帰投
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夜間攻撃が終わると、第111.2任務群はマヌス島への岐路についた。6月16日、日本軍機がレーダーに捉えられ、戦闘空中哨戒中のシーファイア1機が迎撃に向かわされたが、その機は機械的な問題のため任務を断念せざるを得なかった。任務群は6月17日にマヌス島に到着。他のイギリス太平洋艦隊の部隊が7月4日に到着するまで訓練を続けた。そして、全艦艇は7月6日にマヌス島から出撃して日本本土攻撃へと向かった。
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帰投
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アメリカ軍機の撤退と同時に、各艦は脱出者の救助を開始した。駆逐艦冬月の吉田正義第四十一駆逐隊司令は先任指揮官が自分であると判断すると、15時52分に連合艦隊司令長官・軍令部総長・海軍大臣にあて「1141ヨリ数次ニ亙ル敵艦上機大編隊ノ攻撃ヲ受ケ 大和、矢矧、磯風沈没 浜風、涼月、霞航行不能 其ノ他ノ各艦多少ノ損害アリ 冬月、初霜、雪風救助ノ後再起ヲ計ラントス(1445)」と発信した。冬月は艦橋から望遠鏡で海上を探索し2隻の内火艇に指示して救助を進めた。第二艦隊参謀長の森下は同副官の石田少佐らと共に冬月の内火艇で救助された。雪風からも負傷者の救助のため2隻の内火艇が降ろされ、救助切り上げの直前まで重傷者や体力が尽きて動けない兵を拾い上げた。頭部を負傷し漂流中意識を失った大和副長の能村も副長補佐らに支えられて雪風に救助されている。能村は襟章が判別できない程重油で汚れ、救助後に雪風の兵が懸命に張り手を加えても意識が回復しなかったが、そのまま縫合手術を受けて生還した。16時39分、第一遊撃部隊指揮官に対し連合艦隊は作戦の中止と乗員救助の上で佐世保への帰投を命じた(GF電令作第616号、二水戦の受信は17時50分)。第二水雷戦隊司令官の古村は17時20分、初霜に救助され、二水戦司令部を初霜に移乗すると共に第一遊撃部隊の指揮権を継承。作戦継続の電報を起案していたが、暗号翻訳中に作戦中止命令を受信、特攻作戦の中止に至った。 この海戦で日本側は、大和、矢矧、浜風が撃沈され、霞は航行不能となり冬月に処分された。磯風は自力で北方に向かったが航行不能となり、雪風による曳航を試みる。だが初霜(二水戦司令部)からの下令で放棄が決まり、午後10時40分雪風に処分された。また機関故障により単独行動中の朝霜も撃沈され、駆逐隊司令部を含め全員が戦死した。涼月は艦首を失ったが後進で佐世保に帰還したものの、ドック内部で擱座した。 被害の少なかった冬月、雪風、初霜の3隻の駆逐艦は大和の生存者280名、矢矧の生存者555名と磯風、浜風、霞の生存者800名以上、1706名(戦闘詳報)を救助したが、第二艦隊司令長官の伊藤(戦死後大将)、大和艦長の有賀(同中将)を始め、推定3,721名がこの戦いで戦死した。昭和20年7月に連合艦隊司令長官が布告した戦死者総数は4,044名。 アメリカ軍機の多くは日本側からの対空砲火を受け損傷を負い、5機が撃墜され、52機が被弾損傷で、内5機が経済的修理不能として海上投棄され、2機が不時着水した。1機が往路で原因不明の墜落で、実質的損失は13機であった。乗員のうち何人かは水上機や潜水艦に救助された。アメリカ軍の戦死・行方不明は合計13名であった。また大和沈没後に五航艦の戦闘三〇三飛行隊が坊ノ岬260度100キロ付近の海面でF4Uコルセア戦闘機3機を撃墜したと報告している。 14時43分、最後のアメリカ機の編隊が大和の生存者に機銃掃射を浴びせるために出撃した。大戦を通じてアメリカ軍などの連合軍が行ってきた沈没船生存者への機銃掃射はこのときも現出し、古村司令官・能村副長・吉田満少尉をはじめ多くの第二艦隊生存者が、このときアメリカ軍機の機銃掃射を受けたと証言している。航行不能となった磯風の周囲を漂う日本兵(沈没した矢矧の生存者)に対しても、撃墜された味方の敵討ちとしてアメリカ軍爆撃隊が機銃掃射を浴びせた。星亮一はこれらの機銃掃射は計画的な人間狩りであったと批判している。英国人ジャーナリストのラッセル・スパーは坊ノ岬沖海戦について記した著書において、第二次大戦当時のアメリカ人は絶望的な状況の敵国人を殺戮することに気がとがめることがなく、日本人に対しては、捕虜への虐殺行為や神風特攻の異常な狂信主義の報告があったため、「(当時のアメリカ人は)日本人は人間の出来損ないであり慈悲をかけるのに殆ど値しないと信ずるようになっていた」と指摘している(スパーは「彼ら(日本の特攻兵)はアメリカ人が想像した様な狂信者ではなく、彼らの殆どが充分に考えた上で恐るべき決意に到達した献身的な息子たちだった」と伝えている)。 一方で、日本軍艦艇も救助作業中の無抵抗な敵兵に発砲したとする証言が日米両軍に残されている。アメリカ海軍第三十雷撃中隊第二分隊副隊長であるディラニーは大和の高角砲に撃墜され、部下2名と共にパラシュートで機から脱出。海面への着水に成功した。ディラニーは救命筏(アメリカ軍パイロットの救命チョッキは空気により膨らみ筏となる構造だった)にしがみ付き約二時間漂流した後、味方のPBM(マーチン飛行艇)2機に発見されたが、この時近くの海上に冬月と初霜がいた。2機の内、スイムス大尉が機長を務めるPBMが対空砲火からディラニーを逸らすため危険を犯し日本艦隊の方向に飛んで行き、もう1機のヤング大尉機は水上滑走しながら着水してディラニーの救助に当たった所、これを見た日本の駆逐艦が砲撃を加えた。第二水雷戦隊戦闘詳報によれば冬月がPBMに向けて発砲したとある。この後、冬月に救助される吉田満も、冬月が飛行艇に発砲する光景を目撃しているが、彼はまだ航空攻撃に反撃しているものと思っていた。初霜では艦長である酒匂の命令を受けた砲術長が12.7センチ主砲でPBMを数発撃った。この発砲について、酒匂は「飛行艇を追っ払えと命じ、落とせとは一切言わなかった」と述べ、命令を受け発砲した砲術長の藤井は、無抵抗な日本兵の生存者には機銃掃射を浴びせる反面、自国のパイロットを救助するアメリカ軍の行動に腹を立てていたと述べている。同じく初霜の松井中尉も「射程距離外であった事はわかっていたが威嚇のため2、3発撃った」と証言している。一方のディラニーの証言には「(駆逐艦は)射撃しながら接近してきた」とあり、ヤング大尉機の搭乗員は、日本の駆逐艦の主砲弾は飛行艇に向かって泳ぐディラニーの200ヤード以内に落ちていたと証言している。ヤング大尉機はディラニー中尉を収容して飛び立ったが、ディラニーの部下2名は発見できなかった。2機のマーチン飛行艇は救助活動を終えると、帰り際、大破炎上して航行不能状態だった涼月に対して機銃掃射を浴びせている。 抵抗力を失った敵兵に対する発砲や報復を動機とした攻撃に同調しなかった将兵らの記録も残されている。アメリカ軍機動部隊第9攻撃隊のビル・バワーズ少尉は、同僚のパイロットたちが漂流中の日本兵に機銃掃射を浴びせる行為を野蛮と感じ、「俺はこの攻撃パターンに入らない」と空撃ちした。大和の主砲指揮所で弾着修正手を務めた小林健水兵長も、彼を救助した駆逐艦がアメリカ軍攻撃機の機銃掃射を受けたが、編隊のような纏まった形ではなく、1、2機による散発的なものだったと証言している。小林水兵長の証言の中で機銃掃射を受けたとされる駆逐艦は雪風で(小林水兵長の「大和生存者を救助した」、「19時30分以降も長時間戦闘海域で救助活動を続けた」の証言と雪風の行動記録が合致する)、他の大和元乗員も雪風は敵機の攻撃があったため艦を低速で動かしたまま味方の救助を行ったと回想しているが、その雪風はアメリカ軍飛行艇が近くに着水してアメリカ軍パイロットを救助する姿を発見しても、艦長や士官の指揮下、彼らに攻撃を加えることをせず、味方の日本兵の救助のみ行いその場を去った。雪風艦上では上述のマーチン飛行艇による涼月への機銃掃射が目撃され、将兵らを激怒させたが、雪風は報復行為を行っていない。 4月8日午後5時、日本軍は「我が特別攻撃隊航空部隊並に水上部隊が四月五日夜来、沖縄本島周辺の敵艦船並びに機動部隊を反復攻撃し、特設航空母艦二隻ほかを撃沈又は撃破したが、我が参加部隊のうち戦艦一隻、巡洋艦一隻、駆逐艦三隻が沈没した」旨の大本営発表をおこなった。4月13日、第二艦隊参謀長である森下が軍令部で作戦経過を報告した折、連合艦隊参謀長の草鹿は海上特攻隊員の人事処理について、航空特攻と同様に取り扱うことを要望した。4月20日、第二艦隊と第二水雷戦隊は解隊された。二水戦残存部隊は第三十一戦隊に編入され、三十一戦隊と第十一水雷戦隊は連合艦隊附属となる。第一航空戦隊も解隊され、葛城は連合艦隊附属に、天城と龍鳳は呉鎮守府部隊に編入、隼鷹は佐世保鎮守府部隊に編入された。 なお、アメリカ海軍は沖縄での特攻機による艦艇の被害は一切報道せず、大和とその他の艦の撃沈についてのみアメリカ陸軍記念日の司令長官ニミッツ提督の演説として、太平洋の全部隊にむけ放送した。日本軍に対しては、大和撃沈の宣伝ビラをまいている。その後、日本占領後の1945年(昭和20年)12月9日より開始されたラジオ番組『眞相はかうだ』において、GHQは坊ノ岬沖海戦および大和の沈没を『世界最大のわが戦艦大和と武蔵の最後についてお知らせ下さい』という題で放送した。アメリカ軍の認識であるため、大和の排水量や被害艦艇などを誤認している。
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帰投
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機動部隊は攻撃隊の収容に備え真珠湾北方190海里にまで南下していた。 攻撃後は次席指揮官である第三戦隊司令官の三川軍一中将から再攻撃の意見具申があったが、第一航空艦隊司令長官の南雲は参謀長である草鹿の進言もあり、予定通り離脱した。第二航空戦隊司令の山口多聞少将は「第二撃準備完了」と南雲に信号を送った。第一航空艦隊参謀の吉岡忠一少佐によれば、この信号は準備をして知らせる決まりがあったための行動であるという。山口は搭乗員や参謀から再攻撃を意見具申するべきと要望されたが、「南雲さんはやらないよ」と意見具申はしなかった。連合艦隊司令部では連合艦隊長官の山本に参謀の数名が「再度の攻撃を第一航空艦隊司令部に催促するべし」と進言したが、山本は「南雲はやらんだろう」「機動部隊指揮官(南雲)に任せよう」と答え、再度の攻撃命令は発しなかった。これにはこの時点で催促しても攻撃は夜間攻撃か翌朝の攻撃となり、危険であるという判断もあった。 日本時間午前4時45分頃から6時過ぎにかけて第一次攻撃隊が帰投、第二次攻撃隊も7時前後には帰投した。最後に帰還したのは8時14分頃、被弾によるエンジントラブルでエンジンの回転数を最低にして帰ってきた飛龍所属の笠島一飛曹機だった。午前9時頃、艦隊は北北西に変針し日本への帰路についた。 軍令部は真珠湾攻撃を南方資源要域攻略作戦を終えて迎撃作戦の準備が整うまでの間、アメリカ艦隊主力を抑え、あわよくば敵減殺を企図するのを本作戦の主目的としていたため、一撃のみで損害を避けた見事な作戦指導と評価した。一方、山本は空母の喪失を引き換えにしても戦争を終わらせるダメージを与えたいという考えだったが、草鹿によれば南雲にはその真意が知らされていなかったという。12月8日、山本は第一艦隊の戦艦長門・陸奥・伊勢・日向・扶桑・山城および第三航空戦隊(空母〈瑞鳳・鳳翔〉・三日月・夕風)と護衛駆逐艦(若葉・子日・初春・初霜・有明・夕暮・白露・時雨)などを率いて瀬戸内海を出撃した。南雲機動部隊収容のためという名目だったが、特に何もせず、対潜哨戒を実施しつつ小笠原諸島附近で反転した。その際、司令部付だった近江兵次郎曹長は参謀の藤井茂中佐に「野村大使の書類は間に合ったか?」と尋ねる山本を目撃している。なお同日、瀬戸内海では大和型戦艦大和が試験航海を終えて呉へ帰港中であり、豊後水道で長門らとすれ違っている。 12月16日、山口の指揮下、飛龍・蒼龍と護衛の利根・筑摩および駆逐艦谷風・浦風がウェーク島攻略支援に向かった(ウェーク島の戦い)。12月23日、機動部隊は瀬戸内海の柱島泊地に入り、作戦は終了した。 12月26日、異例ながら佐官による昭和天皇への真珠湾攻撃の軍状奏上が行われ、第一波空中攻撃隊隊長の淵田は艦船攻撃について、第二波空中攻撃隊隊長の嶋崎重和少佐は航空基地攻撃について奏上した。続く海軍大臣官邸での祝賀会では海軍軍事参議官が参集したり、翌27日に霞ヶ関離宮で成人皇族達と面会するなど真珠湾攻撃の成功は大きく寿がれた。
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