こくみん‐がっこう〔‐ガクカウ〕【国民学校】
国民学校 (こくみんがっこう)
国民学校
国民学校
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 01:16 UTC 版)
「大阪市立難波元町小学校」の記事における「国民学校」の解説
1941年には国民学校令が出され、従来の尋常小学校・高等小学校は国民学校へと改編された。この際に難波地区の各校では、校名に付いていた「難波」の冠称は廃止され、「難波○○尋常小学校」から「○○国民学校」へと改称した。難波元町尋常小学校は元町国民学校へと改編された。一方で難波新川尋常小学校は、所在地の当時の地名・新川町から取った新川ではなく、難波国民学校の名称を採用した。 大阪市では1944年秋以降、全市の国民学校を対象に学童集団疎開が実施された。疎開先は当時の22行政区各区ごとに指定され、浪速区の学校には滋賀県への疎開が割り当てられた。 難波国民学校児童は滋賀県栗太郡老上村(現在の草津市)へ集団疎開を実施した。また元町国民学校児童は滋賀県野洲郡野洲町・祇王村(現在の野洲市)、守山町(現在の守山市)へと集団疎開をおこなっている。
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国民学校
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 14:26 UTC 版)
後述の「スモレンスク聖堂」を小学校の臨時校舎として使用していた時期も存在していた。 樺太公立豊原第一国民学校(敷地の南北中央を東西に横切る(南1丁目通りを延長した)現ニェベーリスカヤ通りにより敷地は南北に分割。北側区画には現ドラッグストア「パラツェーリス(ロシア語表記:Парацельс)」および現美容院「スヴェトラーナ(ロシア語表記:Светлана)」が立地し、南側区画には現ロシア政府機関「フェデラーナリエ・ブチー(ロシア語表記:Федеральное БТИ。「連邦BTI」のロシア語訳)」が立地。その他、フルシチョフカ様式アパート数棟が立地。グーグル・ストリートビュー画像(ほぼ中央より北西側)、グーグル・ストリートビュー画像(ほぼ中央より北東側)、グーグル・ストリートビュー画像(ほぼ中央より南西側)、グーグル・ストリートビュー画像(ほぼ中央より南東側))現在、南方向に隣接する区画に立地している「ヂェツカヤー・フダジェーストヴェンナヤ・シュコーラ(ロシア語表記:Детская художественная школа。「児童美術学校」のロシア語訳)」の先代校舎として再利用されていたかは不明(調査中)。 樺太公立豊原第二国民学校(現「ギームナジーヤー No.2」(ロシア語表記:Гимназия №2。「第二体育館」のロシア語訳) - グーグル・ストリートビュー画像 樺太公立豊原第三国民学校(現「ヴァストーチナヤー・ギームナジーヤー」(ロシア語表記:Восточная Гимназия。「東部体育館」のロシア語訳) - グーグル・ストリートビュー画像 樺太公立豊原第四国民学校(現「スターラエ・クラードゥビシシェ」(ロシア語表記:Старое Кладбище。「古い墓地」のロシア語訳を冠した「ユジノサハリンスク共同墓地」)の北西部分) - 「南十六丁目通り」および「東二条通り(現プーシュキナ通り)」交差点角地の南西側区画に立地。大沢分教場 樺太公立唐松国民学校 樺太公立並川国民学校 樺太公立清川国民学校 樺太公立大富国民学校 樺太公立下並川国民学校 樺太公立軍川(いくさがわ)国民学校 樺太公立緑川国民学校 樺太師範学校附属国民学校
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国民学校
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1941年には国民学校令が実施された。これに伴い1941年4月1日付で、恵美第一尋常高等小学校は大阪市恵美国民学校、恵美第二尋常小学校は大阪市浪速津国民学校、恵美第三尋常小学校は大阪市戎国民学校へと改称された。 太平洋戦争の戦局悪化により、1944年以降学童集団疎開が実施されることになった。集団疎開先は各行政区ごとに指定され、浪速区の小学校の集団疎開先は滋賀県が割り当てられた。 恵美国民学校では滋賀県栗太郡笠縫村・山田村(現在の草津市)へと学童疎開を実施している。また浪速津国民学校では滋賀県栗太郡瀬田町(現在の大津市瀬田)、戎国民学校では滋賀県甲賀郡貴生川町(現在の甲賀市水口町)へと集団疎開を実施した。 また恵美・浪速津・戎の各国民学校とも高等科を併設していた。しかし大阪市が高等科を1行政区あたり1-2校に集約・統合する方針をとったことに伴い、いずれの高等科も1945年に廃止され、大阪市南栄国民学校へと統合された。
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国民学校
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1941年の国民学校令により、従来の小学校は国民学校に改められることになった。 これに伴い、金甌尋常小学校は大阪市金甌国民学校、桃園尋常高等小学校は大阪市桃園国民学校、桃谷尋常小学校は大阪市桃谷国民学校、東平尋常小学校は大阪市東平国民学校へ、それぞれ改称した。 大阪市の国民学校では1944年以降、児童の学童疎開が実施されることになった。縁故がないものなどは集団疎開を実施することにし、1944年9月以降疎開先に出発した。 大阪市では各行政区ごとに疎開先の府県を割り当てている。当時4国民学校が属した南区では滋賀県への疎開が割り当てられた。 金甌国民学校の児童は長浜市へ、桃園国民学校の児童は坂田郡息長村・坂田村(いずれも現在の米原市)へ、桃谷国民学校の児童は坂田郡鳥居本村(現在の彦根市鳥居本地区)へ、東平国民学校の児童は愛知郡葉枝見村・稲枝村(いずれも現在の彦根市)へ、それぞれ疎開した。
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国民学校
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「大阪教育大学附属平野小学校」の記事における「国民学校」の解説
国民学校令の施行により、1941年4月1日付で大阪府女子師範学校附属国民学校へと改称した。 また1943年の師範教育令の改正により、師範学校は都道府県から国に移管されることになった。これに伴い大阪府女子師範学校は大阪府立から官立に移管された上で、大阪府天王寺師範学校(かつての大阪府師範学校男子部)と再統合する形で大阪第一師範学校へと改編された。 これに伴い大阪府女子師範学校は大阪第一師範学校女子部となり、附属小学校も大阪第一師範学校女子部附属国民学校へと改称された。 太平洋戦争の戦局悪化により、1944年には学童集団疎開を行うことになった。初等科3-6年の児童が集団疎開の対象となり、南河内郡川上村(現在の河内長野市)・観心寺へ疎開した。観心寺に疎開者対象の分教場を設置し、分教場は楠郷国民学校と称した。 1945年には学校での授業は停止された。1945年度入学の1年生については入学手続きをとった上で縁故疎開させた。また1945年度2年生の希望者は集団疎開へ参加した。 高等科児童は学校に残留し、学校農園での野菜作りに動員されていた。高等科児童は1945年5月以降、中河内郡加美村(現在の平野区加美地区)の工場に勤労動員され、軍服のボタンを製造する作業に従事した。 太平洋戦争の終戦に伴い、終戦の翌日・1945年8月16日に高等科児童の勤労動員は解除されている。また初等科児童の集団疎開は1945年10月に引き上げとなり、1945年11月より学校が再開している。
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国民学校
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課程 初等科旧尋常小学校 修業年限を6年とする。 教科は国民科(修身・国語・国史・地理)・理数科(算数・理科)・体鍛科(体操・武道)・芸能科(音楽・習字・図画・工作・女子に関しては裁縫)とする。 高等科旧高等小学校 修業年限を2年とする。 教科は国民科(修身・国語・国史・地理)・理数科(算数・理科)・体鍛科(体操・武道)・芸能科(音楽・習字・図画・工作・女子に関しては裁縫と家事)・実業科(農業・工業・商業・水産の中から1つ)とする。またそれ以外に外国語などの必要な科目を設けることができる。 特修科卒業者対象に修業年限1年の特修科を設置することができる。 教科書 国民学校の教科書は、文部省が著作権を持つものを使用しなければならない(国定教科書)。 就学 国民学校8年間の義務教育が規定された。保護者は満6歳の児童が14歳になる学年までの8年間、児童を国民学校に就学させる義務を負うとされ(第8条)、上記の学齢児童を(労働力として)使用する者は児童の就学を妨げてはいけないとされた(12条)。 上記の学齢児童のうち、身体的または精神的に障害があり就学困難な児童の保護者には、市町村長が地方長官の認可を受けて免除することができる。 伝染病にかかった児童、もしくはその恐れがある児童、性行不良で他の児童の教育の妨げとなると認められる場合、学校長はその児童の出席を停止することができる。 職員 教頭・養護訓導および准訓導を置くことができるようにする。 学校長と教頭を奏任官の待遇とする(待遇を改善)。 国民学校の設置 市町村は区域内の学齢児童を就学させるために必要な国民学校を単独で、もしくは他市町村と学校組合を設立したり、他市町村に委託したりして設置しなければならない(設置義務) 設備 校舎・校地・校具・体操場は国民学校の目的以外で使用することができないが、非常事態の場合または教育・兵事・産業・衛生・慈善等の目的のために特別な必要がある場合はこの限りではない。(第31条) 経費負担および授業料 国民学校の経費は原則市町村、市町村学校組合、または町村学校組合の負担とする。財政的に厳しい市町村・学校組合には北海道地方費か府県から補助を行わなければならない。訓導、養護訓導、准訓導の検定や国民学校教員免許状・養護訓導免許状に関する経費は北海道地方費か府県の負担とする。 原則、授業料は徴収しないものとされた(特修科についてはこの限りではない)。
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国民学校
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/30 17:42 UTC 版)
1941年の国民学校令施行により、従来の栄第一尋常高等小学校は栄国民学校に、栄第二尋常小学校は東栄国民学校にそれぞれ改称している。 大阪市では国民学校への改編の際、従来「地域名+創立順の番号」で命名されていた学校についてはこれを廃し、地名などを取り入れた学校名へと一斉に変更する方針をあわせて出している。これに伴い栄・東栄の校名となった。 また有隣勤労学校も1941年に国民学校に改編され、有隣国民学校と称した。有隣国民学校は1944年に南栄(なんえい)国民学校へと改称した。1945年6月には高等科単独へ改編されている。 太平洋戦争の戦局悪化により、1944年以降大阪市など大都市の国民学校児童について学童疎開が実施されることになった。疎開方法は縁故での疎開を原則としたもの、縁故疎開できない児童については学校単位で集団疎開を実施することになった。疎開先の府県は各行政区ごとに割り当てられ、浪速区の国民学校では滋賀県への疎開が決定した。栄国民学校の児童は野洲郡守山町(現在の守山市)へ、また東栄国民学校の児童は滋賀郡坂本村(現在の大津市坂本地区)および雄琴村(現在の大津市雄琴地区)へと疎開している。一方で南栄国民学校については、貧困層の児童が多く疎開費用が支払えない家庭も多くあったこともあり、大阪市内で唯一集団疎開の実施が見送られた。 浪速区は1945年の大阪大空襲で大きな被害を受けた。同年3月13日から翌3月14日の第一次大阪大空襲では、東栄・南栄両校の校舎が全焼した。また地域も大きな被害を受け、終戦後の1946年には東栄・南栄の両校を休校(のち正式に廃校)として栄国民学校へ統合している。
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