政権
政権
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李氏朝鮮の建国以来、政治の中心であり絶対的な権力を持ったのは国王であり、王は王位こそ継げる完全な世襲であったが、背後で実際に王を動かしているのが朝廷であり外戚と呼ばれる王妃を輩出する有力な両班であった、この構図は李氏朝鮮が終わるまで脈々と受け継がれた。さらにその外戚には党争が深くかかわっていた。 李氏朝鮮の歴史は党争の歴史でもあり、党争は朝鮮王朝期の最大の特色といわれるが、その原因については諸説があって一定した解釈はない。政権交代は対立する派閥の虚偽の謀反を王に通報で粛清という形が多く、多くの獄事が起こった。主な理由は、王権が微弱で十分に官人たちを抑圧できなかったこと、党争においては相手の政策的能力の指摘よりも道徳的欠陥や問題点を叱責することに集中するなど当時国教的位置を占めていた儒教、特に朱子学のもつさまざまな性格が政争にからんで利用され、事態を一層複雑にしていることであろう。党争の前駆をなすものとして通常指摘されているのは燕山君4年(1498年)に起った戊午の士禍 (世祖の即位をめぐる史論問題から発展した官人・儒林の対立抗争) や甲子の士禍 (1504年) 、乙巳の士禍 (1546年) などという一連の士禍があげられる。いわゆる士禍時代は儒林内部の争いの性格が強いが、宣祖1年 (1568年) 宣祖が即位してから党争は政治色を深め、党派の対立も露骨になった。すなわち同8年沈義謙を中心とする西人派と金孝元を中心とする東人派が対立し、東人はさらに分れて南人、北人となり、これを西人と合せて三色 (色は種類という意味) と呼ぶにいたった。この党争は光海君14年(1622年)までは東人が、仁祖1 (1623年) 年から顕宗15年 (1674年)までは西人が、というように相互に他を排して政権を争った。東西に分れてからほぼ1世紀、粛宗 (在位1675~1720) 代には老論、小論、南人、北人の四色となり、粛宗6年(1680年)までは南人が主流を占め、同 20年以後は西人がこれに代り、さらに西人は老論、少論に分れて対立するという有様で、一時英祖1年(1725年)に改革を試みたが功なく、朝鮮王朝末期まで持越された。 木村誠は「つねに中国の外圧を受けながら民族的成長をとげた朝鮮諸国」を指摘しており、義江彰夫は、日本の公武二重王権と朝鮮を比較して、双方ほぼ同時期に武人が政権の中枢に登場しながら、朝鮮では武人が独自政権を構築することなく、中央政権内部において実権を掌握するにとどまったことを「不断の外圧の存在の有無がこの分岐の決定的な要因であった」と指摘している。
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「全ウクライナ連合「祖国」」の記事における「政権」の解説
党首のユーリヤ・ティモシェンコが第10代(2005年1月24日~2005年9月8日)、第13代(2007年12月18~2010年3月4日)の首相を務めた。また、2014年に起きた政変後にアルセニー・ヤツェニュクが第15代(2014年2月27日~)首相を務め、4年ぶりに首相の座を奪還している。同時にオレクサンドル・トゥルチノフが大統領代行に就任している。
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「フランツ・フラニツキー」の記事における「政権」の解説
第一次内閣は、連立政権を組んでいたオーストリア自由党の党首に右翼色の濃いイェルク・ハイダーがリベラル派を排除するかたちで就任したことを受け、1986年9月に連立政権を解消、同年の総選挙では10議席を失いつつもオーストリア国民党との連立政権を樹立し、1987年1月に二次内閣を発足させた。
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「社会民主党 (ポルトガル)」の記事における「政権」の解説
カーネーション革命に乗って、PSDは1974年から1979年にかけて多くの連立政権に参加した。この間にポルトガルの政治は次第に安定していった。1979年、PSDは民主社会中道(現在の民主社会中道・人民党)といくつかの小右派政党とともに民主主義同盟(AD)という選挙同盟を結成した。ADは1979年の選挙に勝利して、PSD党首フランシスコ・サー・カルネイロが首相に就任した。ADは1980年の選挙で過半数の議席を得たが、12月4日、航空機事故によってカルネイロが死ぬと、政治は混乱した。フランシスコ・ピント・バルセマンが首相の地位、PSDとADの指導権を受け継いだが、カルネイロほどのカリスマ性はなく、民衆の支持を得ることはできなかった。 1983年にADは解散した。そしてその年の選挙でPSDはPSに敗北する。過半数は得られなかったPSはPSDと大連立を発足させたが、アニーバル・カヴァコ・シルヴァをはじめとするPSD内の右派政治家はPS主導の政権への参加に反対した。そして1985年6月2日、シルヴァが社会民主党の党首に選ばれると連立は解消された。1985年の総選挙においてシルヴァ率いる社民党は過半数こそ得られなかったものの勝利を収め、シルヴァは首相に就任した。経済の自由化と減税政策で経済成長に成功し、1987年の選挙でPSDは圧勝する。PSDへの投票は50.2%、250議席中148議席を得た。単一政党がこれほどの絶対的多数派となったのは初めてであった。1991年の選挙も同じように勝利を収めたが、高い失業率の改善がなされないことで次第に支持を失い、1995年と1999年の選挙では敗北を喫する。 続く2002年の総選挙では勝利を収めたものの過半数は得られず、PPと連立を組み、PSD党首ジョゼ・マヌエル・ドゥラン・バローゾが首相となった。バローゾは任期中に辞職し、欧州委員会の議長に就任、ペドロ・サンタナ・ロペスが党首・首相職を受け継いだが、2005年2月20日の選挙では1983年以来の大敗北を喫する。不支持率は12%を越え、議席は75議席のみを維持、30議席を失った。 2006年の大統領選挙では勝利を収め、アニーバル・カヴァコ・シルヴァが新大統領となった。しかし2009年の議会選挙では、再びPSが第一党となり政権を奪回することはできなかった。税収の伸び悩みと財政赤字削減が進まないことに起因した財政危機が表面化したことでPS政権は厳しい立場に立たされ、財政再建のための財政緊縮策が議会で否決されたことをうけジョゼ・ソクラテス首相が2011年3月23日に辞任を表明したことで任期を前倒しする形で総選挙が行われることになった。6月5日に行われた総選挙では絶対多数こそ取れなかったものの、PSを上回って第1党となり勝利した。選挙後の同月15日、カヴァコ・シルヴァ大統領はPSD党首のペドロ・パソス・コエリョ(Pedro Passos Coelho)を首相に指名し、コエリョ新首相は第3党となった右派政党「民衆党」(CDS-PP)と連立政権を組むことを明らかにした。 2015年10月4日に行われた総選挙(英語版)では、民衆党とともに国会の最大勢力を維持したものの、過半数は割り込んだ。この1か月後には、パソス・コエーリョ内閣の経済政策計画が国会で否決された。これは事実上の内閣不信任決議にあたり、憲法の規定に従って同内閣は総辞職した。代わってPSのコスタ政権が誕生し、PSDは下野した。 2019年10月6日に行われた総選挙(英語版)では、改選議席を10失って敗北し、政権を奪回できなかった。 新年度予算案が議会で否決された事により前倒しで2022年1月30日に行われた総選挙(英語版)では引き続き第2党となり、政権を奪回できなかった。在外投票者の票の扱いを巡って最終結果の確定は遅れたが、3月26日に発表された議席数は72議席であった。
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「政権」の例文・使い方・用例・文例
- 共和党政権
- 女性の参政権に対する抵抗をなくすまでには長い歳月がかかった
- 民主政権
- 政権を握っている
- その政党は長い間政権を握っている
- その戦争中,軍部が政権を握った
- チャーチル政権
- サリナス政権はエヒード制を終わらせた。
- 敵国に協力的な政権
- 3党は非共産党員の連合政権を作ることで合意した。
- 急進的な婦人参政権拡張論者のグループ
- 新政権は米国の国際関係の地図を書きかえるだろう。
- 政権交代を機に投資家のストックマインドは高まった。
- ヨーロッパ議会は、ヨーロッパ連合とアメリカとの間で交渉が行われてきた秘密協定案を反対665票対賛成11票という投票結果により否決し、ブッシュ政権に「ノー」と答えた。
- その二つの政党が連立政権を樹立する可能性は、ほぼゼロだ。
- この法律は女性に参政権を与えた。
- だが、レーガン政権と最高裁判所に潰される前でさえ、OSHAは茶番であった。
- 婦人参政権を認めるように憲法が修正された。
- 彼の政権はきっと崩壊する。
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