神風特別攻撃隊
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神風特別攻撃隊(かみかぜとくべつこうげきたい[1][2][3][4]、しんぷうとくべつこうげきたい[5][6][7]、旧字体:神󠄀風特別攻擊隊󠄁)は、第二次大戦で大日本帝国海軍によって編成された爆装航空機による体当たり攻撃部隊(特別攻撃隊)と直接掩護並びに戦果確認に任ずる隊で構成された攻撃隊[8]。攻撃目標は艦船[9]。略称は「神風」「神風特攻隊」[10]。隊名の発案者[注 1]・猪口力平によれば、「神風」の読みは音読みの「しんぷう」であるが、当時のニュース映画[11]で訓読みの「かみかぜ」と読んだものが上映されたことでこれが定着した[7]。昭和19年(1944年)10月から終戦までの約10か月間に渡って出撃を繰り返した。
- 1 神風特別攻撃隊とは
- 2 神風特別攻撃隊の概要
神風特別攻撃隊
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1944年10月17日、第一航空艦隊司令長官に内定した大西瀧治郎中将がマニラに到着した。大西は一航艦長官に内定したときから航空機による特攻開始を考えており、米内光政海軍大臣や及川古志郎軍令部総長の了承を取り付けていた。マニラに向かう途中には台湾にも立ち寄ったが、台湾沖航空戦の真っ最中で、新竹で日本軍戦闘機とアメリカ軍戦闘機の空中戦の様子を見学した。そこで日本軍戦闘機の苦戦ぶりを見て愕然とし、多田武雄中将に対して「これでは体当たり以外無い」と話している。大西は台湾入りしていた連合艦隊司令長官豊田副武大将とも面会し「大戦初期のような練度の高い者ならよいが、中には単独飛行がよっとこせという搭乗員が沢山ある、こういう者が雷撃爆撃をやっても、被害に見合う戦果を期待できない。どうしても体当たり以外に方法はないと思う。しかし、命令では無くそういった空気にならなければ(特攻は)実行できない」と特攻を開始する決意を述べている。 大西は「ダバオ誤報事件」の失態の責任をとって更迭された前任の寺岡謹平中将にも特攻開始の了承をとったのち、10月18日に参謀などから意見聴取して現状把握に努めたが、一航艦の現有兵力のうち、実働機数が約40機程度であることを知って、より特攻開始の決意を強くした。翌19日には、大西は一航艦司令部で第七六一海軍航空隊司令・前田孝成大佐に戦局の説明を行った後、副官の門司親徳大尉を伴ってマバラカット飛行場に向かう。夕刻近くにマバラカットに到着の後、指揮所に二〇一空副長・玉井浅一中佐、一航艦首席参謀・猪口力平中佐などを招集し、「米軍空母を1週間位使用不能にし捷一号作戦を成功させるため零戦に250キロ爆弾を抱かせて体当たりをやるほかに確実な攻撃法はないと思うがどうだろう」と特攻作戦開始を提案した。大西と入れ違いにマニラへ向かい、大西と入れ違いになったのでまたマバラカットに戻る途中に乗機の不時着により足を骨折して海軍病院に入院した二〇一空司令・山本栄大佐には、この会合とは別に一航艦参謀長・小田原俊彦大佐から大西の考える体当たり攻撃法を披瀝され、「副長(玉井)に一任する」との伝言を託していた。玉井は体当たり攻撃法に賛成し、戦闘三〇五飛行隊長・指宿正信大尉も同意したため、「未曾有の攻撃法」たる体当たり攻撃が採用されるに至った。 玉井は大西に、攻撃隊の編成を一任するよう申し出て了承されると、猪口とともに攻撃隊の編成に取り掛かるが、玉井と猪口には大まかながら攻撃隊の編成が出来上がっていた。すなわち、隊員は第十期甲種飛行予科練習生から選出して、これは玉井が第二六三海軍航空隊時代から何かと甲十期生の面倒を見て共に戦ってきた背景があり、甲十期生に一花咲かせようという魂胆からだった。二〇一空にいた甲十期生は63名で、体調不良だったり日本へ航空機受領に行っていた者などを除いた33名の中から隊員を選ぶこととした。指揮官は海軍兵学校出身者の士官搭乗員から選ぶもので、これは猪口の提案であった。 猪口は、指揮官には当初第三〇六飛行隊長で、関の同期である戦闘機搭乗員でエース・パイロットの菅野直を考えていたが、菅野は日本へ機材受領に赴き不在であったため、関が攻撃隊指揮官として選出されることになる。その理由として、関が着任時に玉井に挨拶した際に「内地から張り切って戦地にやってきた風」のような感じを与えていたことや、戦闘の合間を見ては、再三再四にわたって熱心に戦局に対する所見を申し出て出撃への参加を志願し、玉井の脳裏に「この先生なかなか話せる男だわい」という強い印象として残っていたからだと、玉井は後年になって回想している。猪口は兵学校教官時代から関を知っており、テニス好きのスマートな男だが利かん気のところがあるという印象を持っていた。猪口は「関ならよかろう」と玉井に賛同し、猪口の賛同を得た玉井は、数日前から熱帯性の下痢を患い、軍医の副島泰然大尉の指示で絶食し、私室で療養していた関を呼びに行かせた。 やがてカーキ色の第三種軍装を身に着けた関が玉井の部屋を訪れたので、玉井は関に椅子をすゝめ、腰かけた関の肩を抱くようにして「今日大西長官が201空に来られ、捷一号作戦を成功させる為、空母の飛行甲板に体当たりをかけたいという意向を示された。そこで君にその特攻隊長をやってもらいたいんだがどうかね」と 体当たり攻撃隊の指揮官として「白羽の矢を立てた」ことを告げた。猪口によれば、関は指名された際にその場で熟考の後「ぜひやらせて下さい」と即答したという。熟考の時間はわずか数秒という証言もあるが、自分が指名されるとは思ってもいなかった関が戸惑っていたところに、玉井がさらに「どうだろう、君が征ってくれるか」と念を押してきたので、「承知しました」と無造作に一言で答えたとする証言もある。また、即答はできずに、「一晩考えさせて下さい」と逡巡したが、玉井の念押しで、結論を先延ばしすることはできないと決断し、「承知しました」と返答したとする証言もある。関が引き受けたことで玉井はほっとし、「頼む、最初は海兵出身が指揮をとるべきだと思う。貴様が一番最初に行ってくれると大助かりだ。全軍の士気の問題だ」関に感謝の言葉を述べたという。戦後に玉井が関の慰霊祭に参席した際に、関が「一晩考えさせて下さい」と即答を避けたのち、翌朝になって「引き受けます」と承諾したなどと証言したとも伝えられるが、これは、関が了承したあとの経緯から見ても時系列的に矛盾することが多く、玉井の記憶違いである。 関が了承した後、玉井と関は士官室兼食堂に移動したが、そこに大西と猪口と大西の副官の門司親徳中尉も合流した。猪口とは多くは語らなかったが、猪口の「君(関)はまだチョンガー(独身)だったな」という問いかけに対して「いえ、結婚しております」と答えたという。その後関は「ちょっと失礼します」と一同に背を向けて薄暗いカンテラの下で新婚の妻満里子と父母に対する遺書を書き始めた。遺書のほかにも、満里子の親族に対するお礼や、教官時代の教え子に対しては「教へ子は 散れ山桜 此の如くに」との辞世を残した。
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