戦闘経過
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詳細は「レイテ沖海戦」を参照 午前6時32分、武蔵は距離40kmに敵味方不明飛行機を発見した。午前8時20分、栗田艦隊は第38任務部隊索敵隊第2群(カボット、イントレピッド)索敵機に発見された。イントレピッドの爆撃隊モート・エスリック中佐は、「戦艦4隻、重巡洋艦8隻、駆逐艦13隻」と報告する。「ブル・ハルゼー」(雄牛、猛牛の意)の異名をもつ積極的な性格のハルゼー大将は即座に攻撃命令を下した。このアメリカ軍の動きに対し、日本軍は第六基地航空部隊(福留繁司令官)が第38任務部隊第3群に零戦111機(爆弾装備機含む)、紫電一一型11機、彗星12機、九九式艦爆38機、天山8機という規模の攻撃隊を送り込んだ。この攻撃隊はアメリカ軍の的確な迎撃により壊滅し、空母に対する戦果は軽空母プリンストン撃沈のみだった。エセックス隊だけでF6F戦闘機1機の損失と引き換えに海軍の零戦27機、一式陸上攻撃機2機、夜間戦闘機月光1機、天山2機、九九艦爆4機、銀河1機、彗星1機、陸軍の一式戦3機、三式戦1機撃墜を記録している。 午前9時30分、3機の哨戒機型B-24爆撃機「PB4Y-1」が栗田艦隊に接触し、武蔵の見張員が発見した。武蔵の左舷高角砲、戦艦金剛、重巡洋艦筑摩が発砲した。同時に、栗田中将は武蔵に通信妨害電波の発信を命じた。10時頃、大和と軽巡洋艦の能代が約100kmにアメリカ軍機40機を探知する。10時26分、第1次攻撃隊(イントレピッド、カボット)45機(F6Fヘルキャット戦闘機21機、カーチスSB2Cヘルダイバー急降下爆撃機12機、TBFアヴェンジャー雷撃機9機、誘導機ビル・エリス中佐)が攻撃を開始する。この時点で猪口は砲術長の主砲発射要請を拒否して主砲発砲を許さず、副砲で迎撃させた。予定されていた海軍基地航空隊の援護が天候不良という理由で取りやめとなったことに武蔵の猪口艦長は嘆いていたという。 第一次空襲では小型爆弾1発が武蔵の一番主砲塔天蓋に命中し、室内灯が笠ごと落ちた。6機の雷撃機による攻撃では、魚雷2本が艦底を通過(この2本は命中したが不発だったという証言もある)、1本が武蔵の右舷中央に命中、第7、第11罐室に漏水が発生したが、これは機関科兵が罐の熱気で大火傷を負いつつ行った応急作業で食い止めた。武蔵はバルジへの浸水で右舷に5.5度傾斜したが、左舷への注水でバランスを取り戻した。この被雷衝撃で艦橋トップの九八式方位盤照準装置改一の台座が歪んで旋回不能となり、全主砲塔の統一射撃が不可能となったとされる。その後はそれぞれの主砲塔に設置してある照準システム及び後部艦橋の予備システムで射撃を続行した。ただし、主砲方位盤にもともと対空射撃の機能がなかった可能性がある。なお「被弾ではなく主砲斉射の衝撃で方位盤が故障した」と証言する乗員もいるが、公式記録によれば第一次空襲に於ける主砲の発砲は無い。また、主砲発射の衝撃に堪える方位盤が魚雷1本の命中で故障するなどありえず、高速急転舵の連続による艦体震動が原因と考える乗員もいる。さらにイントレピッド攻撃隊のビル・バン・アントワープ雷撃隊隊長は、武蔵艦首に魚雷を命中させたと証言している。武蔵は艦首に至近弾と記録した。 11時15分、武蔵は『雷撃機五機の挟撃を受け4本を避けたるも1本右舷後部に命中、右12、14区に浸水した。激動により主砲方位盤旋回不能となりたる他故障なし。目下詳細調査中』と艦隊司令部に報告する。11時36分には存在しない米潜水艦からの雷撃を回避し、11時57分に『出し得る最大速力26ノット』と報告した。 12時6分、空母イントレピッドからの第2次攻撃隊33機(戦闘機12、爆撃機12、雷撃機9)が攻撃を開始した。アメリカ軍機は栗田艦隊外周の駆逐艦、巡洋艦の対空砲火をくぐりぬけ武蔵に殺到していった。殺到の原因についてレイテ沖海戦を主軸にした書物などでは、リンガ泊地に於いて武蔵だけが塗装を塗りなおしたため、一番目立っていたのも要因とされることがある。46cm主砲三式弾9発発射。事前ブザーがなかったために多くの甲板員が爆風を受けたという。被害は、左舷に魚雷3本、艦首と艦中央部に爆弾2発というものだった。僚艦も武蔵の被害を目撃しており、大和は12時11分、武蔵に複数の魚雷が命中した時に発生する水柱を認めている。その武蔵では指揮装置の故障で高角砲の一斉射撃ができなくなり、各砲個別照準となって命中率が低下した。左舷中央部に命中した爆弾は、甲板2層を貫通して中甲板兵員室で炸裂した。爆風が通気孔を通じてタービン室に突入し、蒸気管が破損したために内側の1つの機械室内が高温となって使用不能となる。武蔵は3軸運転を余儀なくされ、最大速力は22ノットに落ちた。一番、二番主砲は魚雷命中による弾薬庫の直接の被害は無かったが、庫内温度が上昇し、弾薬庫に注水作業をしたため使用不能となったとする文献もある。ただし、武蔵の一番砲塔中央砲で三式弾の事故が発生して射撃不能になったものの、二番主砲塔、三番主砲塔は空襲が終わるまで射撃を続けている。また至近弾による弾片やアメリカ軍機の機銃掃射が、甲板上の機銃兵員達を殺傷した。武蔵の甲板に備え付けられている25mm対空機銃のほとんどは外気に晒されており、46cm主砲発砲の爆風から対空兵器と砲員を保護するシールドも、アメリカ軍のF6Fヘルキャットが6門装備するブローニング12.7mm重機関銃の掃射やロケット弾攻撃の前では無力だった。武蔵の乗組員の中にはアメリカ軍が反跳爆撃(スキップボミング)を行ったとする者もいる。13時13分、武蔵は司令部に以下の報告を行う。 主砲方位盤旋回不能、予備盤にて射撃可能。 一番砲塔中三式自爆(信管破裂)に依り使用不能。 第二機械室蒸気噴出左内軸使用停止、三軸運転、発揮し得る速力22ノット。 第二次空襲と第三次空襲の間に1時間ほど小休止があったため、武蔵では猪口艦長の指示により戦闘配食が配られた。13時30分、ミッチャー中将直率第3群の空母エセックス 、レキシントン (CV-16)を発進した第3次攻撃隊83機が栗田艦隊上空に到達した。エセックス隊が第一部隊輪形陣(大和、武蔵、長門 )、レキシントン隊が第二部隊輪形陣(金剛、榛名)を攻撃した。アメリカ軍機が撤退するまで武蔵は魚雷5本、爆弾4発、至近弾2発を受けた。武蔵は浸水と傾斜復元のための注水で艦首が水面近くまで沈み、速力が低下した。大和を中心とする第一部隊から落伍し、金剛を中心とした第二部隊に追いつかれていた。なお第二艦橋勤務の細谷は、武蔵が初めて主砲を発射した時刻を13時57分頃としている。第二部隊の軽巡洋艦矢矧も13時54分に武蔵発砲、長門も14時06分に「武蔵砲撃始む」と記録している。 14時15分、第4群の空母フランクリンから発進した第4次攻撃隊65機が来襲し、大和に爆弾1発が命中した。一連の攻撃でフランクリン攻撃隊(ジョー・キービー中佐)は武蔵に爆弾4発、魚雷1-3本命中、軽巡洋艦1隻撃沈を主張。14時45分、重巡洋艦利根の黛治夫艦長は鈴木義尾中将(第二部隊指揮官)に『武蔵に近寄る雷撃機を射つ為近寄られては如何』と意見具申する。20分後に『利根は暫く武蔵の北方に在りて敵機の来襲に備えよ』との返信があったが、これは「利根単艦で武蔵を護衛せよ」という意味であり、黛は鈴木を罵っている。それでも利根は武蔵に寄り添い、駆逐艦の清霜と共に護衛を開始した。14時50分、武蔵は大和に対し以下の報告を送った。 射撃能力は該砲(一番砲塔)以外さしたる故障なし。 両舷防水区画殆ど全部浸水又は注水の為速力を出し得ず。 出し得る速力20ノットの見込み 14時53分、栗田中将は『武蔵被雷1、計5、戦闘力発揮に支障あり。武蔵は清霜を附し要すれば「コロン島」経由、馬公市へ向かえ』と命じた。栗田中将が武蔵に撤退命令を出す中、第4群空母エンタープライズから発進した攻撃隊が栗田艦隊上空に到達した。武蔵もこれを探知し、14時50分にアメリカ軍機70接近中と報じ、さらに14時54分、旗流信号で『飛行機20機発見』を知らせた。5分後の14時59分、第2群空母の第3波攻撃隊30機(戦闘機15、爆撃機12、雷撃機3)が来襲した。この頃、シブヤン島やボアク島では、地元猟師達が山の中腹から「島のような巨大戦艦」とアメリカ軍機の激しい戦闘を観戦している。 エンタープライズ隊は栗田艦隊が変針し、戦艦武蔵、巡洋艦1隻、駆逐艦1隻が西に向かって分離する光景を見た。ロケット弾を装備したヘルキャットが利根と清霜を狙い、急降下爆撃機と雷撃機が武蔵を狙った。アメリカ軍機から観察すると武蔵は油を引いているだけで火災も起きておらず、艦体も水平だった。だが、武蔵は注水と被雷により大量の海水を飲み込んでおり、動きは鈍くなっていた。武蔵は回避行動もままならず、『武蔵被害累加せる如きも詳細不明』というほどの損害を受ける。特に前部艦橋防空指揮所(艦橋最上部)に命中した爆弾は、防空指揮所甲板、第一艦橋、作戦室甲板を貫通して爆発。爆風が第一艦橋へ逆流し、武蔵幹部達を殺傷した。防空指揮所では、高射長の広瀬栄助少佐、測的長の山田武男大尉を含む13名が戦死、猪口艦長を含む11名が負傷する。猪口艦長は右肩に重傷を負うが、指揮を続行した。作戦室では前日救助された摩耶副長の永井貞三大佐と軍医を含む5名が戦死、2名が負傷した。そして第一艦橋では、仮屋実航海長を含む39名が戦死、8名が負傷。加藤副長が指揮を継承し、三浦徳四郎通信長が臨時の航海長となった。エンタープライズ攻撃隊(戦闘機12、艦爆9、艦攻12)は戦闘レポートで武蔵に1,000ポンド爆弾11発、魚雷8本命中、重巡洋艦(利根)に爆弾命中、駆逐艦2隻撃破または撃沈を主張する。アメリカ軍機は艦首が沈下し、大火災を起こして完全に停止した武蔵を目撃している。また利根には爆弾2発が命中(250kg爆弾1発不発)、小火災が発生した。清霜にも一番発射管に小型爆弾1発が命中し、最大発揮可能速力が24ノットに低下した。 最終的に武蔵は爆弾10発以上被弾、魚雷10本以上を被雷した。「軍艦武蔵戦闘詳報」では魚雷命中20本被雷、爆弾17発命中、至近弾18発と結論づけている。生存者が戦後に結成した「武蔵戦友会」は、右舷に5本、左舷に20本以上、合計33本と推定した。艦の前部に著しい浸水を見た武蔵は前後の傾斜差が8メートルを超え、前部主砲の一番低い箇所は波に洗われるほどになった。このため必死の浸水防止の対策が採られた。大和からは、左に15度傾斜した武蔵の姿が目撃されている。武蔵は15時30分に舵取機電源切断による『我舵故障』を報告し、長門が確認した。第七号発電機タービンを担当していた玉沢兵曹は、被害の累加と共に次々と発電機が使用不能になり、最後の第七発電機も第五次空襲で停止・操舵不能になったと証言している。それでも約30分後には直接操舵が可能となった。武蔵は復旧作業をおこないながら重巡洋艦利根、駆逐艦島風、清霜、浜風に伴われて栗田艦隊から分離し、コロン湾を目指した。武蔵は大損害をうけながらも僅かながら戦闘力を維持しており、16時55分にはアメリカ軍機を撃墜したという。 宇垣纏第一戦隊司令官は著作「戦藻録」に『本反転に於いて麾下の片腕たる武蔵の傍を過ぐ。損傷の姿いたましき限りなり。凡ての注水可能部は満水し終り、左舷に傾斜10度位、御紋章は表し居るも艦首突込み、砲塔前の上甲板最低線漸く水上に在り。慰めの言葉も適当なるもの即座に出でぬなり』と述べている。宇垣は16時24分『全力を尽して保全に努めよ』、17時5分『自力又は曳航にて遠距離移動不能なる場合、一時附近島陰適当なる深所に曳航艦首をのし揚げ応急対策を講ずることを研究しおけ』と命じた。 栗田中将は「第一遊撃部隊戦闘詳報」にて『即ち敵機の空襲は逐次其の頻度と来襲機数とを増大するに反し、ラモン及レガスピー方面敵機動部隊に対する我が航空攻撃の成果未だ見るべきものなく。他方我が機動部隊本隊の牽制攻撃其の実効なき等、各部隊の協同は結実するに至らず。為に第一遊撃部隊の孤立奮戦となり徒らに被害累増すると共に、現在の儘東進せば日没前シブヤン海東方の狭小海域に於いて敵機の攻撃を受くる惧れあり(以下略)』と述べている。宇垣も『即ち武蔵は大和を救い、戦隊のみならず艦隊全般を自らの犠牲において掩護救出せるものといわざるべからず』と記した。武蔵は各艦隊、航空部隊の連携不徹底から結果として猪口艦長の遺書にあるように「栗田艦隊被害担当艦」となり、致命傷を負ったのである。
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戦闘経過
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西南西から進撃してくるオーストリア軍に対しアウグスト・ヴィルヘルムは全軍を率いて出撃、ブレスラウ郊外の村落に野戦築城を行い陣地化してオーストリア軍を迎え撃つことにした。11月22日、会戦は開始されオーストリア軍は猛砲火を浴びせたうえで西から南にかけて幅広い戦線で総攻撃をかけた。両軍の間で一日を通して激しい戦闘が行われたが、夜に入りプロイセン軍は力尽きて敗走、アウグスト・ヴィルヘルムは捕虜になった。彼の作戦についてクラウゼヴィッツはその著書戦争論のなかで、オーストリア軍が戦闘を求めて前進してきたらブレスラウ方面に戦線を下げて本格的な戦闘に入るのを避け、時間を稼いで大王率いるプロイセン軍主力の来援を待つべきであったと論評している。 プロイセン軍敗走後もブレスラウ市内にはまだ10個大隊規模の守備部隊が残っていた。しかしこの部隊は地元市民とザクセン軍の捕虜で編制されていたこともあって、市郊外での敗報が届くや戦意を喪失して次々に逃亡、残った将兵にもブレスラウ市民から抗戦しないよう圧力がかけられる有様で、抵抗を断念した指揮官は11月25日に降伏した。 一連の戦いによってオーストリアはシュレージェン主要部を制圧下に置くことができた。しかし同じころ西方では大王が軍事史上に名高いロスバッハの勝利を得てシュレージェンに転戦、ロイテンの戦いでオーストリア軍に大勝する。シュレージェンを巡る戦いはなお5年も続くのであった。
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この戦闘における両軍の戦力の詳細は不明であるが、おそらくカルタゴ軍は騎兵の全力で約6,000名、ローマ軍は騎兵とウェリテス(軽装歩兵)を合わせて約4,000名程度であろうと推測される。ハンニバルは両翼に精強なヌミディア騎兵を置き、中央にガリア・ヒスパニア騎兵を置いた。ローマ側は前面にウェリテスの戦列を並べ、その後方に騎兵を置いた。 カルタゴ軍の騎兵が突撃すると、ローマ軍軽装歩兵はピルム(投げ槍)を投擲した。しかし、カルタゴ軍の前進を阻止できず、逆に突入されて歩兵戦列は乱れ、またたくまに壊走した。続いてカルタゴ騎兵とローマ騎兵の交戦が始まった。もとより、ローマ軍は数で劣っており、次第に圧倒されだした。両翼のヌミディア騎兵が早々にローマ騎兵両翼を撃破し、ローマ軍中央は包囲されそうになった。さらにスキピオもカルタゴ騎兵によって負傷させられたため、ローマ軍は野営地まで撤退した。 なお、負傷したスキピオを包囲下から救い出したのは、リグリア人の奴隷という説と、息子プブリウス(後のスキピオ・アフリカヌス)という説が存在する。ただし、後者はスキピオ・アフリカヌスの偉大さを顕彰するための創作ではないかと考えられている。
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3月22日、海は大荒れであった。午前中、イギリス船団は数度航空攻撃を受けたが、損害はなかった。14時10分、軽巡洋艦ユーライアラスがイタリア艦隊発見を報告した。それはパロナ少将が指揮するイタリア巡洋艦部隊であった。ヴィアン少将はハント級駆逐艦5隻を護衛につけて船団を南西に退避させ、煙幕を張った。南東からの風により煙幕はイタリア艦隊のほうへ流れ効果的に働いた。この時の戦闘では両軍とも損害はなく、イタリア艦隊は15時15分に戦場を離脱した。この戦闘中、船団は空襲を受けたが被害はなかった。 ヴィアン少将はイタリア艦隊を追い返したので敵艦隊の脅威はなくなったと考え、船団との合流に向かった。だが、イタリア軍は撤退したわけではなかった。イタリア艦隊をまとめたイアキーノ中将はイギリス艦隊へ向かい、16時37分に英駆逐艦ズールーが再びイタリア艦隊を発見した。16時43分に戦闘が開始され、悪天候や煙幕による視界不良の中で砲撃戦が繰り広げられた。悪条件の中で、イタリア艦隊の大型艦は見事な射撃を見せた。英軽巡洋艦クレオパトラ(旗艦)にイタリア軽巡洋艦ジョバンニ・デレ・バンデ・ネレの砲撃が命中して15名が戦死、また伊戦艦リットリオの砲弾の破片で英軽巡洋艦ユーライアラスが損傷した。軽巡洋艦と防空巡洋艦を主戦力とするイギリス艦隊が砲撃戦で勝てる見込みはなく、駆逐艦による魚雷攻撃に賭けるしかなかった。そのためイタリア艦隊に接近し、戦艦や重巡洋艦の砲撃で被害を出す。イギリスの駆逐艦ハヴォック、キングストン、ライヴリィが損傷した。戦闘は18時56分に終了し、レーダーを持たないイタリア艦隊は夜戦を避けて北へ引き揚げた。
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12月18日朝、第20爆撃集団のB-29が前進基地を離陸した。その数時間前、シェンノート第14空軍司令官は、ルメイ第20爆撃集団司令官に対して空襲開始時刻を45分繰り上げるよう要請していたが、ルメイ少将から攻撃隊への連絡が失敗して、出撃する第20爆撃集団第58爆撃団のうち第40爆撃群には変更命令が届かないでしまった。 12時7分頃、第20爆撃集団のB-29による第一波攻撃隊は、東側から回りこむように漢口上空へ侵入を開始した。最初に侵入した3編隊合計33機のB-29は予定通りの手順で爆撃を行ったが、後続編隊のうち3個編隊が誤った手順で爆撃を行ったため火災の煙が目標上空を覆ってしまい、後続編隊で正しい目標を爆撃できたのは単独行動した数機のみで、残りの多くは中国人の民間人が居住する市街地を誤爆してしまった。 日本側は、B-29多数が武漢方面に接近中であるのを発見すると、第8飛行団長の青木喬少将の統一指揮の下で、飛行第85戦隊の四式戦闘機18機および飛行第25戦隊・第48戦隊の一式戦闘機約20機を迎撃に発進させた。日本側は、B-29爆撃機2機を撃墜(ただし不確実)・11機を撃破と記録している。13時10分頃に第一波攻撃隊が去ると、日本軍戦闘機も補給と整備、乗員の休養のため着陸した。 14時36分頃、第二波攻撃隊として第14空軍のB-24爆撃機34機・各種戦闘機149機が、5群に分かれて漢口上空に飛来した。第二波攻撃隊は、市街地を爆撃するとともに、日本軍飛行場を襲撃した。日本側は空襲警報を発して、戦闘機隊の稼動全機を迎撃に繰り出したが、多数のアメリカ軍護衛戦闘機に阻まれてB-24爆撃機にはたどり着けなかった。空中戦の結果、日本側はP-51戦闘機4機撃墜・3機撃破の戦果を主張しているが、代償に日本機4機が撃墜された。飛行場では日本軍航空機13機が離陸できないまま攻撃を受けて炎上し、6機が大破したほか、施設にも若干の損害があった。なお、アメリカ第14空軍側は、夕刻に出撃した中米混成航空団(CACW, en)のP-40N戦闘機3機が、帰還時刻が夜間になって無灯火の基地に着陸できず、乗機を捨ててパラシュート脱出している。そのうちの1機にはCACW司令のウィリアム・ノーマン・リード(en)少佐が乗っており、脱出に失敗して死亡した。 漢口の市街地では焼夷弾による大火災が発生し、長江岸から5km以内の範囲は3日間にわたって燃え続けた。
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戦闘経過
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6月12日、ウラジオ艦隊のうち「リューリク」、「ロシア」および「グロモボーイ」はピョートル・ベゾブラーゾフ(ロシア語版、英語版)中将に率いられてウラジオストクを出撃。ウラジオ艦隊司令官カールル・イェッセン少将は損傷修理中の「ボガトィーリ(英語版)」に将旗を掲げた。ところで、艦隊出撃は6月12日であるが、過去のウラジオ艦隊の行動は日本側にはトラウマとなっており、巡洋艦隊出撃前の6月9日には松前弁天島近海で「軍艦らしきものを見た」との報告が上がっていた。 問題の6月15日8時ごろ、防護巡洋艦「対馬」から沖ノ島近海でウラジオ艦隊を発見したとの報を受けた第二艦隊は、水雷艇隊を急行させると同時に往来の船舶に竹敷などへの退避を指令した。ウラジオ艦隊は日本側の動きに構わず対馬海峡に達し、まず輸送船「和泉丸」(日本郵船、3,225トン、肥後猪之丞船長)を発見する。「和泉丸」は6月13日に遼東半島の塩大澳を出港して日本に向かっていたものである。ウラジオ艦隊は「和泉丸」を停船させて乗船者に対し退去を勧告し、退去を確認後砲撃を加えて撃沈した。「和泉丸」に関して日本側の情報は少なく、4名が死亡して退去した乗船者のほとんどはウラジオ艦隊に収容されたものとみていた。戦争終結後の調査により、陸軍兵2名、海軍兵1名の便乗者3名を含む112名のうち、戦死者7名、倉野伊兵衛海軍上等兵曹を含む83名が捕虜として収容され、残る22名が生還したことが分かった。 「常陸丸」は「佐渡丸」(日本郵船、6,219トン、ジョージ・アンダーソン船長)とともに6月14日に宇品を出港し、「常陸丸」は大孤山、「佐渡丸」は塩大澳が目的地であった。両船の搭載部隊、船員その他便乗者は以下のとおりであった。 「常陸丸」(輸送指揮官:連隊長須知源次郎中佐、運送船監督官:山村彌四郎予備役海軍中佐) 後備近衛歩兵第一連隊本部および第二大隊第八中隊:727名(うち将校20名) 第一大隊の三中隊:不明 第十師団糧食一縦列:359名(うち将校4名) 海軍関係者:4名(うち将校1名) 各種乗組員:148名 総計:1,238名 「佐渡丸」(輸送指揮官:田村義一陸軍工兵大佐、運送船監督官:小椋元吉後備役海軍少佐) 野戦鉄道提理部:867名(うち将校18名) 第二臨時築城団:34名(うち将校9名) 攻城砲兵司令部:14名(うち将校3名) 戊碇泊場司令部:169名(うち将校4名) 海軍関係者:4名(うち将校1名) 便乗者:3名 各種乗組員:167名 総計:1,258名 「常陸丸」がウラジオ艦隊に遭遇したのは午前10時から11時の間とみられ、艦隊ははじめ空砲を発射し、間もなく実弾発射に切り替えられ、「常陸丸」は全速力で後方への遁走を図るも一発が「常陸丸」の機関部に命中したのをはじめに、近接射撃によりおよそ100発もの射撃を受けて戦死者が続出して機関は破裂し、やがて第三甲板から出火した。「常陸丸」船内は血の海そのものといった様相となり、わずかに残った第一連隊将兵は直ちに小銃で反撃するが、圧倒的な攻撃力の差は如何ともし難く、イギリス人船長ジョン・キャンベル(John Campbell)、機関長ジェームズ・ヒュー・グラス(James Hugh Grass)、運転士サミュエル・ジョゼ・ビショップ(Samuel Jose Bishop)も相次いで敵弾に倒れた。須知は運命を悟り、軍旗奉焼と旗竿の破壊を命じ、軍旗を奉じていた藤崎乕一陸軍二等卒らに対して生き残って事の仔細を報告するよう命じたが、直後に砲弾が命中して負傷したのち切腹。軍旗は大久保正少尉が旗竿を折って点火焼却した。連隊旗や重要書類の焼却を見届けると、残る将校も切腹、拳銃自殺および海中への投身自殺で須知と沈む「常陸丸」に殉じた。「常陸丸」は三度目の一斉射撃を受け、15時ごろに沈没した。「常陸丸」の戦死者は陸軍958名、海軍3名、乗組員130名の総計1,091名に達した。残る生存者のうち須知の遺命により脱出した藤崎を含む37名は御用船「土佐丸」(日本郵船、5,402トン)に救助され六連島に上陸。生存者の内訳は、後備近衛歩兵第一連隊本部の96名、第十師団糧食一縦列32名、海軍関係者1名、各種乗組員18名の計147名であった。 「佐渡丸」は午前6時20分に関門海峡を通過し、「常陸丸」に近接して航行していた。「常陸丸」と相前後して艦隊に遭遇し、反転して遁走を開始したが砲撃を受け、艦隊から軍使が派遣されて非戦闘員の「佐渡丸」からの退去を促した。1時間40分の猶予ののち、艦隊は「佐渡丸」に対して砲撃を開始し、続いて「ロシア」と推定された巡洋艦が「佐渡丸」の左右両舷に魚雷を命中させて退去した。魚雷は機関部に命中して浸水が激しく、乗船部隊は天皇陛下万歳を三唱したのち最後の「儀式」の準備を整えていたが、艦隊が急速に去って行ったのを見て生き残るための方策に切り替えた。そして、30時間もの漂流ののち沖ノ島にたどり着き、危機を脱した。「佐渡丸」の戦死者は陸軍219名、乗組員17名の総計236名、捕虜は陸軍(宮沢泰次郎陸軍三等軍医)と海軍(小椋)の将校各1名、文官14名、乗組員その他13名の計29名、生存者は野戦鉄道提理部694名(うち将校12名)、第二臨時築城団22名(うち将校5名)、攻城砲兵司令部13名(うち将校3名)、戊碇泊場司令部135名(うち将校4名)、海軍関係者3名、便乗者2名、各種乗組員124名の計993名であった。
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戦闘経過
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1944年7月24日早朝、米軍は第2海兵師団の上陸用舟艇100隻以上を島の南西部、テニアン港前方に一斉に前進させた。しかし、米軍上陸部隊が海岸から200m程に接近した瞬間、一斉に重砲が攻撃を開始。米軍を撃退した。 また、日本海軍第56警備隊ペペノゴル砲台(小川和吉海軍大尉)、二本椰子砲台(柴田卯助海軍中尉)両砲台は戦艦コロラドに22発の命中弾を与え、駆逐艦ノーマン・スコット(en:USS Norman Scott (DD-690))も命中弾を浴び、シーモア・D・オーウェンス艦長以下多数が死傷した。しかしこれは米軍の陽動作戦であった。 7時頃、米軍第4海兵師団はLCVP(ヒギンズ・ボート)、LVT(水陸両用装軌車)からなる上陸用舟艇約150隻で、陽動作戦のため手薄となった北西部のチューロ海岸に上陸した。水際に配備された第3中隊と海軍警備部隊は、米軍の砲爆撃と水際の戦闘のためほとんど全滅し、米軍は日没までに第4海兵師団主力と第2海兵師団の1個大隊、さらに山砲(75ミリ曲射砲)4個大隊を上陸させた。この上陸での、米軍死傷者は240名(うち戦死15名)であった。 そして、24日の深夜に日本軍による反撃が開始されたが、米軍の猛烈な弾幕射撃と照明弾による妨害により、日本軍の進撃が遅れた。それにより、調整の取れない攻撃を行い、約2,500名にも及ぶ損害を受けて反撃は失敗に終わった。この攻撃で、第50連隊第1大隊、同第2大隊、第135連隊の第1大隊長は戦死し、戦車は4両を残すだけとなった。 日本軍の攻撃を撃退したアメリカ軍は、25日、第2海兵師団の残余を上陸させ、南下を開始した。日本軍は新防衛線を構築するとともに、民間人の中から16歳から45歳までの男子、約3,500名を集め民間義勇隊6個中隊を編制し、戦闘に協力させた。だが、7月30日までにアメリカ軍は防衛線を突破し、テニアン市街を占領した。 7月31日、カロリナス高地北方に新防衛線を構築した日本軍は反撃を開始、マルポ水源地、テニアン町南側付近、第三飛行場南側で戦闘を行った。戦闘は夕刻まで続いたが日本軍は敗れ、島南端のカロリナス高地へ撤退した。この戦いで同島唯一の水源地であるマルポの井戸は米軍が占領し、日本軍は長期の抵抗を行うことが困難となった。夜半、緒方連隊長はグアム島の第31軍司令官小畑英良中将に対し、最後の報告を打電する。 翌8月1日も日本軍は前夜半から早朝にかけて三度にわたる反撃を行ったが、失敗。海軍の栗野原大佐、設営隊長林技術少佐をはじめ多くの将兵が戦死した。 8月2日、緒方連隊長は軍旗を奉焼、残存部隊と民間義勇隊等約1,000名が、アメリカ軍に対し突撃を敢行した。アメリカ軍は、機関銃などにより猛烈な防御砲火をあたえたため、日本軍に死傷者が続出し、緒方連隊長は後退中に戦死した。 また角田司令長官は手榴弾を持って壕を出たまま戻ることはなく、三和参謀長以下海軍の幕僚は自決し、第56警備隊司令大家大佐も戦死した。結果、日本軍の玉砕という形で、テニアン島における組織的戦闘は8月3日の夜明けに終結した。 その後も生存者は何人かの集団となって米軍施設などを破壊して遊撃戦を続けたが、テニアン島は隆起珊瑚礁からなる平坦な島で、遊撃戦には不向きな地形であった。
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戦闘経過
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1942年(昭和17年)8月6日午後10時、ラバウルから異常電波傍受の報せを受けた横浜海軍航空隊は、大艇の発進時間をいつもより繰り上げ、その発進準備にかかった。 そして翌7日午前4時10分、発進準備を終えた大艇はいよいよ離水を開始しようとする。しかし、その瞬間に米艦載機約10機が来襲。泊地の大艇は全滅し、フロリダ島の水上戦闘機隊も同じ頃全滅した。 午前7時過ぎに第二波の空襲を行った米軍は、午前9時に上陸用舟艇約100隻をフロリダ島の湾に向け発進させたが、途中で引き返して午前10時にガブツの東岸に上陸した。ガブツの守備隊には武器がなく、タナンボゴからの援護を受けたものの、同日中に占領された。 午後9時、米軍はタナンボゴの北側から6隻の上陸用舟艇で進撃を開始した。しかし、進撃の途中に陸岸から50m程先にあるリーフに先頭艇が座礁し、これを見ていた日本軍守備隊はこの舟艇を襲撃した。この攻撃に驚いた米兵は慌てて後続艇に乗り移り、撤退した。この攻撃により、米兵10数名が戦死し、日本軍は舟艇に置き去りにされた機銃を鹵獲した。 翌8日午後3時、米軍はガブツとタナンボゴをつなぐ土手づたいに進撃を開始した。米軍は日本軍陣地の200m手前まで進撃するも、日本軍の抵抗にあい後退した。 午後4時、米軍は兵員輸送用の水陸両用車輛(LVT)2両を以ってタナンボゴに上陸を試みた。これを見た日本軍守備隊約50名は、LVTに駆け寄ると、転輪とキャタピラの間に鉄棒や棍棒をこじ入れLVTの動きを止め、ガソリンをかけてトラクターに火を放った。これにより二輛のLVTは炎上したが、ガブツからの機銃弾により日本兵42名が戦死した。 午後5時、米軍はタナンボゴ島の前面500mの至近距離に軽巡洋艦1隻(サンファン)、駆逐艦2隻(モンセン、ブキャナン)を進出させた。3隻は一列に並び左砲戦の隊形をとると、タナンボゴ島に対して艦砲射撃を開始した。この砲撃により日本軍守備隊は3名を残して全員玉砕し、司令の宮崎大佐は壕内で自決した。 この砲撃の後、米軍は同島に上陸し、無血占領を果たした。
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戦闘経過
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「リュッツェンの戦い (1632年)」の記事における「戦闘経過」の解説
1632年11月16日、この日は早朝から霧が濃く、午前中は両軍共に行動できなかった。午前11時頃、ようやく霧が薄れてきたので、グスタフ・アドルフは攻撃開始を命令した。砲列が火蓋を切ったのを合図に、プロテスタント軍は前進を開始した。間もなく、プロテスタント軍中央の歩兵は塹壕を突破し、皇帝軍の歩兵戦列を押し込んで陣地に踏み入り大砲を奪い取った。これに対し、ヴァレンシュタインは自ら騎兵を率いて援護に駆けつけ、プロテスタント軍中央を押し戻して大砲を奪還した。プロテスタント軍左翼は、風車の丘からの皇帝軍の砲撃によりほとんど前進することができなかった。グスタフ・アドルフ指揮のプロテスタント軍右翼だけが皇帝軍左翼を圧倒しつつあった。 中央の攻撃が失敗したとの報告を受けたグスタフ・アドルフは、自ら騎兵の一部を率いて中央の援護に回った。しかし、戦場を覆う霧と硝煙、自身の近眼のために、グスタフ・アドルフは少数の護衛兵とともに敵中に突出してしまった。皇帝軍の騎兵が襲い掛かり、グスタフ・アドルフは腕を撃たれて負傷。護衛兵と共に後退しようとしたが、皇帝軍騎兵の突撃による乱戦に巻き込まれて戦死した。背中に銃弾を受けて落馬したところを、ピッコロミーニ指揮下の騎兵によって頭を撃ち抜かれたという。 ところが、あまりの視界の悪さのために両軍ともグスタフ・アドルフの死を直後には察知しておらず、そのまま交戦を続けていた。騎兵の援護を得たプロテスタント軍中央の歩兵は、皇帝軍中央に対して猛攻を加えたが、皇帝軍の砲兵と歩兵の射撃、騎兵の突撃によって撃退された。プロテスタント軍はあきらめず、その後も何度も攻撃を仕掛け、中央では陣地と大砲の奪い合いが続いた。 午後2時、パッペンハイム率いる騎兵隊が戦場に到着、劣勢に陥っている皇帝軍左翼を援護するために、プロテスタント軍右翼に向けて突撃した。これを見たヴァレンシュタインは「あれぞ我らがパッペンハイムだ!」と叫んだ。パッペンハイムは5度にわたって突撃を敢行し、プロテスタント軍の攻勢を頓挫させて、皇帝軍左翼の劣勢を立て直すことに成功した。しかし、プロテスタント軍右翼は堅固であり、これを撃破することまではできなかった。午後3時、五度目の突撃の際にパッペンハイムが銃弾を受けて負傷し、後方に送られると、騎兵の突撃は停止した。パッペンハイムは戦傷がもとで、翌17日に死亡した。 この頃にはグスタフ・アドルフ戦死の噂が戦場を駆け巡り始めていた。プロテスタント軍は一時的なパニックに陥り、前線の部隊は後退しようとした。壊走の一歩手前の状態だったが、序列三位の指揮官であるクニップハウゼンが冷静になるよう全軍に呼びかけ、崩壊を防ぐことに成功した。午後3時、序列二位の指揮官であるベルンハルトはグスタフ・アドルフの死を知り、全軍に指揮権の掌握を宣言した。スウェーデン宰相であるオクセンシェルナも、直ちにベルンハルトを補佐し戦闘を継続させた。 午後4時、プロテスタント軍は最後の突撃に移った。ベルンハルトはグスタフ・アドルフの死を全軍に伏せていたが、おそらく指揮権が移動した時点で大半の将兵は王の死を悟っていたと思われる。プロテスタント軍はグスタフ・アドルフの仇をとるべく猛烈な勢いで突撃を仕掛けた。皇帝軍もこれに応戦し、両軍ともに多大な死傷者を出した。しかし、最終的にはプロテスタント軍の勢いが勝り、皇帝軍を圧倒して中央陣地を制圧し、全ての大砲を奪い取った。左翼、右翼も同様な状況であり、士気の衰えた皇帝軍は全戦線で後退した。 午後6時、パッペンハイム軍の後続の歩兵約3000-4000が戦場に到着した。すでに日は落ちて、敵味方の識別が困難になっていたため、ヴァレンシュタインは彼らを戦闘に参加させなかった。この頃には、同様の理由からプロテスタント軍も攻撃を停止していた。翌17日早朝、ヴァレンシュタインはパッペンハイム軍の歩兵に後退の援護をさせ、全軍にライプツィヒまで撤退するように命じた。整然とした撤退につけ入る隙を見つけられず、また一時の勢いも失われていたため、プロテスタント軍は追撃をしなかった。 こうしてリュッツェンの戦いは終わった。皇帝軍が撤退すると、プロテスタント軍はグスタフ・アドルフの遺体を探した。王の遺体は、折り重なった遺体の間から発見され、その身体からはシャツ以外の全ての装備が奪い取られていた。この日着用していた黄色のバフコート(上図中央参照)は、戦利品として皇帝の元に送られたが、第一次世界大戦後にオーストリアからスウェーデンに返還された。
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戦闘経過
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諸葛亮は祁山に出撃するとともに、魏の北方でしばしば魏と対峙していた鮮卑族の軻比能に使者を送り、もとの北地郡(現在の甘粛省東部と寧夏回族自治区および陝西省北西部にまたがる地域)石城県にまで進出し、諸葛亮に呼応させた。曹叡は荊州より司馬懿を詔勅で招き寄せて長安に駐留させ、張郃・郭淮・費曜・戴陵(中国語版)らを指揮下に置かせた。また、詔勅を下して牽招に軻比能討伐を命じた。
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戦闘経過
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山下大将の危惧は現実のものとなる。台湾沖航空戦で大損害を被ったはずのアメリカ海軍機動部隊は健在で、逆に日本側航空兵力300機以上の喪失により、事実上フィリピンの制空権を失った状態で戦う状況となった。10月20日に上陸してきたアメリカ軍は敗残兵などではなく、第6軍(クルーガー中将)の兵員10万名(最終的に20万)の大部隊だった。その総指揮官は、かつて「私は戻ってくる。(I shall return. アイシャル・リターン)」という台詞を残してフィリピンを去ったダグラス・マッカーサー大将であった。
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戦闘経過
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この時の両軍の兵力は諸説があって定かではないが、豊臣軍は8万、島津軍は3万5000ほどだったといわれる。砦の守将 宮部継潤らを中心にした1万の軍勢が、空堀や板塀などを用いて砦を堅守。これを島津軍は突破できずに戦線は膠着状態に陥った。ここに秀長の本隊が救援にきたが、状況を見た軍監の尾藤知宣は救援は不可能、島津の軍に当たるべからずと秀長に進言し、秀長本隊は軍監の言に従い、救援の中止を受け入れた。しかし豊臣秀長麾下の藤堂高虎の500名と宇喜多秀家麾下の戸川達安の手勢らが宮部継潤の救援に向かい、島津軍を翻弄。ここに小早川・黒田勢が挟撃を仕掛けたため、島津軍は大将格の島津忠隣・猿渡信光等のほぼ全員が討死し完敗した。秀長らは追撃を行おうとしたが、尾藤が深追いの危険を主張したために追撃戦は行われなかった。後に、日向国高城にて島津家久軍を撃退し大軍を防いだことから、秀吉は「法印(継潤)事は今にはじめぬ巧者ものなり」(『川角太閤記』)と継潤を褒賞した。この戦いは、豊後国にて防備を固めよという秀吉の命令を順守せず、独断で会戦(戸次川の戦い)に望んだ上で敗北した仙石秀久の失態を挽回、秀吉による九州平定を盤石なものにし、窮地に陥った大友義鎮を救った戦いでもあった。
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「ヘンダーソン基地艦砲射撃」の記事における「戦闘経過」の解説
1942年(昭和17年)10月11日、第二次挺身攻撃隊 トラック島出撃。10月12日、ルンガ沖に軽巡洋艦1、駆逐艦7、大型輸送船2隻という航空隊の報告を受けた。 10月13日朝、南進を続ける第二次挺身攻撃隊に悪い知らせが届いた。先に出撃した第一次挺身攻撃隊の重巡洋艦4隻が、ガダルカナル島に向かう途中、サボ島沖で連合軍艦隊のアメリカ巡洋艦隊に待ち伏せされ、重巡古鷹、駆逐艦吹雪が沈没し、重巡青葉も大破された(サボ島沖海戦)。ラバウルの第十一航空艦隊から、ガダルカナル島にいないはずの、輸送船2隻、駆逐艦2隻からなるアメリカ艦隊と支援艦隊が同方面へ進行中、との報告も届いた。 10月13日夕刻に、第二航空戦隊の上空直衛機6機が空母へ帰艦し、第二次挺身攻撃隊は28ノットの高速でガダルカナル島へ進撃した。 以下時系列は「昭和17年10月5日~昭和17年10月14日 挺身攻撃隊記録(第三戦隊.金剛.榛名のガ島飛行場砲撃)」による。 13日20時30分、総員戦闘配置完了。 22時38分、エスペランス岬に海軍陸戦隊によるかがり火を確認。夜戦のため、エスペランス岬、タサファロング岬、クルツ岬の計3か所に灯したかがり火を目標に、三角法で測距して飛行場の位置を割り出す作戦が事前に進められた。 23時00分、クルツ岬を右13度8kmに見て、艦隊進路130度に変針。 23時17分、栗田司令官、射撃開始命令。 23時33分、空中班の重巡古鷹、衣笠の零式水上偵察機が、ヘンダーソン飛行場上空から赤、白、緑の吊光弾を投下して攻撃目標を示した。 23時37分、砲撃開始。金剛、新型三式弾104発を交互射撃。 23時38分、榛名、対空用零式弾189発を交互射撃。 23時46分、ルンガ岬に配置するアメリカ海兵隊が探照灯で金剛を発見し、報復射撃を開始。沿岸に配置していた12.7cm砲6門で金剛を狙ったが、射程9,000メートルで金剛に届かず、手前の駆逐艦を狙うも命中弾は無かった。 23時53分、金剛、榛名、探照灯に対し副砲で反撃。 23時57分、三式弾を撃ち尽くす。 14日00時13分、全艦、取り舵反転。 00時20分、砲撃再開、金剛、榛名ともに徹甲弾の一式弾を射撃開始。三式弾、零式弾共に打ち尽くし、徹甲弾に変更している。 00時27分、敵魚雷発見の報を受け、右45度に艦隊進路変更。 00時33分、魚雷発見は誤認とわかり、艦隊進路を元に戻す。 00時50分、アメリカ軍の魚雷艇1隻を、前路警戒隊の駆逐艦長波が発見し、撃破。 00時56分、全艦に「撃ち方・止め」の命令。転舵、面舵3度、最大戦速29ノットで戦線より離脱開始。 01時22分、敵魚雷艇発見。長波が魚雷艇3隻を撃退。 04時48分、第二航空戦隊の零戦、第三戦隊の上空直衛を開始。 12時00分、前進部隊本隊に合流。
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戦闘経過
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「フランスのノルマンディー侵攻 (1202年-1204年)」の記事における「戦闘経過」の解説
戦争が開始されると、ジョンは前回(1199年)の戦争の時と同様に、守勢に徹した。会戦を避け、用心深く大陸領内の重要な城を堅く守備した 。しかしジョン王の軍事作戦は、戦争が進むにつれて秩序を欠き始めた。そしてフィリップ2世はイングランドの大陸領東部に向けて着実に進軍していた。1202年7月、ブルターニュ公アルテュール1世率いるブルターニュ軍がミラボー城(英語版)を包囲した。ミラボー城にはジョン王の母、アリエノールが滞在しており、ジョン王は急遽家臣のウィリアム・ド・ロッシュ(英語版)率いる傭兵部隊を援軍としてミルボーに差し向けた。このジョン王の機敏な対応にアルテュールは対応しきれず、1202年8月、ミラボーの戦い(英語版)にてアルテュールはウィリアム率いるイングランド傭兵軍に敗れ、アルテュールと共にいた反乱軍首謀者は全てイングランド側に捕らえられた。この戦いにより、英仏間の南方戦線が危ういことを知ったフランス王フィリップ2世は、イングランド大陸領東部より軍を引き、南部方面に軍を進軍させイングランド軍の南進を抑えた。 ミラボーの戦いの後、ジョンはフランス・ブルターニュに対して優勢となった。しかしながら、ジョン王は彼の大陸における有力な同盟者であるウィリアム・ド・ロッシュやミラボーにて手に入れた捕虜に対する扱いの酷さにより、その有利さを無にしてしまった。ロッシュはアンジューにおいて有力な貴族であったにもかかわらず、ジョンはロッシュのことをまともに相手をせず、ロッシュは屈辱的な思いをした。また捕虜の扱いも非道なものであり、22人もの捕虜が悪環境に耐えきれず亡くなった 。この頃、多くの貴族たちは婚姻関係を通じて密接に結びついていたため、このジャン王の横暴は到底受け入れられないものとして、彼らの親戚を通じて広く貴族たちの反感を買うこととなった 。この事件ののち、ロッシュを始めとするアンジュー・ブルターニュ地域におけるイングランド側の貴族たちはジャン王を見限り、フランス・フィリップ王に味方した。またブルターニュではイングランドに対する反乱も発生した。またこの頃、ジョン王の財政状況は脆いものであった。ジャン王が軍事にかけていた資金を考慮に入れると、圧倒的と言う訳ではなかったもののフィリップ王はより多くの資金を軍事にかけることができており、資金面ではイングランドより有利であったと言う。1202年から1203年にかけて、豊富な資金を元にフィリップ2世はノルマンディー公国ととフランス王国の国境線ラインに3,037人の軍団を配置した。その内訳は、257人の騎士、267人の騎乗守衛官、80人の騎乗クロスボウ兵、133人の徒歩クロスボウ兵、2000人の歩兵に加え、300人の傭兵で構成されており、この一団はCadoc という人物に率いられていた。この軍団はフランス王国の国境を守備し、ノルマンディーがのちにフランスに征服されたとき、解散された。 1203年より、ジョン王についていた地方領主たちが徐々にジョンの元を離れたことで、大陸におけるジョン王の軍事的行動は制限され始めた。彼は教皇、インノケンティウス3世に紛争の調停を要請したものの、うまくいかなかった 。ジョン王は徐々に不利になり、ミラボーの戦いの後捕囚し続けていたアルテュールを殺害し、潜在的なライバルを殺すことでブルターニュにおける反乱の可能性を無くそうとした。実際、アルテュールははじめはFalaise城にて捕囚されており、のちにRouen城に移されたとされているが、その後どうなったか分かっていない。現代の歴史家は、アルテュールはその後ジョンに暗殺されたと考えている 。アルテュール暗殺の噂は国中に拡がり、更なる地方領主の離脱を引き起こした。
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戦闘経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/10 18:49 UTC 版)
1月17日朝、海戦は開始された。火力に劣る水雷艇ソンクラがフランス艦隊旗艦「ラモット・ピケ」により撃沈され、炎上していた水雷艇チョンブリ以下は「ツール」「マルヌ」により他の水雷艇もろとも撃破される。旗艦トンブリも射距離12,000mから20cm主砲による砲撃を開始したが、練度不足でなかなか命中せず、逆にフランス艦隊の集中砲火を浴び艦橋が炎上した。更に、右舷側に浸水を起こした上、射撃指揮装置が燃えてしまったので戦闘不能となり撤退を開始したが、火災を消火しきれず同日16時40分に横転・擱座。僚艦スリ・アユタヤ以下の第1戦隊が到着したときには戦闘は終結しており、生存者を救助して撤退した。 一方フランス艦隊は1隻の損失も無く帰還を開始。タイ空軍が攻撃を行うも、最初トンブリを誤爆。その後ラモット・ピケを攻撃するが命中弾はなかった。 結局、索敵や砲撃の精度や技量の差がそのまま勝利につながり、タイ海軍の技量不足を見せてしまい、フランス側の「ワン・サイド・ゲーム」となってしまった。
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戦闘経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 15:58 UTC 版)
8月6日0時30分、5隻(川内〔第三水雷戦隊司令官、伊集院大佐〕、萩風〔第4駆逐隊司令、杉浦嘉十大佐〕、嵐、江風、時雨〔第27駆逐隊司令、原為一大佐〕)はラバウルを出撃した。偽装航路を取ったのち、ブーゲンビル島東方を南下した後の午前9時30分、ブカ島近海で川内と駆逐艦は解列した。川内はブインへ、コロンバンガラ輸送隊(輸送隊〈萩風、嵐、江風〉、警戒隊〈時雨〉)はコロンバンガラ島へと向かう。日本側の上空直衛は天候不良のため取止めとなったが、米軍側は大型爆撃機でコロンバンガラ輸送隊を発見している。 夕刻、輸送隊と警戒隊は単縦陣(萩風〔旗艦〕、嵐、江風、時雨)を形成した。30ノットの速力を持ってベラ湾に入る。単縦陣の最後尾(四番艦)を航行していた「時雨」は敵艦隊の出現を予期して、三番艦との距離を1,000メートルに開き、砲の照準を5,000メートルに、魚雷の深度を2メートルに、射角を20度に設定した。時雨(第27駆逐隊)の報告によれば、当日の天候は曇り、視界5000~8000mで、東方は特に視界不良だったという。 一方、第31.2任務群は偵察機からの「東京急行出発」の報を受け、9時30分にツラギ島を出撃する。コロンバンガラ島の南西方からベラ湾に入り、探知と発見を避けるためにコロンバンガラ島西部の海岸ぎりぎりに航行する。やがて第12駆逐群は北上して速力を15ノットに落とし、第15駆逐群はUターンしてコロンバンガラ島西岸沖で待機した。ムースブルッガー中佐は、ルンガ沖夜戦やクラ湾夜戦、魚雷艇隊の夜間襲撃における味方の失敗の轍を踏まぬよう、わずかな光すら見せる事がないように発砲制限を徹底させた他、魚雷発射管には光除けのカバーを装着させていた。21時33分、ダンラップのレーダーはコロンバンガラ輸送隊を探知する。3分後、ムースブルッガー中佐は第12駆逐群に魚雷発射を命じる。同時に第15駆逐群に西方への移動を命じ、コロンバンガラ輸送隊に対して丁字戦法の態勢をとらせた。第12駆逐群は63秒間隔で三艦合計24本の魚雷を発射した後、面舵に針路をとって姿を消した。 コロンバンガラ輸送隊は310度19海里の方向に「巡洋艦二隻 駆逐艦三隻」からなる敵を発見したが、その直後、第12駆逐群から発射された魚雷が萩風、嵐、江風にそれぞれ2本以上命中し、江風は轟沈して、萩風と嵐は航行不能に陥った。コロンバンガラ輸送隊が雷撃により立ち往生するのを確認した第15駆逐群は、頭を押さえる形で一斉に砲門を開く。集中砲火を浴びせかけられた萩風と嵐は、まもなく沈没した。日本側3隻(萩風、嵐、江風)が爆発する様子はまるで「仕掛け花火のような壮観さ」であり、また、コロンバンガラ島を隔てたクラ湾で行動していた魚雷艇員の回想では「火山の爆発」を思わせるようなものであったという。 時雨はアメリカ側駆逐艦を発見後、面舵に転舵して魚雷を発射したが、命中した魚雷はなかった。その時雨にも、第12駆逐群が発射した魚雷のうち3本が到達し、2本は艦底を通過していった。また魚雷1本が舵に命中して穴を開けたものの爆発しなかった。魚雷を8本発射した時雨は、煙幕を展開して一旦退却した。約30分後、次発装填後に戦場に戻ってきたものの「状況極めて不利」と判断し、避退した。モースブラッガー中佐指揮下の米駆逐艦3隻は時雨を追跡したが逃げ切られ、ベラ湾に戻ると6隻で45分間にわたり日本軍生存者の救助をおこなった。逃げ切った時雨はブイン輸送を終えた川内(6日21時30分ブイン着、7日00時30分出発)と8月7日午前8時ころ合流した後、14時30分にラバウルに帰投した。 アメリカ側は駆逐艦6隻で魚雷合計34本を発射し、推定6~8本が命中した。日本側生存者は、萩風と嵐が各70名・江風約40名(合計約190名)、陸兵約120名であった。萩風と嵐の乗員はともに178名(嵐水雷長によれば182名戦死)が、江風の乗員は169名が戦死した。輸送隊を指揮した第4駆逐隊司令杉浦嘉十大佐と萩風駆逐艦長の馬越正博少佐はベララベラ島へたどりつけたが、嵐駆逐艦長の杉岡幸七中佐はベララベラ島へ向かう途中に溺死した。江風駆逐艦長の柳瀬善雄少佐も戦死した。また、コロンバンガラ輸送隊が乗せていた増援部隊940名のうち820名が戦死して、輸送は完全な失敗に終わった。時雨は「駆逐艦3隻、魚雷艇、飛行機の包囲攻撃を受けた」と報告する。また反撃により駆逐艦1隻大破を報じ、日本側の大本営発表では「飛行機、魚雷艇と協同する敵水雷戦隊と交戦し駆逐艦1隻を撃沈、わが方もまた駆逐艦1隻沈没、1隻大破」とする。ただし、第31.2任務群に全く被害はなかった。 増援部隊壊滅の報を受けた陸軍側は、ムンダ防衛を事実上放棄してコロンバンガラ島の防衛強化に重点を置くよう命令した。日本側生存者が大発動艇などでブインに到着したのは、8月25日であったという。第4駆逐隊司令から報告を受けた大本営は、連合軍のレーダー活用、優秀駆逐艦のかわりに輸送作戦に投入する高速輸送艦の開発を認識している。キスカ島撤退作戦を終えて瀬戸内海に帰投していた島風型駆逐艦島風(第二水雷戦隊所属)も、僚艦と共に電探射撃の研究実施、次期作戦に備えた。
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戦闘経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/19 06:51 UTC 版)
「セント・ジョージ岬沖海戦」の記事における「戦闘経過」の解説
第二回ブカ島輸送は第一回輸送と同じ顔ぶれで行われ、11月24日13時30分にラバウルを出撃した。輸送隊は天霧に陸兵291名と海軍要員2名、物件12トンに軍犬15匹、夕霧に陸兵303名と海軍要員2名および物件10.4トン、卯月に陸兵316名と物件10.5トンをそれぞれ載せ、輸送物件は甲板上に搭載して大発を曳航しながらの航行であった。20時49分にブカ島に到着し、陸兵と輸送物件を降ろし引き揚げ陸兵21名と海軍要員688名、捕虜1名を収容する。警戒隊は沖合いで敵襲に備えていたが、22時24分に魚雷艇群を発見して交戦し、これを追い払う。22時45分、収容を終えた輸送隊はブカ島を離れ、警戒隊が輸送隊の3海里から4海里先を航行してラバウルに向かった。輸送隊の速力は24ノット、月はなく、スコールが時折ふる暗夜だったという。 アメリカ軍がいつ日本側の動きを察知したのかは定かではないが、11月24日の午後までには第3艦隊の情報部が「東京急行」の動きを察知し、参謀は無線連絡でニュージョージア島とアルンデル島(英語版)の間にある泊地で燃料補給中の第23駆逐部隊を呼び出し、以下のような指令を発した。 31ノット・バーク、ブカ - ラバウル撤退線を横切れ・・・・・・敵が探知した場合は、貴官はなすべきことを知っているはずだ — E・B・ポッター『BULL HALSEY/キル・ジャップス! ブル・ハルゼー提督の太平洋海戦史』415ページ 参謀は、再三にわたって「31ノット出せる」と報告していたバーク大佐をからかうつもりでバークの名前の前に「31ノット」を付け加えて「31ノット・バーク」と命名して電文を発信し、「31ノット・バーク」は以後バーク大佐の愛称として広く知れ渡る事となる。また、バーク大佐にとってもこの迎撃戦は一つの機会であった。これよりさかのぼる事約3ヵ月半前、バーク大佐はポエニ戦争でのシピオウ・アフリケイナスの戦法に範を得て、日本海軍の夜戦戦術に対抗できる戦法を練り上げていた。しかし、この戦法を引っさげて戦いに望む前に、一時的に駆逐艦から離れる事となってその機会を得なかった。直後に起こったベラ湾夜戦では、後任のフレデリック・ムースブラッガー中佐がバーク大佐の戦術を理解して戦い、完勝劇を収めた。ここに、自ら考案した戦法を自ら駆使する機会が到来したのである。第23駆逐部隊は15時30分に泊地を出撃して30ノットの速力でブカ島西方に急行する。ところが、全艦の給油が完了しないうちに司令を受けて出撃したため、可動全力の出撃とはならなかった。また、攻撃に失敗した時に備えて魚雷艇群を先行させた。警戒隊が22時24分に発見して交戦した魚雷艇群とは、この先回りしていた魚雷艇群のことである。 23時41分、第23駆逐部隊中のバーク大佐直率の第45駆逐群は、警戒隊の2隻をレーダーで探知する。続いて23時56分、バーク大佐は指揮下のチャールズ・オースバーン、ダイソン、クラクストンに警戒隊の側方から魚雷を発射させて避退する。後続のオースティン中佐の第46駆逐群は、頃合を見計らって砲撃できるよう態勢を完了している。一方の警戒隊と輸送隊は、第23駆逐部隊になんら気づくことなく直進を続けていたが、輸送隊からは先行する警戒隊の姿は全く見えなかった。11月25日0時2分、第45駆逐群から発射された魚雷は、バーク大佐の「計算したとおりの魚雷の到達点」にさしかかった警戒隊を襲い、3本が命中。大波は0時6分に早くも沈没して巻波も約20度傾斜する。そこに第46駆逐群が襲い掛かり、集中砲火を浴びた巻波も1時ごろに沈没していった。巻波は沈没寸前に魚雷を発射し、そのうちの1本はコンヴァースに命中したが不発だった。 日本軍輸送隊(天霧、夕霧、卯月)を指揮していた山代大佐は、前方に火柱が上がるのを見て面舵に針路をとらせ戦闘配置を令する。天霧水雷長は「湾外に出て味方警戒隊(大波、巻波)と思ってそれらしい艦影に接近したら、敵駆逐艦だったので驚いた」と回想している。輸送隊は「旧式の我々を、精鋭の夕雲型駆逐艦2隻が護衛している」「ラバウルの目の前のセントジョージ岬沖まで敵駆逐艦が来ることはあるまい」と考えており、予想外の会敵に浮き足立って北方へ返針し逃走を図った。バーク隊は二手に分かれて挟み撃ちをしかけようとしたが、追撃戦のため魚雷を発射できなかった。それでも最新鋭駆逐艦(米側)と旧式駆逐艦(日本側)の性能差により、徐々に距離が縮まる。輸送隊は0時30分頃から第45駆逐群からの砲撃を受ける。煙幕を張るなどをして逃走を図るうちに卯月は西方へ避退し、夕霧は反撃に出て発砲の閃光を目標に魚雷9本を発射する。天霧水雷長によれば、第11駆逐隊司令より「右魚雷同航戦」の命令があって準備をしていたところ、後続の夕霧が面舵に転舵して解列したという。魚雷は命中爆発したように見えたが、間もなく集中砲火を受けた夕霧は後部から沈み始め、1時30分頃に沈没した。航跡との衝撃で魚雷が早爆したものと思われる。夕霧の反転により、天霧と卯月はバーク部隊との距離を稼いだ。卯月は不発弾1発が命中したが大事無く、2時30分に天霧と合同して5時30分にラバウルに帰投した。バーク大佐は2時5分頃まで残敵掃討を行っていたが、日が昇ってからのラバウルからの空襲を警戒して引き揚げた。
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戦闘経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/29 03:24 UTC 版)
ドイツ軍は手強い攻撃隊として、第26爆撃航空団の42機のHe111雷撃機と、35機のJu 88急降下爆撃機を指し向けることとした。彼らは護衛艦艇を圧倒するために、雷撃機と爆撃機が同時に攻撃する戦術を採った。Uボートも密かに船団の後を追い始めた。そのうちの一隻、U-88はスピッツベルゲン島南方沖で駆逐艦フォークナーに撃沈された。 9月12日に、PQ-18船団はドイツ軍の飛行艇BV138に発見され、その日の遅くまでに8隻の船がドイツ軍雷撃機により撃沈された。次の日、ドイツ軍は空襲を行ったものの、ハリケーンの迎撃を受け、5機を失ったため攻撃を中止し引き返した。なおハリケーンも友軍艦艇の誤射を受け3機が撃墜されてしまったが、パイロットは救助された。 次に犠牲になったのはタンカー・アセルテンプラーだった。14日に雷撃を受け、放棄された。その後の空襲は、ドイツ軍に20機以上の犠牲を支払わせる事となった。船団はコラ海峡に差し掛かった時にUボートから攻撃を受けた。U-408によって3隻の商船が沈められたが、護衛隊もU-457とU-589を撃沈した。さらに2隻の商船が、ムルマンスク港内で空襲によって沈められたため、船団は合計で13隻の船舶を失ったことになる。 ティルピッツは結局出撃する事はなく、ハンプデン隊は9月14日に一度パトロールを行ったのみであった。彼らは装備機のうち23機のハンプデンをソ連に残しイギリスへ帰国した。
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戦闘経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/17 13:55 UTC 版)
一航艦は、2月22日に陸攻11機による2段構えの索敵を行い、うち1機がテニアン島東方450海里(約830km)の地点でアメリカ機動部隊の発見に成功した。淵田美津雄一航艦参謀は、一航艦は進出間もなく準備不足であることや護衛戦闘機が不足していることをふまえ、退避による温存を進言した。しかし、角田中将は見敵必戦主義から現有全力による反撃を命じた。22日夜、761空などに属する陸攻34機による夜間攻撃隊が、3次に分かれてテニアン基地から発進したが、戦果無く15機を失った。また、翌日の黎明攻撃に備えてサイパン島所在の艦爆10機をテニアンに夜間移動させたが、着陸事故で6機が飛行不能となった。他方、テニアン所在の輸送機4機はグアムへ避難させた。 2月23日未明、角田中将は、一航艦ほか所在の基地航空隊をかき集め、陸攻11機・艦爆6機・艦偵6機・夜戦5機・戦闘機17機による黎明攻撃を行わせた。しかし、陸攻9機未帰還など大きな被害を出し、戦果は無かった。戦闘機は直衛を担当する予定であったが、実施状況は不明である。 アメリカ軍は、23日早朝から正午過ぎまで、サイパン島・テニアン島を中心にしたマリアナ諸島一帯を3次に渡って空襲した。日本軍機はグアムに避難した輸送機も含め72機が地上撃破され、攻撃隊掩護と迎撃戦を合わせて戦闘機18機が撃墜・被弾不時着で失われた。アメリカ側損失は6機である。在泊艦船も攻撃目標となり、戦史叢書によると特設駆潜艇など11隻の艦船が沈没した。アメリカ海軍公式年表によると、第58.2任務群の空母「エセックス」「ヨークタウン」航空隊がサイパンで貨物船「松安丸」(松岡汽船:5624総トン)を撃破、第58.3任務群の「バンカー・ヒル」航空隊がテニアンで貨物船「聖山丸」(宮地汽船:4232総トン)撃沈、サイパン北方で特設砲艦「Eiko Maru」(日本側資料では該当船不明)撃沈となっている。 脱出を試みた日本艦船も待ち伏せた潜水艦の餌食となり、戦史叢書によると貨物船2隻が沈んだ。アメリカ側記録によると、潜水艦「サンフィッシュ」は23日に空母「ヨークタウン」搭載機と協同で貨物船「新夕張丸」(三井船舶:5354総トン)を撃沈、「タング」が22日に特設砲艦「福山丸」(会陽汽船:3581総トン)、23日に特設工作艦「山霜丸」、24日に貨物船「越前丸」(大阪商船:2424総トン)と特設給糧艦「長光丸」(日魯漁業:1794総トン)を撃沈している。 アメリカ第58任務部隊は、空襲を1日だけで終えると帰路に就いた。日本軍も、トラック島から発進した偵察機により機動部隊の撤退を確認し、警戒を解いた。
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戦闘経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/18 08:35 UTC 版)
7月10日(旧暦5月21日)、「第一丁卯丸」と「乾行丸」は新政府軍支配下の直江津港へ入港した。翌7月11日(旧暦5月22日)、新政府軍艦隊は陸戦支援のため直江津を出撃し、7月13日(旧暦5月24日)に出雲崎へ寄港した際に旧幕府軍艦が寺泊港へ停泊中との情報を知った。そこで、新政府軍艦隊は、寺泊の幕府艦に対する先制攻撃を決心した。 7月13日(旧暦5月24日)午前7時ころ、新政府軍艦隊は寺泊沖へ到達した。艦隊の出現に気づいた「順動丸」は、機関を始動して出港した。新政府軍側の記録によれば「順動丸」は逃走しようとしたものと思われるが、「順動丸」は味方艦隊と間違えて出迎えに向かったとの説もある[要出典]。港外で待ち構えた新政府軍艦隊は、「乾行丸」が「順動丸」の前方を遮る一方、「第一丁卯丸」は後方に回り込んでの包囲を試み、大砲による威嚇射撃を行ったうえで砲撃戦を開始した。砲弾は「順動丸」の船首や外輪に命中した。「順動丸」も大砲3発を「乾行丸」に対して応射したが、手前に外れた。 損傷した「順動丸」は反転し、海岸に自ら擱座した。会津藩士の一柳幾馬・雑賀孫六郎ら乗員約150人は、船体を放棄して上陸した。乗員や陸上の駐屯部隊は、会津兵20人ほどを除いて弥彦へ向かって撤退した。新政府軍艦隊は「順動丸」に接近して拿捕しようとしたが、暗礁が多く危険なため断念した。 新政府軍は陸路からも部隊を派遣して「順動丸」の拿捕を試みた。「第一丁卯丸」が出雲崎へ戻って連絡し、新政府側の加賀藩・高田藩・与板藩兵が出動したものの、山中に避難していた住民を旧幕府側の有力な伏兵と誤認して、退却してしまった。新政府軍艦隊は引き続き洋上に停泊して「順動丸」の監視にあたり、敵陣を狙って艦砲射撃を実施した。 翌7月14日(旧暦5月25日)昼ころ、「乾行丸」乗員が寺泊へ上陸して、旧幕府側に協力した住民は処罰する旨の布告を掲示した。同日午後2時ころ、「順動丸」は搭載弾薬が爆発を起こして沈没した。出火原因は不明であるが、鹵獲を免れるために自爆したと推定される。7月15日(旧暦5月26日)に新政府軍艦隊は七尾港へ撤収した。新政府軍艦隊は連日の作戦行動で燃料不足に陥っていたが、新政府側の柳河藩輸送船「千別丸」の七尾港到着により石炭の補給を受けることができた。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/21 15:21 UTC 版)
9月26日から10月3日までドイツ東洋艦隊はマルケサス諸島のヌクヒバ島に留まり、補給を行った。10月12日にドイツ東洋艦隊はイースター島に到着し、そこでエムデンの同型艦である防護巡洋艦ドレスデンが合流した。10月14日には、海戦時メキシコ沖にいた防護巡洋艦ブレーメン級ライプツィヒも合流した。10月18日、ドイツ艦隊はイースター島を離れた。 一方、イギリス海軍はクラドック少将麾下の装甲巡洋艦「グッドホープ」と「モンマス」、防護巡洋艦「グラスゴー」、旧式なカノーパス級戦艦「カノーパス」、仮装巡洋艦「オトラント」からなる艦隊をドイツ艦隊捜索に当てていた。クラドック少将は新型の装甲巡洋艦「ディフェンス」の増援を要請していたが、実現しなかった。 11月1日、両艦隊はチリ、コロネル沖で交戦した。イギリスの戦艦カノーパスは低速のため別行動をとっており、合流命令を受けたが海戦には間に合わなかった。 16時17分、シャルンホルストがイギリス艦隊の煙を発見した。ドイツ艦隊はイギリス艦隊の風上となる東の陸地側に位置した。イギリス艦隊はドイツ艦隊の西側に位置し、太陽を背にしてドイツ艦隊の照準を妨げようとしたが、日が沈むと逆に残照にイギリス艦隊の艦影が浮かび上がってしまう一方、ドイツ艦隊は背景の陸地に溶け込んで照準しにくくなった。18時40分に戦端が開かれ、戦闘はすぐに一方的な展開となった。グッドホープは開戦間もなく司令塔付近に被弾して指揮系統を喪失し、19時57分に沈没、クラドック少将も戦死した。最初に被弾した時点でクラドック少将は死亡もしくは人事不省に陥っていたと考えられている。その後にモンマスも沈没。グラスゴーは逃走した。客船改装で戦力の乏しいオトラントは、他のイギリス艦の戦列の陰に位置し、戦闘を避けて逃走した。 この海戦はシュペー艦隊の完全な勝利に終わった。だが、この後シュペー艦隊は1914年12月8日にフォークランド沖海戦で巡洋戦艦2隻を含むイギリス艦隊と交戦し壊滅する。
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戦闘経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/25 14:53 UTC 版)
忠清道平定を担当する日本の右軍の主力毛利秀元(兵約25000)、加藤清正(兵約10000)、黒田長政(兵約5000)及び軍監太田一吉、竹中重利の五将は兵40000余人を率い8月29日全州を発して北進し9月初旬公州に至る。初め明将陳愚衷が全州を捨てて逃走すると提督麻貴は漢城より遊撃牛伯英を遣わし赴援させた。牛伯英は陳愚衷と兵を合わせ公州に駐屯していたが、日本軍が全州を発して大挙北進するのを聞くと蒼黄となり漢城に退却した。ここにおいて日本軍は抵抗を受けることなく公州を占領する。 日本軍は公州において路を分かち加藤・太田の2隊は右方に進み燕岐を経て9月6日清州に到り、秀元は黒田隊を以って先鋒と為し全義を経て同日天安に到った。 漢城においては明の経理楊鎬が9月朔日平壌より来り麻貴を促し、出でて日本軍の前進を阻止しようとした。麻貴は乃ち水原に到り副総兵解生、遊撃牛伯英、楊登山、頗貴の4将をして精騎2000を率い6日稷山に向かわせた。朝鮮の朝廷もまた李元翼をして兵を率い竹山方向に下り清州路を扼し以て明軍の左翼を警戒させた。 9月7日未明、黒田長政は部将黒田直之、栗山利安ら先鋒の若干の兵をまず前進させた。直之らは稷山へ一里ほどまで前進し、日の出と共に敵兵が山野に充満し近迫する様を見る。諸将は軍議を開いて進退を議論した。毛屋武久が「敵は多く我は少なし。我若し一歩を退かば彼必ず追撃し我兵殲きん死は一なり寧ろ進んで死するに若かず且つ我兵一致団結して奮進すれば必ず敵の一部を突破せん。我その機に乗じて退却すれば或は軍を全うするを得ん。是れ武田勝頼が長篠の敗後に攻勢に出て敵の追撃を遅緩ならしめたる故智なり」と発言すると、諸将もこれを然りと為し乃ち歩率をして斉しく銃射せしめ士卒硝煙中より喊声を発して突撃する。明軍大いに驚き防戦短時間で破れ退く。直之等これを機とし兵を収めて退く。時に長政は遥かに銃声を先鋒の方向に聞き麾下3000を率いてこれに馳せる。先鋒の兵敵に追躡せられ其勢は甚だ危うし。黒田一成曰く「先鋒がもし敗れたならば我が本軍もまた恐らくは支え難からん是れ吾が死所なり。」と手兵を以て敵を側撃する。後藤基次は一高地を占領し其部兵を馳駆せしめ、以て敵をして我衆寡を測らさしめ、且つ先鋒兵に声援する。一成遂に先鋒の兵を収容して還る。 長政は戦場に到着すると直ちに東方の高地に上がって自ら敵情を偵察し、乃ちその隊の部署を改め右備一番隊は母里友信、栗山利安、黒田利高をこれに任じ、井上九郎兵衛、野村市右衛門を二番隊としてこれに次き、左備一番隊は後藤基次、黒田一成がこれに当り、黒田直之、桐山孫兵衛が二番隊としてこれに次く。長政は自ら爾餘の兵2000人を率いて本隊たり。時に明将解生等が水原より到来する。遊撃擺寨、千総李盆喬、把総劉遇節等2000人の援軍を得て再び兵気を回復して攻め寄せた。両軍末院の野に戦い奮闘数合にして勝敗未だ決せず。 毛利秀元は天安に在り稷山の戦急なるを聞き、乃ちその兵を率いてこれに赴援し先鋒の将宍戸元続、吉見広行等に先ず進ませた。元続等急駆してこれに赴き黒田隊を助けて敵の側背に突撃する。明軍遂に大いに敗れ水原方向に退く。時正に午後3時を過ぎ、故に日本軍は敢えて追撃せず兵を収めて天安に還る。この日の戦闘で日本軍の戦死黒田兵29人、明軍の戦死200餘人。
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戦闘経過
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高野山側は伊都・那賀・有田郡の領内の武士を総動員し、軍師橋口隼人を中心に「高野七砦」をはじめとする多数の砦を築いた。そして西の麻生津口と北の学文路口を特に重視して、麻生津口に南蓮上院弁仙(遊佐信教の子)、学文路口に花王院快応(畠山秋高の子)を大将として配置した。また学侶方の老練の僧が交替で護摩を焚き、信長降伏の祈祷を行った。 天正9年10月、織田勢は紀ノ川北岸一帯に布陣し、総大将織田信孝 は鉢伏山(背山)城(現かつらぎ町)に本陣を構えた。根来衆も織田方として動員された。織田勢と高野勢は紀ノ川を挟んで対峙する形になったが、なお交渉は継続しており、同年中は目立った戦いはなかった。 天正10年(1582年)1月、信長は松山新介を多和(現・橋本市)に派遣する。松山は多和に築城し、2月初頭には盛んに九度山方面へ攻撃を仕掛けた。同月9日、信長は武田攻めに当たって筒井順慶以下大和衆に出陣を促した。同時に、大和衆の一部と河内衆は残留して高野山の抑えとなるよう命じた。14日、高野勢は多和城並びに筒井勢 の守る大和口の砦を攻撃。同月末、織田方の岡田重孝らが学文路口の西尾山の砦を攻めたが部将2人を失って撃退される。 3月3日、高野勢50余人が多和城を夜襲して損害を与えた。10日早朝、織田勢は夜襲の報復として寺尾壇の砦を攻撃、城将医王院が討死するも寄手の損害も大きく撃退された。4月初め、織田信孝は四国攻めの大将に任命されたため転任。同月、織田方の竹田藤内らが麻生津口の飯盛山城(現紀の川市)を攻撃した。高野勢は大将南蓮上院弁仙と副将橋口隼人らがこれを防ぎ、竹田ら四将を討ち取り甲首131を挙げる勝利を得た。 6月2日夕刻に至って、高野山に本能寺の変の情報が届く。まもなく寄手は撤退を開始し、高野勢はこれを追撃し勝利した。高野山は危機を脱し、8月21日には恩賞が行われた。
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戦闘経過
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12月16日、崑崙関の松本大隊(歩兵第42連隊第2大隊)前面の高地に陣地工事を行う中国兵が姿を現し、戦車14両や山砲も確認された。12月17日夜、中国軍は攻撃を開始した。翌18日には戦車3両が接近し、松本大隊はその先頭車(中隊長車)を擱座させた。 12月18日、増援のため歩兵第21連隊(三木吉之助大佐)が南寧から崑崙関へ派遣された(連隊本部は九唐)。松本大隊を指揮下に入れた連隊は、19日から攻撃を開始したが、前面・両翼の高地から中国軍に包囲され、戦車も前進してきたため攻撃は頓挫してしまった。そのうえ、後方連絡線(五、六、七唐付近)が中国軍に遮断されたため、追及中の部隊も包囲され、補給が受けられなくなった三木部隊(歩兵第21連隊)は攻撃1日目で完全に孤立した。 12月19日、中国軍は崑崙関方面だけでなく、南寧北方の大高峯隧にも、戦車4両、砲数門をともなった約1,000人で攻撃を加えてきた。歩兵第41連隊(納見敏郎大佐)が出撃し、20日払暁、南北から敵を不意急襲して潰走させた。以後、中国軍はこの方面では特に動きを見せなくなった。 12月20日、今村中将は中村正雄少将の指揮する中村支隊(歩兵第42連隊の歩兵2個大隊)を九唐へ派遣させた。中村支隊は五唐付近で中国軍に前進を阻止され、その撃退後も残りの25キロの道のりは困難をともなった。 12月21日、中国軍は兵力を増やしながら三木部隊の包囲圧迫し、連隊本部のある九唐部落内にも中国兵が侵入していた。三木部隊は弾薬が欠乏したため、空中補給を要請した。日本海軍機3機が八唐付近へ弾薬を投下したが、敵の重囲下にある地上部隊は回収できなかった。一方、中国空軍機は反復して日本軍への対地銃爆撃を繰り返していた。夜になると、中国軍の栄誉第1師が戦車と共に最北端の陣地(日本名:三角山)へ来襲し、その一角を占領した。陣地守備隊は銃剣と竹槍で応戦していたが、全員が死傷したためついに陣地は陥落した。終夜、第一線は両軍が入り乱れての錯綜状態で、中国兵が同士討ちするほどの混戦となった。 12月22日、台湾混成旅団長塩田定七少将は今村中将に兵力の派遣を申し出た。今村中将はこの申し出を受け、12月23日に台湾歩兵第1連隊(林義秀大佐)は南寧を出発した。七唐付近を前進中の中村支隊長は左頬に貫通銃創を受け、応急手当を受けて前進を再開した。三木部隊では食料も弾薬もほとんど無くなり、弾薬の無くなった迫撃砲は地中に埋められた。中国軍は三角山に砲兵観測所を前進させ、日本軍陣地へ重砲・各種火砲の正確な猛射をおこなった。連隊本部付近にも迫撃砲の砲撃が集中し、軍旗の奉焼も準備された。また、左翼陣地(日本名:田村山)にも中国兵が殺到し、日本軍の西側防衛線は崩壊寸前となった。南寧の今村中将は、九唐方面で決戦を行うことに決め、竜州の及川支隊に急いで南寧へ帰還するよう命令した。 12月24日、中村支隊は前夜から七唐付近を強行突破し九唐に到着、出発から5日目で三木部隊と合流した。また、林部隊(台湾歩兵第1連隊)は六唐に到着し、付近の敵陣地を攻撃した。しかしこの日、中村支隊長は九唐西側の高地で敵情を視察しているところを、敵の狙撃を受けて腹部貫通の重傷を負った。夜になると中国軍の重砲・迫撃砲の集中射撃が始まったが、その砲撃下で中村支隊長の手術が行われた。しかし、手術終了後も医薬品の不足などから容態の悪化は止められず、翌25日朝に中村正雄少将は戦死した。 田村山には、砲撃に膚接して千人以上の中国兵が手榴弾を投げながら突入し、やがて白兵戦となった。田村山の守備隊は、これまで20回以上敵攻撃を撃退し残り38人となっていたが、12月24日ついに全員が戦死した。 12月25日、坂田元一大佐(歩兵第42連隊長)が九唐へ到着し、全部隊は坂田大佐の指揮下に入った。中国軍機は南寧を爆撃し、つづいて九唐にも対地攻撃を行なったため死傷者が出た。夜になり機関銃弾6万発、小銃弾4万発を持った部隊が到着し、日本軍の前線の戦力が回復した。26日、27日には中国軍が数度夜襲を行ったが、日本軍に撃退された。12月28日には、台湾混成旅団から派遣された台湾歩兵第2連隊(渡辺信吉大佐)と林部隊が、九唐の坂田部隊に合流した。 12月28日夜、中国軍は北東端の高地(日本名:日の丸高地)に反復攻撃をかけ一角を占領した。翌12月29日には、砲撃と共に1,500以上の中国兵が押し寄せ、わずか1個小隊のみが守備していた日の丸高地とその隣の津田山高地を奪取した。この夜、鹿地亘らの日本人民反戦同盟が、両高地に拡声マイクを据え反戦放送を開始した。 12月30日、中国軍は兵力を増加させ、午後には戦車を伴った中国兵4,000~5,000人が、一挙に日本軍を押し潰そうと一斉に前進してきた。敵の榴弾砲や野山砲が的確なのに対し、弾薬を撃ち尽くしていた日本軍は敵砲兵陣地が見えていても為す術がなかった。三木連隊長は坂田支隊長(旅団長代理)に対して、戦線を整理し今村兵団の攻勢が始まるまでは兵力を温存させることを具申した(崑崙関を堅持しようとすれば全滅を覚悟しなければならないため)。こうして崑崙関の放棄が決定され、日本軍部隊は、12月31日の朝までに九唐の陣地(1~2キロ後方)へ後退した。この時、既に埋めていた野砲兵第5連隊の野砲(改造三八式野砲)3門は掘り出して運ぶことができず、ついに埋めたまま後方へ集結しなければならなかった。こうして、日本軍は九唐の戦線で1940年(昭和15年)を迎えた。
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戦闘経過
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263年夏5月、魏皇帝曹奐の勅令が下され(実質は司馬昭の命令と考えられる)、秋(後主伝では夏)、蜀漢討伐が開始された。鄧艾が兵3万余を率い甘松・沓中に駐屯している姜維を攻撃し、諸葛緒が兵3万余を率い武街・橋頭(武都・高楼)に進発、前後から姜維を挟撃することとなった。また、鍾会は兵10万余を率い漢中を攻撃することとなった。 姜維は魏の蜀漢攻撃を察知すると、蜀漢皇帝の劉禅に援軍を要請した。しかし黄皓は占いを信じて敵は攻めてこないと考え、劉禅に姜維の援軍要請を無視するように進言した。そのため援軍の出動は遅れ、鍾会が駱谷に、鄧艾が沓中に侵入しようとする時になって初めて廖化・張翼・董厥らを援軍として派遣した。 姜維は鍾会が漢中に攻め入ったのを知ると、後退しようとした。姜維は後退時に鄧艾の部将の楊欣らの追撃を受け、戦ったが敗れた。さらに姜維は諸葛緒に退路を塞がれそうになったが、退避行動を取ったことにより、諸葛緒軍を回避することに成功した。 蜀漢の護軍蔣斌が漢城・監軍王含が楽城をそれぞれ5000人の兵で守られていたが、鍾会は前将軍の李輔と護軍の荀愷にそれぞれ1万人の兵を与えて漢城・楽城を攻めさせ、胡烈に陽安関を襲撃させた。これに対して蜀漢の蔣舒は胡烈に陽安関を開け渡して降伏し、蔣舒の同僚の傅僉は戦って戦死した。陽安関を落とした鍾会だが、漢城・楽城を落とすことはできず、迂回して長躯、剣閣へと軍を進めた。さらに子午道からは、魏興太守劉欽が兵を指揮して黄金に駐屯する柳隠を攻撃したがこれも降すことができず、劉欽は黄金より先へは進軍できなかった。 このときになってようやく張翼・董厥は陽安関より南にある漢寿にたどり着き、陰平より撤退してきた姜維・廖化らと合流して引き退き、剣閣を守備することとなった。鍾会は剣閣を攻めたが制圧することができず、また補給線が長くなり補給が困難となったため、撤退することを考えるようになった。 このため鄧艾は剣閣を迂回するという奇襲作戦を提案した。そこで冬10月、鄧艾と鍾会の部下の田章は剣閣を迂回し、陰平より非常に険阻な土地700余里を横断し、江油の手前で蜀軍の伏兵3部隊を破り、守将の馬邈を降して江油を制圧した。このとき鄧艾迎撃の命を受けた諸葛瞻は涪に駐屯しており、黄崇は速やかに進軍し要害の地を固め、敵を平地に入れないように何度も進言したが、諸葛瞻は状況を伺うばかりで軍を進めようとせず、結局、綿竹まで軍を引き、江油を失うこととなった。 同月、呉に蜀漢から救援要請が来た。そこで呉の孫休は、魏を牽制するために丁奉に魏の寿春を、丁封・孫異に沔中を攻撃させ、留平と施績にもどこへ出兵するか協議させた(『呉書』「孫休伝」)。 さらに鄧艾は進撃して、諸葛瞻が守る綿竹を攻めることとなった。鄧艾は鄧忠・師纂を派遣して諸葛瞻を攻撃させたが、破ることができずに敗退。退却してきた鄧忠・師纂は鄧艾に対し「勝利は不可能」と言ったが、鄧艾は鄧忠・師纂を叱り付けて、再び鄧忠・師纂を派遣して諸葛瞻を攻撃し、ついに勝利し、諸葛瞻・張遵・黄崇らを討ち取った。 冬11月、諸葛瞻が討たれたことを知った劉禅は、譙周の勧めに従い、鄧艾に降伏し、蜀漢は滅亡した。また剣閣を守っていた姜維らは諸葛瞻が敗れたと聞くと、5万人前後の兵の指揮を執り広漢まで退いたが、劉禅の命令を受けて鍾会に降伏した。また魏軍が降せなかった最前線の漢城の蔣斌、楽城の王含、黄金の柳隠らも、劉禅の命令により開城、降伏した。 264年春3月、劉禅は洛陽に移り、安楽県公に任命された。この頃、劉禅の配下の霍弋が6郡の太守・大将を率いて、魏に降伏した。
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戦闘経過
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1944年6月、日本軍は、ドリニュモール川河畔(日本軍呼称:川中島)での戦闘を予定し、前進を開始した。参加兵力35000人のうち20000人だけを戦闘要員として安達中将が率い、残る15000人(本来の輜重兵7000人のほか第41師団主力など)は物資輸送に充てられた。しかし、作戦実施のための前線への物資輸送は全く進捗せず、自動車道路の構築も試みられたが、雨期のため実用不可能であり、大発動艇などの各種舟艇を用いた海上輸送も航空機や魚雷艇の攻撃により、困難を極めた。また連合国軍は、オーストラリア海軍の重巡『オーストラリア』と軽巡2隻を基幹とする第74任務部隊により、6月14日から24日にかけて日本軍の兵站線に艦砲射撃を行い、それと並行して激しい空襲も行った。そのため、日本軍の物資前送や、後続部隊の移動はさらに困難となった。それでも、日本軍は第20師団を先鋒に前進し、アメリカ軍の前哨拠点を撃破しつつドリニュモール川まで10kmに迫った。 7月10日21時30分、物資集積が不十分なまま、日本軍はドリニュモール川の渡河攻撃を開始した。なけなしの砲弾による10分間の準備射撃の後、第20師団と歩兵第237連隊(第41師団所属)が河口から3km上流の渡河点を渡河し前進した。この時点で川沿いのアメリカ軍は3個大隊に過ぎず、日本軍は渡河点を守っていた第128連隊第2大隊の陣地を突破して、食糧などを鹵獲した。日本の歩兵第237連隊はアメリカ軍を海岸へ圧迫、第20師団は上流側に旋回して川沿いのアフア陣地を包囲した。緒戦の戦果に、第18軍司令部ではうまくいくかもしれないという期待が広がった。 アメリカ軍の第32師団の副師団長は防衛ラインを西に移動しようとしたが、クルーガー少将はドリニュモール川の防衛ラインの維持を決定した。 7月13日以降アメリカ軍の増援は続々戦場へ到着し、河畔において両軍が激しい戦闘となった。日本軍の重火器はわずかに山砲20門程度であったのに対し、アメリカ軍を主力とする連合国軍は戦車や200門以上の火砲を有し、航空支援もあって優勢だった。15日にはアメリカ軍は渡河点を奪回し、日本の歩兵第237連隊は川向こうに取り残されてしまう。17日に日本軍は歩兵第239連隊で渡河点の再奪取を試みるが撃退され、歩兵第237連隊は22日までに壊滅状態となって対岸から撤退した。 日本軍は、第41師団の後続部隊とアイタペ突入用の予備隊だった歩兵第66連隊を投入した。両部隊はジャングル内を南に大きく迂回して、8月1日からアフア陣地攻撃を開始した。アフアのアメリカ軍は歩兵が日本軍を引きつけて激しく応射した後に陣地を放棄して後退し、進出してきた日本軍に陣地ごと砲撃を加えると言う戦術を繰り返しおこなった。日本軍はアフアの戦いにおいて米軍の評するところ「自己の生存を全く無視した」攻撃を続けたが、おびただしい戦死者を出して失敗に終わった。 8月4日、日本軍の各歩兵連隊の戦力は100名以下にまで損耗し、アイタペの戦いに投入された7個連隊の生存者全てを合わせても1個大隊程度の人数になった。第20師団の歩兵第78連隊は人員の97%を、歩兵第80連隊は95%を失い、第41師団の第239連隊は文字通りの全滅となった。弾薬も食料も尽きた状態となり、安達中将は作戦中止を決定した。日本軍は撤退を開始し、8月10日頃までにドリニュモール川付近での戦闘は終わった。
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戦闘経過
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12月18日早朝、ハンニバルは全軍に戦闘用意をとらせると、少数の騎兵を対岸へ派遣し、ローマ軍の野営地を急襲させた。ローマ騎兵が迎撃に向かうと、カルタゴ騎兵はすぐに退却を開始した。ロングスは、一挙に決戦を挑むべく全軍に野営地からの出撃を命令した。対岸に到着したローマ軍は上記の戦闘隊形をとった。 攻撃態勢を整えたローマ軍は前進、交戦を開始した。事前の不利な条件にもかかわらず、精強なローマ歩兵はカルタゴ歩兵を相手に優勢に戦闘を進めた。しかし、両翼ではヌミディア騎兵を中心とするカルタゴ騎兵がローマ騎兵を圧倒。まもなく、カルタゴ騎兵はローマ騎兵を撃退し、ローマ軍の側面に回りこんだ。さらにこの時、林の中に潜んでいたマゴの分遣隊が出現し、ローマ軍の後方を襲撃した。包囲されたローマ軍は、圧倒的な劣勢に陥り、周辺部から損害を増加させていった。ロングスは突破口を探し、正面のガリア歩兵に対して戦力を集中させた。カルタゴ軍中央を突破したローマ軍は、そのまま撤退した。しかし、およそ半数が包囲下に取り残され、殺されるか捕虜になった。
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戦闘経過
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3月18日、空母12隻を基幹とするマーク・ミッチャー中将率いるアメリカ第58任務部隊艦上機約1,400機が、第5艦隊司令長官レイモンド・スプルーアンス大将による指揮のもと日本近海に現れ、九州、四国、和歌山などの各地域を襲った。これに対して日本軍は、宇垣纏海軍中将率いる第五航空艦隊(指揮下の陸軍飛行戦隊2個に属する四式重爆撃機「飛龍」を含む)が反撃を開始した。神風特別攻撃隊を含めた日本軍機の攻撃で空母「イントレピッド」、「ヨークタウン」、「エンタープライズ」が小破した。しかし、この日、日本軍は特攻機69機を含む攻撃部隊全193機のうち、約8割である161機を失い、このほか50機が地上で損傷を受けた。さらにアメリカ軍機を迎撃した零式艦上戦闘機も47機の損害を出した。アメリカ軍機の損害は29機撃墜され、2機が損傷したにとどまった。 翌3月19日には、米機動部隊の一部は高知県室戸岬のおよそ80キロ沖にまで接近。艦上機部隊は主に瀬戸内海を空襲し、呉の軍港に停泊中の日本の水上艦艇の一部を攻撃。軽巡洋艦大淀が中破、空母天城、龍鳳及び戦艦榛名、日向、巡洋艦利根が小破するなどの被害が出た。 詳細は「呉軍港空襲#3月19日」を参照 これに対し日本軍は、特攻隊を交えた出動可能な全航空兵力をもって激しく反撃。室戸岬に最も近づいていた空母「フランクリン」と「ワスプ」を大破させた。「フランクリン」では戦死者が832名にも及んだ。「フランクリン」への攻撃は、第762海軍航空隊の攻撃第406飛行隊に所属の銀河1機の急降下爆撃によるものである。「フランクリン」は懸命の応急処置により辛うじて沈没だけは免れたが、甚大な被害状況のため米本土に帰還し、終戦まで戦線を離脱した。他の空母1隻も、しばらく戦線を離脱した。 また、同日には、呉軍港を空襲した米艦上機群の一部を、松山海軍航空基地に展開していた第三四三海軍航空隊(通称:「剣」部隊。司令:源田実海軍大佐)指揮下の局地戦闘機「紫電・紫電改」約60機(3個飛行隊の稼働機全機)が松山周辺上空で迎撃し、大規模な空中戦となった。日本側は、F6Fヘルキャット戦闘機など50機あまりを撃墜したと報じ、日本軍の損失は被撃墜・未帰還16機(偵察飛行隊所属の艦上偵察機『彩雲』のうちの1機が高知県津野町上空にて敵機に体当たり自爆したのを含む)の「大勝利」と判断した。これは日本海軍航空隊の最後の大戦果として知られているが、アメリカ軍の記録によると未帰還機・修理不能機数は日本側とほぼ同数にとどまり、規模の大きな空戦にありがちな戦果の誤認があったと見られる。 3月20日、アメリカ軍は沖縄戦に備えるべく空母の補給を行いつつ南西に進み、日本の反撃に耐えた。翌日の3月21日、米機動部隊は都井岬沖の洋上に移動。ここで日本軍は初の桜花の実戦投入を行った。しかし、桜花15機を搭載した第721海軍航空隊所属第1神風桜花特別攻撃隊神雷部隊の一式陸上攻撃機18機全機が米艦上戦闘機群に捕捉されて撃墜された。この日の戦闘では、日本軍の戦死者160名、神雷部隊護衛の零戦10機前後未帰還、他22機の損害を出した。神雷部隊指揮官の野中五郎少佐は、出撃の直前に玉砕戦になることを予期してか「これは湊川だよ」と呟いていた。
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戦闘経過
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「第2次ナルヴィク海戦」の記事における「戦闘経過」の解説
12時34分、ドイツ駆逐艦ヘルマン・キュンネがイギリス艦隊を発見した。ヘルマン・キュンネはフィヨルドの奥へ後退しつつイギリスの駆逐艦と交戦した。ヘルマン・キュンネからの警報を受けてナルヴィク港から駆逐艦ハンス・リューデマン、ヴォルフガング・ツェンカー、ベルント・フォン・アルニムの3隻が出港し、イギリス艦隊との戦闘が開始された。だが、両軍とも命中弾を得られなかった。 13時12分、デュプヴィク湾の場所まで侵入したイギリスの駆逐艦ベドウィンとエスキモーはそこにいたドイツの駆逐艦エーリッヒ・ケルナーを攻撃した。第1次ナルヴィク沖海戦後に座礁して損傷していたエーリッヒ・ケルナーはそこでイギリス艦隊を待ち伏せしようとしていたが、すでにソードフィッシュによって発見されていた。集中攻撃を受けたエーリッヒ・ケルナーは最後は戦艦ウォースパイトの砲撃で撃沈された。 ドイツ側は駆逐艦ゲオルク・ティーレが加わり戦闘が続いた。13時50分、ドイツ側の指揮官エリッヒ・バイ中佐はロンバクス・フィヨルドへの後退を命じた。だが、駆逐艦エスキモーに追跡された駆逐艦ヘルマン・キュンネはヘルヤングス・フィヨルドのほうへ退却し、トロユドヴィクで海岸に乗り上げた。ヘルマン・キュンネは最終的に駆逐艦エスキモーの魚雷で破壊された。また、これまでの戦闘で駆逐艦ハンジャビも多数の命中弾を受け一時的に航行不能となった。 この時になってようやく駆逐艦エーリッヒ・ギーゼが出港してきたが、イギリス艦隊の集中攻撃を受けて撃沈された。また、第1次ナルヴィク海戦で受けた損傷で航行不能となり、ナルヴィク港で停泊していた駆逐艦ディーター・フォン・レーダーも駆逐艦コサック、フォックスハウンド、キンバリーとの交戦で大破炎上し乗員によって爆破されたが、イギリス側も駆逐艦コサックが大きな被害を受け、海岸に乗り上げた。 イギリス艦隊はドイツ駆逐艦を追撃してロンバクフ・フィヨルドへと進入していった。駆逐艦ゲオルク・ティーレの発射した魚雷の内1本が駆逐艦エスキモーに命中し大破させたが、最終的にドイツ駆逐艦は4隻とも自沈した。
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戦闘経過
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曹真は8月に長安を発し、曹叡は親しくこれを臨送した。曹真は斜谷から南進し漢中に入る予定であったが、司徒華歆は病をおして上表し、労役によって民が疲弊していること、長距離の食料運搬は用兵に難があることを挙げ、険阻な道を深入りして攻めても勝つことはできず天命を待つべきだと主張した。また司空鎮軍大将軍陳羣が斜谷の険阻さを危ぶみ上表するに「昔、張魯を攻めるために陽平に至った際、豆や黍などを収奪して食糧に当てるのが精いっぱいで、張魯の食糧は欠乏しておりました。今はさらに食料は無く、斜谷は険阻で進退の難しい場所で輸送しても、必ずや断ち切られます。守りの兵士を多く置こうとしても、兵士は損なわれてしまいます。熟慮をなさいますように」と述べたことから曹真の本隊は改めて上表し子午道を経由する計画を立てた。陳羣はまた上表し子午道もまた不便な土地であり、併せて計略を用いて慎重をきして軍を興すように言った。 曹叡は陳羣の言葉を勅許としてくだし、曹真が子午道を通り、斜谷は征西車騎将軍張郃がこれを進み曹真の本隊を輔けることとなった。大将軍の司馬懿は西城から進発し漢水をさかのぼり、南鄭で曹真と合流することとし。雍州刺史郭淮は後将軍費曜らを従え武威郡より兵を進め、それぞれ漢中を目指した。 諸葛亮は魏の大規模攻勢を知ると、漢中太守魏延に即座に防備を固めるように指示し、赤阪等の要地を自ら固め、驃騎将軍李厳に二万の兵の指揮を執らせて漢中に駐屯させ敵の攻撃への備えとし、李厳の子である李豊を代わりの江州都督にするよう上表し、後方をゆだねた。 魏軍は先鋒の偏将軍夏侯覇が、先んじて興勢まで到達しこれを包囲し、屯営を屈折した谷の下に築いた。蜀軍が反攻して夏侯覇の軍に攻撃を仕掛けると、自ら鹿角(敵の侵軍を阻む為に設置する防御兵器)の間で手づから奮戦し、援軍が到来した為、蜀軍から逃れることができた。 司馬懿は、西城から山を切り開いて道を作る一方で、沔水を遡上させ、水陸から同時に軍を進めた。朐忍に到着後、新豊県を攻略し、軍を丹口に駐屯させたとされる。 このころ、大雨が続き子午道では桟道の一部が崩壊し曹真の本隊は思うように進軍ができなかった。後に司馬彪が『戦略』という書物で語った所によると、数百里進んだところで大雨にあい、橋閣は破壞され、後軍では兵糧が腐り、前軍は孤立して乏しかったという。 諸葛亮は魏の進軍が滞っているのを知ると鎮北将軍魏延、関中都督呉懿を涼州羌中まで向かわせ陽谿で郭淮、費曜らを大破した。魏の郭沖が語った故事によるとこのとき魏延らを遣わした後に、司馬懿が陽平関に篭る諸葛亮の兵が少ないのを知り攻め寄せたところ、諸葛亮の空城計にかかり軍を引いてしまったという話が残るが、裴松之はこれを疑問視している。 魏の朝廷では曹真が長雨により進軍に窮していることを知ると、華歆・陳羣・少府楊阜・散騎常侍王粛らが曹叡に軍を引かせるよう上表したため、曹叡は勅許を降し、9月、曹真は全軍を撤退させた。
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戦闘経過
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衝突は、11月5日(11月18日)にヤルタの南西、ヘルソネス半島から45 浬のサールィチ岬沖の海域で発生した。午前11時40分、この海域には艦隊主力から3.5 浬先行していた通報艦(水上機母艦)アルマース(ザーリン大佐)が大きな噴煙を発見した。アルマースは、発見を探照燈で嚮導艦に知らせた。同時に、敵艦は無線通信によって自らの姿を曝け出した。霧の向こうに、ゲーベンとブレスラウがいた。 アルマースのあとに縦列で続く艦隊主力は、旗艦のエフスターフィイ(V・I・ガラニーン大佐)、イオアン・ズラトウースト(F・A・ヴィーンテル大佐)、パンテレイモン(M・I・カシコーフ大佐)、トリー・スヴャチーチェリャ(V・K・ルキーン大佐)、ロスチスラーフ(K・A・ポレーンプスキイ大佐)の5 隻の戦艦と第1・2・3水雷艦隊所属の12 隻の駆逐艦から成っていた。ロシアの主力艦隊は敵艦との距離を縮め、一方駆逐艦隊は密集隊形を取った。エベルガールトは、艦の速力を14 knに増速するよう命じた。30分後、アルマースは「艦首方向に敵艦を見ゆ」との情報を齎した。司令官の命によりアルマースは友軍艦隊へ向かって敵艦からの離脱を開始し、一方、遠方側面、艦隊とアルマースの間を航行中のロシア巡洋艦パーミャチ・メルクーリヤ(M・M・オストログラーツキイ大佐)とカグール(ポグリャーエフ大佐)もまもなく向きを変えた。この転向はまさに時宜に適ったものであった。速度においてロシアの巡洋艦はゲーベンに著しく劣っており、もしこのとき巡洋艦が戦線を離脱していなければ、恐らくどれか1 隻はゲーベンによって撃破されていたであろう。 辺りには一面濃い霧が立ち込めていたため、主として戦闘はゲーベンとそれを最もよく視認できたエフスターフィイの一騎討ちとなった。戦隊の射撃管制はイオアン・ズラトウーストに乗艦するV・M・スミルノーフ砲手長により指揮されることになっていたが、匍匐性の霧とエフスターフィイの火砲の吐き出す噴煙とで視界は遮られ、敵艦との距離を正確に算出することができなかった。これが原因となって、無線は「照準60」という誤った距離を提示した。これは、正しい距離より1.5倍程長すぎるものであった。そのため、戦艦戦隊の砲弾は、旗艦エフスターフィイの射撃弾を除き、すべて敵艦の遙か彼方に飛び去った。 撃ち合いは14分間続いた。その間、ロシア艦は40 - 34 鏈の距離から30 発の主砲弾を発射した。その内訳は、エフスターフィイが12 発、イオアン・ズラトウーストが6 発、トリー・スヴャチーチェリャが12 発である。パンテレイモンは煙霧のため敵艦を視認できず、発砲しなかった。艦隊から立ち遅れたロスチスラーフも、ゲーベンへの砲撃を断念した。その代わり、ロスチスラーフはブレスラウに254 mm砲弾2 発、152 mm砲弾6 発の射撃を行った。ブレスラウはすぐさまゲーベンの射撃圏内へ移動し、ロスチスラーフの砲弾から逃れた。 エフスターフィイの最初の斉射ののち、水雷戦隊指揮官のM・P・サーブリン大佐は、駆逐艦隊を率いてゲーベンへ水雷攻撃を実施しようとした。しかし、10分後には艦隊司令官より水雷攻撃の中止が言い渡された。 エフスターフィイの連装砲による最初の斉射は、うまくゲーベンを捕らえた。砲弾は150 mm砲第3装甲砲座へ命中し、その装甲を打ち破った。砲弾は爆発し、砲手12 名が戦死した。また、幾人かはガス中毒を引き起こし、のちに死亡した。エフスターフィイ最後の砲火もまた劣らず正確であった。ゲーベンは、最終的に3 発の305 mm砲弾と11 発の203 mm砲弾あるいは152 mm砲弾を受けた。一方、エフスターフィイは4 発の命中弾を受けた。14分後、ゲーベンは優速を生かして戦場を離脱した。
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戦闘経過
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「スパルティヴェント岬沖海戦」の記事における「戦闘経過」の解説
11月27日午前10時40分、イタリア重巡洋艦「ボルツァーノ」の偵察機が、イギリス艦隊(戦艦1隻、巡洋艦2隻、駆逐艦4隻)を発見した。イタリア軍は、イギリスのH部隊とD部隊が合流する前に攻撃しようとした。一方、イタリア艦隊の存在を察知したH部隊は、艦隊を北へ向かわせてイタリア艦隊が輸送船団に接近する前に攻撃しようとした。両艦隊は接近し、27日11時45分にイギリス軍は、イタリア艦隊が80キロの距離にいて接近していることを察知した。この時点でD部隊はまだアレキサンドリアから到着していなかったため、イギリス軍は数で劣っていたが、15分後にはD部隊も現れ、両軍はほぼ互角となった。イギリス側のH部隊には空母「アーク・ロイヤル」が配備されていたものの、砲撃における射程と火力、各艦の最高速力、輸送作戦のため陸兵を乗せている点、さらに基地航空隊の支援を受けられるという点でイタリアのほうが勝っていた。しかしイタリア艦隊の指揮官は非常に有利な状況以外では戦闘は避けるように命じられており、イタリア側には非常に大きな制約があった。 サマヴィル提督は部隊を二つに分けた。ランスロット・ホーランド(英語版)少将指揮の巡洋艦5隻を先陣にし、戦艦「ラミリーズ」、巡洋戦艦「レナウン」と駆逐艦7隻が第2陣として南に位置した。さらに南では空母「アーク・ロイヤル」がソードフィッシュ雷撃機の発艦準備を行っていた。「アーク・ロイヤル」はイギリス側の切り札であったが、パイロットは未熟であった。対するイタリア軍は3つの部隊に分かれていた。2つの部隊は重巡洋艦6隻と駆逐艦7隻からなり、その後方に位置する3つ目の部隊は戦艦「ヴィットリオ・ヴェネト」、「ジュリオ・チェザーレ」と駆逐艦7隻からなっていた。 H部隊とD部隊はすでに合流していると判断したイタリア艦隊指揮官(カンピオーニ提督)は、互角の戦力をもつH部隊との勝負を避け、上級司令部の命令どおり撤退を決断した。12時7分に戦闘に入らないよう命じたが、すでに巡洋艦はイギリス艦隊のほうに向かっており両者は戦闘に突入した。 12時22分、両軍の巡洋艦部隊の先頭は射程距離内に入り、イタリア重巡洋艦「フィウメ」は距離23,500メートルで砲撃を開始した。両軍は接近し砲戦が続いたが、イタリア側のほうが優勢であった。戦艦「ラミリーズ」は、その砲撃力で両軍の戦力を互角にしていたが、低速のため数斉射の後12時26分には戦闘から落伍した。その時点でややイタリア側が優勢になったのだが、4分後にはイタリア巡洋艦部隊の指揮官アンジェロ・イアキーノ中将は戦闘を打ち切るように命令された。そのためイアキーノ中将は速度を30ノットに上げるよう命じ、煙幕を張って退却を始めた。この間、イタリア駆逐艦「ランチエーレ」はイギリス軽巡洋艦「マンチェスター」から命中弾を受けた。イギリス側も重巡洋艦「ベリック」が12時22分に命中弾を受けて乗員9名が戦死し、12時35分にも2発目が命中した。 次の数分間は、イギリス巡洋戦艦「レナウン」がイタリア巡洋艦部隊に接近しイギリス軍優勢となった。しかし、13時00分にはイタリア戦艦「ヴィットリオ・ヴェネト」が距離26,500メートルで砲撃を始めた。「ヴィットリオ・ヴェネト」は7斉射19発を砲撃し、今度はイギリス巡洋艦隊の旗色が悪くなった。その直後に両軍は撤退し、戦闘は終結した。この戦闘は54分間続いたという。両軍の損害は、イギリス側が重巡洋艦「ベリック」損傷、イタリア側が重巡洋艦「フィウメ」に不発弾1および駆逐艦「ランチエーレ」中破であった。 H部隊によるイタリア艦隊撃滅という希望は、セドリック・ホーランド艦長が指揮する英空母「アーク・ロイヤル」に託された。艦上攻撃機でイタリア戦艦を攻撃し、速力を落とさせて補足しようとしたのである。まず「アークロイヤル」第一次攻撃隊(ソードフィッシュ11機)がイタリア戦艦「ヴィットリオ・ヴェネト」と「ジュリオ・チェザーレ」を雷撃したが、全て回避された。だがパイロットが「イタリア戦艦1隻に魚雷1本が命中した」と報告し、さらに「イタリア巡洋艦1隻(ボルツァーノ)が損害を受けて停船中」との報告が入ったので、英空母から第二次攻撃隊が発進する。雷撃機はイタリア戦艦にむかい、艦上爆撃機スクア7機はイタリア巡洋艦部隊に向かう。だがイタリア戦艦部隊はサルデーニャ島南端のスパルティベント岬に接近しており、すでにイタリア空軍の掩護下にあった。「追いつけないようなら飛行隊長の判断で攻撃目標を変更してよい」との許可を得ていたソードフィッシュ雷撃隊は、イタリア巡洋艦部隊を攻撃する。しかし命中した魚雷はなく、対空砲火でソードフィッシュ2機が損傷した。スクア爆撃隊は重巡洋艦「トレント」を爆撃したが、至近弾のみで損害を与えられなかった。 イタリア軍もやられっぱなしではなく、基地航空部隊の爆撃機がH部隊に空襲を敢行し、離脱するイタリア艦隊を掩護する。艦上戦闘機フルマーと艦爆スクアが邀撃してイタリア爆撃機 4機を撃墜したが、「アーク・ロイヤル」に対する水平爆撃を阻止できなかった。だが、「アーク・ロイヤル」に命中した爆弾は1発もなかった。
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戦闘経過
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日本海軍の海戦参加部隊において、支援部隊指揮官(近藤長官、旗艦「愛宕」)が、前進部隊(第二艦隊)と機動部隊(第三艦隊、旗艦「翔鶴」)を指揮する。支援部隊指揮官は前進部隊指揮官を兼ねる。 第三艦隊司令長官南雲忠一中将が指揮する機動部隊本隊(第一航空戦隊〈空母翔鶴 、瑞鶴、瑞鳳〉、重巡〈熊野〉、駆逐艦〈嵐、舞風、雪風、時津風、天津風、初風、浜風、照月〉)、第十一戦隊司令官阿部弘毅少将が指揮する機動部隊前衛部隊(戦艦〈比叡、霧島〉、重巡〈利根、筑摩、鈴谷〉、軽巡〈長良〉、駆逐艦〈谷風、浦風、磯風、秋雲、風雲、巻雲、夕雲〉)、本隊の後方に補給部隊(駆逐艦〈野分〉、油槽船6隻)、機動部隊より西方に第二艦隊司令長官近藤信竹中将が指揮する前進部隊(重巡〈愛宕、高雄、妙高、摩耶〉、戦艦〈金剛、榛名〉、第二水雷戦隊、第二航空戦隊〈隼鷹〉)という4つの集団にわかれて行動していた。 機動部隊前衛部隊は空母へ向かう敵機の攻撃を吸収するために、機動部隊前方に横一列に並んだ。
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戦闘経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 09:28 UTC 版)
秋山少将以下第三水雷戦隊司令部は出撃せず、ブインにて作戦を指揮した。第22駆逐隊司令金岡国三大佐に率いられた駆逐艦4隻は、7月4日16時40分にブインを出撃した。チョイスル島南岸沿いに南に下り、ニュージョージア海峡を縦断してコロンバンガラ島東岸に取りつく。クラ湾に入りつつあった22時15分、左舷前方10キロ先に、味方陸上砲台と交戦中の敵艦隊を発見した。この敵艦隊、つまり第36.1任務群は駆逐艦を2隻ずつ前後に配した陣形を取り、ニュージョージア島バイロコの呉鎮守府第六特別陸戦隊に対して砲撃を行っていた。その最中、輸送船団の護衛にあたっていた駆逐艦ラルフ・タルボット (USS Ralph Talbot, DD-390) のレーダーが北方に目標を探知した。しかし、第36.1任務群はUターンをして右砲戦で艦砲射撃を続けた。第36.1任務群を魚雷の射程圏内に入れた金岡大佐は海戦を行う事を決心し、22時25分に魚雷発射を命じる。長月が6本、新月と夕凪が4本ずつ発射した。その後、機を見て再度の攻撃と揚陸を試みるも、敵機の触接と襲撃を受け、最終的には物資揚陸を断念して7月5日6時にブインに帰投した。輸送作戦は失敗におわった。 エインスワース少将はラルフ・タルボットに探知した目標について報告させようとしたが、間もなくストロングの右舷に3隻(長月、新月、夕凪)からきた魚雷が命中する。バイロコの海軍特別陸戦隊は伊勢型戦艦2隻(伊勢、日向)から下ろした14センチ砲を有していたが、同地配備の12センチ砲と14センチ砲も第36.1任務群に対して砲撃を行い、ストロングに三発の命中弾を与えた。ストロングは大破し、シャヴァリアが艦首をストロングに接触させつつも乗員240名を救助した後、搭載していた爆雷が爆発して沈没した。エインスワース少将はこの攻撃を潜水艦によるものと信じていた。第36.1任務群は救助作業に一区切りをつけると、急遽ツラギ島に退却した。アメリカ軍側は駆逐艦1隻を失ったもののニュージョージア島ライス湾とバイロコ港にとりついた。連合軍は、コロンバンガラ島に対する圧力をいっそう強める事となった。
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戦闘経過
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「ソビエト連邦による満洲侵攻」の記事における「戦闘経過」の解説
8月9日午前1時に始まったソ連軍の攻撃はおよそ4時間に亘って続いた。ソ連軍の攻勢規模からそれが全面攻勢を意味するものと考えられていたにもかかわらず、関東軍総司令部は一時的な越境攻撃である可能性を鑑み、大本営からの「静謐確保」を守ることを前線部隊に優先させた。そのため、圧倒的なソ連軍の攻撃で玉砕する守備隊も出ていた中、午前3時時点で前線に出された指示は「全面開戦を準備すべし」であった。その後前線から続々と入る報告を聞いて、ようやく全面侵攻を確信した司令部は大本営からの返答を待たず、午前6時に「当面の敵を撃破」するよう命令を更新した。この日の大本営は戦闘準備の指示に留めており、対ソ全面作戦の発動を命じたのは翌朝にだったが、それは日本本土への侵攻ルートとなる朝鮮半島の防衛を念頭に指示したものでもあり、この時点で満洲は事実上見捨てられた。さらに、10日の大本営命令を受けて11日には総司令部を未だ陣地構築が完了していない、朝鮮側に近い山岳・丘陵地帯にある通化に移すことを決定、移動し始めたが、結局、通化では通信体制さえ整っておらず、前線からの情報すら入ってこないため、結局司令部を新京に戻すことになったとも、15日に重大発表放送(終戦の詔勅のこと)があるらしいので新京に戻るようにとの電話連絡を受けて小型飛行機で戻ったとの説等がある。このためだけでも、総司令部は大切な初期の数日を失ったとされる。(一方で、通信設備が整っていないことが分かっていたので兵員・軍需物資を通かに移送しながらも総司令部は新京に留まったとする説、逆に、大本営命令を待たず当初からの計画に基づいて9日には特別列車を仕立てて通化に発ったとの説から最後の総司令部メンバーは小型飛行機でようやく14日に至って揃ったという説まである。)
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戦闘経過
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7月19日、御所の西辺である京都蛤御門(京都市上京区)付近で長州藩兵と会津・桑名藩兵が衝突、ここに戦闘が勃発した。一時福原隊と国司信濃・来島隊は筑前藩が守る中立売門を突破して京都御所内に侵入するも、乾門を守る薩摩藩兵が援軍に駆けつけると形勢が逆転して敗退した。狙撃を受け負傷した来島又兵衛は自決した。 真木・久坂隊は開戦に遅れ、到着時点で来島の戦死および戦線の壊滅の報を知ったが、それでも御所南方の堺町御門を攻めた。しかし守る越前藩兵を破れず、久坂玄瑞、寺島忠三郎らは朝廷への嘆願を要請するため侵入した鷹司邸で自害した。遺命を託された入江九一はしかし鷹司邸を塀を乗り越えて脱出した時に越前藩士に発見され、槍で顔面を突かれて死亡した。 帰趨が決した後、落ち延びる長州勢は長州藩屋敷に火を放ち逃走、会津勢も長州藩士の隠れているとされた中立売御門付近の家屋を攻撃した。戦闘そのものは一日で終わったものの、この二箇所から上がった火を火元とする大火「どんどん焼け」により京都市街は21日朝にかけて延焼し、北は一条通から南は七条の東本願寺に至る広い範囲の街区や社寺が焼失した。 生き残った兵らはめいめいに落ち延び、福原・国司らは負傷者を籠で送るなどしながら、大阪や播磨方面に撤退した。天王山で殿となっていた益田隊も敗報を聞くと撤退して、長州へと帰還した。 主戦派であった真木保臣は敗残兵と共に天王山に辿り着いたが、益田らその他の勢は既に離脱しており、合流に失敗した。真木らは兵を逃がし、宮部春蔵ら17名で天王山に立て籠もった。20日に大和郡山藩の降伏勧告を無視し、21日に会津藩と新撰組に攻め立てられると、皆で小屋に立て籠もり、火薬に火を放って自爆死した。大沢逸平はその場を逃れ、真木の遺言を高杉晋作や三条実美らに伝えるために長州藩に向かった。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/13 02:14 UTC 版)
1945年4月から、日本軍は第6方面軍麾下の第20軍(坂西一良中将)を投じて芷江作戦を開始した。作戦としては第116師団と二個大隊及び一個連隊からなる関根支隊と一個大隊及び一個連隊からなる重広支隊で三方から攻撃し、遅れて第47師団が進撃する予定であった。占領と掃討作戦も同時に行うため2個師団と4個旅団等も警備部隊として参加。親日政権・汪兆銘政権の和平建国軍も治安維持に出動し、中国共産党の紅軍を相手に戦った。 序盤は順調に進撃できたものの、まもなく中国側の激しい反撃が始まり、4月25日頃には前進困難となった。中国軍の装備はアメリカからの兵器供与により以前よりも改善されており、またアメリカ軍(アメリカ陸軍航空軍)による援護爆撃や援護射撃、航空支援を十分に受けることができたためである。中国軍は次々と増援部隊を集結させ、第3方面軍・第4方面軍・第10方面軍などの計28個師団で迎撃。中国共産党陝甘寧辺区の紅軍ゲリラ部隊もゲリラ戦を展開した。また、険しい地形も防衛戦に適していた。他方、日本側は太平洋方面への戦力抽出で部隊の質がかなり低下していたうえ、制空権を失っているために昼間行動は困難、兵站線も空襲で寸断された。 日本の坂西第20軍司令官は攻撃続行は困難と判断し、5月4日、態勢整理を理由として第116師団と関根支隊に一時後退・戦線離脱を命じた。関根支隊は推定3個師団(第58師・第193師・暫編第5師)の優勢な中国軍の反撃を受けて、連絡も不十分であったため、おおむね大隊単位に分裂してほとんど無統制に後退する状態に陥った。中でも独立歩兵第115大隊は、綏寧県武陽鎮(中国語版)から撤退開始直後の5月5日未明に満福橋付近で優勢な暫編第5師による奇襲攻撃を受けて壊乱状態に陥り、5月10日頃までに分断包囲されて全滅し、大隊長も戦死した。 第6方面軍司令部は独断でも作戦を中止することを検討し始め、支那派遣軍総司令部の参謀達も現地視察などをふまえて作戦中止を進言し、5月9日、日本側の総指揮を執る支那派遣軍総司令官岡村寧次大将は、作戦の中止を命令した。日本軍は撤退を開始し、連合国軍は追撃に移った。各地で包囲を受けた日本軍は損害が続出したのに加えて、毎月5,000人以上の戦病者が発生する状況であったが、撤退の決断が手遅れになる前に出されていたおかげで、かろうじて脱出に成功した。6月上旬までに日本軍は出撃地点へと帰還した。
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戦闘経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 02:37 UTC 版)
当時、日本軍によるパラオ防衛は第14師団(照兵団、宇都宮)が担当しており、アンガウル島防衛に当たっていたのは第14師団配下の宇都宮歩兵第59連隊であった。第14師団はペリリュー島守備のため1個連隊強(水戸歩兵第2連隊と高崎歩兵第15連隊第3大隊)を割いており、パラオの他の島嶼防衛も行わなければならなかった。そのため、1944年7月20日の照作戦命令甲第124号により、歩兵第59連隊はアンガウル島防衛に第1大隊を残しパラオ本島(バベルダオブ島)に引き上げていた。 アメリカ軍のパラオ侵攻が明白になると、日本側は在住の民間日本人と現地住民(主に老人と婦女子)をアンガウル島からパラオ本島へ疎開させたが、青壮年の当時は日本人であったパラオの現地住民男性約180名は軍夫として日本軍に協力させるため残されて、アンガウル島へもアメリカ軍が上陸して戦闘に巻き込まれることとなった。 1944年9月11日、アメリカ軍は侵攻前に空母ワスプ発艦のドーントレスによる予備爆撃及び戦艦テネシーによる艦砲射撃を行った。 この砲爆撃によって同島の日本軍の通信施設は破壊され、パラオの他の日本軍部隊と連絡をとることが出来ない状態に陥った。以後、日本軍歩兵第59連隊第一大隊は玉砕するまで司令部からの命令を受信できない状況下で戦闘を行うこととなった。 アメリカ軍の爆撃・艦砲射撃が開始された6日後の9月17日に戦艦1隻、重巡洋艦2隻、軽巡洋艦2隻、そして5隻以上の駆逐艦からの艦砲射撃の支援の下、午前8時半過ぎにアメリカ陸軍第81歩兵師団が島の北東及び南西の海岸に上陸してきた。 敷設された地雷による被害や日本軍による水際作戦によって、アメリカ軍は上陸当初ある程度の被害を受けたが、上陸2地点から前進し同日夕方には内陸へ進出していた。 アンガウル地区隊長である第1大隊長後藤丑雄少佐は守備隊残存兵の再編を図り、あらゆる火砲を動員して夜襲を決行、翌9月18日明け方にはアメリカ軍を一旦は海岸近くまで押し戻した。夜が明けるとアメリカ軍はM4中戦車やLVTを前面にして、艦載機による銃爆撃も加えて反撃したため、午前10時頃には日本軍攻撃部隊は全滅した。 アメリカ軍は9月19日早朝に島の中心部サイパン村に突入、間もなく占領した。 パラオ本島との間でアンガウル島から一番近いペリリュー島に第1海兵師団 (アメリカ軍)が上陸してペリリューの戦いが行われていたことから、アンガウル島の日本軍守備隊はパラオの他の島から援軍や補給を得ることはできず、15倍以上の圧倒的な兵力差があったため、アメリカ側は9月25日には目標としていた丘を占領、9月30日には島を全面占領することに成功した。 アンガウル島守備隊は島東部の洞窟壕に籠り抵抗を続けたが、10月19日に最後の斬り込みを行い玉砕。後藤大隊長以下、守備隊員の大半は戦死し、島は焦土と化した。陸軍首脳部はアンガウル守備隊の功績を特筆すべきと考え、10月28日にはアンガウル守備隊に昭和天皇の御嘉賞の言葉がだされた。
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戦闘経過
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12月13日5時52分(現地時間、以下同じ)、アドミラル・グラーフ・シュペーは右舷前方約31,000mに敵艦のマストを発見した。最初は敵艦隊を軽巡洋艦1隻、駆逐艦2隻と誤認し、これらを船団護衛部隊と考え接近したが、6時10分、それらが重巡洋艦1隻、軽巡洋艦2隻であると確認した。いっぽう「エイジャックス」は6時9分に煙を発見しエクゼターを分派、6時14分にエクゼターはそれがアドミラル・グラーフ・シュペーであると確認した。 6時17分、アドミラル・グラーフ・シュペーは、本国からの敵戦艦との交戦禁止命令を破り、距離17,000mで軽巡2隻に対し砲撃を開始した。それに対してイギリス艦隊も順次砲撃を開始した(エクゼターは6時20分、アキリーズは6時21分、エイジャックスは6時23分)。 ラングスドルフはかつて魚雷艇隊を率いていた事があり、その影響を受けて彼の指揮するアドミラル・グラーフ・シュペーはまるで駆逐艦のような戦い方をしていた。つまり、火力よりも機動力を活かした回避行動の連続により攻撃をかわそうとしたのであるが、相手が機動力に勝る巡洋艦では効果は無く、次々と被弾して防御の弱さを露呈したばかりか、その火力も活かす事ができなかった。 またこの時、アドミラル・グラーフ・シュペーの被弾した高角砲の1つでは砲手が被弾時の熱で蒸発してしまい、肉片すら見つからなかった。 6時25分、アドミラル・グラーフ・シュペーはエクゼターに砲撃を集中させ、これによりエクゼターは大きな損害を受けた。エクゼターはY砲塔を残して主砲は沈黙しながらも、戦闘を継続した。6時32分、エクゼターは魚雷2発を発射したが命中しなかった。 6時36分、アドミラル・グラーフ・シュペーは煙幕をはり、北西へ転進。イギリス軽巡洋艦2隻もこれを追撃した。6時38分、エクゼターはさらに2発の命中弾を受けた。浸水によって電源が落ちたため、戦闘不能となり、7時30分にハーウッド准将はエクゼターに後退を命じた。 その後、アドミラル・グラーフ・シュペーは残る2隻の軽巡洋艦に砲火を集中させようとしたが、逆に猛攻撃を受けて甚大な被害を被ってしまった。 7時16分にアドミラル・グラーフ・シュペーは戦場を離脱し、ラプラタ川へ向かった。しかし、これがハーウッド准将にはアドミラル・グラーフ・シュペーがエクゼターに止めを刺すかのように見えたため接敵を命じた。7時25分、エイジャックスは命中弾をうけ砲塔2基が損傷した。7時40頃、エイジャックス、アキリーズは追撃を中止し、夜戦を試みるため煙幕を張り東へ反転したが、アドミラル・グラーフ・シュペーの針路が南西へ変わったため、二手に分かれて追撃を再開した。軽巡洋艦2隻がアドミラル・グラーフ・シュペーの25km後方から追跡した。エクゼターはフォークランド諸島へ向けて撤退した。
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戦闘経過
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「ブーゲンビル島沖海戦」の記事における「戦闘経過」の解説
11月1日15時30分、連合襲撃部隊はラバウルを出撃した。ブカ島行の水無月を除く輸送隊の各艦(天霧、卯月、夕凪、文月)も相前後してラバウルを出撃し、ココポ沖で小発を搭載する。しかし、搭載作業に時間がかかってココポを発ったのが17時30分となり。18時30分に連合襲撃部隊と輸送隊が合流するも、その時点で予定が約2時間も遅れていた。速力は夕凪が当時発揮できた最大戦速の26ノットに合わせていたため、時間の遅れを取り戻すすべはなかった。さらに、19時45分と20時53分に川内が夜間爆撃を受けたことにより、触接機の存在は明らかであると判断された。大森少将からの報告を受けた南東方面部隊(指揮官草鹿中将)は、逆上陸を中止させて輸送隊をラバウルへ引き返させ、連合襲撃部隊に対しては単独でタロキナ沖に突入する事を令した。22時30分、輸送隊は反転してラバウルに向かい、連合襲撃部隊は30ノットに増速して戦闘準備を令し、タロキナ沖へと向かった。なお、水無月は18時にラバウルを出港し、ブカ島への輸送任務を終えて11月2日9時にラバウルに帰投した。第二機動決戦隊の出撃は急遽決定したため、部隊の準備、敵情・上陸地点偵察も不十分で、逆上陸成功の可能性は低かったとされる。 一方、川内を爆撃した触接機は、ただちに日本艦隊出撃を報告する。当時、エンプレス・オーガスタ湾では輸送船12隻のうち4隻が、いまだ荷役を終えていない状態だった。一度は全ての輸送船を退避させたものの、上陸部隊の要請により荷役未了の輸送船が湾内で作業を継続する事になったが、そこに「日本艦隊出撃」の報がもたらされる。連合襲撃部隊に対抗できる頼みの水上兵力はメリル少将の第39任務部隊である。しかし、第39任務部隊は10月31日未明にツラギ島を出撃したあと、乗員がとれた睡眠時間は最長でせいぜい2時間程度であり、食事もサンドイッチがほとんどで、乗員の疲労が相当蓄積している事が予想されたが、ハルゼー大将に、第39任務部隊による迎撃以外の方策をとらせる余裕はもはやなかった。タロキナ沖に到着した第39任務部隊は、前衛にバーク大佐の第45駆逐群、後衛にオースティン中佐の第46駆逐群を配して連合襲撃部隊を待ち受ける。11月2日0時27分、モントピリアのレーダーは連合襲撃部隊と思しき目標を探知し、二個駆逐群を左右に散らせて迎撃態勢を整えた。 これより先、羽黒と妙高の水上偵察機は相次いで敵艦隊を発見する。11月2日0時45分、川内と時雨は約9,000メートルの距離に敵を発見し、その4分後、敵艦隊発砲の閃光を確認した。同じ頃、北方へまわって連合襲撃部隊の左側を狙う位置に占位していたバーク大佐の第45駆逐群は、魚雷25本を発射。しかし、連合襲撃部隊の変針により命中しなかった。大森少将の本隊は第39任務部隊が南北二隊に分かれているのを確認すると、南方の目標に対して照明弾射撃を行う。0時51分、第二十七駆逐隊の時雨、五月雨、白露が巡洋艦に対して雷撃を敢行するが、前方にいた川内は既に被弾していた。川内と時雨の急接近により隊形は乱れ、さらにこれを避けようとした後続の五月雨と白露が衝突して最大速力が16ノットから20ノットに落ちた。第二十七駆逐隊が発射した魚雷は、隊列から離れて巡洋艦群を引っ掻き回す不規則な航行をしていた第46駆逐群のフートの艦尾に命中してこれを破壊し、航行不能にさせた。時雨との衝突を間一髪避けた川内は、間もなく集中砲火を浴びて航行不能となった。大杉少将の第二警戒隊は第39任務部隊からの砲撃を避ける避弾運動を行っていたが、その最中に初風が隊列から脱落し、1時7分に妙高と衝突した。また、羽黒は6発の命中弾を受けるがうち4発は不発弾で爆発しなかった。この時点で、周辺海域は照明弾と吊光弾からの光を反射させた雲の影響により、薄明かりの状態となっていた。 1時18分、大森少将の本隊が巡洋艦群に対して砲撃と雷撃を開始し、戦闘は新しい局面を迎えた。この砲雷撃で本隊は「敵一番艦ニ命中弾数発」と「魚雷命中ノ水柱」、「敵二番艦魚雷二命中轟沈」、「敵三(又ハ四)番艦ニ魚雷命中水柱大火災」を認めたものの、実際には回頭により一番艦に位置していたデンバーに3発が命中しただけであり、しかも砲弾は爆発しなかった。メリル少将は巡洋艦群に煙幕を張って避退させ、大森少将に「数隻の米重巡を撃沈したという錯覚」を与えることとなった。また、大森少将は1時25分に損傷艦援護の直衛機派遣を要請し、次いで1時34分、味方の状況と明朝の敵機来襲を考慮して315度方向への避退を命じる。その頃、南方から連合襲撃部隊を狙っていたオースティン中佐の第46駆逐群は消化不良な攻撃に終始していた。すでにフートが脱落し、残るスペンス、サッチャー、コンヴァースが突撃に移ろうとした刹那、スペンスとサッチャーが衝突して損害を蒙り、さらにスペンスが水線下に被弾して速力が一時低下した。そこに妙高と羽黒が味方であるとの誤った情報がもたらされ、第46駆逐群は航行不能の川内に向かった。川内には再度戦場への突入を図った第45駆逐群も迫り、川内に命中弾を与えた。第46駆逐群も川内に命中弾を与えた後、衝突で戦線離脱中の五月雨と白露を追跡して砲撃を行ったが、この様子を見ていた第45駆逐群は、第46駆逐群を日本艦と誤認して砲撃を開始する。オースティン中佐からの抗議に詫びを入れたバーク大佐は隊形を整えた後、妙高との衝突により艦首を失ったため進退窮まっていた初風に対して砲撃を行い、これを撃沈した。連合襲撃部隊のラバウル方向への避退の後、戦場にただ一艦取り残された川内は5時30分に右に傾斜して沈没していった。 連合襲撃部隊のラバウル帰投は本隊、初風を除く第二警戒隊と時雨が9時17分、白露が11時、最後は五月雨で14時10分だった。羽黒からは僚艦妙高の前部左舷に初風の甲板がぶらさがっている光景が見られたという。目撃した羽黒の下士官は「初風の額の皮」、「イブニングドレスで正装した貴婦人のネックレスに雑巾をひっかけたよう」という表現を使っている。 連合襲撃部隊は帰投直後に空襲を受けたが被害はあまりなかった。 「ラバウル空襲#10月12日から11月2日にかけての空襲」も参照 妙高と羽黒は11月4日にラバウルを出港してトラックに向かった。海戦後、大森少将の援護要請を受けて潜水艦が生存者救助に乗り出し、呂104が11月3日午後に伊集院少将など第三水雷戦隊要員と川内乗員合わせて75名を救助し、これとは別に川内の乗員47名と第三水雷戦隊要員4名がセント・ジョージ岬にたどり着いた後生還した。 夜明けは日本側のみならず、アメリカ側にも敵機来襲を予期させるものだったため、メリル少将は3時には追撃を中止させて一部の艦にはフートの援護にあたらせ、残る艦艇を率いて南方へと避退した。朝が来ると、予想通り日本機の大群が来襲してきた。 「ろ号作戦#11月2日 第一次連合攻撃(ムッピナ沖敵輸送船団攻撃)」も参照 「ろ号作戦」の前哨戦ともいうべきこの空襲で、モントピリアに2発、うち1発は艦尾のカタパルトに命中して艦尾を煙に包んだものの、それ以上の損害はなかった。第39任務部隊の戦闘配置が解除されたのは11月2日の正午ごろであり、10月31日の出撃以降、ブカ島とショートランドへの砲撃、そしてこの海戦で「照明弾しか残っていない駆逐艦」や「燃料がもったとしても、撃てるのは機銃とジャガイモだけ」(7ヶ月前の4月にアメリカ駆逐艦オバノンは浮上中の日本潜水艦に遭遇した時、接近しすぎて火器を使えず、近くにあったジャガイモを潜水艦に向かって投げて交戦した。)というような艦もあったほどの第39任務部隊は、翌11月3日にツラギ島に帰投した。帰投に際し、基地からの「何が必要か?」との呼びかけに対し、第39任務部隊は「睡眠だ」と返答した。
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戦闘経過
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「第二次ベララベラ海戦」の記事における「戦闘経過」の解説
ソロモン諸島方面の日本海軍の艦艇は大多数が外南洋部隊(指揮官鮫島具重中将、第八艦隊司令長官)の指揮下にあり、その麾下に外南洋部隊増援部隊(指揮官伊集院松治大佐、第三水雷戦隊司令官)があった。当時、伊集院の指揮下にあった艦隊型駆逐艦は、第二水雷戦隊や第十戦隊から外南洋部隊に臨時編入されていた「借りもの」であった。作戦実施に際し、伊集院大佐は軽巡洋艦川内から陽炎型駆逐艦秋雲に移乗し、秋雲に第三水雷戦隊の代将旗を掲げた。 10月5日、まず3時30分に輸送部隊(第22駆逐隊司令金岡国三大佐)の駆逐艦3隻(文月、松風、夕凪)がラバウルを出撃し、続いて5時には伊集院大佐指揮下の駆逐艦6隻(第10駆逐隊〈秋雲、風雲、夕雲〉、第17駆逐隊〈磯風〉、第27駆逐隊〈時雨、五月雨〉)もラバウルを出撃する。収容部隊は5日夕刻にブインを出撃した。輸送部隊と夜襲部隊は早々に偵察機の触接を受けるも、両部隊はブーゲンビル島北方で合流した。16時、輸送部隊と夜襲部隊からの第27駆逐隊(時雨、五月雨)は先行して収容部隊に合同しベララベラ島近海へ、夜襲部隊は偽航路を取ったりスコールの中に身を隠しながら遅れてベララベラ島近海へと向かう。夜襲部隊の陣形は、秋雲(旗艦)、磯風、風雲、夕雲の単縦陣であった。 ベララベラ島が近づくにつれ、時雨では「巡洋艦4隻、駆逐艦3隻」から成るアメリカ艦隊接近の連絡を受けた。また、第938航空隊の零式水上偵察機が、万代浦および先明崎と呼ばれた収容地点付近で照明弾を投下したところ、駆逐群二隊(巡洋艦4隻と駆逐艦3隻)が行動中であるのを確認して通報した。伊集院大佐は輸送部隊に一時退避を命じるが、速力の遅い収容部隊はもはや退避が間に合わず収容予定地点に直進させた。また第27駆逐隊(時雨、五月雨)にも第一夜襲部隊への合同を命じ、時雨(原大佐)は松風に船団護衛を依頼すると夜襲部隊と合流するため行動を開始した。 一方、偵察機PBYカタリナ飛行艇からの報告を受けた第3艦隊(南太平洋部隊。ウィリアム・ハルゼー大将)では、迎撃のためウォーカー大佐率いる第4駆逐部隊(以降ウォーカー隊とする)からの駆逐艦3隻をベララベラ島近海へと急行させた。米軍の航空攻撃は悪天候のため実施されず、またウォーカー隊の駆逐艦3隻(セルフリッジ、シュバリエ、オバノン)と、増援の駆逐艦3隻(ラルフ・タルボット、テーラー、ラブレット)とは距離が開いていた。 その頃、ベララベラ島守備隊は万代浦および先明崎に集結し、ニュージーランド軍の砲撃に耐えつつ収容部隊の到着を待っていた。20時31分、ウォーカー隊はレーダーで二つの目標を探知。4分後の20時35分には風雲が「巡洋艦3隻」を発見した。第27駆逐隊(時雨、五月雨)も20時40分には敵影を確認する。旗艦の秋雲でもウォーカー隊を発見していたものの、伊集院大佐(第三水雷戦隊司令官)は乗組員の報告を信用しなかったという。第三水雷戦隊の先任参謀は「味方の間違いではないか」と問いただした。秋雲駆逐艦長相馬正平中佐は周囲からの情報と自らの目で確認した後、伊集院大佐に「司令官、敵ではありませんか」と助言し終えた瞬間、ウォーカー隊からの先制攻撃を受けた。ウォーカー隊は20時55分に砲撃を開始し、同時に魚雷14本を発射した。先制攻撃を受けた夜襲部隊は、夕雲が魚雷を8本発射し、続いて面舵で右に針路をとって秋雲とともに砲撃を開始する。しかし間もなく夕雲はウォーカー隊からの集中砲火により火災を起こした。炎上した夕雲は、米艦隊からの絶好の目標になってしまった。21時1分、夕雲からの魚雷はウォーカー隊に達し、シャヴァリアに命中する。シャヴァリアの後方にいたオバノンは被雷したシャヴァリアを避け切れず追突し、艦首を大破した。オバノンはシャヴァリアから離れた後、シャヴァリア乗員の救助作業に取り掛かる。21時5分に夕雲に魚雷が命中し、これが止めとなって21時10分に沈没した。 この頃には第27駆逐隊(時雨、五月雨)も戦場に到着し、21時1分前後に各艦魚雷8本を発射した。続いて砲撃を開始し、三斉射発砲をした瞬間、先に発射した魚雷のうち1本がウォーカー隊の旗艦セルフリッジに命中する。セルフリッジは艦首が垂れ下がって10ノットの速力で戦場から退却していった。秋雲は磯風と風雲を率いて引き返し、距離約8,000メートルに彼方で停止中のシャヴァリアとオバノンに対して魚雷を発射したものの、命中しなかった。その後、視界が不良となって21時39分に戦闘を打ち切って戦場から離脱した。第27駆逐隊司令原為一大佐(時雨座乗)は「駆逐艦時雨に、もし電探があればウォーカー部隊は三隻とも、ただでは済まさなかったであろうに」と回想している。10月7日8時30分、夜襲部隊はラバウルに帰投した。日本側は魚雷48本を発射したが、命中したのは2本だけだった。 第3艦隊は、偵察機からの報告によりウォーカー隊の3隻では少なすぎると考えており、ニュージョージア島向けの輸送船団を護衛していた第42駆逐群にも戦場に急行するよう命じていた。夕雲の大火災がよく見えていたほど戦場に接近していたが、ついに戦闘には間に合わなかった。その代わり、瀕死のシャヴァリアをラ・ヴァレットの魚雷で処分し、大破したセルフリッジからウォーカー大佐をテイラーに移動させた。またレンドバ島より魚雷艇4隻が出動した。 海戦が終わった直後の22時、収容部隊は万代浦に到着し、23時50分から収容を開始。三往復した後、10月7日1時10分には万代浦を離れてブインに向かい、8時に帰投。ベララベラ島守備隊はここで解散して、それぞれの原隊へと戻っていった。
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戦闘経過
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第三水雷戦隊は当初、軽巡夕張を旗艦として出撃する予定であった。だが7月5日ショートランド泊地に入りつつあった時に触雷して作戦から除外され、秋山少将は「新月」を旗艦とした。この磁気機雷は、ガダルカナル島から飛来したTBFアヴェンジャー雷撃機が投下していったものだという。また、第一次輸送隊に名を連ねていた「夕凪」は、実際には出撃しなかった。 増援の艦隊型駆逐艦(谷風など)は7月4日夕刻にラバウルを出撃し、7月5日朝にショートランド泊地に進出した。新月(三水戦旗艦)で艦長達の打ち合わせをおこなう。同日17時35分、第三水雷戦隊はブインを出撃する。支援隊は1番艦新月、2番艦涼風、3番艦谷風の単縦陣であった。前夜と同様にチョイスル島沿いに南に下り、22時23分に第一次輸送隊を分離させてコロンバンガラ島東岸に先行させる。 一方の第36.1任務群はツラギに到着し、給油作業を行っていた。そこに新手の「東京急行」出発の報がもたらされる。ハルゼー大将から情報を受け取ったエインスワース少将は、急遽コロンバンガラ島近海に引き返すこととした。ただし、シャヴァリアは艦首損傷とストロング乗員の上陸のため任務群から外され、代わりにジェンキンスとラドフォードを任務群に加えた。第36.1任務群は視界の悪い海域を29ノットの高速で北上し、クラ湾に差し掛かる頃に25ノットに速力を落として会敵に備えた。エインスワース少将は当夜の戦法について、まず軽巡洋艦にレーダー射撃によって先制攻撃を行い、魚雷回避のため軽巡洋艦を退避させた後、駆逐艦に突撃させるという戦法を採用した。 23時3分、新月は左20度5キロ先に敵艦隊を探知する。これは新月が搭載していた電波探知機によるもので、警戒隊(新月、涼風、谷風)は水上戦闘に備えた。23時18分にUターンののち、23時43分に第二次輸送隊を分離した。その直前の23時36分にホノルルのレーダーが左前方に第三水雷戦隊を探知した。23時48分、新月が同航する巡洋艦3隻・駆逐艦2隻を発見するに及び23時52分に全軍集結を命じ、第二次輸送隊(天霧、初雪、長月、皐月)も反転して敵艦隊にむかった。23時54分、エインスワース少将は指揮下全艦艇に攻撃を命じる。当面の目標を支援隊とし、23時56分に一斉射撃を行った。米艦隊はレーダーに映った最も大きな目標(新月)だけを目標としたため、新月は第36.1任務群からの砲撃を一身に浴び、日付が変わった0時6分には舵が故障した上、火災が発生する。新月は、そのまま行方不明となった。 第36.1任務群が砲撃を加えてもなんら反撃がなかったことから、エインスワース少将は筋書き通りに事が進んでいると判断し、次の行動を移ることとした。しかし、新月に砲撃が集中した結果、後続2隻(涼風、谷風)にはこの時には砲弾が降り注がず、アメリカ側は数の利を生かせなかった。旗艦新月が連絡不能となったため、涼風座乗の第24駆逐隊司令中原義一郎大佐が支援隊(涼風、谷風)の指揮を引き継いだ。23時57分に涼風と谷風は魚雷をそれぞれ8本ずつ発射したあと北上、再装填のため一旦戦場を離脱した。0時2分、魚雷は第36.1任務群を襲い、ヘレナに魚雷3本が命中した。1本は艦首部に命中して艦首をもぎ取り、2本は船体中央部のほぼ同一箇所に命中。これによりヘレナの船体はV字型に裂け、そのまま沈没していった。後続のセントルイスはヘレナへの追突を防ぐため右側に針路を取って戦場から一時離脱した。オバノンは第二次輸送隊と思しき目標に向けて魚雷を5本発射したが、命中しなかった。 再装填のため一旦戦場を離脱した涼風と谷風であったが、涼風は火災事故を起こし、一番砲が使用不能となった。さらに、機銃弾庫に被弾して第二次攻撃に遅れをとった。谷風も魚雷次発装填装置の故障のため、戦場に戻るのに手間取り、艦首に不発ながら命中弾を受けて損傷した。2時ごろには戦場に引き返したものの、新月も敵艦隊も発見できなかったので帰投することとした。 また、全軍集結で集合した輸送隊のうち、第一次輸送隊の望月は触礁事故と大発の曳航索を推進器に絡ませたことにより遅れをとる。それでも、0時06分には揚陸作業を終えて西方に向かった。なお浜風は23時56分に雷撃を実施したと記録しているが、三水戦の戦闘詳報では、第一輸送部隊はこの時点で戦闘に参加していない。浜風は積載していた人員160名と物資を揚陸できないまま、ショートランド泊地にむかった。第二次輸送隊は天霧が魚雷攻撃を、初雪が砲撃をそれぞれ行う。反撃により初雪が不発弾2発を受けて損傷した後、揚陸地に向けて反転した。長月と皐月も、突撃した天霧および初雪に続いたが、敵情が分からなかったので0020には揚陸作業に戻る。しかし0時46-49分に長月がコロンバンガラ島ベネット入江に座礁した。揚陸作業と同時に皐月による引き降ろし作業が行われたが成功せず、4時20分前後には引き降ろし作業が打ち切られた。皐月は揚陸のため、泊地にむかった。天霧および初雪も3時前には揚陸作業を済ませるが、ヘレナの生存者を救助中のニコラスとラドフォードからの砲撃を受けたため反撃を行う。天霧は魚雷5本を発射し、巡洋艦に2本命中と判断されたが、実際にはラドフォードの艦尾をかすめ去っただけだった。天霧は被弾したものの、無事に戦場を離脱していった。揚陸を終えて西航中の望月もニコラスとラドフォードからの砲撃を受けるが、魚雷1本を発射し、煙幕を張って退却していった。2隻(天霧、初雪)はベララベラ島南岸沿いを通り9時に、3隻(谷風、浜風、三日月)は7時30分、2隻(涼風、望月)は9時15分、そして皐月が10時にそれぞれブインに帰投した。 ベネット入江で座礁中の長月は7月6日の朝、SBD「ドーントレス」、TBF「アベンジャー」、B-25「ミッチェル」の爆撃を受けて放棄された。米軍が撮影した、残骸となった長月の写真が残っている。(新月)長月の生存者はコロンバンガラ島に上陸し、同地の横須賀第七特別陸戦隊に編入された。 第36.1任務群は、前述のようにヘレナの739名の生存者を救助するためにニコラスとラドフォードを戦場に残し、また退去の際には3隻の救命ボートを海上に投下してツラギ島に退却していった。ニコラスとラドフォードは日本側輸送隊(天霧、初雪、望月)と交戦しつつも救助作業を行ったものの、全ての生存者を救助する事はできなかった。残りは救命ボートに分乗して漂流し、一部はベララベラ島にたどり着いて後刻味方駆逐艦によって救助された。 「ヘレナ (軽巡洋艦)#ヘレナの生存者」も参照
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戦闘経過
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「コロンバンガラ島沖海戦」の記事における「戦闘経過」の解説
7月12日3時30分、二水戦部隊はラバウルを出撃してブカ島北方を経由し、クラ湾に接近する。輸送隊は18時40分にブインを出撃した。これら日本艦隊の動きは沿岸監視員によって察知されており、リレー形式で連合国軍に通報された。これを受け、南太平洋部隊(第3艦隊)司令官ウィリアム・ハルゼー大将は第36.1任務群に「東京急行」の阻止を命じる。 22時35分、第36.1任務群は先行する索敵機から日本警戒隊発見の報を受信。針路270度に変更し、速力28ノットで日本艦隊を攻撃に向かう。エインズワース少将は当夜の戦法について、前回のクラ湾夜戦では「軽巡洋艦にレーダー射撃によって先制攻撃を行い、魚雷回避のため軽巡洋艦を退避させた後、駆逐艦に突撃させる」という戦法を採用していたが、今回は駆逐艦の突撃と軽巡洋艦のレーダー射撃を入れ替え、前衛の駆逐艦による雷撃の後に軽巡洋艦がレーダー射撃を行い、一斉回頭を行ってから後衛の駆逐艦に突撃させるという戦法を採用した。他にも夜間偵察機を引きつれており、弾着観測を兼ねさせていた。第36.1任務群のネックは「リアンダー」の最大速力が28ノットしか出なかった事であり、エインズワース少将は部隊の統一速力を28ノットに定めた。 二水戦部隊の陣形は単縦陣で、三日月を先頭に立てて神通、雪風、浜風、清波、夕暮だった。雪風に装備されたばかりの逆探が最初に電波を捕らえたのは22時30分頃だった。レーダー波が発せられた方向はスコールが発生していたため暗幕を降ろしたように暗く、見張り員の双眼鏡に敵の艦影は映らない。初の実戦となる逆探が確実に作動しているか疑問を残しながらも、電探室から刻々と報告される感度に従い艦隊を進ませた。22時44分、第九三八航空隊の水上偵察機が4隻の敵艦が針路290度、速力20ノットで進んでいるのを発見し、神通に通報するが、当時、偵察機からの通信は受信側への伝播時間と暗号解読により10分前後の差が生じるため、神通がこの通報を確認しえたのは22時57分で、既に米艦隊は増速し日本艦隊をレーダーで捕捉する寸前まで接近していた。同22時57分、雪風の逆探は前方の第36.1任務群からレーダー波が発せられているのを探知していた。日本艦隊は30ノットに増速、針路120度とし砲雷同時戦の用意をすると、23時00分には輸送隊を南西へ分離し、身軽な警戒隊6隻で単縦陣を組んだ。 一方の米艦隊は22時59分にホノルルのレーダーが日本艦隊を探知し、エインズワース少将は前衛駆逐隊に魚雷攻撃、後衛駆逐隊に前方進出を命じた。両艦隊は反航する形となり、相対速度60ノットで急接近した。23時3分、日米艦隊は距離24kmでほぼ同時に艦影を目視で確認する。第36.1任務群はニコラスが二水戦部隊を発見し、日本艦隊は敵前衛駆逐艦、次いで本隊の巡洋艦隊を発見。神通は砲雷同時戦を下令した。
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戦闘経過
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「ペーターヴァルダインの戦い」の記事における「戦闘経過」の解説
7月2日にオーストリアは首都ウィーンを出発、ドナウ川に沿って南進してセルビアを目指した。対するオスマン帝国は大宰相でアフメト3世の娘婿でもあるシラーダーリ・ダマト・アリ・パシャがセルビアの中心都市ベオグラードで軍勢を動員、イェニチェリ4万、スィパーヒー2万、残りはタタール、ワラキア、エジプトなど属領からの兵隊で構成された15万の大軍で北上、7月26日から27日にかけてサヴァ川を渡り、8月2日にオーストリア軍の先鋒を蹴散らし、翌日の3日にドナウ川の要衝でオーストリア軍が守備しているペーターヴァルダイン要塞に取り付き、攻城のために塹壕を掘り始め砲撃を開始した。 オイゲンは4日にペーターヴァルダインに到着、5日朝にオーストリア軍主力の来援を得たペーターヴァルダインの守備隊は反撃に転じた。攻撃をかけた中央の歩兵隊がイェニチェリによって逆に狭間に押し込まれるなど混乱したが、オイゲンは巧みに陣を立て直し、騎兵隊を率いて側面を襲撃してオスマン帝国軍を包囲、昼過ぎに敵軍を撃ち破ることに成功する。オスマン帝国軍は大混乱に陥り大半が戦死したり捕らえられ、アリ・パシャも戦死して軍は完全に崩壊、残った軍勢はベオグラードへ敗走していった。 オーストリア軍は戦後、ベオグラードへ向かうはずであったが、ドナウ川とサヴァ川に囲まれているベオグラードを攻めるには軍船が不足していたため、オーストリア軍は包囲出来る体勢に無かった。そのため、オイゲンは北上してトランシルヴァニアへ進軍して、10月にバナトの中心であるティミショアラを平定した。ドナウ川北岸を固めたオイゲンは11月に帰国、艦隊建造を含めた軍備を進め、翌1717年にベオグラードを包囲した。オスマン帝国でも大宰相ハジ・ハリル・パシャ(アリ・パシャの後任)が救援に向かい両軍はベオグラードを挟んで激突した(ベオグラード包囲戦)。
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戦闘経過
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アメリカ軍の襲撃部隊は、アメリカ海軍の機動揚陸艇(LCM)とLCVPの2種の上陸用舟艇に分乗して、11月29日午前4時(アメリカ側時間)にナボイの海岸へ上陸した。海兵空挺大隊主力の上陸した地点は、輜重兵第6連隊の海岸集積所のすぐ近くであった。フェイガン少佐は付近に有力な日本軍部隊がいると感じたが、他に手の打ちようがないので集積所を越えて進み、180mほど内陸の地点に壕を掘った。日本側は舟艇が岸に近づいてから自軍のものでないと気付き、集積所の人員を武装させるとともに、たまたま付近を通過中だった歩兵第23連隊の一部に応援を要請した。明け方には応援の歩兵が到着し始め、野砲兵第6連隊の山砲1門も集積所にあった砲弾を使って砲撃を始めた。海兵隊員の周囲には日本軍の迫撃砲や機関銃・小銃による銃砲火が降り注いだ。一方、空挺大隊の本部中隊と第3海兵奇襲大隊M中隊は、0.8km南の地点に上陸した。 状況を知った日本の第6師団司令部は、岩佐支隊(支隊長:岩佐俊少将)の歩兵第23連隊に1個大隊での撃退を命じるとともに、歩兵第13連隊の1個大隊を上陸用舟艇で29日夜に付近へ逆上陸させることを計画した。現地の日本軍は何度も歩兵突撃を行い、アメリカ軍に相当の損害を与えた。アメリカ軍は、前線の砲兵観測班の指示の下、トロキナ岬付近に布陣した第3海兵防衛大隊のM114 155mm榴弾砲による火力支援を受けていた。海兵隊員は、鹵獲した日本軍の九四式三十七粍砲も使用した。 予想よりも激しい抵抗を見て、アメリカ軍指揮官たちは自分たちが兵力的に劣勢であることを悟った。付近の日本軍は現状で1200人とも推測され、アメリカ軍は全滅の危機にひんした。南方に上陸した第3海兵奇襲大隊M中隊などは、午前9時30分に主力と合同したが、移動途中で13人の損害を受けていた。フェイガン少佐は、現在の戦闘状況が無益で、このままでは敵主力との決戦が避けがたいと判断し、午前8時までには無線で部隊の収容を求めた。ガイガー将軍も同意して撤退を命じたが、その返信は通信機が故障して受信不能に陥っていたためフェイガン少佐に届かなかった。海兵隊は中隊相互で連絡を取って守りを固めるしかなかった。次第に弾薬が欠乏してきても士気は旺盛であったが、夜襲が強く懸念された。 アメリカ軍は、襲撃部隊の収容のため2回にわたって上陸用舟艇を送ったが、日本軍砲兵の激しい射撃により失敗に終わった。2度の救出失敗と上陸部隊の弾薬欠乏という事態を受けて、護送船団から引き抜いたフレッチャー級駆逐艦「フラム」(en)・グリーブス級駆逐艦「ランズダウン」(en)・同「ラードナー」(en)と砲艇仕様の歩兵揚陸艇(LCI)1隻が援護に投入された。支援艦隊は午後6時に海岸に接近し、陸上砲兵部隊と航空隊と協同して弾幕を張った。この制圧射撃に守られ、舟艇は海岸から襲撃部隊を収容できた。最後の舟艇が戦場を離脱したのは、日没後の午後8時40分であった。アメリカ軍は、装具類を多く失ったが、兵器は破損したもの以外全て持ち帰ることができた。
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戦闘経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/04/05 03:30 UTC 版)
1944年5月17日朝、イギリス空母「イラストリアス」とアメリカ空母「サラトガ」を基幹とする米英合同機動部隊が攻撃隊を発進させた。飛び立った連合軍航空機は、スラバヤの軍港や飛行場、製油所などに対して爆撃および機銃掃射を加えた。 日本側は奇襲攻撃を受けてしまい、戦闘機による迎撃などはできなかった。2日前には海軍の第21通信隊(在スラバヤ)が、イギリス機動部隊が行動中であるとの通信解析結果を出していたが、活用されなかった。
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