日本占領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/05/15 17:15 UTC 版)
「リチャード・マーシャル (軍人)」の記事における「日本占領」の解説
「三布告」も参照 1945年8月15日に日本が降伏し、9月2日に戦艦「ミズーリ」艦上で降伏文書調印式が行われ、マーシャルも出席した。調印式は午前中であったが、午後に入り、マーシャルは横浜税関の連合国軍最高司令部に終戦連絡事務局横浜事務局長の鈴木九萬を呼び出し、「三権を連合軍の支配下に置き、制限解除までは英語を公用語とする」、「司法権を連合軍に属させ、違反者は軍事裁判に回され極刑もありうる」、「日本円は廃止、B円を日本法定通貨とする」の、事実上直接軍政を導入することを示唆した3つの条項の履行を要求する、いわゆる「三布告」を通告した。重光葵外務大臣、終戦連絡中央事務局長官岡崎勝男らの再三の要請で、布告は表現を多少改められて直接軍政は一応は撤回されたが、館山市が9月3日から7日にかけて軍政下に置かれた。この「三布告」をめぐるやり取りが、マーシャルの日本での最初の仕事となった。 間もなく連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の組織整備が行われ、マッカーサーとサザランドの地位は不変だったが、GHQと南西太平洋方面軍が「同居」していた名残で参謀次長の役目が二分されることとなり、マーシャルが南西太平洋方面軍部門の参謀次長となって、GHQ部門の参謀次長には、オーストラリアからマッカーサー一行に加わったステファン・チェンバリン(英語版)少将が就任した。12月に入り、かねてから不倫問題を抱え、健康もすぐれなかったサザランドが参謀長を辞してアメリカに帰国すると、その後任としてマーシャルがマッカーサーの参謀長となった。しかし、このころにはコートニー・ホイットニーら新しい世代の人物が台頭してきたこともあって、参謀長として特に目立った才幹をふるう場面はあまりなかった。翌1946年5月、マーシャルは母校であるバージニア軍学校校長のポジションを打診され内諾し、日本を離れた。 ホイットニーはマーシャルについて、マーシャルはサザランドほど権威があるわけでもないし積極的なタイプでもなく、むしろ無愛想ではあったが、それが彼の性格であったと回想している。
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日本占領
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「第11空挺師団 (アメリカ軍)」の記事における「日本占領」の解説
ダグラス・マッカーサー元帥は、第11空挺師団をダウンフォール作戦に参加させることを計画した。具体的には第6軍の作戦予備役部隊として待機させ、必要に応じて動員される予定であった。しかし日本の降伏によりアジア太平洋戦域での戦闘が終結すると、日本占領のためのアメリカ軍部隊に選ばれた。師団参謀は、1945年8月11日にこの命令を受け、8月12日に沖縄県に到着した。この時、師団は99機のB-24爆撃機、350機のC-46輸送機、150機のC-47輸送機、11,100人の兵士、120台の車両、約116万ポンド(53万kg)の装備品を空輸した。数週間、沖縄に駐留し、8月28日には横浜市郊外にある厚木海軍飛行場への上陸を命じられた。その後、飛行場の周辺地域を確保し、半径3マイル(4.8km)以内の全ての日本の民間人と軍人を退避させ、最終的に横浜自体を占領せよ、という命令であった。ジョセフ・M・スウィング師団長と数名の師団参謀を乗せたC-54輸送機は、8月30日午前6時に厚木飛行場に着陸した。その後、師団を完全に輸送するのに1週間かかったものの、第27歩兵師団も加わり9月13日までに任務を達成している。その後、第11空挺師団は北日本に移動し、本州と北海道の海岸に野営地を設置した。
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