ダウンフォール作戦
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ダウンフォール作戦(ダウンフォールさくせん、英語: Operation Downfall、没落作戦[要出典])は、太平洋戦争時のアメリカ軍やイギリス軍を主力とする連合国軍による日本本土上陸計画の作戦名である。作戦実施前に日本が降伏したため、この計画は中止された。
注釈
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ダウンフォール作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 00:53 UTC 版)
「ダグラス・マッカーサー」の記事における「ダウンフォール作戦」の解説
「ダウンフォール作戦」も参照 マッカーサーとニミッツによる指揮権における主導権争いと並行して、日本本土進攻作戦の詳細な作戦計画の作成が進められ、作戦名はダウンフォール作戦という暗号名が付けられた。ダウンフォール作戦は南部九州攻略作戦である「オリンピック作戦」と関東地方攻略作戦である「コロネット作戦」で構成されていたが、急逝したルーズベルトに代わって大統領に昇格したハリー・S・トルーマンは、沖縄戦におけるアメリカ軍のあまりの人的損失に危機感を抱いて、「沖縄戦の二の舞いになるような本土攻略はしたくない」と考えるようになっており、マッカーサーらはトルーマンの懸念を緩和するべく、アメリカ軍の損失予測を過小に報告することとした。日本軍が南九州に歩兵師団3個師団、北部九州に歩兵師団3個師団、戦車2個連隊の合計30万人の兵力を配置しているという情報を得ていたマッカーサーは、連合軍投入予定の兵力が14個師団68万人であることから、連合軍兵力が圧倒しているという前提でも90日間で10万人以上の死傷者が出ると予測していたが、これをルソン島の戦いを参考にしたとして、30日間で31,000人の死傷者に留まると下方修正し、「私はこの作戦は、他に提言されているどんな作戦より、過剰な損耗を避け危険がより少ないものであること……また私はこの作戦は、可能なもののうちもっともその努力と生命において経済的であると考えている……私の意見では、オリンピック作戦を変更すべきであるとの考えが、いささかでも持たれるべきではない」と報告している。 6月18日にトルーマンがホワイトハウスに陸海軍首脳を招集して戦略会議が開催され、オリンピック作戦について議論が交わされたが、その席でもアメリカ軍の死傷者推計が話し合われた。マッカーサーはこの会議に参加してはいなかったが、マッカーサーの過小な損害推計に対して、特に太平洋正面の数々の激戦で、アメリカ海軍や海兵隊は多大な損失を被っていたので、合衆国陸海軍最高司令官(大統領)付参謀長ウィリアム・リーヒ元帥はマッカーサーによる過小推計を一蹴し、沖縄戦での投入兵力に対する死傷率39%を基に、オリンピック作戦での投入兵力約68万人~76万人の35%の約25万人が死傷するという推計を行った。トルーマンもこの25万人という推計が現実的と判断したが、マンハッタン計画による原子爆弾の完成がまだ見通しの立たない中で、マッカーサーらの思惑通りオリンピック作戦を承認した。 マッカーサーの下には従来の太平洋のアメリカ陸軍戦力の他に、ドイツを打ち破ったヨーロッパ戦線の精鋭30個師団が向かっていた。オリンピック作戦ではマッカーサーは764,000名ものアメリカ軍上陸部隊を指揮することとなっていたが、ドイツが降伏し、敵がいなくなったヨーロッパ戦線の指揮官らはこぞってマッカーサーにラブコールを送り、太平洋戦線への配属を希望した。なかでもボーナスアーミー事件のときにマッカーサーの命令で、戦車で退役軍人を追い散らした第3軍司令官ジョージ・パットン大将などは「師団長に降格してもいいから作戦に参戦させてくれ」と申し出ている。しかし、彼らの上司であるアイゼンハワーと違い部下の活躍を好まなかったマッカーサーは、ヨーロッパ戦線の指揮官たちは階級が高くなりすぎているとパットンらの申し出を断り、第1軍司令官コートニー・ホッジス大将らごく一部を自分の指揮下に置くこととした。ただし、部下を信頼して作戦を各軍団指揮官に一任していたアイゼンハワーと異なり、自分を軍事の天才と自負していたマッカーサーは作戦の細かいところまで介入していたため、ヨーロッパ戦線では軍団指揮官であった将軍らに「1個の部隊指揮官」としてきてほしいと告げていた。アイゼンハワーとウエストポイント士官学校の同期生で親友の第12軍集団(英語版)司令官オマール・ブラッドレー大将も太平洋戦線での従軍を希望していたが、マッカーサーの「1個の部隊指揮官」条件発言を聞いたアイゼンハワーが激怒し、ブラッドレーは太平洋戦線行きを諦めざるを得なかった。一方でマッカーサーも、アイゼンハワーへの対抗意識からか、太平洋戦線の自分の部下の指揮官たちがヨーロッパ戦線のアイゼンハワーの部下の指揮官よりは優秀であると匂わせる発言をしたり、「ヨーロッパの戦略は愚かにも敵の最強のところに突っ込んでいった」「北アフリカに送られた戦力を自分に与えられていたら3ヶ月でフィリピンを奪還できた」などと現実を無視した批判を行うなど評価が辛辣で、うまくやっていけるかは疑問符がついていた。 その後に、オリンピック作戦の準備が進んでいくと、九州に配置されている日本軍の兵力が、アメリカ軍の当初の分析よりも強大であったことが判明し、損害推定の基となった情報の倍近くの50万名の兵力は配置され、さらに増強も進んでおり、11月までには連合軍に匹敵する68万名に達するものと分析された。太平洋戦域でのアメリカ軍地上部隊の兵員の死傷率は、ヨーロッパ戦域を大きく上回っていたこともあって、オリンピック作戦での上陸戦闘を担う予定であった第6軍は、九州の攻略だけで394,859名の戦死者もしくは復帰不可能な重篤な戦傷者が発生するものと推定し、参謀総長のマーシャルはこの推定を危惧してマッカーサーに上陸地点の再検討を求めたほどであった。 トルーマンがポツダム会談に向かう前に、アメリカ統合参謀本部によって、ダウンフォール作戦全体の現実的な損害の再見積が行われたが、そのなかで、戦争協力を行っていた物理学者ウィリアム・ショックレー(のちにノーベル物理学賞受賞)にも意見を求めたところ、「我々に170万人から400万人の死傷者が出る可能性があり、そのうち40万人から80万人が死亡するでしょう」と回答があっている。マッカーサーもトルーマンへ損害の過小推計を報告した時とは違って、ダウンフォール作戦の成り行きに関しては全く幻想を抱かないようになっており、ヘンリー・スティムソン陸軍長官に対し「アメリカ軍だけでも100万人の死傷者は覚悟しなければいけない」と述べている。 しかし、広島市への原子爆弾投下直前までマッカーサーやニミッツら現場責任者にも詳細を知らされていなかった、マンハッタン計画による日本への原子爆弾投下とソ連対日参戦で、日本はポツダム宣言を受諾し、「オリンピック作戦」が開始されることはなかった。マッカーサーは原爆の投下は必要なかったと公言しており、1947年に広島で開催された慰霊祭では「ついには人類を絶滅し、現代社会の物質的構造物を破壊するような手段が手近に与えられるまで発達するだろうという警告である」と原爆に批判的な談話を述べていた。しかし、1950年10月にアメリカで出版された『マッカーサー=行動の人』という書籍の取材に対して、マッカーサーは「自分は統合参謀本部に対し、広島と長崎はどちらもキリスト教活動の中心だから投下に反対だと言い、代わりに瀬戸内海に落として津波による被害を与えるか、京都に落とすべきと提案した」と話したと記述されている。後日、マッカーサーはGHQのスポークスマンを通じ、そのような発言はしていないと否定しているが、のちの朝鮮戦争では原爆の積極的な使用を主張している。
※この「ダウンフォール作戦」の解説は、「ダグラス・マッカーサー」の解説の一部です。
「ダウンフォール作戦」を含む「ダグラス・マッカーサー」の記事については、「ダグラス・マッカーサー」の概要を参照ください。
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