第一航空艦隊
第一航空艦隊
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1944年5月5日 第一航空艦隊に転籍。6月、「あ号作戦」が発令されたが、練成途上のために不参加。7月10日全航空隊の再編発表。第一五三海軍航空隊戦闘機隊・第二〇二海軍航空隊を編入。既存の戦闘305飛行隊54機・戦闘306飛行隊46機をセブ島に配置。戦闘302飛行隊(旧二〇二空)21機をダバオに配置。戦闘311飛行隊(旧一五三空)57機をラサンに配置。8月下旬対艦反跳爆撃訓練を開始、温存策に従事。9月10日「ダバオ誤報事件」発生、全機セブに集合。9月12日 原隊復帰作業中のセブ飛行場を米機動部隊艦載機隊が奇襲、機体壊滅。原隊復帰済みを含め99機に激減。9月12日フィリピンに敵機動部隊接近、爆装戦闘機で爆撃(戦果なし)。10月11日台湾沖航空戦勃発、支援攻撃に従事。10月15日有馬正文第二十六航空戦隊司令官先導攻撃に参加、有馬司令官機突入自爆。 詳細は「神風特別攻撃隊」を参照 1944年10月19日夕刻、マバラカット飛行場第201海軍航空隊本部に、一航艦長官に内定した大西瀧治郎中将が訪れて特攻隊編成に関する会議を開き、「空母を一週間位使用不能にし、捷一号作戦を成功させるため、零戦に250㎏爆弾を抱かせて体当たりをやるほかに、確実な攻撃法は無いと思うがどうだろう」と提案する。これに対して玉井浅一副長は、山本栄司令が不在だったために「自分だけでは決められない」と返答したが、大西は同意を得ていると伝え、同時に決行するかは玉井に一任した。玉井は時間をもらい、飛行隊長の指宿正信大尉、横山岳夫大尉と相談した結果、体当たり攻撃を決意して大西にその旨を伝えたが、その際に特攻隊の編成は航空隊側に一任して欲しいと要望し、大西はそれを許可した。指揮官の選定は、「海軍兵学校出身者を指揮官に」という猪口力平一航艦首席参謀の意向を受けて、玉井は関行男大尉を指名した。10月20日大西瀧治郎一航艦長官臨席のもと「神風特別攻撃隊」結団式。10月25日敷島隊・朝日隊・山桜隊・菊水隊・若桜隊・大和隊計13機突入、護衛空母セント・ロー撃沈。第一航空艦隊と第二航空艦隊を統合した連合基地航空隊が編成され、201空は福留繁中将の指揮下に入る。10月29日初桜隊3機特攻突入。10月30日葉桜隊6機特攻突入。11月1日梅花隊1機特攻突入。11月5日左近隊2機特攻突入。 11月中に一航艦・二航艦の航空隊は続々と機体が払底し、特攻すら不可能となっていった。昭和20年1月9日、一航艦は台湾への撤退が命じられた。二〇一空要員の一部は、2月10日までの困難な救出作業によって台湾へ撤退した。しかし多数の要員はフィリピンに取り残された。撤退できなかった全航空隊の搭乗員15000名は、杉本丑衛二十六航戦司令官の指揮下で「クラーク地区防衛部隊」を結成、陸軍戦車第二師団指揮下で地上戦に借り出された。昭和20年1月9日より、一航艦の台湾撤退が実施された。二〇一空は帳簿上は台湾への撤退を遂げた。しかし、二〇一要員に乗るべき戦闘機はなかった。昭和20年(1945年)2月5日一航艦再編。第二〇五海軍航空隊ほか4個航空隊を新編。選外の搭乗員は高雄警備府第二十六航空戦隊に編入。二〇五空への選抜から漏れた二〇一空要員は、機体調達がかなうまで陸戦訓練に明け暮れた。しかし、沖縄戦に備えて台湾に派遣された内地航空隊も、定員を満たしている隊は皆無だった。最後の半年間、二〇一空は機体を保有する機会を得られないまま終戦を迎えた。
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第一航空艦隊
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1941年(昭和16年)4月10日、日本海軍は第一航空艦隊(司令長官南雲忠一中将、参謀長草鹿龍之介少将、参謀源田実中佐等)を編制する。第二航空戦隊は第二艦隊より除かれ、第一航空艦隊に編入される。 同年9月12日、内示された昭和17年度海軍戦時編制によれば、昭和17年度の第二航空戦隊は空母2隻(蒼龍、飛龍)と第12駆逐隊(叢雲、東雲)となる予定だった。しかし太平洋戦争の勃発により、「叢雲」以下第12駆逐隊が同大戦で空母機動部隊に配属される事はなかった。9月22日、二航戦旗艦は「飛龍」となるが、10月26日より「蒼龍」に復帰。11月16日、第23駆逐隊(菊月、夕月、卯月)はグァム島攻略作戦に関して第四艦隊(司令長官井上成美中将)の指揮下に入り、第五根拠地隊に配属された。 太平洋戦争開戦時の第二航空戦隊(司令官山口多聞少将)は、準同型艦の空母2隻(蒼龍、飛龍)を主力とし、第一航空艦隊に所属。編制上は睦月型駆逐艦3隻(菊月、夕月、卯月)の第23駆逐隊が二航戦に所属していたが、同部隊は南洋部隊(指揮官井上成美第四艦隊司令長官。旗艦「鹿島」)に編入されて中部太平洋諸島を行動し、開戦時は第五根拠地隊司令官春日篤少将の指揮下でグアム島に進攻。敷設艦「津軽」や駆逐艦「朧」(第五航空戦隊所属)と共に上陸作戦を敢行した(グアム島攻略作戦)。以後も南洋部隊の指揮下で行動し、空母2隻(蒼龍、飛龍)とは別行動である。 1941年(昭和16年)12月8日、真珠湾攻撃に参加。以後、第二航空戦隊の空母2隻(蒼龍、飛龍)は金剛型戦艦、利根型重巡洋艦、南雲機動部隊警戒隊の軽巡「阿武隈」(第一水雷戦隊旗艦)や朝潮型駆逐艦・陽炎型駆逐艦等と共に、ウェーク島攻撃、ポートダーウィン攻撃、セイロン沖海戦に参加する。第二次ウェーク島攻略作戦時に派遣された部隊編成(指揮官阿部弘毅第八戦隊司令官)は、第八戦隊(阿部弘毅少将:利根、筑摩)、第二航空戦隊(山口多聞少将:蒼龍、飛龍)、第17駆逐隊第1小隊(谷風、浦風)。クリスマス島攻撃時の部隊編成は、第二航空戦隊(蒼龍、飛龍)、第三戦隊第2小隊(3番艦榛名、4番艦金剛)、第17駆逐隊(谷風、浦風、浜風、磯風)。 1942年(昭和17年)4月10日、第一航空艦隊麾下に陽炎型駆逐艦および夕雲型駆逐艦を主力とする第十戦隊(司令官木村進少将。旗艦「長良」)が新編される。これにともない、第23駆逐隊は南洋部隊麾下の第六水雷戦隊(旗艦「夕張」)に編入。5月5日、同駆逐隊は珊瑚海海戦の前哨戦で「菊月」を喪失(ツラギ島)、5月25日附で解隊された(夕月は第29駆逐隊、卯月は第30駆逐隊に編入)。 日本本土へ帰投後の5月8日、第二航空戦隊旗艦は「蒼龍」から「飛龍」に変更。6月5日のミッドウェー海戦で「飛龍」と「蒼龍」は沈没(飛龍艦長加来止男大佐、蒼龍艦長柳本柳作大佐戦死)。第二航空戦隊司令官山口多聞少将は「飛龍」から脱出せず行方不明となった(戦死認定)。7月上旬、生還した安井鈊二少佐や橋口喬少佐は、それぞれ第二航空戦隊参謀の職務を解かれた。
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第一航空艦隊
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1941年8月25日、第一航空艦隊の赤城飛行長に着任した。淵田と海兵同期の航空参謀源田実中佐の希望であった。指名理由は極秘で準備していた真珠湾攻撃を成功させるため、優れた統率力、戦術眼を持ち源田と通じる同期生で偵察席に座り作戦の指揮に集中できる空中指揮官として淵田が必要だったからである。淵田によれば源田とは親友の関係にあったためまたともに仕事ができると喜んだという。異例の降格人事であったが、南雲忠一長官から「艦隊幕僚事務補佐」の肩書を与えられる。また他の隊長とは格が違うため、攻撃隊員らは淵田に「総隊長」の称号を奉った。草鹿龍之介参謀長は源田が案画し淵田が実行する好取組みと二人を評価し彼らの献策を入れて見守った。源田参謀により航空隊の訓練と指揮が空中指揮官にまとめられたため、淵田は一航艦全空母の航空隊を統一訓練指導した。1941年10月、海軍中佐。 1941年12月、ハワイ作戦に参加。8日、真珠湾攻撃における空襲部隊の総指揮官で第1次攻撃隊を指揮し、「ト・ト・ト」(全軍突撃せよ)及び「トラトラトラ」(奇襲ニ成功セリ)が淵田中佐機から打電された。真珠湾攻撃の戦果は戦艦4隻が大破着底戦艦2隻が大・中破するなど、米太平洋艦隊戦艦部隊を行動不能にする大戦果をあげた。攻撃後に淵田は源田とともに数日付近にとどまり留守だった敵空母を撃滅する案を進言したが受け入れられなかった。12月26日、第一次攻撃隊指揮官淵田と第二次攻撃隊指揮官嶋崎重和少佐は直接昭和天皇への真珠湾攻撃軍状奏上が許される。佐官による軍状奏上は初のことであった。その後二人は淵田と海兵同期の高松宮宣仁親王に誘われて27日、霞ヶ関離宮の皇族の集まりに顔を出した。 その後休む間もなく第一航空艦隊は南下し、1942年1月20日〜22日のラバウル・カビエン攻略支援、1942年2月19日のボートダーウィン攻撃、1942年3月のジャワ海掃討戦、1942年4月のインド洋作戦と攻撃隊を指揮し連戦連勝を続けた。インド洋作戦までで大戦果をあげながら損失はわずかだった。第一航空艦隊は世界最強の機動部隊となるが、連戦連勝で疲労と慢心が現れていた。 1942年6月、ミッドウェー作戦に参加するが、虫垂炎となり盲腸の手術をしたため出撃できず空母赤城艦上に留まり、代わりは友永丈市大尉が務めた。しかしミッドウェー海戦の敗北で空母4隻を失う結果となる。淵田は赤城からの脱出時に両足を骨折した。 1942年7月20日、横須賀鎮守府付。1942年10月10日、横須賀航空隊教官。1942年12月10日、兼海軍大学校教官。 1943年7月1日、第1航空艦隊作戦参謀。長官は角田覚治中将。再建された一航艦は散在する基地を母艦に見立て移動と集中を重視した航空部隊であった。1944年2月、マリアナ諸島テニアン島進出後にマリアナ諸島空襲を受ける。角田は攻撃を企図するが、淵田は戦闘機が不十分、進出直後で攻撃に成算はない、消耗は避けるべきと飛行機の避退を進言したが聞き入れられなかった。結局一航艦は米艦隊攻撃で壊滅状態となる。
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第一航空艦隊
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詳細は「真珠湾攻撃」を参照 1941年(昭和16年)4月15日、第一航空艦隊参謀長。長官は南雲忠一中将。真珠湾攻撃の準備を命令された。9月24日、軍令部において大西瀧治郎中将が草鹿の真珠湾攻撃悲観論に同調し、10月初旬には二人で連合艦隊司令長官・山本五十六大将に真珠湾攻撃をやめフィリピン作戦に支援すべきと具申した。山本は大西と草鹿に「ハワイ奇襲は断行する。無理もあるが積極的に考えて準備するように。投機的と言わずに君たちにも一理あるが僕のも研究してくれ。」と説得した。大西は「草鹿君、長官がああまで仰るなら、一つまかせてみようじゃないか」と前言を翻し、唖然とする草鹿を横目に、大西と山本はポーカーを始めた。草鹿は「あの時はまいった」という。山本は草鹿を旗艦「長門」の舷門まで見送り、「真珠湾攻撃は、最高指揮官たる私の信念だ。どうか私の信念を実現することに全力を尽くしてくれ」とを草鹿の肩を叩いた。 草鹿は航空参謀・源田実中佐が案画し飛行隊長・淵田美津雄が実行する好取組みと二人を評価しておりなるべく彼らの献策を入れて静かに見守った。出撃前の会議では、不安気な南雲に対し草鹿は「俺は鈍感なのか人は非常な大事をやる様に云ふが、何とも感じない」と連合艦隊参謀長・宇垣纏に語った。宇垣は指揮官と幕僚という立場の差を感じたという。 12月8日、太平洋戦争劈頭の真珠湾攻撃で第一航空艦隊はアメリカの戦艦4隻を撃沈、2隻を大破させアメリカ太平洋艦隊を行動不能にする大戦果をあげた。 草鹿は、「真珠湾の上空に残って、全攻撃隊の戦果を確認して帰還した淵田中佐から、真珠湾の戦況や戦果について詳しい報告を受け、大体において真珠湾の敵主力を潰滅せしめ得たことがわかった。そもそも真珠湾攻撃の大目的は、敵の太平洋艦隊に大打撃を与えて、その進攻企図を挫折させるにあった。だからこそ攻撃を一太刀と定め、周到なる計画のもとに手練の一撃を加えたところ、奇襲に成功しその目的を達成することができた。機動部隊の立ち向かうべき敵はまだ一、二にとどまらない。いつまでも獲物に執着すべきでなく、すぐ他の敵に対する構えが必要であるとして、何の躊躇もなく南雲長官に進言して引き揚げることに決した。”なぜもう一度攻撃を反復しなかったか””工廠や油槽破壊しなかったのは何故か”などの批判もあるが、これは、いずれも兵機戦機の機微に触れないものの戦略論であると思う。」、「私に言わせれば、この際、これらは、いずれも下司の戦法である」、「私に面と向かって反対意見を具申した者は一人もいない」と戦後語っている。 また、源田中佐と淵田中佐から付近に数日とどまり空母を撃滅する案が出たが、草鹿は「この作戦の目的は日本南方作戦部隊の側面、後方防衛にある。達成された以上とどまって無期限に長引かせるべきではない」と考えてこれを却下した。 帰路についた第一航空艦隊に対し、連合艦隊参謀長・宇垣纏は真珠湾攻撃と同時期に行われた第七駆逐隊(小西要人司令、駆逐艦「潮」「漣」)のミッドウェー島砲撃が効果薄しとみて、ミッドウェーを空襲するように下令した。戦後、草鹿は「参謀長として腹が立ちたり」「横綱を破った関取に、帰りにちょっと大根を買ってこいというようなものだ」とこれを批判している。結局、一航艦は天候不良で補給が困難なこともあり、実行しなかった。 その後も一航艦は、ニューギニア、オーストラリア、インド洋を転戦し、連合軍の主要根拠地を覆滅しながらの大航海をした。ラバウル・カビエン攻略支援、ポートダーウィン攻撃、ジャワ海掃討戦などで活躍し、太平洋の制空権を獲得した。1942年4月、インド洋作戦におけるセイロン沖海戦ではイギリス空母「ハーミーズ」を撃沈し、トリンコマリー港を爆撃する戦果を挙げた。第一航空艦隊はインド洋作戦までで大戦果をあげながら航空機の損失はわずかで、艦艇には一隻の被害もなかった。。史上類のない連続的勝利を記録し、第一航空艦隊は世界最強の機動部隊となるが、連戦連勝から疲労と慢心が現れていた。連合艦隊司令部幕僚は、南雲と草鹿に批判的であり、山本五十六長官に南雲の交代を要望したが、「それでは南雲が悪者になる」と却下された。山口多聞は一航艦について「参謀長、先任参謀どちらがどちらか知らぬが臆劫屋揃」と語っていた。 詳細は「ミッドウェー海戦」を参照 インド洋から帰還した第一航空艦隊に連合艦隊司令部の立案したミッドウェー作戦が命令された。軍令部で説明を受けた草鹿と第二艦隊参謀長・白石萬隆はドーリットル空襲の騒ぎの直後であり、敵機動部隊来襲を未然に防ぐためという先入観から主目的をミッドウェー基地攻略、副目的を敵機動部隊撃破と解釈した。長期作戦後で艦のドック入り、補充、修理、訓練と準備のため時間との戦いだった。草鹿は「準備期間が不十分で不満もあったが強く反対せず、何とかやれるだろうと考えていた。それよりハワイ攻撃の戦死者の2階級特進の方に関心があった」という。当時真珠湾で戦果をあげた航空部隊の戦死が一般と同じ扱いで士気に関わると一航艦で不満が高まっていた。 草鹿はミッドウェー作戦について「真珠湾以来成功が続いていたが、消耗もあり反対だった。ミッドウェー攻略自体多大な疑問があり連合艦隊から作戦は決定され強要された。しかし抵抗はしなかった」と語っている。1942年(昭和17年)5月4日の研究会で、草鹿は白石と延期を申請したが却下され、5日に再び訪問した際に第二段作戦を手交され、その日は延期の申請をせずに帰った。また、ミッドウェー作戦は時期尚早であると、二航戦司令官山口多聞少将と航空参謀源田実中佐が連合艦隊に反対したのに対し、連合艦隊司令部はもう決まったことであると取り合わなかったが、草鹿はここであきらめたことが間違いであったと戦後語っている。 戦訓分科研究会において、宇垣は草鹿に対し、「敵に先制空襲を受けたる場合、或は陸上攻撃の際、敵海上部隊より側面をたたかれたる場合如何にする」と尋ねると、草鹿は「かかる事無き様処理する」と答えたため、宇垣が草鹿を追及すると、航空参謀の源田が「艦攻に増槽を付したる偵察機を四五〇浬程度まで伸ばし得るもの近く二、三機配当せらるるを以て、これと巡洋艦の零式水偵を使用して側面哨戒に当らしむ。敵に先ぜられたる場合は、現に上空にある戦闘機の外全く策無し」と答えた。そのため宇垣は注意喚起を続け、作戦打ち合わせ前に「第一航空艦隊はミッドウェー攻撃を二段攻撃とし第二次は敵に備える」とした。宇垣は「今後千変萬化の海洋作戦に於て果して其の任に堪えゆるや否や」と心配したという。 出撃前、草鹿は、攻撃日が決まっているので奇襲の機動余地がなく、空母はアンテナ受信能力不足で敵情がわかりにくいので、連合艦隊が敵情を把握して作戦転換を指示するように、連合艦隊参謀長・宇垣纏中将に取りつけた。しかし、連合艦隊は付近に敵空母の疑いを感じ、情勢が緊迫してきたと判断しながら、甘い状況判断の放送を東京から全部隊に流したまま、自己判断を麾下に知らせなかった。このことで一航艦は米機動部隊の奇襲を受けて敗北した。宇垣は海戦後の日記に第一航空艦隊に対して「当司令部も至らざる処あり相済まずと思慮しあり」と残している。 6月5日、第一航空艦隊はミッドウェー島基地攻撃隊を出撃させ、ミッドウェー海戦が始まる。攻撃を終えた飛行隊長友永丈市大尉は、司令部に対し「第二次攻撃の要あり」と打電した。南雲長官は、ミッドウェー攻略部隊のため制圧を間に合わせなければならず、米艦隊はハワイにいるという連合艦隊の敵情判断に従って行動しており、帰還中の偵察機からも報告がないため、山本五十六大将から米艦隊迎撃のために待機を指示されていた残り半数の攻撃隊を兵装転換して使うことに決定した。草鹿によれば、「山本の望みは南雲も幕僚もよく知っていた。事実状況が許す限りそうした。しかしミッドウェー基地の敵航空兵力がわれわれに攻撃を開始し敵空母も発見されていない状況でいるのかどうかわからない敵に半数を無期限に控置しておくのは前線指揮官にとして耐えられないことだった。後で問題だったとしてもあの当時の状況では南雲の決定は正当だった」と語っている。 しかし、偵察機が予期せぬ米軍機動部隊発見の報告があり、第二航空戦隊司令官・山口多聞少将から陸用爆弾のまま即時攻撃の意見具申がされた。しかし、直掩戦闘機の準備ができておらず、第一航空艦隊上空にミッドウェー島攻撃を終えた第一次攻撃隊100機が帰還し着艦収容を待っていた。そのため南雲は帰還部隊の収容を優先させた。草鹿によれば、敵の来襲状況を見ると敵は戦闘機をつけずに来て面白いように撃墜され、全く攻擎効果をあげておらず、これを目前に見ていたので、どうしても艦戦隊を付けずに艦爆隊を出す決心がつかなかったという。 第一航空艦隊は、ミッドウェー島基地航空隊の空襲を撃退し、米軍機動部隊から発進したTBD デバステーター雷撃機の攻撃も連続で全て撃退した。しかし、その直後に米軍機動部隊艦載機による急降下爆撃を受けて、主力空母3隻(赤城、加賀、蒼龍)が炎上し、残った「飛龍」も後に炎上し、自軍によって処分され、空母4隻を失い敗北した。草鹿は、被弾する直前、攻撃隊に準備ができたものから発艦するように命じ、攻撃隊の戦闘機が飛び立とうとしたところに爆撃を受け、あと5分あれば攻撃隊は発艦できたと回想している。これは「運命の5分間」と言われたが、実際には攻撃隊の準備はできておらず、5分で発艦するのは不可能だった。この海戦では索敵において敵機動部隊の発見が遅れたが、一段索敵と決めた草鹿は「攻撃兵力増やそうとして偵察を軽視した」と語っている。 艦隊司令部の幕僚は南雲以下全員で自決すべきと先任参謀・大石保が代表して上申したが、草鹿はそれを却下し、南雲に対しても説得しなだめた。雀部利三郎(航海参謀)はミッドウェー海戦後司令部一同の自決を却下した草鹿を「本当の意味で胆が座っていて、ああいうとき冷静になれる人」と評している。 連合艦隊司令部のある旗艦「大和」への敗戦報告には、南雲の代わりに草鹿が幕僚を連れて向かった。第一声は「何と申してよいか云うべき言葉なし。申し訳なし」であった。草鹿は連合艦隊長官・山本五十六に「大失策を演じおめおめ生きて帰れる身に非ざるも、ただ復讐の一念に駆られて生還せる次第なれば、如何か復讐できるよう取り計らって戴き度」と嘆願し、山本はそれに「承知した」と答えた。連合艦隊参謀長・宇垣纒は敗戦の報告に「大和」を訪れた草鹿に対し「参謀長に対しては当司令部としても至らざる所あり。相済まずと思量しあり」と謝罪した。草鹿によれば、謝る際に宇垣は敵情がわかっていたようなことを言っていたという。攻撃隊を半数待機させることに関し、草鹿は「自分は着任以来充分の偵察をなしこの一撃と全力を集中することを主義として訓練し又成功したり途中これを変更する気持ちになり得ざりしなり」と答えた。
※この「第一航空艦隊」の解説は、「草鹿龍之介」の解説の一部です。
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