レイテ島の戦い
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レイテ島の戦い(レイテとうのたたかい)は、1944年(昭和19年)10月20日から終戦までフィリピン・レイテ島で行われた、日本軍とアメリカ軍の陸上戦闘である。日本軍の当初の作戦では、ルソン島では陸軍が中心となって戦闘するが、レイテ島を含む他の地域では海軍及び航空部隊により戦闘する方針だった。ところが台湾沖航空戦で大戦果をあげたと信じた大本営は、フィリピン防衛を担当する第14方面軍司令官・山下奉文大将の反対を押し切り、作戦を急遽変更して陸軍もレイテ島の防衛に参加して迎え撃つこととした。ルソン島に配備されるはずだった多くの陸軍部隊がレイテ島へ送られ、連合軍は苦戦を強いられて、のちのルソン島侵攻作戦に遅れが出ている。約2ヶ月の戦闘でレイテ島の日本軍は敗北し、大半の将兵が戦死する結果となった。
- 1 レイテ島の戦いとは
- 2 レイテ島の戦いの概要
レイテ島の戦い
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「第102師団 (日本軍)」の記事における「レイテ島の戦い」の解説
10月中旬に米軍はレイテ湾のスルアン島に上陸、「捷一号作戦」が発動され第35軍司令官も「鈴号作戦」を令し、師団から2個大隊をレイテ島へ急行させ、レイテ島の戦いに参加した。各大隊は上陸後同島北東部要地へ向け前進する途中米軍と不期遭遇戦となり、火力に圧倒され後方山地へ退いた。軍司令官の増派要請を受け師団長は手元の兵力を率いてレイテ島へ上陸、ピナ山(リモン東方、カリガラ南方)まで進出し、同地区の歩兵第41連隊残部など諸部隊を指揮下に入れ、リモン峠で対峙中の第1師団の右背部掩護の態勢を維持した。
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レイテ島の戦い
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「独立歩兵第380大隊 (日本軍)」の記事における「レイテ島の戦い」の解説
10月20日にレイテ島の戦いが始まり、独立混成第58旅団も増援部隊としてレイテ島への派遣が予定されたことから、リンガエン湾岸のダモルテスに集結した。しかし、結局旅団主力のレイテ進出は取り止めとなり、独立歩兵第380大隊(1,290名)、旅団砲兵隊第6中隊(四一式山砲3門、122名)、工兵1小隊のみがレイテ島に投入されることになった(以下、便宜上これらの部隊をまとめて「関大隊」と呼称する)。 12月7日、関大隊は、第68旅団を輸送した第八次多号作戦に続行し、陸軍輸送艇3隻に分乗してマニラを出港した。途中で敵機の執拗な攻撃を受けつつも、12日にレイテ島西北部のサンイシドロ南方4kmのアレバロ(または、さらにその南方6kmのタバンゴ)に上陸した。オルモックに代わる補給兵站基地をサンイシドロに開設する任務を帯びていた関大隊は、その後、12月27日時点でもタバンゴ北方付近に所在しており、同日、サンイシドロからセブ島に渡る予定で北上してきた第35軍の和知鷹二参謀長、小幡一喜参謀らを、タバンゴ北方の大隊本部に迎えている。 しかし、12月27日に米軍がサンイシドロ付近に、28日にはアレバロにも上陸し、29日にその一部がタバンゴに進出したため、関大隊は29日夜にタバンゴを出発。海岸道方面を避けて東方丘陵地帯を南下し、米軍と交戦しつつ、昭和20年1月中旬に第35軍司令部のあるカンギポット山に辿り着いた。そして、他の残存部隊とともにカンギポット山付近で自活を行ったが、米軍の攻勢に押されて自活の基本配置を維持できなくなり、2月下旬~3月上旬頃から北方のカルブゴス山方面に向けて転進を開始した。その後の大隊の消息については記録がなく、大隊の最期の模様は分かっていない。
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レイテ島の戦い
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「フィリピンの戦い (1944-1945年)」の記事における「レイテ島の戦い」の解説
詳細は「レイテ島の戦い」を参照 10月20日、連合軍はレイテ島に上陸した。これまでの日本陸軍のフィリピン防衛計画はルソン島での決戦であったが、大本営海軍部が発表した台湾沖航空戦とレイテ沖海戦の誇大戦果を信じたため、急遽レイテ島へ大規模な増援部隊を送り決戦を行う「レイテ島決戦」へと戦略転換を図った。このときは「敵は明治節(11月3日)までに降伏するだろう」といった希望に満ちたものであった。
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レイテ島の戦い
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「第68旅団 (日本軍)」の記事における「レイテ島の戦い」の解説
12月11日まで続いた揚陸作業の結果、旅団は火砲4門(十榴3門、野砲1門)、連隊砲・大隊砲・機関銃の大部分、弾薬の8割を揚陸することに成功した。しかし、火砲については運搬の手段に困ってサンイシドロに残置することになり、水牛等を利用して連隊砲2門のみを携行することとした。 そして旅団は、リモン峠付近で激戦を続けている第1師団との合流を目指し、9日早朝から東進を開始した。しかし途中で大湿地・氾濫地帯に阻まれ、リモン峠への直進は不可能だったため、510高地(レイテ富士)の西方を迂回して南下した。連日の降雨のため進路は泥濘と化し、また米軍・ゲリラとの戦闘や敵機の攻撃が続いたため夜間の行軍となり、旅団の前進は遅れた。ようやく12月25日、旅団はカンギポット山北方のペニアで、リモン峠から撤退してきた第1師団と遭遇した。栗栖旅団長は、第1師団長の片岡董中将、歩兵第57連隊長の宮内良夫大佐と士官学校同期であり、特に宮内連隊長とは同じ中隊の出身だった。戦場で宮内連隊長と久々の再会を果たした栗栖旅団長は、「これで僕は、レイテの土となるのだ」と語っていたという。 第1師団と連携が取れた第68旅団は、同師団に続行して西進し、12月28日に「カンギポット山付近に転進し、複廓陣地を占領せよ」との軍命令を受領した。そして30日にビリヤバ東方に進出し、31日早朝からビリヤバの米軍への攻撃を開始した。以後、昭和20年4月下旬にビリヤバ東方台地から撤退するまで、旅団はビリヤバ付近で米軍と頑強に攻防戦を繰り広げた。1月時点では旅団から米軍に対して活発な攻撃を行ったが、2月に入ると米軍は兵力を増強し、ゲリラも含めた8個大隊によって旅団を三方から包囲し、執拗な反復攻撃を行った。この頃、カンギポット山付近に残存する日本軍は、北自活隊(第26師団)、中自活隊(軍司令部、第1師団、第68旅団、歩兵第5連隊、歩兵第41連隊、金田集成大隊(第102師団))、南自活隊(歩兵第77連隊、独立歩兵第380大隊、海軍伊東陸戦隊)に分かれて自活を続けていたが、米軍に圧迫されて、北・南自活隊は2月下旬~3月上旬に、中自活隊も4月上旬頃には自活の基本配置を維持できなくなり、北方のカルブゴス山方面に逐次移動した。その際、比較的戦力の残っていた第68旅団が、これら残存将兵の転進を支援した。 しかし、間もなく旅団の戦力も尽きる時が来た。4月24日、歩兵第126連隊長の金田長雄大佐(沖少将後任)は、陣地の撤収と転進開始を命じたが、翌25日に第2大隊が全滅し、第1大隊長の永野少佐も戦死した。5月に入ると、残存将兵は不利な団体行動を避けて自由行動を取るようになり、6月中旬には連隊の兵力は金田連隊長以下18名となった。そして、7月20日頃までに旅団の消息は全く絶え、その終焉を迎えることとなった。
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レイテ島の戦い
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「テイラー (DD-468)」の記事における「レイテ島の戦い」の解説
10月18日から24日にかけて、テイラーはレイテ島の戦いに参加する2番目の侵攻部隊を護衛した。24日に日本軍の空襲があったが、テイラーは煙幕を展開して船団を隠した。その夜スリガオ海峡海戦が発生し、テイラーと駆逐隊の僚艦はサンペドロ湾の湾口付近に停泊した。テイラーらが直接水上戦闘に加わることはなかったものの、朝まで支援部隊に加わり活動を行った。ディナガット島周辺を魚雷攻撃部隊(torpedo attack force)と共に哨戒した後、10月27日から28日にかけて護衛空母部隊第77.4任務集団(Task Group 77.4, TG 77.4)を護衛した。この任務中、テイラーは撃墜された空母エンタープライズ(USS Enterprise, CV-6)所属の戦闘機パイロットと護衛空母ペトロフ・ベイ(USS Petrof Bay, CVE-80)の水兵各1名を救助しているほか、度々発生した敵機による空襲から艦隊を防衛した。 10月29日、テイラーは第77.2任務集団(Task Group 77.2, TG 77.2)に加わりレイテ湾を出発、ゼーアドラー湾、ウルシー環礁、コッソル水道を訪れた後に11月16日にレイテ湾へ戻った。11月16日から29日にかけて、テイラーは第77.2任務集団の護衛とスリガオ海峡東口の哨戒を実施した。29日にテイラーと僚艦は急降下爆撃機と神風特別攻撃隊の特攻機による激しい空襲を跳ねのけ、この空襲でテイラーは撃墜確実1機と2機撃破を主張している。テイラーはレイテ湾を出てゼーアドラー湾へ向かい、ルソン島の戦いに参加するためにレイテ湾へ戻る12月28日までのほぼ1か月間をそこで過ごした。
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レイテ島の戦い
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陸軍搭乗員の精鋭を選抜し、機体もわざわざ特攻専用機に改修しながら、万朶隊と富嶽隊の挙げた戦果は陸軍中央を失望させた。参謀本部参謀の田中は「明快な(戦果の)報告が電報されてこないんですね。それでこれはどうしちゃったんだろうというようなですね、せっかく改装をして、特別選り抜きの搭乗員をあてがって、何か寂しいような感じを持ちましたですね」と回想している。しかし、この時点で富永は、万朶隊と富嶽隊という特攻隊が日本内地で編成されてから送られてきたので出撃させたが、部隊の士気から見ても、富永は第4航空軍指揮下の現地の部隊で特攻隊を編成することはせずに、引き続き通常作戦を継続すべきと考えていた。 富永の考えとは裏腹に、陸軍中央は海軍が万朶隊と富嶽隊のような爆撃機ではなく、小回りの利く「零式艦上戦闘機」や艦上爆撃機「彗星」などの小型機による特攻で成果を挙げていることを知り、明野教導飛行師団で一式戦闘機「隼」などの小型機を乗機とする特攻隊を編成し、八紘隊と名付けてフィリピンに投入した。富永ら第4航空軍は通常の増援機を待ち望んでいたが、日本内地から送られてくるのは、ほとんどが特攻隊となってしまったため、第4航空軍は特攻を主体として戦わざるを得なくなった。フィリピンに到着した八紘隊は、第4航空軍司令官富永恭次中将が自ら、隊ごとに一宇隊、靖国隊、護国隊、鉄心隊、石腸隊と命名している。富永は史学の知識が深く、特攻隊の部隊名は歴史などの故事に因んで命名された。例えば鉄心隊と石腸隊は中国北宋の政治家で文才と画才にも秀でていた蘇軾の「李公択に与うるの書」を出典として、容易には動かせない堅固な意志を表す言葉「鉄心石腸」から命名されている。後に八紘隊は、明野教導飛行師団・常陸教導飛行師団・下志津教導飛行師団・鉾田教導飛行師団などにより合計12隊まで編成され、富永は丹心隊、勤皇隊、一誠隊、殉義隊、皇魂隊、進襲隊まで命名した。八紘隊各隊は「十神鷲十機よく十艦船を屠る」と称されたほど、「特攻で艦船の撃沈は無理」などとして特攻に反対していた陸軍の一部の懸念を払拭し、確実に戦果を挙げるようになった。 八紘隊の第1隊となった八紘隊の一式戦闘機「隼」10機は11月27日にネグロス島を出撃、レイテ湾の連合軍輸送船団を攻撃して、戦果確認した護衛機より、戦艦1隻、巡洋艦4隻、輸送艦4隻を撃沈、戦艦もしくは巡洋艦1隻、大型輸送艦1隻大破の大戦果が報告された。陸軍特攻機が挙げた初めての大戦果に第4航空軍司令部は歓喜に包まれたが、これは今までと同様の過大戦果報告であった。しかし、陸軍特攻隊としては初めて、アメリカ海軍の公式記録で確認できる戦果を挙げており、戦艦「コロラド」には1機の「隼」が突入し、3mの穴をあけて機体は甲板を貫通、艦内で爆弾が炸裂し約100名の死傷者が生じた。軽巡洋艦「セントルイス」も2機の「隼」が突入し砲塔と搭載されていた水上機を破壊して60名の死傷者が生じている。特に軽巡洋艦「モントピリア」に対する攻撃は巧妙かつ執拗であり、一群で現れた特攻機は接近した1機に対空砲火が向けられると、他の機は散会して同時にあらゆる方向から突入してきた。「モントピリア」はこの巧みな攻撃を避けることができずに2機の隼が命中したが、いずれも爆弾が不発で深刻な損傷には至らなかった。うち1機は副砲砲塔を貫通しており、爆弾が炸裂すれば弾薬の誘爆で致命的な損傷を受けることは避けられなかったので、水兵たちは神のご加護があったと胸をなでおろしている。「モントピリア」の艦長は八紘隊の攻撃について「敵機はいったん体当たりするために急降下に入ったら、急降下を途中でやめたり、針路を変えて体当たりを避けたりする特攻機は1機もなかった」と驚いている。 11月29日には、靖国隊の一式戦闘機「隼」6機が出撃し、うち1機の「隼」は、雲を利用して巧みに戦艦「メリーランド」に接近すると、全く気付かれることなく、急降下で同艦に突入する寸前に、一旦機首を上げると、尾翼を真下に垂直上昇してまた雲の中に入り、1秒後には太陽を背にしての急降下で、今度は「メリーランド」の40.6cm砲(16インチ砲)装備の第2砲塔に突入した。その間、特攻機はまったく対空射撃を浴びることはなかった。その見事な操縦を見ていた「メリーランド」の水兵は、「これはもっとも気分のよい自殺である。あのパイロットは一瞬の栄光の輝きとなって消えたかったのだ」という感想を抱き、その特攻機の曲芸飛行を間近で見ていた軽巡洋艦「モントピリア」の艦長も「彼の操縦ぶりと回避運動は見上げたものであった」と感心している。「メリーランド」はこの突入によって大破炎上し、130名もの大量の死傷者を被って、修理のために翌1945年3月まで戦列を離れている。富永の特攻機の運用は巧みであり、昼夜問わず来襲する特攻機にアメリカ軍水兵は満足に睡眠をとることもできずに疲労困憊していた。なかにはシャワーを浴びている間に特攻機が来襲して裸のまま自分の配置についたり、食事の順番を待っている間に特攻機が来襲して食事をとることができないこともざらであったという。そのような日常の中で、アメリカ軍の水兵たちは、日本軍の特攻機がドイツ空軍の航空機よりも遥かに手ごわい相手だと痛感させられていた。 第4航空軍現地部隊での特攻隊編成には消極的であった富永であったが、大本営から富永に対して、本土から派遣されてくる特攻隊の運用のほかに、現地部隊での特攻隊編成の命令があっていた。第4航空軍としても、航空戦力の消耗が激しく、補充も乏しくなった状況では、もはやほぼ唯一有効な作戦となった特攻に注力せざるを得ず、日本内地から送られてくる特攻隊のほかにも、現地の部隊でも特攻隊の編成を開始し、レイテの戦いの後半からは第4航空軍の残存兵力の殆ど全部が特攻に回されることとなった。
※この「レイテ島の戦い」の解説は、「と号部隊」の解説の一部です。
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