第一航空艦隊とは? わかりやすく解説

第一航空艦隊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/03 23:32 UTC 版)

第一航空艦隊(だいいちこうくうかんたい)は、日本海軍の空母艦隊及び基地航空部隊。1941年昭和16年)4月10日に新編された[1]。この艦隊を中核に、他の艦隊から臨時編入された艦艇を組み合わせ、世界初の空母機動部隊として運用された。




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第一航空艦隊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/30 05:04 UTC 版)

第二〇一海軍航空隊」の記事における「第一航空艦隊」の解説

1944年5月5日 第一航空艦隊に転籍6月、「あ号作戦」が発令されたが、練成途上のために不参加7月10日航空隊再編発表第一五三海軍航空隊戦闘機隊・第二〇二海軍航空隊編入既存戦闘305飛行隊54機・戦闘306飛行隊46機をセブ島配置戦闘302飛行隊(旧二〇二空21機をダバオ配置戦闘311飛行隊(旧一五三空57機をラサンに配置8月下旬対艦反跳爆撃訓練開始温存策に従事9月10日ダバオ誤報事件発生全機セブ集合9月12日 原隊復帰作業中のセブ飛行場を米機動部隊艦載機隊が奇襲機体壊滅原隊復帰済み含め99機に激減9月12日フィリピン敵機部隊接近爆装戦闘機爆撃戦果なし)。10月11日台湾沖航空戦勃発支援攻撃従事10月15日有馬正文第二十六航空戦隊司令官先導攻撃参加有馬司令官機突入自爆詳細は「神風特別攻撃隊」を参照 1944年10月19日夕刻マバラカット飛行場201海軍航空隊本部に、一航艦長官に内定した大西瀧治郎中将訪れて特攻隊編成に関する会議開き、「空母一週間使用不能にし、捷一号作戦成功させるため、零戦250爆弾を抱かせて体当たりをやるほかに、確実な攻撃法は無いと思うがどうだろう」と提案する。これに対して玉井浅一副長は、山本司令不在だったために「自分だけでは決められない」と返答したが、大西同意得ていると伝え同時に決行するかは玉井一任した。玉井時間をもらい、飛行隊長指宿正信大尉横山岳大尉相談した結果体当たり攻撃決意して大西その旨伝えたが、その際特攻隊編成航空隊側に一任して欲しいと要望し大西はそれを許可した指揮官選定は、「海軍兵学校出身者指揮官に」という猪口力平一航艦首参謀意向受けて玉井関行男大尉指名した10月20日大西瀧治郎一航艦長臨席のもと「神風特別攻撃隊結団式。10月25日敷島隊・朝日隊・山桜隊菊水隊若桜隊・大和隊計13突入護衛空母セント・ロー撃沈。第一航空艦隊と第二航空艦隊統合した連合基地航空隊編成され201空福留繁中将指揮下に入る。10月29日初桜隊3機特攻突入10月30日葉桜隊6機特攻突入11月1日梅花隊1機特攻突入11月5日左近隊2機特攻突入11月中に一航艦・二航艦の航空隊続々機体払底し特攻すら不可となっていった。昭和20年1月9日、一航艦は台湾へ撤退命じられた。二〇一空要員一部は、2月10日までの困難な救出作業によって台湾へ撤退した。しかし多数要員フィリピン取り残された。撤退できなかった全航空隊搭乗員15000名は、杉本丑衛二十六航戦司令官指揮下で「クラーク地区防衛部隊」を結成陸軍戦車第二師団指揮下で地上戦借り出された。昭和20年1月9日より、一航艦の台湾撤退実施された。二〇一空帳簿上は台湾へ撤退遂げた。しかし、二〇要員乗るべき戦闘機はなかった。昭和20年1945年2月5日一航艦再編第二〇五海軍航空隊ほか4個航空隊新編選外搭乗員高雄警備府第二十六航空戦隊に編入二〇空へ選抜から漏れた二〇一空要員は、機体調達がかなうまで陸戦訓練明け暮れた。しかし、沖縄戦備えて台湾派遣され内地航空隊も、定員満たしている隊は皆無だった最後半年間、二〇一空機体保有する機会得られないまま終戦迎えた

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第一航空艦隊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/22 23:57 UTC 版)

第二航空戦隊」の記事における「第一航空艦隊」の解説

1941年昭和16年4月10日日本海軍は第一航空艦隊(司令長官南雲忠一中将参謀長草鹿龍之介少将参謀源田実中佐等)を編制する第二航空戦隊第二艦隊より除かれ、第一航空艦隊に編入される同年9月12日内示された昭和17年海軍戦時編制によれば昭和17年度の第二航空戦隊空母2隻(蒼龍飛龍)と第12駆逐隊叢雲東雲)となる予定だった。しかし太平洋戦争勃発により、「叢雲」以下第12駆逐隊同大戦で空母機動部隊配属される事はなかった。9月22日二航戦旗艦は「飛龍」となるが、10月26日より「蒼龍」に復帰11月16日、第23駆逐隊菊月夕月卯月)はグァム島攻略作戦に関して第四艦隊司令長官井上成美中将)の指揮下に入り第五根拠地隊配属された。 太平洋戦争開戦時第二航空戦隊司令官山口多聞少将)は、準同型艦空母2隻(蒼龍飛龍)を主力とし、第一航空艦隊に所属編制上は睦月型駆逐艦3隻(菊月夕月卯月)の第23駆逐隊二航戦所属していたが、同部隊南洋部隊指揮官井上成美第四艦隊司令長官旗艦鹿島」)に編入され中部太平洋諸島行動し開戦時第五根拠地隊司令官春日篤少将指揮下でグアム島進攻敷設艦津軽」や駆逐艦「朧」(第五航空戦隊所属と共に上陸作戦敢行した(グアム島攻略作戦)。以後南洋部隊指揮下で行動し空母2隻(蒼龍飛龍)とは別行動である。 1941年昭和16年12月8日真珠湾攻撃参加以後第二航空戦隊空母2隻(蒼龍飛龍)は金剛型戦艦利根型重巡洋艦南雲機動部隊警戒隊の軽巡阿武隈」(第一水雷戦隊旗艦)や朝潮型駆逐艦陽炎型駆逐艦と共にウェーク島攻撃ポートダーウィン攻撃セイロン沖海戦参加する第二次ウェーク島攻略作戦時に派遣され部隊編成指揮官阿部弘毅第八戦隊司令官)は、第八戦隊阿部弘毅少将利根筑摩)、第二航空戦隊山口多聞少将蒼龍飛龍)、第17駆逐隊第1小隊谷風浦風)。クリスマス島攻撃時の部隊編成は、第二航空戦隊蒼龍飛龍)、第三戦第2小隊3番榛名4番金剛)、第17駆逐隊谷風浦風浜風磯風)。 1942年昭和17年4月10日、第一航空艦隊麾下陽炎型駆逐艦および夕雲型駆逐艦主力とする第十戦隊司令官木村進少将旗艦長良」)が新編される。これにともない、第23駆逐隊南洋部隊麾下第六水雷戦隊旗艦夕張」)に編入5月5日、同駆逐隊珊瑚海海戦前哨戦で「菊月」を喪失ツラギ島)、5月25日附で解隊された(夕月は第29駆逐隊卯月は第30駆逐隊編入)。 日本本土へ帰投後の5月8日第二航空戦隊旗艦は「蒼龍」から「飛龍」に変更6月5日ミッドウェー海戦で「飛龍」と「蒼龍」は沈没飛龍艦長加来止男大佐蒼龍艦長柳本柳作大佐戦死)。第二航空戦隊司令官山口多聞少将は「飛龍」から脱出せず行方不明となった戦死認定)。7月上旬生還した安井鈊二少佐橋口少佐は、それぞれ第二航空戦隊参謀職務解かれた。

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第一航空艦隊

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淵田美津雄」の記事における「第一航空艦隊」の解説

1941年8月25日、第一航空艦隊の赤城飛行長に着任した。淵田と海兵同期航空参謀源田実中佐希望であった指名理由極秘準備していた真珠湾攻撃成功させるため、優れた統率力戦術眼を持ち源田通じ同期生偵察席に座り作戦指揮集中できる空中指揮官として淵田が必要だったからである。淵田によれば源田とは親友の関係にあったためまたともに仕事ができると喜んだという。異例降格人事であったが、南雲忠一長官から「艦隊幕僚事務補佐」の肩書与えられる。また他の隊長とは格が違うため、攻撃隊員らは淵田に「総隊長」の称号奉った草鹿龍之介参謀長源田が案画し淵田が実行する取組み二人評価し彼らの献策入れて見守った源田参謀により航空隊訓練指揮空中指揮官にまとめられたため、淵田は一航艦全空母航空隊統一訓練指導した1941年10月海軍中佐1941年12月ハワイ作戦参加8日真珠湾攻撃における空襲部隊総指揮官で第1次攻撃隊を指揮し、「ト・ト・ト」(全軍突撃せよ)及び「トラトラトラ」(奇襲成功セリ)が淵田中佐機から打電された。真珠湾攻撃戦果戦艦4隻が大破着底戦艦2隻が大・中破するなど、米太平洋艦隊戦艦部隊行動不能にする大戦果をあげた。攻撃後に淵田は源田とともに数日付近にとどまり留守だった敵空母撃滅する案を進言したが受け入れられなかった。12月26日第一次攻撃指揮官淵田と第二次攻撃指揮官嶋崎重和少佐直接昭和天皇への真珠湾攻撃軍状奏上許される佐官による軍状奏上は初のことであったその後二人は淵田と海兵同期高松宮宣仁親王誘われて27日霞ヶ関離宮皇族集まり顔を出したその後休む間もなく第一航空艦隊は南下し1942年1月20日22日のラバウル・カビエン攻略支援1942年2月19日のボートダーウィン攻撃1942年3月ジャワ海掃討戦1942年4月インド洋作戦攻撃隊を指揮し連戦連勝続けたインド洋作戦までで大戦果をあげながら損失わずかだった。第一航空艦隊は世界最強機動部隊となるが、連戦連勝疲労慢心現れていた。 1942年6月ミッドウェー作戦参加するが、虫垂炎となり盲腸の手術をしたため出撃できず空母赤城艦上留まり代わり友永丈市大尉務めた。しかしミッドウェー海戦敗北空母4隻を失う結果となる。淵田は赤城からの脱出時に両足骨折した1942年7月20日横須賀鎮守府付。1942年10月10日横須賀航空隊教官1942年12月10日兼海大学校教官1943年7月1日第1航空艦隊作戦参謀長官角田覚治中将再建された一航艦は散在する基地母艦見立て移動集中重視した航空部隊であった1944年2月マリアナ諸島テニアン島進出後にマリアナ諸島空襲を受ける。角田攻撃企図するが、淵田は戦闘機が不十分、進出直後攻撃成算はない、消耗避けるべきと飛行機避退進言したが聞き入れられなかった。結局一航艦は米艦隊攻撃壊滅状態となる。

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第一航空艦隊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 21:49 UTC 版)

草鹿龍之介」の記事における「第一航空艦隊」の解説

詳細は「真珠湾攻撃」を参照 1941年昭和16年4月15日、第一航空艦隊参謀長長官南雲忠一中将真珠湾攻撃準備命令された。9月24日軍令部において大西瀧治郎中将草鹿真珠湾攻撃悲観論同調し10月初旬には二人で連合艦隊司令長官・山本五十六大将真珠湾攻撃をやめフィリピン作戦支援すべきと具申した山本大西草鹿に「ハワイ奇襲断行する。無理もあるが積極的に考えて準備するように。投機的と言わず君たちにも一理あるが僕のも研究してくれ。」と説得した大西は「草鹿君、長官がああまで仰るなら、一つまかせてみようじゃないか」と前言翻し唖然とする草鹿横目に大西山本ポーカー始めた草鹿は「あの時まいった」という。山本草鹿旗艦長門」の舷門まで見送り、「真珠湾攻撃は、最高指揮官たる私の信念だ。どうか私の信念実現することに全力尽くしてくれ」とを草鹿肩を叩いた草鹿航空参謀源田実中佐が案画し飛行隊長淵田美津雄実行する取組み二人評価しておりなるべく彼らの献策入れて静かに見守った出撃前の会議では、不安気な南雲対し草鹿は「俺は鈍感なのか人は非常な大事をやる様に云ふが、何とも感じない」と連合艦隊参謀長宇垣纏語った宇垣指揮官幕僚という立場の差を感じたという。 12月8日太平洋戦争劈頭真珠湾攻撃で第一航空艦隊はアメリカ戦艦4隻を撃沈、2隻を大破させアメリカ太平洋艦隊行動不能にする大戦果をあげた。 草鹿は、「真珠湾の上空に残って、全攻撃隊の戦果確認して帰還した田中佐から、真珠湾戦況戦果について詳しい報告を受け、大体において真珠湾の敵主力潰滅せしめ得たことがわかったそもそも真珠湾攻撃大目的は、敵の太平洋艦隊大打撃与えて、その進攻企図挫折させるにあっただからこそ攻撃一太刀定め周到な計画のもとに手練一撃加えたところ、奇襲成功しその目的達成することができた。機動部隊立ち向かうべき敵はまだ一、二とどまらないいつまで獲物執着すべきでなく、すぐ他の敵に対す構えが必要であるとして、何の躊躇もなく南雲長官進言して引き揚げることに決した。”なぜもう一度攻撃反復しなかったか””工廠油槽破壊しなかったのは何故か”などの批判もあるが、これは、いずれも兵機戦機機微触れないものの戦略論であると思う。」、「私に言わせれば、この際、これらは、いずれも下司戦法である」、「私に面と向かって反対意見具申した者は一人もいない」と戦後語っている。 また、源田中佐と淵田中佐から付近に数日とどまり空母撃滅する案が出たが、草鹿は「この作戦目的日本南方作戦部隊側面後方防衛にある。達成された以上とどまって無期限長引かせるべきではない」と考えてこれを却下した帰路についた第一航空艦隊に対し連合艦隊参謀長宇垣纏真珠湾攻撃同時期に行われた第七駆逐隊小西要人司令駆逐艦「潮」「漣」)のミッドウェー島砲撃効果薄しとみて、ミッドウェー空襲するように下令した。戦後草鹿は「参謀長として腹が立ちたり」「横綱破った関取に、帰りにちょっと大根買ってこいというようなものだ」とこれを批判している。結局、一航艦は天候不良補給困難なこともあり、実行しなかった。 その後も一航艦は、ニューギニアオーストラリアインド洋転戦し連合軍主要根拠地覆滅しながら大航海をした。ラバウル・カビエン攻略支援ポートダーウィン攻撃ジャワ海掃討戦などで活躍し太平洋制空権獲得した1942年4月インド洋作戦におけるセイロン沖海戦ではイギリス空母ハーミーズ」を撃沈しトリンコマリー港を爆撃する戦果挙げた。第一航空艦隊はインド洋作戦までで大戦果をあげながら航空機損失はわずかで、艦艇には一隻被害もなかった。。史上類のない連続的勝利を記録し、第一航空艦隊は世界最強機動部隊となるが、連戦連勝から疲労慢心現れていた。連合艦隊司令部幕僚は、南雲草鹿批判的であり、山本五十六長官南雲交代要望したが、「それでは南雲悪者になる」と却下された。山口多聞は一航艦について「参謀長先任参謀どちらがどちらか知らぬが臆劫屋揃」と語っていた。 詳細は「ミッドウェー海戦」を参照 インド洋から帰還した第一航空艦隊に連合艦隊司令部立案したミッドウェー作戦命令された。軍令部説明受けた草鹿第二艦隊参謀長白石萬隆ドーリットル空襲騒ぎ直後であり、敵機部隊来襲未然に防ぐためという先入観から主目的ミッドウェー基地攻略副目的敵機部隊撃破解釈した長期作戦後で艦のドック入り補充修理訓練準備のため時間との戦いだった。草鹿は「準備期間が不十分で不満もあったが強く反対せず、何とかやれるだろうと考えていた。それよりハワイ攻撃戦死者2階特進方に関心があった」という。当時真珠湾戦果をあげた航空部隊戦死一般と同じ扱い士気に関わると一航艦で不満が高まっていた。 草鹿ミッドウェー作戦について「真珠湾以来成功続いていたが、消耗もあり反対だったミッドウェー攻略自体多大な疑問があり連合艦隊から作戦決定され強要された。しかし抵抗はしなかった」と語っている。1942年昭和17年5月4日研究会で、草鹿白石延期申請した却下され5日に再び訪問した際に第二段作戦手交され、その日は延期申請をせずに帰ったまた、ミッドウェー作戦時期尚早であると、二航戦司令官山口多聞少将航空参謀源田実中佐連合艦隊反対したのに対し連合艦隊司令部はもう決まったことであると取り合わなかったが、草鹿はここであきらめたことが間違いであった戦後語っている。 戦訓分科研究会において、宇垣草鹿対し、「敵に先制空襲受けた場合或は陸上攻撃の際、敵海上部隊より側面たたかれたる場合如何にする」と尋ねると、草鹿は「かかる事無き処理する」と答えたため、宇垣草鹿追及すると、航空参謀源田が「艦攻増槽付した偵察機四五〇浬程度まで伸ばし得るもの近く二、三配当せらるるを以て、これと巡洋艦零式水偵使用して側面哨戒に当らしむ。敵に先ぜられたる場合は、現に上空にある戦闘機の外全く策無し」と答えた。そのため宇垣注意喚起続け作戦打ち合わせ前に「第一航空艦隊はミッドウェー攻撃二段攻撃とし第二次は敵に備える」とした。宇垣は「今後千変萬化海洋作戦に於て果して其の任に堪えゆるや否や」と心配したという。 出撃前、草鹿は、攻撃日が決まっているので奇襲機動余地がなく、空母アンテナ受信能力不足で敵情わかりにくいので、連合艦隊敵情把握して作戦転換指示するように、連合艦隊参謀長宇垣纏中将取りつけた。しかし、連合艦隊付近に空母疑い感じ情勢緊迫してきたと判断しながら、甘い状況判断放送東京から全部隊に流したまま、自己判断麾下知らせなかった。このことで一航艦は米機動部隊奇襲受けて敗北した宇垣海戦後日記に第一航空艦隊に対して「当司令部も至らざる処あり相済まずと思慮しあり」と残している。 6月5日、第一航空艦隊はミッドウェー島基地攻撃隊を出撃させ、ミッドウェー海戦が始まる。攻撃終えた飛行隊長友永丈市大尉は、司令部対し第二次攻撃の要あり」と打電した南雲長官は、ミッドウェー攻略部隊のため制圧間に合わせなければならず、米艦隊ハワイにいるという連合艦隊敵情判断に従って行動しており、帰還中の偵察機からも報告がないため、山本五十六大将から米艦隊迎撃のために待機指示されていた残り半数攻撃隊を兵装転換して使うことに決定した草鹿によれば、「山本望み南雲幕僚もよく知っていた。事実状況が許す限りそうした。しかしミッドウェー基地の敵航空兵力がわれわれに攻撃開始し空母発見されていない状況でいるのかどうかわからない敵に半数無期限に控置しておくのは前線指揮官にとして耐えられないことだった。後で問題だったとしてもあの当時の状況では南雲決定正当だった」と語っている。 しかし、偵察機予期せぬ米軍機部隊発見報告があり、第二航空戦隊司令官山口多聞少将から陸用爆弾のまま即時攻撃意見具申がされた。しかし、直掩戦闘機準備ができておらず、第一航空艦隊上空ミッドウェー島攻撃終えた第一次攻撃100機が帰還し着艦収容待っていた。そのため南雲帰還部隊収容優先させた。草鹿によれば、敵の来襲状況を見ると敵は戦闘機をつけずに来て面白いように撃墜され、全く攻擎効果をあげておらず、これを目前見ていたので、どうしても艦戦隊を付けず艦爆隊を出す決心がつかなかったという。 第一航空艦隊は、ミッドウェー島基地航空隊空襲撃退し米軍機部隊から発進したTBD デバステーター雷撃機攻撃連続全て撃退した。しかし、その直後米軍機部隊艦載機による急降下爆撃受けて主力空母3隻(赤城加賀蒼龍)が炎上し残った飛龍」も後に炎上し自軍によって処分され空母4隻を失い敗北した草鹿は、被弾する直前攻撃隊に準備ができたものから発艦するように命じ攻撃隊の戦闘機飛び立とうとしたところに爆撃を受け、あと5分あれば攻撃隊は発艦できたと回想している。これは「運命の5分間と言われたが、実際に攻撃隊の準備はできておらず、5分で発艦するのは不可能だった。この海戦では索敵において敵機部隊発見遅れたが、一段索敵決めた草鹿は「攻撃兵力増やそうとして偵察軽視した」と語っている。 艦隊司令部幕僚南雲以下全員自決すべきと先任参謀大石保代表して上申したが、草鹿はそれを却下し南雲に対して説得しなだめた雀部利三郎航海参謀)はミッドウェー海戦後司令部一同自決却下した草鹿を「本当の意味で胆が座っていて、ああいうとき冷静になれる人」と評している。 連合艦隊司令部のある旗艦大和」への敗戦報告には、南雲代わりに草鹿幕僚連れて向かった第一声は「何と申してよいか云うべき言葉なし申し訳なし」であった草鹿連合艦隊長官山本五十六に「大失策演じおめおめ生きて帰れる身に非ざるも、ただ復讐一念駆られて生還せる次第なれば、如何か復讐できるよう取り計らって戴き度」と嘆願し山本はそれに「承知した」と答えた連合艦隊参謀長宇垣纒敗戦報告に「大和」を訪れた草鹿対し参謀長に対しては当司令部としても至らざる所あり。相済まずと思量しあり」と謝罪した草鹿によれば、謝る際に宇垣敵情わかってたようなことを言っていたという。攻撃隊を半数待機させることに関し草鹿は「自分着任以来充分偵察をなしこの一撃全力集中することを主義として訓練し成功した途中これを変更する気持ちになり得ざりしなり」と答えた

※この「第一航空艦隊」の解説は、「草鹿龍之介」の解説の一部です。
「第一航空艦隊」を含む「草鹿龍之介」の記事については、「草鹿龍之介」の概要を参照ください。

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