王見限り、フランス・フィリップ王に味方した。またブルターニュではイングランド対す反乱発生した。またこの頃ジョン王財政状況は脆いものであったジャン王軍事にかけていた資金考慮に入れると、圧倒的と言う訳ではなかったもののフィリップ王はより多く資金軍事にかけることができており、資金面ではイングランドより有利であったと言う1202年から1203年にかけて、豊富な資金元にフィリップ2世ノルマンディー公国ととフランス王国国境線ラインに3,037人の軍団配置したその内訳は、257人の騎士267人の騎乗守衛官80人の騎乗クロスボウ兵、133人の徒歩クロスボウ兵、2000人の歩兵加え300人の傭兵構成されており、この一団はCadoc という人物率いられていた。この軍団フランス王国国境守備しノルマンディーがのちにフランス征服されたとき、解散された。 1203年より、ジョン王についていた地方領主たちが徐々にジョンの元を離れたことで、大陸におけるジョン王軍事的行動制限され始めた。彼は教皇インノケンティウス3世紛争調停要請したものの、うまくいかなかった 。ジョン王徐々に不利になり、ミラボー戦いの後捕囚続けていたアルテュール殺害し潜在的なライバルを殺すことでブルターニュにおける反乱可能性無くそうとした。実際アルテュールははじめはFalaise城にて捕囚されており、のちにRouen城に移されたとされているが、その後うなった分かっていない。現代の歴史家は、アルテュールその後ジョン暗殺されたと考えている 。アルテュール暗殺の噂は国中拡がり更なる地方領主離脱引き起こした

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コーチャン島沖海戦」の記事における「戦闘経過」の解説

1月17日朝、海戦開始された。火力に劣る水雷艇ソンクラがフランス艦隊旗艦ラモット・ピケ」により撃沈され、炎上していた水雷艇チョンブリ以下は「ツール」「マルヌ」により他の水雷艇もろとも撃破される。旗艦トンブリ射距離12,000mから20cm主砲による砲撃開始したが、練度不足でなかなか命中せず逆にフランス艦隊集中砲火浴び艦橋炎上した。更に、右舷側に浸水起こした上、射撃指揮装置燃えてしまったので戦闘不能となり撤退開始したが、火災消火しきれず同日16時40分に横転擱座僚艦スリ・アユタヤ以下の第1戦隊到着したときには戦闘終結しており、生存者救助して撤退した一方フランス艦隊は1隻の損失無く帰還開始タイ空軍攻撃を行うも、最初トンブリ誤爆その後ラモット・ピケ攻撃する命中弾はなかった。 結局索敵砲撃精度技量の差がそのまま勝利つながりタイ海軍技量不足を見せてしまい、フランス側の「ワン・サイド・ゲームとなってしまった。

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ベラ湾夜戦」の記事における「戦闘経過」の解説

8月6日0時30分、5隻(川内第三水雷戦隊司令官伊集院大佐〕、萩風〔第4駆逐隊司令杉浦嘉十大佐〕、嵐、江風時雨第27駆逐隊司令原為一大佐〕)はラバウル出撃した。偽装航路取ったのち、ブーゲンビル島東方南下した後の午前9時30分、ブカ島近海川内駆逐艦解列した。川内ブインへ、コロンバンガラ輸送隊輸送隊萩風、嵐、江風〉、警戒隊〈時雨〉)はコロンバンガラ島へと向かう。日本の上空直衛は天候不良のため取止めとなったが、米軍側は大型爆撃機コロンバンガラ輸送隊発見している。 夕刻輸送隊警戒隊は単縦陣萩風旗艦〕、嵐、江風時雨)を形成した30ノット速力持ってベラ湾に入る。単縦陣最後尾四番艦)を航行していた「時雨」は敵艦隊の出現予期して三番艦との距離を1,000メートル開き、砲の照準を5,000メートルに、魚雷深度を2メートルに、射角20度に設定した時雨第27駆逐隊)の報告によれば当日天候曇り視界50008000mで、東方は特に視界不良だったという。 一方、第31.2任務群は偵察機からの「東京急行出発」の報を受け、9時30分にツラギ島出撃するコロンバンガラ島南西方からベラ湾入り探知発見避けるためにコロンバンガラ島西部海岸ぎりぎりに航行する。やがて第12駆逐群は北上して速力15ノット落とし、第15駆逐群はUターンしてコロンバンガラ島西岸沖で待機した。ムースブルッガー中佐は、ルンガ沖夜戦クラ湾夜戦魚雷艇隊の夜間襲撃における味方失敗の轍を踏まぬよう、わずかな光すら見せる事がないよう発砲制限徹底させた他、魚雷発射管には光除けカバー装着させていた。2133分、ダンラップのレーダーコロンバンガラ輸送隊探知する。3分後、ムースブルッガー中佐は第12駆逐群に魚雷発射命じる。同時に15駆逐群に西方への移動命じコロンバンガラ輸送隊に対して丁字戦法態勢とらせた。第12駆逐群は63秒間隔で三艦合計24本の魚雷発射した後、面舵針路をとって姿を消したコロンバンガラ輸送隊31019海里方向に「巡洋艦二隻 駆逐艦三隻」からなる敵を発見したが、その直後、第12駆逐群から発射され魚雷萩風、嵐、江風それぞれ2本以上命中し江風轟沈して、萩風と嵐は航行不能陥ったコロンバンガラ輸送隊雷撃により立ち往生するのを確認した15駆逐群は、頭を押さえる形で一斉に砲門を開く集中砲火浴びせかけられ萩風と嵐は、まもなく沈没した日本側3隻(萩風、嵐、江風)が爆発する様子はまるで「仕掛け花火のような壮観さ」であり、また、コロンバンガラ島隔てたクラ湾行動していた魚雷艇員の回想では「火山爆発」を思わせるようなものであったという。 時雨アメリカ側駆逐艦発見後面舵転舵して魚雷発射したが、命中した魚雷はなかった。その時にも、第12駆逐群が発射した魚雷のうち3本到達し、2本は艦底通過していった。また魚雷1本が舵に命中して穴を開けたものの爆発しなかった。魚雷を8本発射した時雨は、煙幕展開して一旦退却した。約30分後、次発装填後に戦場戻ってきたものの「状況極めて不利」と判断し避退した。モースブラッガー中佐指揮下の米駆逐艦3隻は時雨追跡した逃げ切られベラ湾に戻ると6隻で45分間にわたり日本軍生存者救助おこなった逃げ切った時雨ブイン輸送終えた川内6日2130ブイン着、7日0030出発)と8月7日午前8時ころ合流した後、14時30分にラバウル帰投した。 アメリカ側駆逐艦6隻で魚雷合計34本を発射し推定6~8本が命中した日本側生存者は、萩風と嵐が各70名・江風40名(合計190名)、陸兵120であった萩風と嵐の乗員はともに178名(嵐水雷によれば182戦死)が、江風乗員169名が戦死した輸送隊指揮した第4駆逐隊司令杉浦嘉十大佐萩風駆逐艦長馬越正博少佐ベララベラ島たどりつけたが、嵐駆逐艦長岡幸七中佐ベララベラ島へ向かう途中溺死した江風駆逐艦長柳瀬善雄少佐戦死したまた、コロンバンガラ輸送隊乗せていた増援部隊940名のうち820名が戦死して輸送は完全な失敗終わった時雨は「駆逐艦3隻、魚雷艇飛行機包囲攻撃受けた」と報告する。また反撃により駆逐艦1隻大破報じ日本側の大本営発表では「飛行機魚雷艇協同する水雷戦隊交戦し駆逐艦1隻を撃沈、わが方もまた駆逐艦1隻沈没、1隻大破」とする。ただし、第31.2任務群に全く被害はなかった。 増援部隊壊滅の報を受けた陸軍側は、ムンダ防衛事実上放棄してコロンバンガラ島防衛強化重点を置くよう命令した日本側生存者が大発動艇などでブイン到着したのは、8月25日であったという。第4駆逐隊司令から報告受けた大本営は、連合軍レーダー活用、優秀駆逐艦かわりに輸送作戦投入する高速輸送艦開発認識している。キスカ島撤退作戦終えて瀬戸内海帰投していた島風型駆逐艦島風第二水雷戦隊所属)も、僚艦と共に電探射撃研究実施次期作戦備えた

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戦闘経過

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セント・ジョージ岬沖海戦」の記事における「戦闘経過」の解説

第二回ブカ島輸送第一回輸送と同じ顔ぶれ行われ11月24日1330分にラバウル出撃した。輸送隊天霧陸兵291名と海軍要員2名、物件12トン軍犬15匹、夕霧陸兵303名と海軍要員2名および物件10.4トン卯月陸兵316名と物件10.5トンそれぞれ載せ輸送物件甲板上に搭載して大発曳航しながらの航行であった2049分にブカ島到着し陸兵輸送物件降ろし引き揚げ陸兵21名と海軍要員688名、捕虜1名を収容する警戒隊は沖合い敵襲備えていたが、2224分に魚雷艇群を発見して交戦し、これを追い払う2245分収容終えた輸送隊ブカ島離れ警戒隊が輸送隊の3海里から4海里先を航行してラバウル向かった輸送隊速力24ノット、月はなく、スコール時折ふる暗夜だったという。 アメリカ軍がいつ日本側の動き察知したのかは定かではないが、11月24日午後までには第3艦隊情報部が「東京急行」の動き察知し参謀無線連絡ニュージョージア島とアルンデル島(英語版)の間にある泊地燃料補給中の第23駆逐部隊呼び出し、以下のような指令発した31ノット・バーク、ブカ - ラバウル撤退線を横切れ・・・・・・敵が探知した場合は、貴官はなすべきことを知っているはずだ — E・BポッターBULL HALSEY/キル・ジャップス! ブル・ハルゼー提督太平洋海戦史415ページ 参謀は、再三わたって31ノット出せる」と報告していたバーク大佐をからかうつもりでバークの名前の前に31ノット」を付け加えて31ノット・バーク」と命名し電文発信し、「31ノット・バーク」は以後バーク大佐愛称として広く知れ渡る事となる。また、バーク大佐にとってもこの迎撃戦一つ機会であった。これよりさかのぼる事約3ヵ月半前、バーク大佐ポエニ戦争でのシピオウ・アフリケイナスの戦法に範を得て日本海軍夜戦戦術対抗できる戦法練り上げていた。しかし、この戦法引っさげて戦いに望む前に一時的に駆逐艦から離れる事となってその機会を得なかった。直後起こったベラ湾夜戦では、後任フレデリック・ムースブラッガー中佐バーク大佐戦術理解して戦い完勝劇を収めた。ここに、自ら考案した戦法を自ら駆使する機会到来したのである。第23駆逐部隊15時30分に泊地出撃して30ノット速力ブカ島西方急行する。ところが、全艦の給油完了しないうちに司令受けて出撃したため可動全力出撃とはならなかった。また、攻撃失敗した時に備えて魚雷艇群を先行させた。警戒隊が2224分に発見して交戦した魚雷艇群とは、この先回りしていた魚雷艇群のことである。 23時41分、第23駆逐部隊中のバーク大佐直率の第45駆逐群は、警戒隊の2隻をレーダー探知する続いて23時56分、バーク大佐指揮下のチャールズ・オースバーン、ダイソン、クラクストンに警戒隊の側方から魚雷発射させて避退する。後続オースティン中佐の第46駆逐群は、頃合見計らって砲撃できるよう態勢完了している。一方警戒隊と輸送隊は、第23駆逐部隊になんら気づくことなく直進続けていたが、輸送隊からは先行する警戒隊の姿は全く見えなかった。11月25日0時2分、第45駆逐群から発射され魚雷は、バーク大佐の「計算したとおりの魚雷到達点」にさしかかった警戒隊を襲い3本命中大波0時6分早くも沈没して巻波も約20傾斜する。そこに第46駆逐群が襲い掛かり集中砲火浴びた巻波も1時ごろに沈没していった。巻波沈没寸前魚雷発射しそのうちの1本はコンヴァース命中した不発だった。 日本軍輸送隊天霧夕霧卯月)を指揮していた山代大佐は、前方火柱上がるのを見て面舵針路をとらせ戦闘配置令する天霧水雷長は「湾外に出て味方警戒隊(大波巻波)と思ってそれらしい艦影接近したら、敵駆逐艦だったので驚いた」と回想している。輸送隊は「旧式の我々を、精鋭夕雲型駆逐艦2隻が護衛している」「ラバウル目の前セントジョージ岬沖まで敵駆逐艦が来ることはあるまい」と考えており、予想外会敵浮き足立って北方へ返針し逃走図ったバーク隊は二手分かれて挟み撃ちしかけようとしたが、追撃戦のため魚雷発射できなかった。それでも最新鋭駆逐艦(米側)と旧式駆逐艦日本側)の性能差により、徐々に距離が縮まる。輸送隊0時30分頃から第45駆逐群からの砲撃を受ける。煙幕を張るなどをして逃走を図るうちに卯月西方避退し、夕霧反撃出て発砲閃光目標魚雷9本を発射する天霧水雷によれば、第11駆逐隊司令より「右魚雷同航戦」の命令があって準備をしていたところ、後続夕霧面舵転舵して解列したという。魚雷命中爆発したように見えたが、間もなく集中砲火受けた夕霧後部から沈み始め、1時30分頃に沈没した航跡との衝撃魚雷が早爆したもの思われる夕霧反転により、天霧卯月バーク部隊との距離を稼いだ卯月不発弾1発が命中したが大事無く、2時30分に天霧合同し5時30分ラバウル帰投した。バーク大佐は2時5分頃まで残敵掃討行っていたが、日が昇ってからのラバウルからの空襲警戒して引き揚げた。

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PQ18船団」の記事における「戦闘経過」の解説

ドイツ軍手強い攻撃隊として、第26爆撃航空団42機のHe111雷撃機と、35機のJu 88急降下爆撃機指し向けることとした。彼らは護衛艦艇を圧倒するために、雷撃機爆撃機同時に攻撃する戦術を採った。Uボート密かに船団の後を追い始めたそのうち一隻、U-88はスピッツベルゲン島南方沖で駆逐艦フォークナー撃沈された。 9月12日に、PQ-18船団ドイツ軍飛行艇BV138に発見されその日遅くまでに8隻の船がドイツ軍雷撃機により撃沈された。次の日、ドイツ軍空襲行ったものの、ハリケーン迎撃を受け、5機を失ったため攻撃中止し引き返した。なおハリケーン友軍艦艇誤射を受け3機が撃墜されてしまったが、パイロット救助された。 次に犠牲になったのはタンカー・アセルテンプラーだった。14日雷撃を受け、放棄された。その後空襲は、ドイツ軍20機以上の犠牲支払わせる事となった。船団コラ海峡差し掛かった時にUボートから攻撃受けた。U-408によって3隻の商船沈められたが、護衛隊もU-457とU-589を撃沈した。さらに2隻の商船が、ムルマンスク港内空襲によって沈められたため、船団合計13隻の船舶失ったことになる。 ティルピッツ結局出撃する事はなく、ハンプデン隊は9月14日一度パトロール行ったのみであった。彼らは装備機のうち23機のハンプデンソ連残しイギリスへ帰国した

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マリアナ諸島空襲」の記事における「戦闘経過」の解説

一航艦は、2月22日陸攻11機による2段構え索敵行い、うち1機がテニアン島東方450海里(約830km)の地点アメリカ機動部隊発見成功した淵田美津雄一航艦参謀は、一航艦は進出間もなく準備不足であることや護衛戦闘機不足していることをふまえ、退避による温存進言した。しかし、角田中将は見敵必戦主義から現有全力による反撃命じた22日夜、761空などに属す陸攻34機による夜間攻撃隊が、3次分かれてテニアン基地から発進したが、戦果無く15機を失ったまた、翌日黎明攻撃備えてサイパン島所在艦爆10機をテニアン夜間移動させたが、着陸事故で6機が飛行不能となった他方テニアン所在輸送機4機はグアム避難させた。 2月23日未明角田中将は、一航艦ほか所在基地航空隊をかき集め陸攻11機・艦爆6機・艦偵6機・夜戦5機・戦闘機17機による黎明攻撃を行わせた。しかし、陸攻9機未帰還など大きな被害出し戦果無かった戦闘機は直衛を担当する予定であったが、実施状況不明である。 アメリカ軍は、23日早朝から正午過ぎまで、サイパン島テニアン島中心にしたマリアナ諸島一帯3次渡って空襲した。日本軍機はグアム避難した輸送機含め72機が地上撃破され、攻撃掩護迎撃戦合わせて戦闘機18機が撃墜被弾不時着失われたアメリカ側損失は6機である。在泊艦船攻撃目標となり、戦史叢書によると特設駆潜艇など11隻の艦船沈没したアメリカ海軍式年表によると、第58.2任務群の空母エセックス」「ヨークタウン航空隊サイパン貨物船松安丸」(松岡汽船:5624総トン)を撃破、第58.3任務群の「バンカー・ヒル航空隊テニアン貨物船聖山丸」(宮地汽船:4232総トン撃沈サイパン北方特設砲艦Eiko Maru」(日本資料では該当不明撃沈となっている。 脱出試みた日本艦船待ち伏せ潜水艦餌食となり、戦史叢書によると貨物船2隻が沈んだアメリカ側記録によると、潜水艦サンフィッシュ」は23日空母ヨークタウン搭載機協同貨物船「新夕張丸」(三井船舶:5354総トン)を撃沈、「タング」が22日特設砲艦福山丸」(会陽汽船:3581総トン)、23日特設工作艦山霜丸」、24日貨物船越前丸」(大阪商船:2424総トン)と特設給糧艦長光丸」(日魯漁業:1794総トン)を撃沈している。 アメリカ第58任務部隊は、空襲1日だけで終えると帰路就いた日本軍も、トラック島から発進した偵察機により機動部隊撤退確認し警戒解いた

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寺泊沖海戦」の記事における「戦闘経過」の解説

7月10日旧暦5月21日)、「第一丁卯丸」と「乾行丸」は新政府軍支配下直江津港入港した。翌7月11日旧暦5月22日)、新政府軍艦隊陸戦支援のため直江津出撃し、7月13日旧暦5月24日)に出雲崎寄港した際に旧幕府軍艦寺泊港停泊中との情報知った。そこで、新政府軍艦隊は、寺泊幕府艦に対す先制攻撃決心した7月13日旧暦5月24日午前7時ころ、新政府軍艦隊寺泊沖へ到達した艦隊出現に気づいた「順動丸」は、機関始動し出港した新政府軍側の記録によれば順動丸」は逃走しようしたもの思われるが、「順動丸」は味方艦隊間違えて出迎え向かったとの説もある[要出典]。港外待ち構えた新政府軍艦隊は、「乾行丸」が「順動丸」の前方を遮る一方、「第一丁卯丸」は後方回り込んで包囲試み大砲による威嚇射撃行ったうえで砲撃戦開始した砲弾は「順動丸」の船首外輪命中した。「順動丸」も大砲3発を「乾行丸に対して応射したが、手前外れた損傷した順動丸」は反転し海岸に自ら擱座した。会津藩士の一柳幾馬・雑賀孫六郎ら乗員150人は、船体放棄して上陸した乗員陸上駐屯部隊は、会津20人ほどを除いて弥彦向かって撤退した新政府軍艦隊は「順動丸」に接近して拿捕しようとしたが、暗礁多く危険なため断念した新政府軍陸路からも部隊派遣して順動丸」の拿捕試みた。「第一丁卯丸」が出雲崎戻って連絡し新政府側の加賀藩高田藩与板藩兵が出動したものの、山中避難していた住民旧幕府側の有力な伏兵誤認して退却してしまった。新政府軍艦隊引き続き洋上停泊して順動丸」の監視にあたり敵陣狙って艦砲射撃実施した。 翌7月14日旧暦5月25日)昼ころ、「乾行丸乗員寺泊上陸して旧幕府側に協力した住民処罰する旨の布告掲示した同日午後2時ころ、「順動丸」は搭載弾薬爆発起こして沈没した出火原因不明であるが、鹵獲免れるために自爆した推定される7月15日旧暦5月26日)に新政府軍艦隊七尾港撤収した新政府軍艦隊連日作戦行動燃料不足に陥っていたが、新政府側の柳河藩輸送船「千別丸」の七尾港到着により石炭補給を受けることができた。

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コロネル沖海戦」の記事における「戦闘経過」の解説

9月26日から10月3日までドイツ東洋艦隊マルケサス諸島ヌクヒバ島留まり補給行った10月12日ドイツ東洋艦隊イースター島到着し、そこでエムデン同型艦である防護巡洋艦ドレスデン合流した10月14日には、海戦メキシコ沖にいた防護巡洋艦ブレーメン級ライプツィヒ合流した10月18日ドイツ艦隊イースター島離れた一方イギリス海軍クラドック少将麾下装甲巡洋艦グッドホープ」と「モンマス」、防護巡洋艦グラスゴー」、旧式なカノーパス級戦艦「カノーパス」、仮装巡洋艦オトラントからなる艦隊ドイツ艦隊捜索当てていた。クラドック少将新型装甲巡洋艦ディフェンス」の増援要請していたが、実現しなかった。 11月1日、両艦隊チリコロネル沖で交戦したイギリス戦艦カノーパスは低速のため別行動をとっており、合流命令受けた海戦には間に合わなかった。 16時17分、シャルンホルストイギリス艦隊の煙を発見したドイツ艦隊イギリス艦隊風上となる東の陸地側に位置したイギリス艦隊ドイツ艦隊西側位置し太陽を背にしてドイツ艦隊照準妨げようとしたが、日が沈むと逆に残照イギリス艦隊艦影浮かび上がってしまう一方ドイツ艦隊背景陸地溶け込んで照準しにくくなった。1840分に戦端開かれ戦闘はすぐに一方的な展開となったグッドホープ開戦間もなく司令塔付近に被弾して指揮系統喪失し1957分に沈没クラドック少将戦死した最初に被弾し時点クラドック少将死亡もしくは人事不省に陥っていたと考えられている。その後モンマス沈没グラスゴー逃走した客船改装戦力乏しオトラントは、他のイギリス艦の戦列陰に位置し戦闘避けて逃走した。 この海戦シュペー艦隊の完全な勝利終わった。だが、この後シュペー艦隊1914年12月8日フォークランド沖海戦巡洋戦艦2隻を含むイギリス艦隊交戦し壊滅する

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稷山の戦い」の記事における「戦闘経過」の解説

忠清道平定担当する日本右軍主力毛利秀元(兵約25000)、加藤清正(兵約10000)、黒田長政(兵約5000)及び軍監太田一吉竹中重利の五将は兵40000余人率い8月29日全州発して北進9月初旬公州に至る。初め明将陳愚衷全州捨てて逃走する提督麻貴漢城より遊撃牛伯英を遣わし赴援させた。牛伯英は陳愚衷と兵を合わせ公州駐屯していたが、日本軍全州発して大挙北進するのを聞くと蒼黄となり漢城退却したここにおいて日本軍抵抗を受けることなく公州占領する日本軍公州において路を分かち加藤太田の2隊は右方進み燕岐経て9月6日清州到り、秀元は黒田隊を以って先鋒為し全義経て同日天安到った漢城においては明の経理楊鎬9月朔日平壌より来り麻貴促し出で日本軍前進阻止しようとした。麻貴乃ち水原到り副総兵解生、遊撃牛伯英、楊登山、頗貴の4将をして精騎2000率い6日稷山に向かわせた。朝鮮朝廷もまた李元翼をして兵を率い竹山方向下り清州路を扼し以て明軍左翼警戒させた。 9月7日未明黒田長政部将黒田直之栗山利安先鋒若干の兵をまず前進させた。直之らは稷山一里ほどまで前進し日の出と共に敵兵山野充満し近迫する様を見る。諸将軍議開いて進退議論した毛屋武久が「敵は多く我は少なし。我若し一歩を退かば彼必ず追撃し我兵殲きん死は一なり寧ろ進んで死する若かず且つ我兵一致団結して奮進すれば必ず敵の一部突破せん。我その機に乗じ退却すれば或は軍を全うするを得ん。是れ武田勝頼長篠の敗後に攻勢出て敵の追撃遅緩ならしめたる故智なり」と発言すると、諸将もこれを然り為し乃ち歩率をして斉しく銃射せしめ士卒硝煙中より喊声発して突撃する明軍大い驚き防戦短時間破れ退く。直之等これを機とし兵を収めて退く。時に長政遥かに銃声先鋒方向聞き麾下3000率いてこれに馳せる先鋒の兵敵に追躡せられ其勢は甚だ危うし黒田一成曰く先鋒がもし敗れたならば我が本軍もまた恐らくは支え難からん是れ吾が死所なり。」と手兵を以て敵を側撃する。後藤基次一高地を占領し其部兵を馳駆せしめ、以て敵をして我衆寡を測らさしめ、且つ先鋒兵に声援する。一成遂に先鋒の兵を収容して還る長政戦場到着する直ち東方高地上がって自ら敵情偵察し乃ちその隊の部署改め右備一番隊母里友信栗山利安黒田利高をこれに任じ井上九郎兵衛野村市右衛門二番隊としてこれに次き、左備一番隊後藤基次黒田一成がこれに当り黒田直之桐山孫兵衛二番隊としてこれに次く。長政は自ら爾餘の兵2000人を率いて本隊たり。時に明将解生等が水原より到来する遊撃擺寨、千総盆喬、把総劉遇節等2000人の援軍得て再び兵気回復して攻め寄せた両軍末院の野に戦い奮闘数合にして勝敗未だ決せず毛利秀元天安在り稷山の戦急なるを聞き乃ちその兵を率いてこれに赴援先鋒の将宍戸元続吉見広行等に先ず進ませた。元続等急駆してこれに赴き黒田隊を助けて敵の側背突撃する明軍遂に大い敗れ水原方向に退く。時正午後3時を過ぎ、故に日本軍敢えて追撃せず兵を収めて天安還る。この日の戦闘日本軍戦死黒田29人、明軍戦死200餘人

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紀州征伐」の記事における「戦闘経過」の解説

高野山側は伊都那賀有田郡領内武士総動員し軍師橋口隼人中心に高野七砦」をはじめとする多数の砦を築いた。そして西の麻生津口と北の学文路口を特に重視して麻生津口に南蓮上院弁仙(遊佐信教の子)、学文路口に花王院快応(畠山秋高の子)を大将として配置した。また学侶方老練の僧が交替護摩焚き信長降伏祈祷行った天正9年10月織田勢は紀ノ川北岸一帯布陣し総大将織田信孝鉢伏山背山)城(現かつらぎ町)に本陣構えた根来衆織田方として動員された。織田勢と高野勢は紀ノ川挟んで対峙するになったが、なお交渉継続しており、同年中は目立った戦いはなかった。 天正10年1582年1月信長松山新介多和現・橋本市)に派遣する松山多和築城し、2月初頭には盛んに九度山方面攻撃仕掛けた同月9日信長武田攻め当たって筒井順慶以下大和衆に出陣促した同時に大和衆の一部河内衆は残留して高野山抑えとなるよう命じた14日高野勢は多和並びに筒井勢 の守る大和口の砦を攻撃同月末、織田方の岡田重孝らが学文路口の西尾山の砦を攻めた部将2人失って撃退される3月3日高野50余人多和城を夜襲して損害与えた10日早朝織田勢は夜襲報復として寺尾壇の砦を攻撃城将医王院討死するも寄手損害大きく撃退された。4月初め織田信孝四国攻め大将任命されたため転任同月織田方の竹田藤内らが麻生津口飯盛山城(現紀の川市)を攻撃した高野勢は大将蓮上院弁仙と副将橋口隼人らがこれを防ぎ竹田ら四将を討ち取り甲首131挙げる勝利を得た6月2日夕刻至って高野山本能寺の変情報が届く。まもなく寄手撤退開始し高野勢はこれを追撃し勝利した高野山危機脱し8月21日には恩賞が行われた。

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崑崙関の戦い」の記事における「戦闘経過」の解説

12月16日崑崙関の松本大隊(歩兵第42連隊第2大隊前面高地陣地工事を行う中国兵が姿を現し戦車14両や山砲確認された。12月17日夜、中国軍攻撃開始した。翌18日には戦車3両が接近し松本大隊はその先頭車(中隊長車)を擱座させた。 12月18日増援のため歩兵第21連隊三木吉之助大佐)が南寧から崑崙関へ派遣された(連隊本部は九唐)。松本大隊を指揮下に入れた連隊は、19日から攻撃開始したが、前面両翼高地から中国軍包囲され戦車前進してきたため攻撃頓挫してしまった。そのうえ、後方連絡線五、六、七唐付近)が中国軍遮断されたため、追及中の部隊包囲され補給受けられなくなった三木部隊歩兵第21連隊)は攻撃1日目で完全に孤立した12月19日中国軍崑崙関方面だけでなく、南寧北方大高峯隧にも、戦車4両、砲数門をともなった約1,000人で攻撃加えてきた。歩兵第41連隊納見敏郎大佐)が出撃し、20日払暁南北から敵を不意急襲して潰走させた。以後中国軍この方面では特に動き見せなくなった12月20日今村中将中村正雄少将指揮する中村支隊歩兵第42連隊歩兵2個大隊)を九唐へ派遣させた。中村支隊は五唐付近中国軍前進阻止され、その撃退後も残り25キロ道のりは困難をともなった12月21日中国軍兵力増やしながら三木部隊包囲圧迫し連隊本部のある九唐部落内にも中国兵侵入していた。三木部隊弾薬欠乏したため、空中補給要請した日本海軍機3機が八唐付近弾薬投下したが、敵の重囲下にある地上部隊回収できなかった。一方中国空軍機は反復して日本軍への対地爆撃繰り返していた。夜になると、中国軍栄誉第1師が戦車と共に最北端陣地日本名三角山)へ来襲し、その一角占領した陣地守備隊銃剣竹槍応戦していたが、全員死傷したためついに陣地陥落した終夜第一線両軍入り乱れて錯綜状態で、中国兵同士討ちするほどの混戦となった12月22日台湾混成旅団塩田定七少将今村中将兵力派遣申し出た今村中将はこの申し出を受け、12月23日台湾歩兵第1連隊林義秀大佐)は南寧出発した。七唐付近前進中の中村支隊長は左頬に貫通銃創を受け、応急手当受けて前進再開した三木部隊では食料弾薬もほとんど無くなり弾薬無くなった迫撃砲地中埋められた。中国軍三角山砲兵観測所前進させ、日本軍陣地重砲各種火砲正確な猛射おこなった連隊本部付近に迫撃砲砲撃集中し軍旗の奉焼も準備された。また、左翼陣地日本名田村山)にも中国兵殺到し日本軍西側防衛線は崩壊寸前となった南寧今村中将は、九唐方面決戦を行うことに決め竜州及川支隊急いで南寧帰還するよう命令した12月24日中村支隊前夜から七唐付近強行突破し九唐に到着出発から5日目三木部隊合流したまた、部隊台湾歩兵第1連隊)は六唐に到着し付近敵陣地を攻撃した。しかしこの日、中村支隊長は九唐西側高地敵情視察しているところを、敵の狙撃受けて腹部貫通重傷負った夜になると中国軍重砲迫撃砲集中射撃始まったが、その砲撃下で中村支隊長の手術が行われた。しかし、手術終了後医薬品の不足などから容態悪化止められず、翌25日朝に中村正雄少将戦死した田村山には、砲撃に膚接して千人上の中国兵手榴弾投げながら突入し、やがて白兵戦となった田村山の守備隊は、これまで20回以上敵攻撃撃退し残り38となっていたが、12月24日ついに全員戦死した12月25日坂田一大佐(歩兵第42連隊長)が九唐へ到着し全部隊は坂田大佐指揮下に入った中国軍機は南寧爆撃しつづいて九唐にも対地攻撃行なったため死傷者出た夜になり機関銃弾6発、小銃弾4発を持った部隊到着し日本軍前線戦力回復した26日27日には中国軍数度夜襲行ったが、日本軍撃退された。12月28日には、台湾混成旅団から派遣され台湾歩兵第2連隊渡辺信吉大佐)と部隊が、九唐の坂田部隊合流した12月28日夜、中国軍北東端の高地日本名日の丸高地)に反復攻撃をかけ一角占領した。翌12月29日には、砲撃と共に1,500上の中国兵押し寄せ、わずか1個小隊のみが守備していた日の丸高地とその隣の津田山高地奪取した。この夜、鹿地亘らの日本人反戦同盟が、両高地に拡声マイク据え反戦放送開始した12月30日中国軍兵力増加させ、午後に戦車伴った中国兵4,000~5,000人が、一挙に日本軍押し潰そうと一斉に前進してきた。敵の榴弾砲野山砲が的確なのに対し弾薬撃ち尽くしていた日本軍は敵砲兵陣地見えていても為す術がなかった。三木連隊長坂田支隊長(旅団長代理に対して戦線整理し今村兵団攻勢が始まるまでは兵力温存させることを具申した崑崙関を堅持しようとすれば全滅覚悟しなければならないため)。こうして崑崙関の放棄決定され日本軍部隊は、12月31日の朝までに九唐の陣地(1~2キロ後方)へ後退した。この時、既に埋めていた野砲兵第5連隊野砲改造三八式野砲)3門は掘り出して運ぶことができず、ついに埋めたまま後方集結しなければならなかった。こうして、日本軍は九唐の戦線1940年昭和15年)を迎えた

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戦闘経過

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蜀漢の滅亡」の記事における「戦闘経過」の解説

263年5月、魏皇帝曹奐勅令下され実質司馬昭命令考えられる)、秋(後主伝では夏)、蜀漢討伐開始された。鄧艾が兵3万余率い甘松・沓中に駐屯している姜維攻撃し諸葛緒が兵3万余率い武街・橋頭武都高楼)に進発前後から姜維挟撃することとなったまた、鍾会は兵10万余を率い漢中攻撃することとなった姜維は魏の蜀漢攻撃察知すると、蜀漢皇帝劉禅援軍要請した。しかし黄皓占い信じて敵は攻めてこないと考え劉禅姜維援軍要請無視するように進言した。そのため援軍出動は遅れ、鍾会が駱谷に、鄧艾が沓中に侵入しようとする時になって初め廖化張翼董厥らを援軍として派遣した姜維鍾会漢中攻め入ったのを知ると、後退しようとした姜維後退時鄧艾部将楊欣らの追撃を受け、戦った敗れた。さらに姜維諸葛緒退路塞がれそうになったが、退避行動取ったことにより、諸葛緒軍を回避することに成功した蜀漢護軍蔣斌漢城監軍王含楽城それぞれ5000人の兵で守られていたが、鍾会前将軍李輔護軍荀愷それぞれ1万人の兵を与えて漢城楽城攻めさせ、胡烈陽安関を襲撃させた。これに対して蜀漢蔣舒胡烈陽安関を開け渡して降伏し蔣舒同僚傅僉戦って戦死した陽安関を落とした鍾会だが、漢城楽城を落とすことはできず、迂回して長躯剣閣へと軍を進めた。さらに子午道からは、魏興太守劉欽が兵を指揮して黄金駐屯する柳隠攻撃したがこれも降すことができず、劉欽黄金より先へは進軍できなかった。 このときになってようやく張翼董厥陽安関より南にある漢寿にたどり着き陰平より撤退してきた姜維廖化らと合流して引き退き剣閣守備することとなった鍾会剣閣攻めた制圧することができず、また補給線長くなり補給が困難となったため、撤退することを考えようになったこのため鄧艾剣閣迂回するという奇襲作戦提案した。そこで冬10月鄧艾鍾会部下田章剣閣迂回し陰平より非常に険阻な土地700余里を横断し江油の手前で蜀軍伏兵3部隊を破り、守将の馬邈降して江油制圧した。このとき鄧艾迎撃の命を受けた諸葛瞻は涪に駐屯しており、黄崇速やかに進軍し要害の地を固め、敵を平地入れないように何度も進言したが、諸葛瞻状況を伺うばかりで軍を進めようとせず、結局綿竹まで軍を引き、江油を失うこととなった同月、呉に蜀漢から救援要請が来た。そこで呉の孫休は、魏を牽制するために丁奉に魏の寿春を、丁封孫異に沔中を攻撃させ、留平施績にもどこへ出兵する協議させた(『呉書』「孫休伝」)。 さらに鄧艾進撃して、諸葛瞻が守る綿竹攻めることとなった鄧艾鄧忠師纂派遣して諸葛瞻攻撃させたが、破ることができずに敗退退却してきた鄧忠師纂鄧艾対し勝利不可能」と言ったが、鄧艾鄧忠師纂叱り付けて、再び鄧忠師纂派遣して諸葛瞻攻撃し、ついに勝利し諸葛瞻張遵黄崇らを討ち取った。 冬11月諸葛瞻討たれたことを知った劉禅は、譙周勧め従い鄧艾降伏し蜀漢滅亡した。また剣閣守っていた姜維らは諸葛瞻敗れた聞くと、5万人前後の兵の指揮執り広漢まで退いたが、劉禅命令受けて鍾会降伏した。また魏軍が降せなかった最前線漢城蔣斌楽城王含黄金柳隠らも、劉禅命令により開城降伏した264年3月劉禅洛陽移り安楽県公に任命された。この頃劉禅配下霍弋が6郡の太守大将率いて、魏に降伏した

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アイタペの戦い」の記事における「戦闘経過」の解説

1944年6月日本軍は、ドリニュモール川河畔日本軍呼称川中島)での戦闘予定し前進開始した参加兵力35000人のうち20000人だけを戦闘要員として安達中将率い、残る15000人(本来の輜重兵7000人のほか第41師団主力など)は物資輸送充てられた。しかし、作戦実施のための前線へ物資輸送は全く進捗せず、自動車道路構築試みられたが、雨期のため実用不可能であり、大発動艇などの各種舟艇用いた海上輸送航空機魚雷艇攻撃により、困難を極めた。また連合国軍は、オーストラリア海軍重巡オーストラリア』と軽巡2隻を基幹とする第74任務部隊により、6月14日から24日にかけて日本軍兵站線艦砲射撃行い、それと並行して激し空襲行った。そのため、日本軍物資前送や、後続部隊の移動はさらに困難となった。それでも、日本軍第20師団先鋒前進しアメリカ軍前哨拠点撃破しつつドリニュモール川まで10km迫った7月10日2130分、物資集積不十分なまま、日本軍はドリニュモール川の渡河攻撃開始したなけなしの砲弾による10分間準備射撃の後、第20師団歩兵237連隊(第41師団所属)が河口から3km上流渡河点を渡河前進した。この時点川沿いアメリカ軍は3個大隊過ぎず日本軍渡河点を守っていた第128連隊第2大隊陣地突破して食糧などを鹵獲した。日本歩兵237連隊アメリカ軍海岸圧迫第20師団上流側旋回して川沿いのアフア陣地包囲した緒戦戦果に、第18軍司令部ではうまくいくかもしれないという期待広がったアメリカ軍の第32師団副師団長防衛ラインを西に移動しようとしたが、クルーガー少将はドリニュモール川の防衛ライン維持決定した7月13日以降アメリカ軍増援続々戦場へ到着し河畔において両軍激し戦闘となった日本軍重火器わずかに山砲20程度であったのに対しアメリカ軍主力とする連合国軍戦車200門以上の火砲有し航空支援もあって優勢だった15日にはアメリカ軍渡河点を奪回し日本歩兵237連隊川向こう取り残されてしまう。17日日本軍歩兵239連隊渡河点の再奪取試みるが撃退され歩兵237連隊22日までに壊滅状態となって対岸から撤退した日本軍は、第41師団後続部隊とアイタペ突入用の予備隊だった歩兵第66連隊投入した両部隊はジャングル内を南に大きく迂回して8月1日からアフア陣地攻撃開始した。アフアのアメリカ軍歩兵日本軍引きつけ激しく応射した後に陣地放棄して後退し進出してきた日本軍陣地ごと砲撃加えと言う戦術繰り返しおこなった日本軍はアフアの戦いにおいて米軍評するところ「自己の生存を全く無視した攻撃続けたが、おびただしい戦死者出して失敗終わった8月4日日本軍の各歩兵連隊戦力100名以下にまで損耗し、アイタペの戦い投入された7個連隊生存者全て合わせても1個大隊程度人数になった第20師団歩兵第78連隊人員97%を、歩兵第80連隊95%を失い、第41師団の第239連隊は文字通り全滅となった弾薬食料尽きた態となり、安達中将作戦中止決定した日本軍撤退開始し8月10日頃までにドリニュモール川付近での戦闘終わった

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トレビアの戦い」の記事における「戦闘経過」の解説

12月18日早朝ハンニバル全軍戦闘用意をとらせると、少数騎兵対岸派遣しローマ軍野営地急襲させた。ローマ騎兵迎撃に向かうと、カルタゴ騎兵はすぐに退却開始した。ロングスは、一挙に決戦挑むべく全軍野営地からの出撃命令した対岸到着したローマ軍上記戦闘隊形をとった。 攻撃態勢整えたローマ軍前進交戦開始した事前不利な条件にもかかわらず精強ローマ歩兵カルタゴ歩兵相手優勢に戦闘進めた。しかし、両翼ではヌミディア騎兵中心とするカルタゴ騎兵ローマ騎兵圧倒。まもなく、カルタゴ騎兵ローマ騎兵撃退しローマ軍側面回りこんだ。さらにこの時、中に潜んでいたマゴ分遣隊出現しローマ軍後方襲撃した包囲されローマ軍は、圧倒的な劣勢に陥り、周辺部から損害増加させていった。ロングスは突破口探し正面ガリア歩兵に対して戦力集中させた。カルタゴ軍中央突破したローマ軍は、そのまま撤退した。しかし、およそ半数包囲下に取り残され殺される捕虜になった

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九州沖航空戦」の記事における「戦闘経過」の解説

3月18日空母12隻を基幹とするマーク・ミッチャー中将率いアメリカ第58任務部隊艦上機約1,400機が、第5艦隊司令長官レイモンド・スプルーアンス大将による指揮のもと日本近海現れ九州四国和歌山などの各地域襲った。これに対して日本軍は、宇垣纏海軍中将率い第五航空艦隊指揮下の陸軍飛行戦隊2個に属す四式重爆撃機飛龍」を含む)が反撃開始した神風特別攻撃隊含めた日本軍機の攻撃空母イントレピッド」、「ヨークタウン」、「エンタープライズ」小破した。しかし、この日、日本軍特攻機69機を含む攻撃部隊193機のうち、約8割である161機を失い、このほか50機が地上損傷受けた。さらにアメリカ軍機を迎撃した零式艦上戦闘機47機の損害出したアメリカ軍機の損害29撃墜され、2機が損傷したとどまった。 翌3月19日には、米機動部隊一部高知県室戸岬のおよそ80キロ沖にまで接近艦上機部隊は主に瀬戸内海空襲し、呉の軍港停泊中の日本水上艦艇一部攻撃軽巡洋艦大淀中破空母天城龍鳳及び戦艦榛名日向巡洋艦利根小破するなどの被害出た詳細は「呉軍港空襲#319日」を参照 これに対し日本軍は、特攻隊交えた出動可能な航空兵をもって激しく反撃室戸岬に最も近づいていた空母フランクリン」と「ワスプ」を大破させた。「フランクリン」では戦死者832名にも及んだ。「フランクリン」への攻撃は、第762海軍航空隊攻撃406飛行隊所属銀河1機の急降下爆撃よるものである。「フランクリン」は懸命応急処置により辛うじて沈没だけは免れたが、甚大な被害状況のため米本土帰還し終戦まで戦線離脱した。他の空母1隻も、しばらく戦線離脱したまた、同日には、呉軍港を空襲した米艦上機群の一部を、松山海軍航空基地展開していた第三四三海軍航空隊通称:「剣」部隊司令源田実海軍大佐指揮下の局地戦闘機紫電紫電改」約60機(3個飛行隊稼働全機)が松山周辺上空迎撃し、大規模な空中戦となった日本側は、F6Fヘルキャット戦闘機など50機あまりを撃墜した報じ日本軍損失は被撃墜・未帰還16機(偵察飛行所属艦上偵察機彩雲』のうちの1機が高知県津野町上空にて敵機体当たり自爆したのを含む)の「大勝利」と判断した。これは日本海軍航空隊最後大戦果として知られているが、アメリカ軍記録によると未帰還機・修理不能機数は日本側とほぼ同数とどまり規模大きな空戦ありがちな戦果誤認があったと見られる3月20日アメリカ軍沖縄戦備えるべく空母補給行いつつ南西進み日本反撃に耐えた。翌日3月21日、米機動部隊都井岬沖の洋上移動。ここで日本軍は初の桜花実戦投入行った。しかし、桜花15機を搭載した第721海軍航空隊所属第1神風桜花特別攻撃隊神雷部隊一式陸上攻撃機18全機が米艦上戦闘機群に捕捉され撃墜された。この日の戦闘では、日本軍戦死者160名、神雷部隊護衛零戦10前後帰還、他22機の損害出した神雷部隊指揮官野中五郎少佐は、出撃直前玉砕戦になることを予期してか「これは湊川だよ」と呟いていた。

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第2次ナルヴィク海戦」の記事における「戦闘経過」の解説

12時34分、ドイツ駆逐艦ヘルマン・キュンネがイギリス艦隊発見した。ヘルマン・キュンネはフィヨルドの奥へ後退しつつイギリス駆逐艦交戦した。ヘルマン・キュンネからの警報受けてナルヴィク港から駆逐艦ハンス・リューデマン、ヴォルフガング・ツェンカー、ベルント・フォン・アルニムの3隻が出港しイギリス艦隊との戦闘開始された。だが、両軍とも命中弾を得られなかった。 1312分、デュプヴィク湾の場所まで侵入したイギリス駆逐艦ベドウィンエスキモーはそこにいたドイツ駆逐艦エーリッヒ・ケルナーを攻撃した第1次ナルヴィク海戦後座礁して損傷していたエーリッヒ・ケルナーはそこでイギリス艦隊待ち伏せしようとしていたが、すでにソードフィッシュによって発見されていた。集中攻撃受けたエーリッヒ・ケルナーは最後戦艦ウォースパイト砲撃撃沈された。 ドイツ側駆逐艦ゲオルク・ティーレが加わり戦闘続いた1350分、ドイツ側指揮官エリッヒ・バイ中佐はロンバクス・フィヨルドへの後退命じた。だが、駆逐艦エスキモー追跡され駆逐艦ヘルマン・キュンネはヘルヤングス・フィヨルドのほうへ退却し、トロユドヴィクで海岸乗り上げた。ヘルマン・キュンネは最終的に駆逐艦エスキモー魚雷破壊された。また、これまでの戦闘駆逐艦ハンジャビも多数命中弾を受け一時的に航行不能となった。 この時になってようやく駆逐艦エーリッヒ・ギーゼが出港してきたが、イギリス艦隊集中攻撃受けて撃沈された。また、第1次ナルヴィク海戦受けた損傷航行不能となり、ナルヴィク港で停泊していた駆逐艦ディーター・フォン・レーダーも駆逐艦コサックフォックスハウンドキンバリーとの交戦大破炎上し乗員によって爆破されたが、イギリス側駆逐艦コサック大きな被害を受け、海岸乗り上げたイギリス艦隊ドイツ駆逐艦追撃してロンバクフ・フィヨルドへと進入していった。駆逐艦ゲオルク・ティーレの発射した魚雷の内1本が駆逐艦エスキモー命中し大破させたが、最終的にドイツ駆逐艦は4隻とも自沈した。

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子午の役」の記事における「戦闘経過」の解説

曹真8月長安発し曹叡親しくこれを臨送した。曹真は斜谷から南進漢中に入る予定であったが、司徒華歆は病をおして上表し、労役によって民が疲弊していること、長距離食料運搬用兵難があることを挙げ険阻な道を深入りして攻めても勝つことはできず天命を待つべきだと主張した。また司空鎮軍大将軍陳羣が斜谷の険阻さを危ぶみ上表するに「昔、張魯攻めるために陽平至った際、豆や黍などを収奪して食糧当てるのが精いっぱいで、張魯食糧欠乏しておりました今はさらに食料無く、斜谷は険阻進退難しい場所で輸送しても、必ずや断ち切られます。守り兵士多く置こうとしても、兵士損なわれしまいます熟慮をなさいますように」と述べたことから曹真本隊改め上表し子午道を経由する計画立てた陳羣また上表し子午道もまた不便な土地であり、併せて計略用いて慎重をきして軍を興すように言った曹叡陳羣言葉勅許としてくだし、曹真が子午道を通り、斜谷は征西車騎将軍張郃がこれを進み曹真本隊輔けることとなった大将軍司馬懿西城から進発漢水さかのぼり南鄭曹真合流することとし雍州刺史郭淮後将軍費曜らを従え武威郡より兵を進めそれぞれ漢中目指した。 諸葛亮は魏の大規模攻勢を知ると、漢中太守魏延即座に防備固めるように指示し赤阪等の要地を自ら固め驃騎将軍李厳に二の兵の指揮を執らせて漢中駐屯させ敵の攻撃への備えとし、李厳の子である李豊代わり江州都督にするよう上表し、後方ゆだねた魏軍先鋒の偏将軍夏侯覇が、先んじて興勢まで到達しこれを包囲し屯営屈折した谷の下に築いた蜀軍反攻して夏侯覇の軍に攻撃仕掛けると、自ら鹿角(敵の侵軍を阻む為に設置する防御兵器)の間で手づから奮戦し援軍到来した為、蜀軍から逃れることができた。 司馬懿は、西城から山を切り開いて道を作る一方で、沔遡上させ、水陸から同時に軍を進めた。朐忍に到着後、新豊県攻略し、軍を丹口に駐屯させたとされるこのころ大雨続き子午道では桟道一部崩壊し曹真本隊思うよう進軍ができなかった。後に司馬彪が『戦略』という書物語った所によると、数百進んだところで大雨にあい、閣は破壞され後軍では兵糧腐り前軍孤立して乏しかったという。 諸葛亮は魏の進軍滞っているのを知ると鎮北将軍魏延関中都督呉懿涼州羌中まで向かわせ陽谿郭淮費曜らを大破した。魏の郭沖語った故事によるとこのとき魏延らを遣わした後に、司馬懿陽平関に篭る諸葛亮の兵が少ないのを知り攻め寄せたところ、諸葛亮空城計にかかり軍を引いてしまったという話が残るが、裴松之はこれを疑問視している。 魏の朝廷では曹真長雨により進軍窮していることを知ると、華歆陳羣少府楊阜散騎常侍王粛らが曹叡に軍を引かせるよう上表したため曹叡勅許降し9月曹真全軍撤退させた。

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サールィチ岬の海戦」の記事における「戦闘経過」の解説

衝突は、11月5日11月18日)にヤルタ南西ヘルソネス半島から45 浬のサールィチ岬沖の海域発生した午前1140分、この海域には艦隊主力から3.5先行していた通報艦水上機母艦アルマース(ザーリン大佐)が大きな噴煙発見したアルマースは、発見探照燈嚮導艦知らせた同時に敵艦無線通信によって自らの姿を曝け出した向こうにゲーベンブレスラウがいた。 アルマースのあとに縦列で続く艦隊主力は、旗艦のエフスターフィイ(V・I・ガラニーン大佐)、イオアン・ズラトウーストF・A・ヴィーンテル大佐)、パンテレイモンM・I・カシコーフ大佐)、トリー・スヴャチーチェリャ(V・K・ルキーン大佐)、ロスチスラーフ(K・A・ポレーンプスキイ大佐)の5 隻の戦艦と第1・2・3水雷艦隊所属12 隻の駆逐艦から成っていた。ロシア主力艦隊は敵艦との距離を縮め一方駆逐艦隊は密集隊形取った。エベルガールトは、艦の速力14 kn増速するよう命じた30分後、アルマースは「艦首方向敵艦見ゆ」との情報を齎した。司令官の命によりアルマース友軍艦隊向かって敵艦からの離脱開始し一方遠方側面艦隊アルマースの間を航行中ロシア巡洋艦パーミャチ・メルクーリヤM・Mオストログラーツキイ大佐)とカグール(ポグリャーエフ大佐)もまもなく向き変えた。この転向はまさに時宜適ったものであった速度においてロシア巡洋艦ゲーベン著しく劣っており、もしこのとき巡洋艦戦線離脱してなければ、恐らくどれか1 隻はゲーベンによって撃破されていたであろう辺りには一面濃い立ち込めていたため、主として戦闘ゲーベンとそれを最もよく視認できたエフスターフィイの一騎討ちとなった戦隊射撃管制イオアン・ズラトウースト乗艦するV・M・スミルノーフ砲手長により指揮されることになっていたが、匍匐性とエフスターフィイの火砲吐き出す噴煙とで視界遮られ敵艦との距離を正確に算出することができなかった。これが原因となって無線は「照準60」という誤った距離を提示した。これは、正しい距離より1.5倍程長すぎるものであった。そのため、戦艦戦隊砲弾は、旗艦エフスターフィイの射撃弾を除き、すべて敵艦遙か彼方飛び去った撃ち合い14分間続いたその間ロシア艦は40 - 34 鏈の距離から30 発の主砲弾を発射したその内訳は、エフスターフィイが12 発、イオアン・ズラトウーストが6 発、トリー・スヴャチーチェリャが12 発である。パンテレイモン煙霧のため敵艦視認できず、発砲しなかった。艦隊から立ち遅れたロスチスラーフも、ゲーベンへの砲撃断念したその代わり、ロスチスラーフはブレスラウ254 mm砲弾2 発、152 mm砲弾6 発の射撃行ったブレスラウすぐさまゲーベン射撃圏内移動し、ロスチスラーフの砲弾から逃れた。 エフスターフィイの最初斉射ののち、水雷戦隊指揮官M・P・サーブリン大佐は、駆逐艦隊を率いてゲーベン水雷攻撃実施しようとした。しかし、10分後には艦隊司令官より水雷攻撃中止言い渡された。 エフスターフィイの連装砲による最初斉射は、うまくゲーベン捕らえた砲弾150 mm第3装甲砲座命中し、その装甲打ち破った砲弾爆発し砲手12 名が戦死したまた、幾人かはガス中毒引き起こし、のちに死亡した。エフスターフィイ最後砲火もまた劣らず正確であったゲーベンは、最終的に3 発の305 mm砲弾11 発の203 mm砲弾あるいは152 mm砲弾受けた一方、エフスターフィイは4 発の命中弾を受けた14分後、ゲーベンは優速を生かして戦場離脱した

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スパルティヴェント岬沖海戦」の記事における「戦闘経過」の解説

11月27日午前10時40分、イタリア重巡洋艦ボルツァーノ」の偵察機が、イギリス艦隊戦艦1隻、巡洋艦2隻、駆逐艦4隻)を発見したイタリア軍は、イギリスH部隊とD部隊合流する前に攻撃しようとした。一方イタリア艦隊存在察知したH部隊は、艦隊北へ向かわせてイタリア艦隊輸送船団接近する前に攻撃しようとした。両艦隊接近し27日1145分イギリス軍は、イタリア艦隊80キロの距離にいて接近していることを察知した。この時点でD部隊はまだアレキサンドリアから到着していなかったため、イギリス軍は数で劣っていたが、15分後にはD部隊現れ両軍はほぼ互角となったイギリス側H部隊には空母アーク・ロイヤル」が配備されいたものの、砲撃における射程火力、各艦の最高速力、輸送作戦のため陸兵乗せている点、さらに基地航空隊支援受けられるという点でイタリアのほうが勝っていた。しかしイタリア艦隊指揮官は非常に有利な状況以外では戦闘避けるように命じられており、イタリア側には非常に大きな制約があった。 サマヴィル提督部隊二つ分けた。ランスロット・ホーランド(英語版少将指揮巡洋艦5隻を先陣にし、戦艦ラミリーズ」、巡洋戦艦レナウン」と駆逐艦7隻が第2陣として南に位置した。さらに南では空母アーク・ロイヤル」がソードフィッシュ雷撃機発艦準備行っていた。「アーク・ロイヤル」はイギリス側切り札であったが、パイロット未熟であった対すイタリア軍3つの部隊分かれていた。2つ部隊重巡洋艦6隻と駆逐艦7隻からなりその後方に位置する3つ目の部隊戦艦ヴィットリオ・ヴェネト」、「ジュリオ・チェザーレ」と駆逐艦7隻からなっていた。 H部隊とD部隊はすでに合流していると判断したイタリア艦隊指揮官(カンピオーニ提督)は、互角戦力をもつH部隊との勝負避け上級司令部命令どおり撤退決断した12時7分に戦闘入らないよう命じたが、すでに巡洋艦イギリス艦隊のほうに向かっており両者戦闘突入した12時22分、両軍巡洋艦部隊先頭射程距離内に入りイタリア重巡洋艦フィウメ」は距離23,500メートル砲撃開始した両軍接近し砲戦続いたが、イタリア側のほうが優勢であった戦艦ラミリーズ」は、その砲撃力で両軍の戦力互角にしていたが、低速のため数斉射の後12時26分には戦闘から落伍したその時点でややイタリア側が優勢になったのだが、4分後にはイタリア巡洋艦部隊指揮官アンジェロ・イアキーノ中将戦闘打ち切るように命令された。そのためイアキーノ中将速度30ノット上げるよう命じ煙幕を張って退却始めたこの間イタリア駆逐艦「ランチエーレ」はイギリス軽巡洋艦マンチェスター」から命中弾を受けたイギリス側重巡洋艦ベリック」が12時22分に命中弾を受けて乗員9名が戦死し12時35分にも2発目が命中した次の数分間は、イギリス巡洋戦艦レナウン」がイタリア巡洋艦部隊接近しイギリス軍優勢となった。しかし、1300分にはイタリア戦艦ヴィットリオ・ヴェネト」が距離26,500メートル砲撃始めた。「ヴィットリオ・ヴェネト」は7斉射19発を砲撃し今度イギリス巡洋艦隊の旗色悪くなった。その直後両軍撤退し戦闘終結した。この戦闘54分間続いたという。両軍の損害は、イギリス側重巡洋艦ベリック損傷イタリア側が重巡洋艦フィウメ」に不発弾1および駆逐艦「ランチエーレ」中破であったH部隊によるイタリア艦隊撃滅という希望は、セドリック・ホーランド艦長指揮する空母アーク・ロイヤル」に託された。艦上攻撃機イタリア戦艦攻撃し速力を落とさせて補足しようとしたのである。まず「アークロイヤル第一次攻撃隊(ソードフィッシュ11機)がイタリア戦艦ヴィットリオ・ヴェネト」と「ジュリオ・チェザーレ」を雷撃したが、全て回避された。だがパイロットが「イタリア戦艦1隻に魚雷1本が命中した」と報告し、さらに「イタリア巡洋艦1隻(ボルツァーノ)が損害受けて停船中」との報告入ったので、英空母から第二次攻撃隊が発進する雷撃機イタリア戦艦にむかい、艦上爆撃機スクア7機はイタリア巡洋艦部隊に向かう。だがイタリア戦艦部隊サルデーニャ島南端のスパルティベント岬に接近しており、すでにイタリア空軍掩護にあった。「追いつけないようなら飛行隊長判断攻撃目標変更してよい」との許可得ていたソードフィッシュ雷撃隊は、イタリア巡洋艦部隊攻撃する。しかし命中した魚雷はなく、対空砲火ソードフィッシュ2機が損傷したスクア爆撃隊は重巡洋艦トレント」を爆撃したが、至近弾のみで損害与えられなかった。 イタリア軍もやられっぱなしではなく基地航空部隊爆撃機H部隊空襲敢行し、離脱するイタリア艦隊掩護する艦上戦闘機フルマー艦爆スクア邀撃してイタリア爆撃機 4機を撃墜したが、「アーク・ロイヤル」に対す水平爆撃阻止できなかった。だが、「アーク・ロイヤル」に命中した爆弾は1発もなかった。

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南太平洋海戦」の記事における「戦闘経過」の解説

日本海軍海戦参加部隊において、支援部隊指揮官近藤長官旗艦愛宕」)が、前進部隊第二艦隊)と機動部隊第三艦隊旗艦翔鶴」)を指揮する支援部隊指揮官前進部隊指揮官兼ねる。 第三艦隊司令長官南雲忠一中将指揮する機動部隊本隊第一航空戦隊空母翔鶴瑞鶴瑞鳳〉、重巡熊野〉、駆逐艦〈嵐、舞風雪風時津風天津風初風浜風照月〉)、第十一戦隊司令官阿部弘毅少将指揮する機動部隊前衛部隊戦艦比叡霧島〉、重巡利根筑摩鈴谷〉、軽巡長良〉、駆逐艦谷風浦風磯風秋雲風雲巻雲夕雲〉)、本隊後方補給部隊駆逐艦野分〉、油槽船6隻)、機動部隊より西方第二艦隊司令長官近藤信竹中将指揮する前進部隊重巡愛宕高雄妙高摩耶〉、戦艦金剛榛名〉、第二水雷戦隊第二航空戦隊隼鷹〉)という4つ集団わかれて行動していた。 機動部隊前衛部隊空母へ向かう敵機攻撃吸収するために、機動部隊前方に横一列並んだ

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クラ湾夜戦」の記事における「戦闘経過」の解説

秋山少将以下第三水雷戦隊司令部出撃せず、ブインにて作戦指揮した。第22駆逐隊司令金岡三大佐に率いられ駆逐艦4隻は、7月4日16時40分にブイン出撃した。チョイスル島南岸沿いに南に下りニュージョージア海峡縦断してコロンバンガラ島東岸取りつくクラ湾入りつつあった22時15分左舷前方10キロ先に味方陸上砲台交戦中の敵艦隊を発見した。この敵艦隊、つまり第36.1任務群は駆逐艦を2隻ずつ前後配した陣形取りニュージョージア島バイロコ呉鎮守府第六特別陸戦隊に対して砲撃行っていた。その最中輸送船団護衛にあたっていた駆逐艦ラルフ・タルボット (USS Ralph Talbot, DD-390) のレーダー北方目標探知した。しかし、第36.1任務群はUターンをして右砲戦艦砲射撃続けた。第36.1任務群を魚雷射程圏内に入れた金岡大佐海戦を行う事を決心し2225分に魚雷発射命じる。長月が6本、新月夕凪が4本ずつ発射したその後、機を見て再度攻撃揚陸試みるも、敵機触接襲撃を受け、最終的に物資揚陸断念して7月5日6時ブイン帰投した。輸送作戦失敗おわった。 エインスワース少将はラルフ・タルボットに探知した目標について報告させようとしたが、間もなくストロング右舷に3隻(長月新月夕凪)からきた魚雷命中するバイロコ海軍特別陸戦隊伊勢型戦艦2隻(伊勢日向)から下ろした14センチ砲を有していたが、同地配備12センチ砲と14センチ砲も第36.1任務群に対して砲撃行いストロングに三発の命中弾を与えたストロング大破しシャヴァリア艦首ストロング接触させつつも乗員240名を救助した後、搭載していた爆雷爆発して沈没した。エインスワース少将はこの攻撃潜水艦よるもの信じていた。第36.1任務群は救助作業一区切りをつけると、急遽ツラギ島退却したアメリカ軍側は駆逐艦1隻を失ったもののニュージョージア島ライス湾とバイロコ港にとりついた連合軍は、コロンバンガラ島対す圧力をいっそう強め事となった。

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戦闘経過

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ソビエト連邦による満洲侵攻」の記事における「戦闘経過」の解説

8月9日午前1時に始まったソ連軍攻撃はおよそ4時間に亘って続いたソ連軍の攻勢規模からそれが全面攻勢意味するものと考えられていたにもかかわらず関東軍総司令部一時的な越境攻撃である可能性鑑み大本営からの「静謐確保」を守ることを前線部隊優先させた。そのため、圧倒的なソ連軍攻撃玉砕する守備隊出ていた中、午前3時時点前線出され指示は「全面開戦準備すべしであったその後前線から続々と入る報告聞いて、ようやく全面侵攻確信した司令部大本営からの返答待たず午前6時に「当面の敵を撃破」するよう命令更新した。この日の大本営戦闘準備指示留めており、対ソ全面作戦発動命じたのは翌朝にだったが、それは日本本土へ侵攻ルートとなる朝鮮半島防衛念頭に指示したものでもあり、この時点満洲事実上見捨てられた。さらに、10日大本営命令受けて11日には総司令部未だ陣地構築完了していない、朝鮮側に近い山岳・丘陵地帯にある通化に移すことを決定移動し始めたが、結局通化では通信体制さえ整っておらず、前線からの情報すら入ってこないため、結局司令部新京に戻すことになったとも、15日に重大発放送終戦詔勅のこと)があるらしいので新京に戻るようにとの電話連絡受けて小型飛行機戻ったとの説等がある。このためだけでも、総司令部大切な初期数日失ったとされる。(一方で通信設備整っていないことが分かっていたので兵員・軍需物資を通かに移送しながらも総司令部新京に留まったとする説、逆に大本営命令待たず当初からの計画基づいて9日には特別列車仕立てて通化発ったとの説から最後総司令部メンバー小型飛行機でようやく14日至って揃ったという説まである。)

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禁門の変」の記事における「戦闘経過」の解説

7月19日御所の西辺である京都蛤御門京都市上京区付近長州藩兵と会津桑名藩兵が衝突、ここに戦闘勃発した一時福原隊と国司信濃来島隊は筑前藩が守る中立売門を突破して京都御所内に侵入するも、乾門を守る薩摩藩兵が援軍駆けつける形勢逆転して敗退した狙撃を受け負傷した来島又兵衛自決した真木久坂隊は開戦に遅れ、到着時点来島戦死および戦線壊滅の報を知ったが、それでも御所南方堺町御門攻めた。しかし守る越前藩兵を破れず、久坂玄瑞寺島忠三郎らは朝廷への嘆願要請するため侵入した鷹司邸で自害した遺命託され入江九一はしかし鷹司邸を塀を乗り越えて脱出した時に越前藩士に発見され顔面突かれ死亡した帰趨決した後、落ち延びる長州勢は長州藩屋敷火を放ち逃走会津勢も長州藩士隠れているとされた中立売御門付近家屋攻撃した戦闘そのもの一日終わったものの、この二箇所から上がった火を火元とする大火どんどん焼け」により京都市街は21日朝にかけて延焼し、北は一条通から南は七条東本願寺に至る広い範囲街区社寺焼失した生き残った兵らはめいめい落ち延び福原国司らは負傷者を籠で送るなどしながら大阪播磨方面撤退した天王山で殿となっていた益田隊も敗報聞く撤退して長州へと帰還した主戦であった真木保臣敗残兵と共に天王山辿り着いたが、益田その他の勢は既に離脱しており、合流失敗した真木らは兵を逃がし宮部春蔵17名で天王山立て籠もった。20日大和郡山藩降伏勧告無視し21日会津藩新撰組攻め立てられると、皆で小屋立て籠もり火薬火を放って自爆死した大沢逸平その場逃れ真木遺言高杉晋作三条実美らに伝えるために長州藩向かった

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芷江作戦」の記事における「戦闘経過」の解説

1945年4月から、日本軍は第6方面軍麾下第20軍坂西一良中将)を投じて芷江作戦開始した作戦としては第116師団と二個大隊及び一個連隊からなる関根支隊一個大隊及び一個連隊からなる重広支隊三方から攻撃し遅れて47師団進撃する予定であった占領掃討作戦同時に行うため2個師団と4個旅団等も警備部隊として参加親日政権汪兆銘政権和平建国軍も治安維持出動し中国共産党紅軍相手戦った序盤順調に進撃できたものの、まもなく中国側激し反撃始まり4月25日頃には前進困難となった中国軍装備アメリカからの兵器供与により以前よりも改善されており、またアメリカ軍アメリカ陸軍航空軍)による援護爆撃援護射撃航空支援十分に受けることができたためである。中国軍次々と増援部隊集結させ、第3方面軍・第4方面軍・第10方面軍などの計28師団迎撃中国共産党陝甘寧辺区紅軍ゲリラ部隊ゲリラ戦展開したまた、険し地形防衛戦適していた。他方日本側は太平洋方面への戦力抽出部隊の質がかなり低下していたうえ、制空権失っているために昼間行動は困難、兵站線空襲寸断された。 日本坂西第20軍司令官攻撃続行は困難と判断し5月4日態勢整理理由として第116師団関根支隊一時後退戦線離脱命じた関根支隊推定3個師団(第58師・第193師・暫編第5師)の優勢な中国軍の反撃受けて連絡も不十分であったため、おおむね大隊単位分裂してほとんど無統制後退する状態に陥った中でも独立歩兵115大隊は、綏寧県武陽鎮(中国語版)から撤退開始直後5月5日未明に満福橋付近優勢な暫編第5師による奇襲攻撃受けて壊乱状態に陥り、5月10日頃までに分断包囲され全滅し大隊長戦死した。 第6方面軍司令部独断でも作戦中止することを検討し始め支那派遣軍総司令部参謀達も現地視察などをふまえて作戦中止進言し、5月9日日本側の総指揮執る支那派遣軍総司令官岡村寧次大将は、作戦中止命令した日本軍撤退開始し連合国軍追撃移った各地包囲受けた日本軍損害続出したのに加えて毎月5,000人以上の戦病者が発生する状況であったが、撤退決断手遅れになる前に出されていたおかげでかろうじて脱出成功した6月上旬までに日本軍出撃地点へと帰還した

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アンガウルの戦い」の記事における「戦闘経過」の解説

当時日本軍によるパラオ防衛第14師団照兵団宇都宮)が担当しており、アンガウル島防衛当たっていたのは第14師団配下宇都宮歩兵第59連隊であった第14師団ペリリュー島守備のため1個連隊強(水戸歩兵第2連隊高崎歩兵第15連隊第3大隊)割いており、パラオの他の島嶼防衛も行わなければならなかった。そのため、1944年7月20日の照作戦命令甲第124号により、歩兵第59連隊アンガウル島防衛第1大隊残しパラオ本島バベルダオブ島)に引き上げていた。 アメリカ軍パラオ侵攻明白になると、日本側は在住民間日本人現地住民(主に老人婦女子)をアンガウル島からパラオ本島疎開させたが、青壮年当時日本人であったパラオ現地住民男性約180名は軍夫として日本軍協力させるため残されて、アンガウル島へもアメリカ軍上陸して戦闘巻き込まれることとなった1944年9月11日アメリカ軍侵攻前に空母ワスプ発艦ドーントレスによる予備爆撃及び戦艦テネシーによる艦砲射撃行った。 この砲爆撃によって同島の日本軍通信施設破壊されパラオの他の日本軍部隊連絡をとることが出来ない状態に陥った以後日本軍歩兵第59連隊第一大隊玉砕するまで司令部からの命令受信できない状況下で戦闘を行うこととなったアメリカ軍爆撃艦砲射撃開始され6日後の9月17日戦艦1隻、重巡洋艦2隻、軽巡洋艦2隻、そして5隻以上の駆逐艦からの艦砲射撃支援の下、午前8時半過ぎにアメリカ陸軍81歩兵師団が島の北東及び南西海岸上陸してきた。 敷設され地雷による被害日本軍による水際作戦によって、アメリカ軍上陸当初ある程度被害受けたが、上陸2地点から前進し同日夕方には内陸進出していた。 アンガウル地区隊長である第1大隊長後丑雄少佐守備隊残存兵の再編図りあらゆる火砲動員して夜襲決行、翌9月18日明け方にはアメリカ軍を一旦は海岸近くまで押し戻した。夜が明けるとアメリカ軍M4中戦車LVT前面にして、艦載機による銃爆撃加えて反撃したため、午前10時頃には日本軍攻撃部隊全滅したアメリカ軍9月19日早朝に島の中心部サイパン突入間もなく占領したパラオ本島との間でアンガウル島から一番近いペリリュー島第1海兵師団 (アメリカ軍)上陸してペリリューの戦いが行われていたことから、アンガウル島日本軍守備隊パラオの他の島から援軍補給を得ることはできず、15倍以上の圧倒的な兵力差があったため、アメリカ側9月25日には目標としていた丘を占領9月30日には島を全面占領することに成功したアンガウル島守備隊島東部洞窟壕に籠り抵抗続けたが、10月19日最後斬り込み行い玉砕後藤大隊長以下、守備隊員の大半戦死し、島は焦土化した陸軍首脳部アンガウル守備隊功績特筆すべき考え10月28日にはアンガウル守備隊昭和天皇御嘉賞言葉がだされた。

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ラプラタ沖海戦」の記事における「戦闘経過」の解説

12月13日5時52分(現地時間、以下同じ)、アドミラル・グラーフ・シュペー右舷前方31,000mに敵艦マスト発見した最初敵艦隊を軽巡洋艦1隻、駆逐艦2隻と誤認し、これらを船団護衛部隊考え接近したが、6時10分、それらが重巡洋艦1隻、軽巡洋艦2隻であると確認したいっぽうエイジャックス」は6時9分に煙を発見しエクゼターを分派6時14分にエクゼターはそれがアドミラル・グラーフ・シュペーであると確認した6時17分、アドミラル・グラーフ・シュペーは、本国からの敵戦艦との交戦禁止命令破り、距離17,000mで軽巡2隻に対し砲撃開始した。それに対してイギリス艦隊順次砲撃開始した(エクゼターは6時20分、アキリーズ6時21分、エイジャックス6時23分)。 ラングスドルフはかつて魚雷艇隊を率いていた事があり、その影響受けて彼の指揮するアドミラル・グラーフ・シュペーはまるで駆逐艦のような戦い方をしていた。つまり、火力よりも機動力活かした回避行動連続により攻撃かわそうとしたのであるが、相手機動力に勝る巡洋艦では効果無く次々と被弾して防御弱さ露呈したばかりか、その火力活かす事ができなかった。 またこの時、アドミラル・グラーフ・シュペー被弾し高角砲1つでは砲手被弾時の熱で蒸発してしまい、肉片すら見つからなかった。 6時25分、アドミラル・グラーフ・シュペーはエクゼターに砲撃集中させ、これによりエクゼターは大きな損害受けた。エクゼターはY砲塔残して主砲沈黙しながらも、戦闘継続した6時32分、エクゼターは魚雷2発を発射した命中しなかった。 6時36分、アドミラル・グラーフ・シュペー煙幕をはり、北西転進イギリス軽巡洋艦2隻もこれを追撃した6時38分、エクゼターはさらに2発の命中弾を受けた浸水によって電源落ちたため、戦闘不能となり、7時30分ハーウッド准将はエクゼターに後退命じたその後アドミラル・グラーフ・シュペーは残る2隻の軽巡洋艦砲火集中させようとしたが、逆に猛攻撃受けて甚大な被害被ってしまった。 7時16分にアドミラル・グラーフ・シュペー戦場離脱しラプラタ川向かった。しかし、これがハーウッド准将にはアドミラル・グラーフ・シュペーがエクゼターに止めを刺すかのように見えたため接敵命じた7時25分エイジャックス命中弾をうけ砲塔2基が損傷した7時40頃、エイジャックスアキリーズ追撃中止し夜戦試みるため煙幕張り東へ反転したが、アドミラル・グラーフ・シュペー針路南西変わったため、二手分かれて追撃再開した軽巡洋艦2隻がアドミラル・グラーフ・シュペーの25km後方から追跡した。エクゼターはフォークランド諸島向けて撤退した

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ブーゲンビル島沖海戦」の記事における「戦闘経過」の解説

11月1日15時30分、連合襲撃部隊ラバウル出撃した。ブカ島行の水無月を除く輸送隊の各艦(天霧卯月夕凪文月)も相前後してラバウル出撃し、ココポ沖で小発を搭載する。しかし、搭載作業時間かかってココポ発ったのが17時30分となり。18時30分連合襲撃部隊輸送隊合流するも、その時点で予定が約2時間遅れていた。速力夕凪当時発揮できた最大戦速26ノット合わせていたため、時間の遅れ取り戻すすべはなかった。さらに、1945分2053分に川内夜間爆撃受けたことにより、触接機の存在は明らかであると判断された。大森少将からの報告受けた南東方面部隊指揮官草鹿中将)は、逆上陸を中止させて輸送隊ラバウルへ引き返させ、連合襲撃部隊に対して単独タロキナ沖に突入する事を令した2230分、輸送隊反転してラバウル向かい連合襲撃部隊30ノット増速して戦闘準備令しタロキナ沖へと向かった。なお、水無月18時にラバウル出港しブカ島への輸送任務終えて11月2日9時にラバウル帰投した。第二機動決戦隊の出撃急遽決定したため、部隊準備敵情上陸地点偵察も不十分で、逆上成功可能性低かったとされる一方川内爆撃した触接機は、ただちに日本艦隊出撃報告する当時エンプレス・オーガスタ湾では輸送船12隻のうち4隻が、いまだ荷役終えていない状態だった。一度全ての輸送船退避させたものの、上陸部隊要請により荷役未了輸送船湾内作業継続するになったが、そこに「日本艦隊出撃」の報がもたらされる連合襲撃部隊対抗できる頼み水上兵力メリル少将の第39任務部隊である。しかし、第39任務部隊10月31日未明ツラギ島出撃したあと、乗員がとれた睡眠時間最長せいぜい2時間程度であり、食事サンドイッチがほとんどで、乗員疲労が相当蓄積している事が予想されたが、ハルゼー大将に、第39任務部隊による迎撃以外の方策とらせる余裕はもはやなかった。タロキナ沖に到着した39任務部隊は、前衛バーク大佐の第45駆逐群、後衛オースティン中佐の第46駆逐群を配して連合襲撃部隊待ち受ける11月2日0時27分、モントピリアレーダー連合襲撃部隊思しき目標探知し、二個駆逐群を左右に散らせて迎撃態勢整えた。 これより先、羽黒妙高水上偵察機相次いで敵艦隊を発見する11月2日0時45分川内時雨は約9,000メートルの距離に敵を発見しその4分後、敵艦発砲閃光確認した。同じ頃、北方まわって連合襲撃部隊左側狙う位置占位していたバーク大佐の第45駆逐群は、魚雷25本を発射。しかし、連合襲撃部隊変針により命中しなかった。大森少将本隊は第39任務部隊南北二隊分かれているのを確認すると、南方目標に対して照明弾射撃を行う。0時51分、第二十七駆逐隊時雨五月雨白露巡洋艦に対して雷撃敢行するが、前方にいた川内は既に被弾していた。川内時雨の急接近により隊形乱れ、さらにこれを避けようとした後続五月雨白露衝突して最大速力16ノットから20ノット落ちた第二十七駆逐隊発射した魚雷は、隊列から離れて巡洋艦群を引っ掻き回す不規則な航行をしていた第46駆逐群のフート艦尾命中してこれを破壊し航行不能にさせた。時雨との衝突間一髪避けた川内は、間もなく集中砲火浴びて航行不能となった大杉少将第二警戒隊は第39任務部隊からの砲撃避ける避弾運動行っていたが、その最中初風隊列から脱落し、1時7分に妙高衝突したまた、羽黒は6発の命中弾を受けるがうち4発は不発弾爆発しなかった。この時点で、周辺海域照明弾と吊光弾からの光を反射させた雲の影響により、薄明かりの状態となっていた。 1時18分、大森少将本隊巡洋艦群に対して砲撃雷撃開始し戦闘新し局面迎えた。この砲雷撃で本隊は「敵一番艦ニ命中弾数発」と「魚雷命中水柱」、「敵二番魚雷命中轟沈」、「敵三(又ハ四)番艦ニ魚雷命中水柱大火災」を認めたものの、実際に回頭により一番艦に位置していたデンバーに3発が命中しただけであり、しかも砲弾爆発しなかった。メリル少将巡洋艦群に煙幕を張って避退させ、大森少将に「数隻の米重巡撃沈したという錯覚」を与えることとなったまた、大森少将は1時25分に損傷艦援護の直衛機派遣要請し次いで1時34分、味方状況明朝敵機来襲考慮して315方向への避退命じる。その頃南方から連合襲撃部隊狙っていたオースティン中佐の第46駆逐群は消化不良攻撃終始していた。すでにフート脱落し、残るスペンスサッチャーコンヴァース突撃移ろうとした刹那スペンスサッチャー衝突して損害を蒙り、さらにスペンス水線下に被弾して速力一時低下した。そこに妙高羽黒味方であるとの誤った情報もたらされ、第46駆逐群は航行不能川内向かった川内には再度戦場へ突入図った45駆逐群も迫り川内命中弾を与えた。第46駆逐群も川内命中弾を与えた後、衝突戦線離脱中の五月雨白露追跡して砲撃行ったが、この様子を見ていた第45駆逐群は、第46駆逐群を日本艦と誤認して砲撃開始するオースティン中佐からの抗議詫び入れたバーク大佐隊形整えた後、妙高との衝突により艦首失ったため進退窮まっていた初風に対して砲撃行い、これを撃沈した連合襲撃部隊ラバウル方向への避退の後、戦場にただ一艦取り残され川内5時30分に右に傾斜して沈没していった。 連合襲撃部隊ラバウル帰投本隊初風を除く第二警戒隊と時雨が9時17分、白露11時、最後五月雨14時10分だった。羽黒からは僚艦妙高前部左舷初風甲板ぶらさがっている光景見られたという。目撃した羽黒下士官は「初風の額の皮」、「イブニングドレス正装した貴婦人ネックレス雑巾ひっかけたよう」という表現使っている。 連合襲撃部隊帰投直後空襲受けた被害はあまりなかった。 「ラバウル空襲#1012日から11月2日にかけての空襲」も参照 妙高羽黒11月4日ラバウル出港してトラック向かった海戦後大森少将援護要請受けて潜水艦生存者救助乗り出し呂10411月3日午後に伊集院少将など第三水雷戦隊要員川内乗員合わせて75名を救助し、これとは別に川内乗員47名と第三水雷戦隊要員4名がセント・ジョージ岬にたどり着いた後生還した夜明け日本のみならずアメリカ側にも敵機来襲予期させるものだったため、メリル少将3時には追撃中止させて一部の艦にはフート援護にあたらせ、残る艦艇率いて南方へと避退した。朝が来ると、予想通り日本機の大群来襲してきた。 「ろ号作戦#11月2日 第一次連合攻撃(ムッピナ沖敵輸送船団攻撃)」も参照ろ号作戦」の前哨戦ともいうべきこの空襲で、モントピリアに2発、うち1発は艦尾カタパルト命中して艦尾を煙に包んだものの、それ以上損害はなかった。第39任務部隊戦闘配置解除されたのは11月2日正午ごろであり、10月31日出撃以降ブカ島ショートランドへの砲撃、そしてこの海戦で「照明弾しか残っていない駆逐艦」や「燃料がもったとしても、撃てるのは機銃ジャガイモだけ」(7ヶ月前の4月アメリカ駆逐艦オバノンは浮上中の日本潜水艦遭遇した時、接近しすぎて火器使えず近くにあったジャガイモ潜水艦向かって投げて交戦した。)というような艦もあったほどの第39任務部隊は、翌11月3日ツラギ島帰投した。帰投際し基地からの「何が必要か?」との呼びかけ対し、第39任務部隊は「睡眠だ」と返答した

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第二次ベララベラ海戦」の記事における「戦闘経過」の解説

ソロモン諸島方面日本海軍艦艇大多数外南洋部隊指揮官鮫島具重中将第八艦隊司令長官)の指揮下にあり、その麾下外南洋部隊増援部隊指揮官伊集院松治大佐第三水雷戦隊司令官)があった。当時伊集院指揮にあった艦隊駆逐艦は、第二水雷戦隊第十戦隊から外南洋部隊臨時編入されていた「借りもの」であった作戦実施際し伊集院大佐軽巡洋艦川内から陽炎型駆逐艦秋雲移乗し秋雲第三水雷戦隊代将旗掲げた10月5日、まず3時30分に輸送部隊(第22駆逐隊司令金岡三大佐)の駆逐艦3隻(文月松風夕凪)がラバウル出撃し、続いて5時には伊集院大佐指揮下の駆逐艦6隻(第10駆逐隊秋雲風雲夕雲〉、第17駆逐隊磯風〉、第27駆逐隊時雨五月雨〉)もラバウル出撃する収容部隊5日夕刻ブイン出撃した。輸送部隊夜襲部隊早々に偵察機触接を受けるも、両部隊はブーゲンビル島北方合流した16時輸送部隊夜襲部隊からの第27駆逐隊時雨五月雨)は先行して収容部隊合同しベララベラ島近海へ、夜襲部隊は偽航路取ったスコール中に身を隠しながら遅れてベララベラ島近海へと向かう。夜襲部隊陣形は、秋雲旗艦)、磯風風雲夕雲単縦陣であったベララベラ島近づくにつれ、時雨では「巡洋艦4隻、駆逐艦3隻」から成るアメリカ艦隊接近連絡受けたまた、第938航空隊零式水上偵察機が、万代浦および先明崎と呼ばれた収容地点付近照明弾投下したところ、駆逐二隊巡洋艦4隻と駆逐艦3隻)が行動中であるのを確認して通報した伊集院大佐輸送部隊一時退避命じるが、速力の遅い収容部隊はもはや退避が間に合わず収容予定地点直進させた。また第27駆逐隊時雨五月雨)にも第一夜部隊への合同命じ時雨原大佐)は松風船団護衛依頼する夜襲部隊合流するため行動開始した一方偵察機PBYカタリナ飛行艇からの報告受けた第3艦隊南太平洋部隊ウィリアム・ハルゼー大将)では、迎撃のためウォーカー大佐率いる第4駆逐部隊以降ウォーカー隊とする)からの駆逐艦3隻をベララベラ島近海へと急行させた。米軍航空攻撃悪天候のため実施されず、またウォーカー隊の駆逐艦3隻(セルフリッジ、シュバリエ、オバノン)と、増援駆逐艦3隻(ラルフ・タルボット、テーラー、ラブレット)とは距離が開いていた。 その頃ベララベラ島守備隊万代浦および先明崎に集結しニュージーランド軍砲撃に耐えつつ収容部隊到着待っていた。2031分ウォーカー隊はレーダー二つ目標探知。4分後の2035分には風雲が「巡洋艦3隻」を発見した第27駆逐隊時雨五月雨)も2040分には敵影確認する旗艦秋雲でもウォーカー隊を発見していたものの、伊集院大佐第三水雷戦隊司令官)は乗組員報告信用しなかったという。第三水雷戦隊先任参謀は「味方間違いではないか」と問いただした秋雲駆逐艦長相馬正平中佐周囲からの情報と自らの目で確認した後、伊集院大佐に「司令官、敵ではありませんか」と助言し終えた瞬間ウォーカー隊からの先制攻撃受けたウォーカー隊は2055分に砲撃開始し同時に魚雷14本を発射した先制攻撃受けた夜襲部隊は、夕雲魚雷を8本発射し続いて面舵で右に針路をとって秋雲とともに砲撃開始する。しかし間もなく夕雲ウォーカー隊からの集中砲火により火災起こした炎上した夕雲は、米艦隊からの絶好目標になってしまった。21時1分、夕雲からの魚雷ウォーカー隊に達しシャヴァリア命中するシャヴァリア後方にいたオバノンは被雷したシャヴァリア避け切れず追突し艦首大破した。オバノンはシャヴァリアから離れた後、シャヴァリア乗員救助作業取り掛かる21時5分に夕雲魚雷命中し、これが止めとなって2110分に沈没したこの頃には第27駆逐隊時雨五月雨)も戦場到着し21時1分前後に各艦魚雷8本を発射した続いて砲撃開始し、三斉射発砲をした瞬間先に発射した魚雷のうち1本がウォーカー隊の旗艦セルフリッジに命中する。セルフリッジは艦首垂れ下がって10ノット速力戦場から退却していった。秋雲磯風風雲率いて引き返し、距離約8,000メートル彼方停止中のシャヴァリアとオバノンに対して魚雷発射したものの、命中しなかった。その後視界不良となって2139分に戦闘打ち切って戦場から離脱した第27駆逐隊司令原為一大佐時雨座乗)は「駆逐艦時雨に、もし電探があればウォーカー部隊は三隻とも、ただでは済まさなかったであろうに」と回想している。10月7日8時30分夜襲部隊ラバウル帰投した。日本側は魚雷48本を発射したが、命中したのは2本だけだった第3艦隊は、偵察機からの報告によりウォーカー隊の3隻では少なすぎると考えており、ニュージョージア島向けの輸送船団護衛していた第42駆逐群にも戦場急行するよう命じていた。夕雲大火災がよく見えていたほど戦場接近していたが、ついに戦闘には間に合わなかった。その代わり瀕死シャヴァリアラ・ヴァレット魚雷処分し大破したセルフリッジからウォーカー大佐テイラー移動させた。またレンドバ島より魚雷艇4隻が出動した海戦終わった直後22時、収容部隊万代浦に到着し23時50分から収容開始。三往復した後、10月7日1時10分には万代浦を離れてブイン向かい、8時に帰投ベララベラ島守備隊はここで解散してそれぞれの原隊へと戻っていった。

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戦闘経過

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 09:28 UTC 版)

クラ湾夜戦」の記事における「戦闘経過」の解説

第三水雷戦隊当初軽巡夕張旗艦として出撃する予定であった。だが7月5日ショートランド泊地入りつつあった時に触雷して作戦から除外され秋山少将は「新月」を旗艦とした。この磁気機雷は、ガダルカナル島から飛来しTBFアヴェンジャー雷撃機投下していったものだという。また、第一次輸送隊名を連ねていた「夕凪」は、実際に出撃しなかった。 増援艦隊駆逐艦谷風など)は7月4日夕刻ラバウル出撃し、7月5日朝にショートランド泊地進出した新月三水戦旗艦)で艦長達の打ち合わせをおこなう。同日17時35分、第三水雷戦隊ブイン出撃する支援隊は1番艦新月2番涼風3番谷風単縦陣であった前夜同様にチョイスル島沿いに南に下り2223分に第一次輸送隊分離させてコロンバンガラ島東岸先行させる。 一方の第36.1任務群はツラギ到着し給油作業行っていた。そこに新手の「東京急行出発の報がもたらされるハルゼー大将から情報受け取ったエインスワース少将は、急遽コロンバンガラ島近海に引き返すこととした。ただし、シャヴァリア艦首損傷ストロング乗員の上陸のため任務群から外され代わりにジェンキンスラドフォード任務群に加えた。第36.1任務群は視界の悪い海域29ノット高速北上しクラ湾差し掛かる頃に25ノット速力落として会敵備えた。エインスワース少将当夜戦法について、まず軽巡洋艦レーダー射撃によって先制攻撃行い魚雷回避のため軽巡洋艦退避させた後、駆逐艦突撃させるという戦法採用した23時3分、新月は左20度5キロ先に敵艦隊を探知する。これは新月搭載していた電探知機によるもので、警戒隊(新月涼風谷風)は水上戦闘に備えた23時18分にUターンののち、23時43分に第二次輸送隊分離した。その直前23時36分にホノルルレーダー左前方に第三水雷戦隊探知した23時48分、新月が同航する巡洋艦3隻・駆逐艦2隻を発見するに及び23時52分に全軍集結命じ第二次輸送隊天霧初雪長月皐月)も反転して敵艦隊にむかった23時54分、エインスワース少将指揮下全艦艇攻撃命じる。当面目標支援隊とし、23時56分に一斉射撃行った。米艦隊レーダー映った最も大きな目標(新月)だけを目標したため新月は第36.1任務群からの砲撃一身浴び日付変わった0時6分には舵が故障した上、火災発生する新月は、そのまま行方不明となった。 第36.1任務群が砲撃加えてもなんら反撃がなかったことから、エインスワース少将筋書き通りに事が進んでいると判断し次の行動を移ることとした。しかし、新月砲撃集中した結果後続2隻(涼風谷風)にはこの時には砲弾降り注がずアメリカ側は数の利を生かせなかった。旗艦新月連絡不能となったため、涼風座乗の第24駆逐隊司令中原義一郎大佐支援隊(涼風谷風)の指揮引き継いだ23時57分に涼風谷風魚雷それぞれ8本ずつ発射したあと北上再装填のため一旦戦場離脱した0時2分、魚雷は第36.1任務群を襲いヘレナ魚雷3本命中した。1本は艦首部命中して艦首をもぎ取り、2本は船体中央部のほぼ同一箇所命中。これによりヘレナ船体V字型に裂けそのまま沈没していった。後続セントルイスヘレナへの追突を防ぐため右側針路取って戦場から一時離脱した。オバノンは第二次輸送隊思しき目標向けて魚雷を5本発射したが、命中しなかった。 再装填のため一旦戦場離脱した涼風谷風であったが、涼風火災事故起こし、一番砲が使用不能となった。さらに、機銃弾庫に被弾して第二次攻撃に遅れをとった。谷風魚雷発装装置故障のため、戦場に戻るのに手間取り艦首不発ながら命中弾を受けて損傷した。2時ごろには戦場引き返したものの、新月敵艦隊も発見できなかったので帰投することとした。 また、全軍集結集合した輸送隊のうち、第一次輸送隊望月は触礁事故大発曳航索を推進器絡ませたことにより遅れをとる。それでも、0時06分には揚陸作業終えて西方向かった。なお浜風は23時56分に雷撃実施した記録しているが、三水戦の戦闘詳報では、第一輸送部隊はこの時点戦闘参加していない。浜風積載していた人員160名と物資揚陸できないまま、ショートランド泊地むかった第二次輸送隊天霧魚雷攻撃を、初雪砲撃それぞれ行う。反撃により初雪不発弾2発を受けて損傷した後、揚陸地に向けて反転した長月皐月も、突撃した天霧および初雪続いたが、敵情が分からなかったので0020には揚陸作業に戻る。しかし0時46-49分に長月コロンバンガラ島ベネット入江座礁した揚陸作業同時に皐月による引き降ろし作業が行われたが成功せず4時20前後には引き降ろし作業打ち切られた。皐月揚陸のため、泊地むかった天霧および初雪3時前に揚陸作業済ませるが、ヘレナの生存者救助中のニコラスラドフォードからの砲撃受けたため反撃を行う。天霧魚雷5本を発射し巡洋艦に2本命中と判断されたが、実際にラドフォード艦尾をかすめ去ったけだった天霧被弾したものの、無事に戦場離脱していった。揚陸終えて西航中の望月ニコラスラドフォードからの砲撃を受けるが、魚雷1本を発射し煙幕を張って退却していった。2隻(天霧初雪)はベララベラ島南岸沿いを通り9時に、3隻(谷風浜風三日月)は7時30分、2隻(涼風望月)は9時15分、そして皐月10時それぞれブイン帰投した。 ベネット入江座礁中の長月7月6日の朝、SBDドーントレス」、TBFアベンジャー」、B-25ミッチェル」の爆撃受けて放棄された。米軍撮影した残骸となった長月写真残っている。(新月長月生存者コロンバンガラ島上陸し同地横須賀第七特別陸戦隊編入された。 第36.1任務群は、前述のようにヘレナ739名の生存者救助するためにニコラスラドフォード戦場残し、また退去の際には3隻の救命ボート海上投下してツラギ島退却していった。ニコラスラドフォード日本輸送隊天霧初雪望月)と交戦しつつも救助作業行ったものの、全ての生存者救助する事はできなかった。残り救命ボート分乗して漂流し一部ベララベラ島にたどり着いて後刻味方駆逐艦によって救助された。 「ヘレナ (軽巡洋艦)#ヘレナの生存者」も参照

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戦闘経過

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 10:18 UTC 版)

コロンバンガラ島沖海戦」の記事における「戦闘経過」の解説

7月12日3時30分、二水部隊ラバウル出撃してブカ島北方経由しクラ湾接近する輸送隊1840分にブイン出撃した。これら日本艦隊動き沿岸監視員によって察知されており、リレー形式連合国軍通報された。これを受け、南太平洋部隊第3艦隊司令官ウィリアム・ハルゼー大将は第36.1任務群に「東京急行」の阻止命じる。 2235分、第36.1任務群は先行する索敵機から日本警戒発見の報を受信針路270度に変更し速力28ノット日本艦隊攻撃に向かう。エインズワース少将当夜戦法について、前回クラ湾夜戦では「軽巡洋艦レーダー射撃によって先制攻撃行い魚雷回避のため軽巡洋艦退避させた後、駆逐艦突撃させる」という戦法採用していたが、今回駆逐艦突撃軽巡洋艦レーダー射撃入れ替え前衛駆逐艦による雷撃の後に軽巡洋艦レーダー射撃行い一斉回頭行ってから後衛駆逐艦突撃させるという戦法採用した。他にも夜間偵察機を引きつれており、弾着観測兼ねさせていた。第36.1任務群のネックは「リアンダー」の最大速力28ノットしか出なかった事であり、エインズワース少将部隊統一速力28ノット定めた二水部隊陣形単縦陣で、三日月先頭立てて神通雪風浜風、清波、夕暮だった。雪風装備されたばかり逆探最初に電波捕らえたのは2230分頃だった。レーダー波が発せられた方向スコール発生していたため暗幕降ろしたように暗く見張り員の双眼鏡に敵の艦影は映らない。初の実戦となる逆探確実に作動しているか疑問残しながらも、電探室から刻々と報告される感度従い艦隊を進ませた。2244分、第九三八航空隊水上偵察機が4隻の敵艦針路290度、速力20ノット進んでいるのを発見し神通通報するが、当時偵察機からの通信受信側への伝播時間暗号解読により10前後の差が生じるため、神通がこの通報確認しえたのは2257分で、既に米艦隊増速日本艦隊レーダー捕捉する寸前まで接近していた。同2257分、雪風逆探前方の第36.1任務群からレーダー波が発せられているのを探知していた。日本艦隊30ノット増速針路120度とし砲雷同時戦の用意をすると、23時00分には輸送隊南西分離し身軽な警戒隊6隻で単縦陣組んだ一方の米艦隊2259分にホノルルレーダー日本艦隊探知しエインズワース少将前衛駆逐隊魚雷攻撃後衛駆逐隊前方進出命じた。両艦隊は反航する形となり、相対速度60ノットで急接近した23時3分、日米艦隊は距離24kmでほぼ同時に艦影目視確認する。第36.1任務群はニコラス二水部隊発見し日本艦隊敵前駆逐艦次いで本隊巡洋艦隊を発見神通砲雷同時戦を下令した。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/10 22:59 UTC 版)

ペーターヴァルダインの戦い」の記事における「戦闘経過」の解説

7月2日オーストリア首都ウィーン出発ドナウ川沿って南進してセルビア目指した。対すオスマン帝国大宰相アフメト3世娘婿でもあるシラーダーリ・ダマト・アリ・パシャがセルビア中心都市ベオグラード軍勢動員イェニチェリ4スィパーヒー2残りタタールワラキアエジプトなど属領からの兵隊構成され15大軍北上7月26日から27日にかけてサヴァ川渡り8月2日オーストリア軍先鋒蹴散らし翌日3日ドナウ川要衝オーストリア軍守備しているペーターヴァルダイン要塞取り付き攻城のために塹壕掘り始め砲撃開始したオイゲン4日にペーターヴァルダインに到着5日朝にオーストリア軍主力来援得たペーターヴァルダインの守備隊反撃転じた攻撃をかけた中央の歩兵隊イェニチェリによって逆に狭間押し込まれるなど混乱したが、オイゲン巧みに陣を立て直し騎兵隊率いて側面襲撃しオスマン帝国軍包囲昼過ぎ敵軍撃ち破ることに成功するオスマン帝国軍大混乱に陥り大半戦死した捕らえられアリ・パシャ戦死して軍は完全に崩壊残った軍勢ベオグラード敗走していったオーストリア軍戦後ベオグラードへ向かうはずであったが、ドナウ川サヴァ川囲まれているベオグラード攻めるには軍船不足していたため、オーストリア軍包囲出来体勢無かった。そのため、オイゲン北上してトランシルヴァニア進軍して、10月バナト中心であるティミショアラ平定した。ドナウ川北岸固めたオイゲン11月帰国艦隊建造含めた軍備進め、翌1717年ベオグラード包囲したオスマン帝国でも大宰相ハジ・ハリル・パシャ(アリ・パシャ後任)が救援向かい両軍ベオグラード挟んで激突したベオグラード包囲戦)。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/22 01:53 UTC 版)

ナボイの戦い」の記事における「戦闘経過」の解説

アメリカ軍の襲撃部隊は、アメリカ海軍機動揚陸艇LCM)とLCVP2種の上陸用舟艇分乗して11月29日午前4時アメリカ側時間)にナボイ海岸上陸した海兵空挺大隊主力の上陸した地点は、輜重兵第6連隊海岸集積所のすぐ近くであったフェイガン少佐付近に有力な日本軍部隊がいると感じたが、他に手の打ちようがないので集積所越えて進み、180mほど内陸地点に壕を掘った日本側は舟艇が岸に近づいてから自軍のものでないと気付き集積所人員武装させるとともに、たまたま付近通過中だった歩兵第23連隊一部応援要請した明け方には応援歩兵到着し始め野砲兵第6連隊山砲1門も集積所にあった砲弾使って砲撃始めた海兵隊員周囲には日本軍迫撃砲機関銃小銃による銃砲火が降り注いだ一方空挺大隊本部中隊第3海兵奇襲大隊M中隊は、0.8km南の地点上陸した状況知った日本第6師団司令部は、岩佐支隊支隊長:岩佐俊少将)の歩兵第23連隊に1個大隊での撃退命じとともに歩兵第13連隊の1個大隊上陸用舟艇29日夜に付近逆上陸させることを計画した現地日本軍何度も歩兵突撃行いアメリカ軍に相当の損害与えたアメリカ軍は、前線砲兵観測班の指示の下、トロキナ岬付近に布陣し第3海兵防衛大隊のM114 155mm榴弾砲による火力支援受けていた。海兵隊員は、鹵獲した日本軍九四式三十七粍砲使用した予想よりも激し抵抗見てアメリカ軍指揮官たちは自分たちが兵力的に劣勢であることを悟った付近日本軍現状1200人とも推測されアメリカ軍全滅の危機ひんした南方上陸した第3海兵奇襲大隊M中隊などは、午前9時30分に主力合同したが、移動途中で13人の損害受けていた。フェイガン少佐は、現在の戦闘状況無益で、このままでは敵主力との決戦避けがたいと判断し午前8時までには無線部隊収容求めたガイガー将軍同意して撤退命じたが、その返信通信機故障して受信不能に陥っていたためフェイガン少佐に届かなかった。海兵隊中隊相互連絡取って守り固めるしかなかった。次第弾薬欠乏してきても士気旺盛であったが、夜襲強く懸念された。 アメリカ軍は、襲撃部隊収容のため2回にわたって上陸用舟艇送ったが、日本軍砲兵激し射撃により失敗終わった2度救出失敗上陸部隊弾薬欠乏という事態を受けて護送船団から引き抜いたフレッチャー級駆逐艦フラム」(en)・グリーブス級駆逐艦「ランズダウン」(en)・同「ラードナー」(en)と砲艇仕様歩兵揚陸艇LCI)1隻が援護投入された。支援艦隊は午後6時海岸接近し陸上砲兵部隊航空隊協同して弾幕張った。この制圧射撃守られ舟艇海岸から襲撃部隊収容できた。最後舟艇戦場離脱したのは、日没後の午後8時40分であったアメリカ軍は、装具類を多く失ったが、兵器破損したもの以外全て持ち帰ることができた。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/04/05 03:30 UTC 版)

トランサム作戦」の記事における「戦闘経過」の解説

1944年5月17日朝、イギリス空母イラストリアス」とアメリカ空母サラトガ」を基幹とする米英合同機動部隊攻撃隊を発進させた。飛び立った連合軍航空機は、スラバヤ軍港飛行場製油所などに対して爆撃および機銃掃射加えた日本側は奇襲攻撃受けてしまい、戦闘機による迎撃などはできなかった。2日前に海軍の第21通信隊(在スラバヤ)が、イギリス機動部隊が行動中であるとの通信解析結果出していたが、活用されなかった。

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