マヌス‐とう〔‐タウ〕【マヌス島】
マヌス島
マヌス島
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 16:24 UTC 版)
「アドミラルティ諸島の戦い」の記事における「マヌス島」の解説
3月11日、マヌス島上陸の事前偵察としてアメリカ軍はゼーアドラー湾のハウウェイ(Hauwei)島など数か所に上陸した。ハウウェイ島では海軍陸戦隊梅林隊所属の43人が応戦し、アメリカ軍の増強偵察小隊30人はカーター・ヴァーデン少佐以下11人が戦死・行方不明、残る全員が負傷して退却した。乗ってきた車両揚陸艇(LCV)も撃沈され、魚雷艇が収容にあたった。同島は翌12日から13日に、第7騎兵連隊第2大隊及び戦車1両、支援砲兵1個大隊、オーストラリア空軍機などによる攻撃を受け、守備隊は全滅した。島内からは105mm沿岸砲が発見された。アメリカ軍は8人が戦死、46人が負傷した。この予想外に激しい抵抗のため、アメリカ軍はマヌス島上陸を2日延期するはめになった。 3月15日、第2騎兵旅団を主力とするアメリカ軍は、マヌス島ロレンガウ西方5km付近に上陸した。上陸地点での抵抗は無かった。上陸部隊は、戦車数両及びオーストラリア空軍P-40戦闘機の支援を受けて18日までに飛行場などを占領した。日本側は海軍第88警備隊及び歩兵第229連隊の2個小隊が守備していたが、トーチカを火炎放射器や砲撃で潰され、人員の半数を失った。残存部隊はロレンゴウ南方ロッサムへ後退したが、追撃を受けて25日までにロッサムも失陥した。 3月25日から29日にかけて、ロスネグロス島の残存日本兵約800人は前述の江崎大佐の転進指示に従い、手製のいかだなどでマヌス島に渡った。しかしマヌス島の日本軍部隊も大打撃を受けており、組織的な反撃はもはやできなかった。期待した海軍の物資も、すでにアメリカ軍の支配下に落ちていた。 4月末には日本軍の守備隊としての組織は解体し、小部隊ごとに各個撃破されていった。5月1日に残存兵力が陸軍1050人と海軍500人、「全員装具食糧なく、守備隊の行動に関し、軍の指示を仰ぐ」との無線通信を最後に、島外の上級司令部との連絡も途絶えた。 5月18日、クルーガー中将はアドミラルティ諸島での作戦完了を宣言した。ただし、以後も多少の戦闘はあった。日本側は5月31日に全員玉砕とみなして処理した。
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