レイテ島の戦いとは? わかりやすく解説

レイテ島の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/03 17:22 UTC 版)

レイテ島の戦い(レイテとうのたたかい)は、1944年昭和19年)10月20日から終戦までフィリピンレイテ島で行われた、日本軍アメリカ軍の陸上戦闘である。日本軍の当初の作戦では、ルソン島では陸軍が中心となって戦闘するが、レイテ島を含む他の地域では海軍及び航空部隊により戦闘する方針だった。ところが台湾沖航空戦で大戦果をあげたと信じた大本営は、フィリピン防衛を担当する第14方面軍司令官・山下奉文大将の反対を押し切り、作戦を急遽変更して陸軍もレイテ島の防衛に参加して迎え撃つこととした。ルソン島に配備されるはずだった多くの陸軍部隊がレイテ島へ送られ、連合軍は苦戦を強いられて、のちのルソン島侵攻作戦に遅れが出ている。約2ヶ月の戦闘でレイテ島の日本軍は敗北し、大半の将兵が戦死する結果となった。




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レイテ島の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/12 14:41 UTC 版)

第102師団 (日本軍)」の記事における「レイテ島の戦い」の解説

10月中旬米軍レイテ湾スルアン島上陸、「捷一号作戦」が発動され第35軍司令官も「鈴号作戦」を令し師団から2個大隊レイテ島急行させ、レイテ島の戦いに参加した。各大隊上陸後同島北東部要地へ向け前進する途中米軍不期遭遇戦となり、火力圧倒され後方山地退いた軍司令官増派要請受け師団長手元兵力率いてレイテ島上陸ピナ山(リモン東方、カリガラ南方)まで進出し同地区歩兵第41連隊残部など諸部隊指揮下に入れリモン峠で対峙中の第1師団の右背部掩護態勢維持した

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レイテ島の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/28 02:17 UTC 版)

独立歩兵第380大隊 (日本軍)」の記事における「レイテ島の戦い」の解説

10月20日にレイテ島の戦いが始まり独立混成58旅団増援部隊としてレイテ島への派遣予定されたことから、リンガエン湾岸のダモルテスに集結した。しかし、結局旅団主力レイテ進出取り止めとなり、独立歩兵380大隊(1,290名)、旅団砲兵隊第6中隊四一式山砲3門、122名)、工兵1小隊のみがレイテ島投入されることになった(以下、便宜上これらの部隊まとめて関大隊」と呼称する)。 12月7日関大隊は、第68旅団輸送した第八多号作戦続行し陸軍輸送艇3隻に分乗してマニラ出港した途中で敵機執拗な攻撃を受けつつも、12日レイテ島西北部サンイシドロ南方4kmアレバロ(または、さらにその南方6kmのタバンゴ)に上陸したオルモック代わる補給兵基地サンイシドロ開設する任務帯びていた関大隊は、その後12月27日時点でもタバンゴ北方付近に所在しており、同日サンイシドロからセブ島に渡る予定北上してきた第35軍和知鷹二参謀長小幡一喜参謀らを、タバンゴ北方大隊本部迎えている。 しかし、12月27日米軍サンイシドロ付近に28日にはアレバロにも上陸し29日にその一部がタバンゴに進出したため、関大隊は29日夜にタバンゴを出発海岸道方面を避けて東方丘陵地帯南下し米軍交戦しつつ、昭和20年1月中旬第35軍司令部のあるカンギポット山に辿り着いた。そして、他の残存部とともにカンギポット山付近で自活行ったが、米軍攻勢押され自活基本配置維持できなくなり2月下旬3月上旬頃から北方のカルブゴス山方面に向けて転進開始したその後大隊消息について記録がなく、大隊最期模様分かっていない。

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レイテ島の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 22:57 UTC 版)

フィリピンの戦い (1944-1945年)」の記事における「レイテ島の戦い」の解説

詳細は「レイテ島の戦い」を参照 10月20日連合軍レイテ島上陸したこれまでの日本陸軍フィリピン防衛計画ルソン島での決戦であったが、大本営海軍部が発表した台湾沖航空戦レイテ沖海戦誇大戦果信じたため、急遽レイテ島大規模な増援部隊送り決戦を行う「レイテ島決戦」へと戦略転換図った。このときは「敵は明治節11月3日)までに降伏するだろう」といった希望満ちたものであった

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レイテ島の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/14 14:13 UTC 版)

第68旅団 (日本軍)」の記事における「レイテ島の戦い」の解説

12月11日まで続いた揚陸作業結果旅団火砲4門(十榴3門、野砲1門)、連隊砲大隊砲・機関銃大部分弾薬の8割を揚陸することに成功した。しかし、火砲については運搬の手段に困ってサンイシドロ残置することになり、水牛等を利用して連隊砲2門のみを携行することとした。 そして旅団は、リモン峠付近激戦続けている第1師団との合流目指し9日早朝から東進開始した。しかし途中で湿地氾濫地帯阻まれリモン峠への直進不可能だったため、510高地レイテ富士)の西方迂回して南下した連日降雨のため進路泥濘化し、また米軍ゲリラとの戦闘敵機攻撃続いたため夜間の行軍となり、旅団前進遅れた。ようやく12月25日旅団はカンギポット山北方のペニアで、リモン峠から撤退してきた第1師団遭遇した栗栖旅団長は、第1師団長の片岡董中将歩兵第57連隊長の宮内良大佐士官学校同期であり、特に宮内連隊長とは同じ中隊出身だった。戦場宮内連隊長久々再会果たした栗栖旅団長は、「これで僕は、レイテ土となるのだ」と語っていたという。 第1師団連携取れた第68旅団は、同師団続行して西進し12月28日に「カンギポット山付近に転進し、複廓陣地占領せよ」との軍命令受領した。そして30日にビリヤバ東方進出し31日早朝からビリヤバの米軍への攻撃開始した以後昭和20年4月下旬にビリヤバ東方台地から撤退するまで、旅団はビリヤバ付近米軍頑強に攻防戦繰り広げた1月時点では旅団から米軍に対して活発な攻撃行ったが、2月に入ると米軍兵力増強しゲリラ含めた8個大隊によって旅団三方から包囲し執拗な反復攻撃行ったこの頃、カンギポット山付近に残存する日本軍は、北自活隊(第26師団)、中自活隊(軍司令部第1師団第68旅団歩兵第5連隊歩兵第41連隊金田集成大隊第102師団))、南自活隊(歩兵第77連隊独立歩兵380大隊海軍伊東陸戦隊)に分かれて自活続けていたが、米軍圧迫されて、北・南自活隊は2月下旬3月上旬に、中自活隊も4月上旬頃には自活基本配置維持できなくなり北方のカルブゴス山方面に逐次移動したその際比較戦力残っていた第68旅団が、これら残存将兵転進支援した。 しかし、間もなく旅団戦力尽きる時が来た。4月24日歩兵126連隊長金田長雄大佐(沖少将後任)は、陣地撤収転進開始命じたが、翌25日第2大隊全滅し第1大隊長の永野少佐戦死した5月に入ると、残存将兵不利な団体行動避けて自由行動を取るようになり、6月中旬には連隊兵力金田連隊長以下18となった。そして、7月20日頃までに旅団消息は全く絶え、その終焉迎えることとなった

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レイテ島の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/17 19:59 UTC 版)

テイラー (DD-468)」の記事における「レイテ島の戦い」の解説

10月18日から24日にかけて、テイラーはレイテ島の戦いに参加する2番目の侵攻部隊護衛した24日日本軍の空襲があったが、テイラー煙幕展開して船団隠したその夜スリガオ海峡海戦発生しテイラー駆逐隊僚艦サンペドロ湾湾口付近に停泊したテイラーらが直接水上戦闘に加わることはなかったものの、朝まで支援部隊加わり活動行ったディナガット島周辺魚雷攻撃部隊torpedo attack forceと共に哨戒した後、10月27日から28日にかけて護衛空母部隊第77.4任務集団Task Group 77.4, TG 77.4)を護衛した。この任務中、テイラー撃墜され空母エンタープライズUSS Enterprise, CV-6)所属戦闘機パイロット護衛空母ペトロフ・ベイUSS Petrof Bay, CVE-80)の水兵各1名を救助しているほか、度々発生した敵機による空襲から艦隊防衛した10月29日テイラーは第77.2任務集団Task Group 77.2, TG 77.2)に加わりレイテ湾出発ゼーアドラー湾ウルシー環礁コッソル水道訪れた後に11月16日レイテ湾戻った11月16日から29日にかけて、テイラーは第77.2任務集団護衛スリガオ海峡東口哨戒実施した29日テイラー僚艦急降下爆撃機神風特別攻撃隊特攻機による激し空襲跳ねのけ、この空襲テイラー撃墜確実1機と2機撃破主張している。テイラーレイテ湾出てゼーアドラー湾向かいルソン島の戦い参加するためにレイテ湾へ戻る12月28日までのほぼ1か月間をそこで過ごした

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レイテ島の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 14:32 UTC 版)

と号部隊」の記事における「レイテ島の戦い」の解説

陸軍搭乗員精鋭選抜し機体もわざわざ特攻専用機改修しながら、万朶隊富嶽隊の挙げた戦果陸軍中央失望させた。参謀本部参謀田中は「明快な戦果の)報告電報されてこないんですね。それでこれはどうしちゃったんだろうというようなですね、せっかく改装をして、特別選抜き搭乗員あてがって、何か寂しいような感じ持ちましたですね」と回想している。しかし、この時点富永は、万朶隊富嶽隊という特攻隊日本内地編成されてから送られてきたので出撃させたが、部隊士気から見ても、富永第4航空軍指揮下の現地部隊特攻隊編成することはせずに、引き続き通常作戦継続すべきと考えていた。 富永考えとは裏腹に陸軍中央海軍万朶隊富嶽のような爆撃機ではなく小回りの利く「零式艦上戦闘機」や艦上爆撃機彗星」などの小型機による特攻成果挙げていることを知り明野教導飛行師団一式戦闘機「隼」などの小型機乗機とする特攻隊編成し八紘隊と名付けフィリピン投入した富永第4航空軍通常の増援機を待ち望んでいたが、日本内地から送られてくるのは、ほとんどが特攻隊となってしまったため、第4航空軍特攻主体として戦わざるを得なくなったフィリピン到着した八紘隊は、第4航空軍司令官富永恭次中将が自ら、隊ごとに一宇隊、靖国隊、護国隊、鉄心隊、石腸隊と命名している。富永史学知識深く特攻隊部隊名は歴史など故事因んで命名された。例え鉄心隊と石腸隊は中国北宋政治家文才画才にも秀でていた蘇軾の「公択に与うるの書」を出典として、容易に動かせない堅固な意志を表す言葉鉄心石腸」から命名されている。後に八紘隊は、明野教導飛行師団・常陸教導飛行師団下志津教導飛行師団鉾田教導飛行師団などにより合計12隊まで編成され富永丹心隊、勤皇隊、一誠隊、殉義隊、皇魂隊、進襲隊まで命名した八紘各隊は「十神十機よく十艦船屠る」と称されたほど、「特攻艦船撃沈は無理」などとして特攻反対していた陸軍一部懸念払拭し、確実に戦果挙げるようになった八紘隊の第1隊となった八紘隊の一式戦闘機「隼」10機は11月27日ネグロス島出撃レイテ湾連合軍輸送船団攻撃して戦果確認した護衛機より、戦艦1隻、巡洋艦4隻、輸送艦4隻を撃沈戦艦もしくは巡洋艦1隻、大型輸送艦1隻大破大戦果が報告された。陸軍特攻機挙げた初めての大戦果に第4航空軍司令部歓喜包まれたが、これは今まで同様の過大戦果報告であった。しかし、陸軍特攻隊としては初めて、アメリカ海軍公式記録確認できる戦果挙げており、戦艦コロラド」には1機の「隼」が突入し3mの穴をあけて機体甲板貫通艦内爆弾炸裂し約100名の死傷者生じた軽巡洋艦セントルイス」も2機の「隼」が突入し砲塔搭載されていた水上機破壊して60名の死傷者生じている。特に軽巡洋艦モントピリア」に対す攻撃巧妙かつ執拗であり、一群現れ特攻機接近した1機に対空砲火向けられると、他の機は散会し同時にあらゆる方向から突入してきた。「モントピリア」はこの巧み攻撃避けることができずに2機の隼が命中したが、いずれも爆弾不発深刻な損傷には至らなかった。うち1機は副砲砲塔貫通しており、爆弾炸裂すれば弾薬誘爆致命的な損傷を受けることは避けられなかったので、水兵たちは神のご加護があったと胸なでおろしている。「モントピリア」の艦長八紘隊の攻撃について「敵機はいったん体当たりするために急降下入ったら、急降下途中でやめたり、針路変えて体当たり避けたりする特攻機は1機もなかった」と驚いている。 11月29日には、靖国隊の一式戦闘機「隼」6機が出撃し、うち1機の「隼」は、利用して巧みに戦艦メリーランド」に接近すると、全く気付かれることなく急降下で同艦に突入する寸前に、一旦機首上げると、尾翼真下垂直上昇してまた中に入り、1秒後には太陽を背にしての急降下で、今度は「メリーランド」の40.6cm砲(16インチ砲)装備の第2砲塔突入したその間特攻機はまった対空射撃浴びことはなかった。その見事な操縦見ていた「メリーランド」の水兵は、「これはもっとも気分のよい自殺である。あのパイロット一瞬の栄光輝きとなって消えたかったのだ」という感想抱き、その特攻機曲芸飛行間近見ていた軽巡洋艦モントピリア」の艦長も「彼の操縦ぶりと回避運動見上げたものであった」と感心している。「メリーランド」はこの突入によって大破炎上し130名もの大量死傷者被って修理のために翌1945年3月まで戦列離れている。富永特攻機運用巧みであり、昼夜問わず来襲する特攻機アメリカ軍水兵は満足に睡眠をとることもできずに疲労困憊していた。なかにはシャワー浴びている間に特攻機来襲して裸のまま自分配置についたり、食事順番待っている間に特攻機来襲して食事をとることができないこともざらであったという。そのような日常の中で、アメリカ軍水兵たちは、日本軍特攻機ドイツ空軍航空機よりも遥かに手ごわい相手だと痛感させられていた。 第4航空軍現地部隊での特攻隊編成には消極であった富永であったが、大本営から富永に対して本土から派遣されてくる特攻隊運用のほかに、現地部隊での特攻隊編成命令があっていた。第4航空軍としても、航空戦力の消耗激しく補充乏しくなった状況では、もはやほぼ唯一有効な作戦となった特攻注力せざるを得ず日本内地から送られてくる特攻隊のほかにも、現地部隊でも特攻隊編成開始しレイテの戦い後半からは第4航空軍残存兵力の殆ど全部特攻回されることとなった

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