空襲
空襲
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「第二次世界大戦下のルーマニア」の記事における「空襲」の解説
アントネスク政権時代を通じて、ルーマニアはナチス・ドイツや枢軸国軍に石油、穀物、工業製品を供給していた。また、ブカレストの北駅のような国内の数多くの鉄道駅が、東部戦線に向かう軍隊の通過点として機能した。そのため、1943年までには、連合国軍の空襲にさらされるようになった。最も知られているのは、1943年8月1日に、プロイェシュティの油田が攻撃されたタイダルウェーブ作戦である。ブカレストは1944年8月4日と15日に激しい空爆を受け、連合国側に転換後の8月24日と25日には、ドイツ空軍による空襲も行われた。
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空襲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 06:55 UTC 版)
1944年6月13日、第58爆撃航空団所属のB-29はインドから中国前進基地への移動を開始し、6月15日までに83機のB-29スーパーフォートレスが成都周辺の4つの飛行場に到着した。だが中国に到達することができずにインドへ引き返した機体が少なくとも12機あり、その他墜落し搭乗員全員が死亡した機もあった。B-29は各々空襲用に500ポンド爆弾4発(2ショートトン(=1,800kg)分)を搭載した。このとき大将8名を含む多数の参謀将校が、視察のためと称して成都基地を訪れたが、空襲に参加することは許されなかった。その一方ジャーナリスト8名と報道写真家3名がB-29に搭乗している。なお、当時アメリカ陸軍航空軍には直近の日本の工業地帯を撮影した写真がほとんどなく、八幡空襲のブリーフィングで使用した地図と写真は10年以上前の、1920年代後半から1930年代前半のものであった。 6月15日16時16分、B-29は基地から離陸を開始した。第58爆撃航空団のラベーヌ・サンダース准将が作戦指揮をとった。出撃75機のうちR・E・ヒューズ大尉の指揮する1機(機体番号#42-6229)は離陸直後に墜落し、更に4機が機械トラブルで引き返しているが、残り70機は沖ノ島を経由し一路九州八幡を目指した。第58爆撃航空団の4部隊は、それぞれ2機のB-29を先行させ、その後ろを飛行する航法をとった。この航法は、先行機が他機の飛行目標となり、またその作りだす気流に乗って燃料を節約するためであり、イギリス空軍が欧州戦線で採用したものである。爆撃隊は中国の日本陸軍および陸軍航空軍によって察知された。「爆撃機が九州北部へ向かっており真夜中に現地に到着する」との報告は日本陸軍第19飛行団にも伝えられた。その後、済州島のレーダー基地と監視所は現地時間の23:31から00:30にかけて爆撃機を捕捉した。空襲警報は00:24に発令され、その3分後には飛行第4戦隊の24機の「屠龍」戦闘機が北九州上空警戒のため離陸した。第59戦隊は、夜間作戦において第4戦隊と夜間戦闘の共同訓練をしておらず、運用する機体「飛燕」には機械的問題があり、また出撃することで芦屋飛行場を発見され、逆に攻撃することも恐れられたため緊急発進を見合わせた。 6月16日00時38分、B-29は八幡上空に到達しおよそ2時間にも及ぶ爆撃を開始した。だが市街地には既に灯火管制が敷かれており、さらにこの晩は街全体が靄に覆い隠されていたため、爆撃目標を視認できたのはたったの15機であった。残り32機はレーダー照準爆撃を行った。なお、八幡以外では2機が老窯港に爆撃しており、また別の5機は臨機目標への爆撃を行ったため、この空襲での爆弾総トン数は107トンになる。また、最初の爆弾が投下された後、作戦の定時連絡をワシントンの第20司令部にしているが、このときアーノルド司令はロンドンにいた。爆撃隊が受けた対空砲火は激しいものであったが、あまり正確ではなかった。また八幡周辺に配備されていたサーチライトはほとんど役に立たなかった。第4戦隊の戦闘機はB-29を1機撃墜したが、そもそも空戦に持ち込むこと自体が困難であり、迎撃はままならなかった。 空襲後の中国基地への帰還飛行は概ね良好であった。1機がエンジン不調のため中国河南省の内郷飛行場に着陸したところ日本軍機の機銃掃射を受け破壊された。他帰還中に2機が墜落し搭乗員全員と同乗のニューズウィーク誌記者が死亡している。この空襲でのアメリカ側の総損害はB-29を7機損失、さらに6機を敵対空砲火で損傷し、搭乗員57名とジャーナリスト1名が死亡している。なお空襲から数日の間、多数のB-29が燃料不足のため中国内に足止めを余儀なくされ、ウォルフ准将が第312飛行隊から57,000リットルの燃料を借りることでようやくインドに戻ることができた。この数日間は燃料がほとんど無く航空機の出撃がほぼ不可能であり、日本軍の報復攻撃に対して非常に脆弱な状態であったが、日本軍は何の攻撃もしなかった。
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空襲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/14 00:56 UTC 版)
12月2日の午後、ドイツ空軍パイロット、ヴェルナー・ハーンはMe210でバーリを上空から偵察した。その報告をもとにアルベルト・ケッセルリンクは空襲を命令した。ケッセルリンクと彼の幕僚は以前はフォッジャの連合国軍飛行場を目標にと考えていた。しかしドイツ空軍には、このような複数の目標が複合した大規模な目標を攻撃できるだけの部隊がなかった。第2航空艦隊の司令官ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン元帥はバーリを代替案として提案した。港に壊滅的な損害を与えれば、イギリス第8軍の前進を遅らせることができるとリヒトホーフェンは考えていた。リヒトホーフェンは、第2航空艦隊で出撃可能なユンカースJu-88 A4 爆撃機を空襲のために150機集めることができるとケッセルリンクに伝えたが、実際の空襲で出撃できたJu-88は105機だった。 空襲に参加した多くの飛行機はイタリアの飛行場から発進したのだが、リヒトホーフェンは一部の飛行機をユーゴスラビアから発進させ、連合国軍にユーゴスラビアを発進地と思わせ、報復攻撃の方向を誤らせたいと考えた。そこで、Ju-88のパイロットはまず東のアドリア海へ向かい、その後南下して西に向きを変えて飛行するよう命令されることとなった。連合国軍は、ドイツ軍が攻撃するとすれば北方から、と判断していると思われたからである。 空襲は午後7時25分に、2、3機のドイツ軍機がバーリ港上空3,000 m (10,000 ft) を旋回しながら連合国軍のレーダー探知を妨害するためチャフを散布して始まった。この時に照明弾も投下されたが、港には照明が点されていたので必要ではなかった。 空襲により、2隻の弾薬輸送船が被弾して爆発を起こし、この爆風で11 km先の窓ガラスまで粉々になった。埠頭のガソリンの荷役用パイプラインが切断され、噴出した燃料に引火した。このため、火のついた燃料が港の大部分に広がり、被害を受けなかった船舶も巻き込んだ。 合計34,000トン以上の物資を積んだ貨物船28隻が撃沈または破壊され、ほかに3隻が撃沈の後に引き上げられた。さらに12隻が損傷を受けた。港は2週間閉鎖され、機能が完全に復旧したのは1944年2月だった。バーリ港にいた潜水艦はその頑丈な外殻でドイツ軍の空襲に耐え、全て損傷を受けずに残った。
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空襲
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空襲は1945年3月19日と同年7月28日の2度あった。ただ日立造船の社史では、「工場の施設も損害を受けたが、ほとんど操業に影響はなかった」のみ書かれている。旧因島市の資料では空襲があったこと以外は書かれていない。被害者の証言以外で現在発見されている主な資料は以下のとおり。 『土生町警防団日誌』- 現在の因島土生町消防団の日誌 『昭和二十年度日誌 土生国民学校』 - 土生国民学校(のちの土生小学校、現在の尾道市立因島南小学校)教員が残した日誌 テレンス・ケリー『By Hellship to Hiroshima』(『Living with Japanese』から改題) - イギリス人捕虜だった作家の著作 捕虜トム・ジャクソンの日記 以下、わかっている範囲内で列挙する。
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空襲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 02:57 UTC 版)
8月11日10時30分、A-26攻撃機32機が鳥栖駅の南西と南東の2方向から飛来し、鉄道施設や笠井倉庫(現・鳥栖倉庫)、高射砲陣地(現・鳥栖スタジアム北東側)がある東町と今泉町の一部、藤木町を爆撃した。10時40分には、B-25爆撃機48機が鳥栖駅の西から飛来し、日清製粉鳥栖工場がある曽根崎町を爆撃した。さらに11時20分までに、別の爆撃機が本鳥栖町と永吉町を爆撃した。
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空襲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 15:16 UTC 版)
陸戦を主目的とする戦車にとって上空を高速で移動する航空機への対応は難しく、第二次世界大戦の中期から対地攻撃機が対戦車攻撃にも導入され多くの成果を挙げた。特にダイブブレーキを備えた急降下爆撃機は狙いを定めやすく、戦車側は直撃を受けないようにジグザグに動く、急停止・急発進するなど回避行動を取っていたが効果が薄かった。対策として大規模な戦車部隊には対空戦車が随伴することもあった。敵からの空襲を受ける可能性がある場合は、高射部隊の援護が必要不可欠である。 戦車の上部装甲は正面装甲に比べると薄く作られるため、正面装甲であれば充分に耐えられる20mm~30mm級の機関砲によっても貫通される可能性がある。ソ連では第二次世界大戦の中期から23mm機関砲を搭載したシュトゥルモヴィークIl-2を東部戦線に投入し、ドイツ軍の戦車部隊に対して大きな戦果を挙げた。ドイツでも大戦後期からJu 87GやHs 129のような爆撃機・攻撃機に機関砲や対戦車砲を装備して対戦車攻撃機として投入し、ソ連軍の戦車を多数撃破している。現代の攻撃機はアメリカ空軍のA-10のように機関砲、爆弾、ロケット、ミサイルで武装しており、戦車や装甲車への攻撃を主任務としている。 低速ながらも空中を比較的自由に動き回り、一定の空域に留まり続けることができる攻撃ヘリコプターは固定翼機以上の脅威であり、戦車砲の射程外から機関砲や空対地ミサイルなどで一方的に戦車を撃破することが可能である。戦車側は敵ヘリコプターの射程に入った場合、煙幕を張って視界を遮りつつ遮蔽物の影に隠れる以外には手がなかったため、戦車を運用する側は、歩兵の持つ地対空ミサイルや対空攻撃の可能な銃砲、また専門の防空車輌や高射部隊との協調によって敵ヘリコプターの接近を阻止する必要がある。近年の自動目標追尾装置を持つような戦車に対してヘリが射程内を低速飛行する場合にはかえって撃墜される可能性がある。ヘリは機動性と射程距離で勝り、装甲貫徹力は同等で、防御力と運用コストで劣る。また、撃墜に至らなくても飛行装置が破壊されるだけで無力化される。このためヘリは被弾する危険性が高い作戦には適しておらず、戦車は高い防御力を活かした行動が可能で任務による棲み分けが行われている。 近年は攻撃能力を有する無人航空機や徘徊型兵器が新たな脅威になっている。 現代の地上戦ではミサイルにより防空レーダーや飛行場を破壊して航空戦力を減らし、榴弾砲による砲撃で敵の砲兵部隊を攻撃して地上戦力を減らした後、装甲部隊と歩兵部隊により敵陣地へ侵攻するのが基本であり、制空権の確保は戦闘車両を大規模展開させるうえでの前提条件である。 Su-25 Mi-24 バイラクタル TB2
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空襲(メテオライト)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/01 09:00 UTC 版)
不定期にゾディアックが空から襲ってくることをいう。ゾディアックの正体も、襲ってくる理由も不明である。カルデアが常にメテオライトを警戒して観測しており、発見次第警報が発令され、エトワールが撃退に向かうこととなる。
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空襲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 09:21 UTC 版)
工廠への空襲は1944年(昭和19年)11月1日の偵察に始まり、1945年(昭和20年)に入り小規模なものが度々あったが大規模空襲は無かった。しかし1945年(昭和20年)8月7日10時30分、サイパン、テニアン、グアムから飛来したB-29爆撃機124機の爆撃を受け、30分間に500ポンド(250kg)爆弾3,256発(約800トン)が投下され工廠は壊滅した。 この空襲により、およそ2,500名が犠牲となった。詳細な犠牲者数は文献により相違があり、『被爆四十周年 嗚呼豊川海軍工廠』によると2,544名、『豊川海軍工廠の記録』によると一般人141名も犠牲となり合計2,670名、大島信雄の調査によると2,818名という。豊川市史編纂室の調べによると上記人数には8月7日以外の犠牲者も含まれており、再度集計し直した結果、合計2,667名となっている。勤労動員されていた中学生、女学生、高等科生徒からも多数の犠牲者が出、男193名、女259名、計452名にのぼった。この空襲の際に空襲警報、総員待避の命令が出たかどうかが現在でも議論となっている。
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空襲
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「ドーリットル空襲」の記事における「空襲」の解説
ドーリットル率いるB-25爆撃機16機は東京府東京市、神奈川県川崎市、横須賀市、愛知県名古屋市、兵庫県神戸市などを爆撃した。16機中15機が爆弾投下に成功したが、照準ミスや進路変更などにより当初の軍事目標以外の場所を爆撃した機も少なくなかった。 作戦参加機一覧機体番号シリアルナンバーニックネーム所属発艦時間機長目標実際の攻撃地脱出状況爆撃機銃掃射(地上)1番機 40-2344 34BS 08:15 ジェイムズ・ハロルド・ドゥーリトル中佐(隊長) 東京 東京市牛込区東京市淀橋区 - 衢州付近で空中脱出 2番機 40-2292 37BS 08:20 トラヴィス・フーヴァー中尉(Travis Hoover) 東京 東京市荒川区 - 寧波付近に不時着 3番機 40-2270 Whisky Pete 95BS 08:30 ロバート・マニング・グレイ中尉(Robert Manning Gray) 東京 埼玉県川口市東京市王子区東京市葛飾区 埼玉県川口市東京市葛飾区 温州西方で空中脱出 4番機 40-2282 95BS 08:32 エヴァレット・ウェイン・ホルストロム中尉(Everett Wayne Holstrom) 東京 相模湾(洋上投棄) - 上饒南方で空中脱出 5番機 40-2283 95BS 08:35 デイヴィッド・M・ジョーンズ大尉 (David M. Jones) 東京 神奈川県川崎市 - 衢県南方で空中脱出 6番機 40-2298 The Green Hornet 95BS 08:37 ディーン・エドワード・ホールマーク中尉 (Dean Edward Hallmark) 東京 神奈川県川崎市神奈川県横浜市 神奈川県横浜市 寧海付近に不時着水 7番機 40-2261 The Ruptured Duck 95BS 08:40 テッド・ウィリアム・ローソン中尉 (Ted William Lawson) 東京 神奈川県川崎市 - 寧海付近に不時着水 8番機 40-2242 95BS 08:47 エドワード・ジョセフ・ヨーク大尉(Edward Joseph York) 東京 栃木県西那須野町新潟県新津町 - ウラジオストク北に着陸 9番機 40-2303 Whiring Dervish 34BS 08:52 ハロルド・フランシス・ワトソン中尉(Harold Francis Watson Jr.) 東京 東京市品川区 - 撫州付近で空中脱出 10番機 40-2250 89RS 08:55 リチャード・アウトコルト・ジョイス中尉(Richard Outcalt Joyce) 東京 東京市品川区 - 衢州付近で空中脱出 11番機 40-2249 Hari kari-er 34BS 09:00 チャールズ・ロス・グリーニング大尉(Charles Ross Greening) 横浜 千葉県椿海村 - 衢州付近で空中脱出 12番機 40-2278 Fickle Finger of Fate 37BS 09:01 ウィリアム・マーシュ・バウワー中尉 (William Marsh Bower) 横浜 神奈川県川崎市 - 衢州付近で空中脱出 13番機 40-2247 37BS 09:02 エドガー・アール・マケルロイ中尉(Edgar Earl McElroy) 横須賀 神奈川県横須賀市 神奈川県横須賀市 上饒北西で空中脱出 14番機 40-2297 The Avenger 89RS 09:05 ジョン・アレン・ヒルガー少佐(John Allen Hilger、副長) 名古屋 愛知県名古屋市 - 上饒南東で空中脱出 15番機 40-2267 TNT 89RS 09:10 ドナルド・グレゴリー・スミス中尉(Donald Gregory Smith) 神戸 兵庫県神戸市 - 寧海付近で不時着水 16番機 40-2268 Bat Out of Hell 34BS 09:16 ウィリアム・グラヴァー・ファロウ中尉 (William Glover Farrow) 大阪↓名古屋 愛知県名古屋市 三重県伊曽島村三重県四日市市和歌山県名手町和歌山県粉河町等 南昌付近で空中脱出 以下、特筆すべき機を記載する。 1番機(ドーリットル隊長機)は茨城県から東京上空に侵入し、12:15に空襲を行った。東京第一陸軍造兵廠を目標としていたが、全く無関係の場所を爆撃してしまい、民間人に死傷者を出す。その結果、早稲田中学の校庭にいた4年生の小島茂と他1名が死亡、重傷者4名、軽傷者15名、家屋50棟という被害が出た。1番機はその後日本陸軍の九七式戦闘機の追尾を振り切り、海軍厚木基地近くを通過して海上に出た。この時厚木基地に配備されていた機体は、旧式の九六式艦上攻撃機だった。中国大陸到達時の天候は悪化しており、また中華民国軍飛行場には誘導電波装置が設置されていないため夜間着陸は不可能となり、ドーリットルは落下傘脱出を命じる。午後9時30分(ホーネット発艦より約13時間、飛行距離約3620km)、搭乗員は自動操縦の機体から脱出した。ドーリットル自身は作戦失敗(東京空襲は成功したが、B-25輸送任務には失敗)だと判断していた。「軍法会議にかけられる」と悲観しており、部下に慰められたという。 4番機は、唯一爆弾を海上に捨てて離脱したB-25となった。機長は日本軍機多数に迎撃され、機銃も故障して離脱したと申告している。 6番機は東京を目標としたのち、中国大陸沿岸の日本軍の占領区域に不時着した。爆撃手ダイター軍曹、航空機関士フィッツマーリス伍長が死亡し、機長ホールマーク中尉、副機長メダー少尉、ネルソン航空士が捕虜となった。 8番機は鹿島灘から東京へ侵入したが、機械不調のため燃料消費がはやかった。8番機は北上して栃木県の西那須野駅、新潟県の阿賀野川橋梁付近を爆撃しつつ、日本海へ抜けてウラジオストクに向かった。日本海を越えて19:35にソ連本土に不時着(ウラジオストク近郊の飛行場に着陸とも)したが、すぐにソ連警察によって拘留されてしまう。乗員は捕虜的立場で各地を転々と移送されたのち、同盟国のイギリスの影響圏であるイラク(一部著作ではイラン) に脱出して、1943年(昭和18年)5月29日にようやくアメリカに帰還した。 11番機は本土侵入後に水戸陸軍飛行学校の航空隊機に迎撃された(後述)。そのため横浜に侵入することができず、回避行動中に発見した建設中の香取海軍飛行場を爆撃し、九十九里浜を抜けて離脱した。 13番機は、房総半島の南部を横断して横須賀に向かった。13:00頃、記念艦「三笠」の上空から爆撃を開始し、3発目の爆弾が、横須賀軍港第4ドックで潜水母艦から空母へと改装中だった大鯨(龍鳳)に命中する。大鯨では火災が発生した。13番機は日本海軍の中枢(横須賀鎮守府)を爆撃することに成功し、対空砲火の中を離脱した。 16番機は、ホーネット発艦時にプロペラ接触事故で乗組員1名が左腕を切断した。当初は大阪を目標としていたが実際に爆撃したのは名古屋で、投下後は和歌山に向かい、後に中国奥地で5名全員が捕虜となった。この16番機は日本領土内の各地で民間人に対する機銃掃射を行い、これが後の死刑判決に繋がった。 空襲を終えた16機のB-25のうち、北のウラジオストクへ向かった8番機を除く15機のB-25は日本本土南岸の洋上を飛んで中国大陸へ向かった。この時、B-25は遭遇した船舶に対して、それが民間船であろうと機銃弾のある限り攻撃を行った。15:00、室戸岬沖で漁船「高島丸」が攻撃を受け重傷1名。16:00、足摺岬沖で漁船「第二三木丸」が2機に銃撃され、2名が死傷した。17:15、鹿児島県の口永良部島近海で漁船「昌栄丸」が機銃掃射を受け、重傷1名が出た。
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空襲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 02:25 UTC 版)
「ラエ・サラモアへの空襲」の記事における「空襲」の解説
3月10日早朝、第11任務部隊と第17任務部隊は予定地点に到達し、「レキシントン」からはSBD「ドーントレス」30機、TBD「デヴァステイター」13機、「F4F「ワイルドキャット」8機の計51機が発進した。「ヨークタウン」からは「ドーントレス」30機、「デヴァステイター」12機、「ワイルドキャット」10機の計52機が発進した。総計103機のアメリカ軍攻撃隊がラエとサラモアを目指した。これとは別に、1機がオーエンスタンレー山脈の気象観測のため発進した。攻撃隊の装備は爆弾が主であったが、「レキシントン」攻撃隊の「デヴァステイター」13機のみは魚雷を搭載した。攻撃目標は、「レキシントン」攻撃隊がサラモアを、「ヨークタウン」攻撃隊がラエをそれぞれ攻撃すると定められる。機動部隊攻撃隊にくわえて、アメリカ陸軍のB-17型重爆 18機もラエおよびサラモア空襲を目指した。攻撃隊は無事にオーエンスタンレー山脈を越え、一路ラエとサラモアの沖合にいる日本軍艦船に向けて突進した。 そのころ、ラエとサラモア沖に展開中のSR攻略部隊各艦船は依然として設営作業に協力していた。数日来降っていた雨もあがり、早朝に「ロッキード」型が飛来して「天洋丸」に対して投弾してきたが、偵察であると判断された。ところが、7時50分にいたりSR攻略部隊の各艦船はオーエンスタンレー山脈を越えて飛来してきた「レキシントン」および「ヨークタウン」両攻撃隊の奇襲を受けた。各艦船は対空砲火を撃ちあげたが貧弱であり、「聖川丸」も搭載の水上偵察機3機で撃退しようとしたが、103機対3機ではどうしようもなかった。 上陸部隊の中でも比較的大型であった「津軽」は複数機の急降下爆撃を受け、直撃弾で舵が故障し人力操舵となった。米軍機の無線傍受によれば、米軍攻撃隊は津軽を戦艦と誤認しており、津軽艦橋では「ありがた迷惑ですな、艦長」「戦艦『津軽』か、悪くない」と冗談が交わされていた。「津軽」の弾丸消費は、12.7センチ高角砲244発、25ミリ機銃約2,000発、7.7ミリ機銃1,000発だったという。 「横浜丸」支援でサラモア沖にあった「夕張」も狙われ、銃爆撃に加えて雷撃を受けたが、雷撃に関しては腕が拙劣で発射距離も遠く、まったく問題にならなかった。それでも「夕張」は機銃掃射で応急弾薬筺や魚雷格納筺から火災が発生し、電信機も被弾で故障して送信不能となった。「夕張」が支援していた「横浜丸」は、4発の命中弾を受け8時30分に沈没した。以降、9時15分に第一波の攻撃が終わるまで「ちゃいな丸」、「朝凪」や「夕凪」および「聖川丸」が被弾損傷した。9時35分にはB-17の爆撃もあり、一連の攻撃は10時35分までにはほぼ終わった。攻撃後の12時、ようやく零戦4機がラエ上空に到着したが、もはや「後の祭り」であった。 攻撃隊を収容した第11任務部隊と第17任務部隊は、攻撃隊員から再度の攻撃が要請されるもブラウンはこれを受け入れず、燃料補給のため第44任務部隊の方角をさして避退していった。
※この「空襲」の解説は、「ラエ・サラモアへの空襲」の解説の一部です。
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空襲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/21 04:37 UTC 版)
現地は18時39分、日没を迎えた。しかし当日の天候は晴れ、月齢11と夜になっても部隊は上空から丸見えであった。20時45分、まず朝霜が爆撃を受けた。これは命中しなかったが、これを皮切りに続々とアメリカ軍機が各艦に攻撃を始めた。21時01分、今度は大淀が爆撃を受けた。250kg爆弾2発が命中したが何故かこの爆弾には信管が付いておらず、一発は艦橋脇を貫通し海中へ突入し、もう一発は缶室直上まで甲板を貫通して止まった。次に清霜(第2駆逐隊司令白石長義大佐、艦長梶本顗中佐)が狙われ、舷中部に爆弾1発が命中、これが機関室を直撃、航行不能となるとともに浸水が始まった。しかし他艦に救助に当たる余裕は無く、洋上に停止し炎上する清霜を取り残して礼号部隊は進撃していった。清霜はその後30分ほどで沈没した。 このほか足柄の中央部(魚雷発射管付近)にB-25が衝突し、火災が発生した。そのため、足柄は搭載魚雷を投棄せざるを得なかった。死傷者は70名に上った。
※この「空襲」の解説は、「礼号作戦」の解説の一部です。
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空襲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 06:20 UTC 版)
1944年(昭和19年)以後、米空軍の本土空襲に際しては練馬区も対象となり、1945年(昭和20年)4月1日と同3日から14日にかけて、大型爆撃機「B29」延べ150機の空襲で区内各地に被害を出した。軍倉庫も火災を起し、その余波は中宿(北町一丁目の西半分)を中心とした民家におよび、多数の焼失家屋を出した。なお敵機撃墜の目的でこの地区の南、丸久保(現平和台)付近には高射砲陣地が設けられていた。 1945年8月15日に終戦となるや、軍倉庫の物資の中で、戦時中に献納した金属製の用品などが野積みの状況であったので、その発掘等が盛んに行われ屑金属拾いが殺到した時期もあった。練馬区は農地が多く住宅の密集地が少なかったことなどから、他区に比べてさほど大きな被害は受けなかった。しかし、このことが却って多くの引揚げ者を始めとする人々の招致に繋がることとなり、深刻な住宅問題が生まれるきっかけとなった。
※この「空襲」の解説は、「北町 (練馬区)」の解説の一部です。
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空襲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:49 UTC 版)
日中戦争時代より国民の意識を高めるために防空訓練が行われ、1942年にアメリカ海軍の艦載機の最初の空襲が行われた後は盛んに行われたが、この空襲が小規模なものに過ぎず、これに続く空襲もなかったためにこれを真剣に行う国民は少なかった。
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「空襲」の例文・使い方・用例・文例
- 空襲
- 空襲警報のサイレン
- 彼らは空襲を受けたとき敵の飛行機を2機撃墜した。
- 空襲.
- 空襲警報.
- 空襲警報解除が発令された.
- 空襲で大勢の人が焼け出された.
- 両親の家は空襲をまぬがれて健在だった.
- 空襲で焦土と化したこの町にも春が訪れ, ハコベの芽が萌え出した.
- 極めて正確な空襲
- 空襲は救急病棟を割増しした
- 敵の空襲に対応する態勢に入る警告信号
- 空襲の爆撃が原因で起きる火事を監視することが義務だった人
- 中東の航空機は空襲警報にある
- 軍や民間の機関が敵の空襲に備える期間
- 空襲による被害を防ぐための訓練
- 空襲から避難するための,土を掘った穴
- 空襲を知らせる警報
- 夜間の敵の空襲に備え,減光や消灯を行う管制
品詞の分類
名詞およびサ変動詞(軍事) | 狙い撃ち 空爆 空襲 猛爆 痛爆 |
名詞およびサ変動詞(攻撃) | 一閃 怒罵 空襲 発砲 衝撃 |
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