ロスネグロス島
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ロスネグロス島(ロスネグロスとう、Los Negros Island)は、パプアニューギニア・アドミラルティ諸島にある島。行政面ではマヌス州に属する。アドミラルティ諸島で三番目に大きい島であり、マヌス島の東に位置し、橋で結ばれている。島の西側はゼーアドラー湾となっている。島の中央部にモモテ空港がある。1944年にはアドミラルティ諸島の戦いが行なわれた。
- 1 ロスネグロス島とは
- 2 ロスネグロス島の概要
ロスネグロス島
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「アドミラルティ諸島の戦い」の記事における「ロスネグロス島」の解説
1944年1月から、連合国軍は東部ニューギニアから出撃する航空部隊でアドミラルティ諸島およびカビエンの事前空襲を開始した。消耗を避けるため、江崎大佐は対空砲火などを制限した。 日本軍の抵抗が微弱との報告を受けたマッカーサー大将は、大規模上陸をする計画を変えて2月29日までに第1騎兵師団から抽出した800名の戦闘団「ブルーワー(BREWER)任務部隊」(長:ウィリアム・チェイス(en)准将)をロスネグロス島に上陸させ、威力偵察することを命じた。もし抵抗が弱ければ、2日後に増援を送って飛行場を占領するものとされた。威力偵察隊は高速輸送艦(APD)で輸送されることになり、支援のために軽巡洋艦2隻と駆逐艦4隻が付き、マッカーサー自身も前線指揮のため軽巡「フェニックス」に乗艦していた。2月27日には、5名の偵察員がPBY飛行艇を使ってロスネグロス島に潜入した。 2月29日朝、ブルーワー任務部隊はロスネグロス島南東部のハイン湾から上陸を開始した。上陸用舟艇に気付いた日本軍の沿岸砲が発砲を始めたが、艦砲射撃で制圧された。激しい雨が降り出したため、日本軍の砲火の命中率は低かった。ハイン湾内には日本軍の陣地がほとんど無く、上陸後の日本軍の抵抗は微弱で、1200時までにブルーワー任務部隊の上陸は終わった。1600時にはマッカーサー大将とトーマス・C・キンケイド海軍中将も作戦続行の判断のために上陸した。帰艦したマッカーサー大将らは、このままアドミラルティ諸島を占領することにし、後続部隊の派遣を命じた。そして、マッカーサー大将らを乗せた支援艦隊主力はアドミラルティ諸島付近を去り、以後の総指揮は第6軍司令官ウォルター・クルーガー中将が執った。 ブルーワー任務部隊の橋頭堡に対し、日本軍は歩兵第229連隊第1大隊による夜襲をかけたが撃退され、大隊長以下多数が戦死した。アメリカ軍は徐々に増援部隊を得て前進し、3月6日までにモモテ飛行場(英語版)(ハイン飛行場)はアメリカ軍の占領下となった。この間、日本軍は3月3日に全力夜襲を試みてアメリカ軍に死傷305名の大損害を与えたが、夜襲の中心となった独混第1連隊第2大隊は大隊長以下全滅状態となった。また、日本の第4航空軍も、数度に渡って上陸部隊攻撃や補給物資の空中投下を行ったが、悪天候に妨げられたこともあり、さしたる成果は無かった。モモテ飛行場は連合軍の手で整備され、オーストラリア空軍のP-40戦闘機が進出した。 3月7日から9日にかけて、ロスネグロス島のうちゼーアドラー湾側の各地にもアメリカ軍が上陸した。日本の第8方面軍司令部は、玉砕を前提とした最後の攻撃を現地部隊に行わせようとしたが、江崎大佐はこの命令を無視して持久戦の方針を採った。江崎大佐は、もはやロスネグロス島での抵抗は困難であると判断して、残存する日本軍部隊に対して、反撃準備のためマヌス島に集結するよう指示した。ロスネグロス島の陸軍備蓄食料は4月中旬までの分しかなかったが、マヌス島の海軍部隊の物資を合わせれば7月上旬まで持久できると思われた。
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