【軍法会議】(ぐんぽうかいぎ)
軍人・軍属が関与した犯罪を扱う裁判。およびその裁判を執り行うために配置された人員。
大別して以下の2種類に分けられる。
常設軍法会議
基本的に憲兵組織の隷下に置かれ、憲兵が扱った事件を担当する裁判所。
国内法に則って通常の裁判を執行するもので、特殊な法律が適用されるわけではない。
審理・裁決は通常通り公開され、被告人にも弁護士を呼ぶ権利がある。
ただし、以下の点で通常の裁判所と異なる。
- 裁判官は全て法曹であると同時に軍人または軍属で、被告と同等以上の階級を要求される。
- 裁判長の職務は師団長・艦隊司令官などの部隊指揮官が兼任する。
- 「真実の究明」よりも「軍隊の指揮命令系統の維持」が優先される。
- 敗走した指揮官の責任、軍事行動の法的正当性など、軍事行動に特有の案件を扱うケースが多々ある。
- 戦術・戦略的な分析が必要とされる案件の場合、事件性よりも戦訓検討が重視される。
軍法会議の問題点
前述のような特性を持つ関係上、審理・裁決の公平性には多大な疑問の余地がある。
軍隊そのものの維持管理が法律上の正当性より優先されるため、判決が不公平になるのは構造上避けられない。
一例として、以下のような構造的歪みが指摘されている。
- 被害者が「本国の国籍」を持たない場合には非常に甘い処分が下される傾向にある。
- 被告人の階級の高低と処分の厳しさが反比例の関係になる。
階級が高いほど処分が甘くなる一方、階級の低い下士官・兵には見せしめとして極端に厳格な判決が下る事がある。 - 軍事的・外交的・政治的な理由から意図的に不公正な判決が下る事がある。
- 裁判参加者が「身内」で固まる性質上、事前の談合によって裁判自体が茶番になる可能性が高い。
民事事件の多くが調停や示談で解決するのと同様、誰も「正義」や「真実」を重視しないのであれば当然のように起こりうる事ではある。
ドイツなどいくつかの国家ではこれらの不公正性が重大な問題とされ、軍法会議の制度が廃止された。
そうした国家では、一般の裁判所が「軍刑法」に基づいて軍事的案件を処理するものと定めるのが一般的である。
ドイツでは、これに加えて兵士を不当な圧力から保護する制度が整備されている。
イジメやパワー・ハラスメントなどに対する法的な告発を行う権利が、階級を問わず全ての兵士に与えられている。
特設軍法会議
戦時に招集され、利敵行為、敵前逃亡・命令不服従など軍事的案件のみを扱う裁判。
基本的には尉官以上の軍人(将校・士官)を3人集めればいつでもどこでも開催する事ができ、通常の法よりも戦時法が優先される。
つまり、戦時中の軍隊が敵を射殺する事が許されるのと同じ理由から、容疑者をほぼ即時に射殺する事も許される。
こうした極度に簡易で恣意的な裁判制度が成り立つのは、まさしくそのような裁判制度が必要とされるためである。
有事において決断の遅れは将兵の死に繋がるため、敵を殺害する決断に際して煩雑な手続きを要求するべきではない。
そして利敵行為・命令不服従を行う者は敵であるから、これを射殺する決断は迅速に行われる必要がある。
そうした決断が間違いである可能性は非常に高いが、どんな頓珍漢な命令であろうと緊急時の沈黙よりは望ましい。
とはいえ、こうした制度が「虐殺行為」を正当化するための言い訳に利用される事は否めない。
ただ、「特設軍法会議で下した決断が妥当であったかどうか」もそれ自体で軍法会議の対象となり得る案件である。
戦場での残虐行為はしばしば許容されるが、決して「常に」「無制限に」許容されるわけでもない。
自衛隊の場合
現在の日本国憲法は「特別裁判所」の設置を禁じており、このため自衛隊は軍法会議を設置していない。
自衛官やその他の防衛省職員(背広組)が関与した軍事的案件に対しても一般の刑法が適用され、刑事訴訟法に則って処理される。
この事から、「有事の敵前逃亡・命令不服従を正当に裁く事ができない」として憲法の改正を求める声も一部にある。
一方で「終審さえ最高裁判所の管理下であれば良いので、自衛隊内に裁判所を設置する事は合憲である」と解釈する事も可能ではある。
ただし、日本国内に事実上の軍法会議を設置する事は合憲か否か、という点について参考にできる判例はない。
軍法会議
軍法会議
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レディはその軍歴の中で2度も軍法会議で裁かれている。1度目は3ヶ月間の禁固と降格の処分を受け、1996年の2度目の軍法会議では不行跡除隊(bad conduct discharge)処分の判決を受けて海兵隊を追われている。軍法会議では窃盗、暴行、命令不履行、無許可離隊について有罪判決が下された。彼はアリゾナ州メサで行われる予定だった2006年度復員軍人の日記念式典の司会に指名されていたが、この処分により取り消されている。
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軍法会議
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「フィッツ・ジョン・ポーター」の記事における「軍法会議」の解説
1862年11月25日、ポーターは逮捕され第二次ブルランの戦いの時の行動で軍法会議に掛けられた。この時までに、マクレランはエイブラハム・リンカーン大統領に解任されており、その部下に対する政治的な配慮ができなかった。実際に面目を潰されたマクレランとの交友と、ポープを明け透けに批判したことは、軍法会議における有罪宣告の重要な理由になった。軍法会議の士官たちはマクレランを嫌悪していたアメリカ合衆国陸軍長官エドウィン・スタントンに指名されており、その大半はその評決を下した後に昇進した。 ポーターは1863年1月10日に命令不服従と違法行為の廉で有罪とされ、1863年1月21日に陸軍から免職された。
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軍法会議
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平時は軍法会議の前に査問委員会を開く場合もあり、査問委員会で軍法違反に該当しないと判断された場合は軍法会議は開かれない、刑法でいう不起訴処分のような形になる場合もある。 違反が軽微である場合は司令官決裁(Admiral's mast)という手続きによって減給や奉仕命令などを受ける場合もある。これは違法行為に対する刑罰ではなく内部規則による処罰と言える。 戦争映画などで軽微な違反をした者が便所掃除一週間などの罰を受けるのは軍法会議による刑罰ではなく司令官決裁である。 えひめ丸事故では原子力潜水艦グリーンビルのスコット・ワドル艦長が司令官決裁で減給処分になっただけで軍法会議は開かれていない。 現在のアメリカ軍では全軍共通の統一軍事裁判法( Uniform Code of Military Justice)によって裁かれる。
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軍法会議
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沖縄の世論や抗議の高まりを受け、米軍当局は「厳重に処罰する」と発表。捜査機関による裏付け捜査の結果、ハートは「容疑濃厚」とされ、アメリカ陸軍によって9月9日に起訴された。起訴の事実は、同日20時にライカム司令部によって公式発表されたが、その罪名は、殺人・強姦・少女誘拐の3つである。 しかし、先述の別の強姦事件で起訴されたパーカーが犯行を認めた一方、ハートは犯行を否認した。結果、パーカーは同年11月7日に終身刑を宣告された一方、ハートの裁判はパーカーより遅れた。検事はベンジャミン・M・ウォール (Benjamin M. Wall) 中尉、検事補はチャールズ・MM・シェパード (Charles M. A Shepherd) 中尉、弁護人はジュリアン・B・キャリック (Julian B. Carrick) 大尉、弁護士補はミルトン・E・ブリナー (Milton E. Brener) 中尉がそれぞれ担当した。陪審員長は、ジョン・M・ライディック (John M. Lydick) 大佐が担当した。 同年11月21日から、キャンプ瑞慶覧で一般軍事法廷が開かれた。裁判は集中審理で進められ、回数は11回におよんだ。第1回軍事公判は、ライカム第1号法廷で21日9時から開かれたが、午前中は陪審員13人への適格審査を行っただけで休廷となり、午後は非公開審理となった。公判は、石川婦人会の代表が傍聴を許され、新聞社や放送局の記者も、各社1人ずつ取材に入ることを認められた。 ハートは犯行を自白しておらず、彼と被害者が一緒にいたとする目撃証言もなければ、事件当夜の彼の所在も説明されていなかった。また、証拠とされた日本の教授が、ハートの乗っていた車(緑と白のフォード)のドアハンドルとシートカバーに付着していた毛髪を鑑定したところ、被害者と一致したり、ハートの殺害と結びついたりしたものはなく、教授は「髪の毛は被害者のものである可能性がある」ということまでしか証言できなかった。ハートは裁判を通して無実を主張したが、証言台に立つことは拒否した。一方、検察は軍法会議で、9歳の少年による「顔ははっきりと(ハートとは)断言できないが、(事件現場の)採石場の近くで、ハートに似たGIの男を目撃した」という証言を最も重要な証拠とした。また、日本人のウェイトレスは、ハートのズボンに付着していた血痕について証言した。ハートは死刑囚監房でも、毛髪の遺留品について執着していた。 1955年12月5日14時から、検事が有罪論告を、弁護人が無罪を主張する最終弁論をそれぞれ行った。その後、陪審員による合議に移り、10人で構成された軍法会議は、59分間におよぶ審議を行った。そして、陪審員長のライディック大佐は、ハートに対し、陪審員3分の2以上の同意により、すべての罪状で有罪である、とする旨の評決文を朗読した。有罪の最大の証拠は、遺体に付着していた体毛と、ハートの車から検出された体毛がそれぞれ一致したことだった。
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軍法会議
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「ジョージ・ジャーメイン (初代サックヴィル子爵)」の記事における「軍法会議」の解説
サックヴィルはミンデンの戦いの直後に休暇をとり、戦闘から3週間後にはロンドンに戻った。そして、9月10日に戦時大臣の第2代バリントン子爵ウィリアム・バリントンにより兵站副総監、連隊長、ドイツにおけるイギリス軍総指揮官から解任され、グランビー侯爵が後任の兵站副総監と総指揮官となった。ホレス・ウォルポールによると、サックヴィルは直ちに軍法会議を求めたが、事件に関連する士官が全員ドイツにいるため不可能であると北部担当国務大臣の第4代ホルダーネス伯爵ロバート・ダーシーに拒否され、兵站総監(英語版)の初代リゴニア子爵ジョン・リゴニア(英語版)に至っては「軍法会議が欲しければドイツにでも向かえ」と皮肉をもって返答したという。最終的には軍法会議が1760年2月3日より行われたが、同年4月5日の判決では戦時規則によりサックヴィルにフェルディナントの命令に従う義務があり、したがってサックヴィルは命令不服従で有罪であるとされた。さらに「陛下に対し、何らかの軍事的な職務をもって奉仕する能力がない」(unfit to serve his majesty in any military capacity whatever)と判定され、陸軍における昇進の道を完全に閉ざされた上、国王ジョージ2世がサックヴィルを枢密顧問官から除名するよう命じた。 この不遇期について、後年にホレス・ウォルポールが回想したところによると、「イングランドにおいて、人目のつくところでジョージ卿(サックヴィル)の隣に座ったり、彼に話したりする勇気があったのは私、サー・ジョン・アーウィン(英語版)、そしてブランド氏の3人だけだった」という。スコットランド貴族の第3代アーガイル公爵アーチボルド・キャンベル(英語版)は「彼はスコットランド人の友人です。彼の悪口は言わないようにしましょう」と述べ、王太子ジョージもサックヴィルの処遇を「異例であり、我が国の憲法に違反する」としたが、ウォルポールとサックヴィル自身を除き、だれもがサックヴィルの政治生涯が終わりを告げたと考えた。
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軍法会議
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「ホンダポイント遭難事件」の記事における「軍法会議」の解説
海軍の軍法会議は最終的に、この事件の原因は、ワトソン司令、および司令駆逐艦デルファイの航海長の過失にあると結論づけた。一方で、たとえ艦隊運動の一部を構成している場合であっても、艦についての最終責任はその艦長にあるという海軍の伝統にのっとり、各艦の艦長にも責任ありとした。
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軍法会議
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「1702年8月の海戦」の記事における「軍法会議」の解説
交戦の後、ベンボウはデュカスから手紙を受け取った。 提督閣下先の月曜日には、貴殿の船室で夕食をいただけるのではないかと望みを抱いておりました。しかし神は他のやり方を思し召しだったのでしょう。すばらしい戦いに感謝します。かの臆病な、貴殿の職務を怠った艦長たちは吊るされるべきでしょう、神に誓って、彼らにはそれがふさわしいと存じます。デュカス ジャマイカでベンボウは軍法会議を開いた。艦長たちは書類で、参戦しない旨を示し合わせていたのがわかり、デファイアンスのカービーとグリニッジのウェイドを怯懦と命令不服従、職務放棄で銃殺刑とした。ウィンザーのコンスタブルは禁錮刑となった。ペンデマスのハドソンは既に死亡しており、ブレダのフォグとファルマスのヴィンセントは、ベンボウが温情を示して、停職処分だけを言い渡された。唯一ベンボウの味方であったウォルトンは、軍法会議から除外された。 ベンボウは、この負傷がもとで1702年の11月4日に死亡した。カービーとウェイドは1703年4月16日、軍艦ブリストル(en:HMS Bristol (1653))の艦上で銃殺刑に処せられた。 カービーの怯懦は疑わしいともいわれる。恐らくは、とっつきにくい性格のカービーと、平民出身で、一水兵から提督に上りつめたベンボウとは反りが合わなかったのではないかとも考えられる。 ベンボウの、不屈のフランス戦隊追撃は、一般大衆はこの戦いに、大いに想像力を刺激された。多くの「ベンボウ提督」「勇敢なベンボウ」と名づけられた曲が作られ、100年以上にわたって、水兵たちの間で愛唱され続けた。
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「ベネディクト・アーノルド」の記事における「軍法会議」の解説
1779年12月、アーノルドに対する告発を審問する軍法会議が始められた。判事席に座った多くの者がアーノルドの行動や戦争前半の論争について悪意を抱いていたという事実にも拘らず、1780年1月26日にアーノルドは小さな2件の告発を除いて無罪とされた。アーノルドはその後の数ヶ月間この事実を宣伝することに努めた。しかし、ワシントンが5月19日に生まれたアーノルドの息子、エドワード・シッペン・アーノルドのことでお祝いを述べた時から丁度1週間後、ワシントンはアーノルドの行動に関する非難書を出版した。 総司令官はアーノルド少将としてこの国のために傑出した働きをした士官に称賛の言葉を送る機会に接して喜ばしい限りである。しかし、現時点で義務感と虚心坦懐なところでは、(告発された行動での)彼の行いは軽率で不適切だったと考えると宣言せざるを得ない。 — ジョージ・ワシントンが出版したコメント, April 6, 1780 ワシントンの非難書が出てから間もなく、アーノルドの出費に関する大陸会議の査問で、アーノルドがケベック侵攻の間に発生した出費を十分に証明出来ず、彼がそれらを文書で提出できなかったので、大陸会議に対して1,000ポンドほどの借金があると結論付けた。それら文書の多くはケベックからの退却時に失われていた。これに怒ったアーノルドは4月下旬にフィラデルフィア軍事指揮官職を辞任した。
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軍法会議
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/07 16:32 UTC 版)
「リチャード・レストック」の記事における「軍法会議」の解説
レストックは本国に戻るとマシューズなど後衛以外の艦長に責任をなすりつけようとし、パンフレット合戦がおきたが、レストックの情勢は不利だった。しかし、彼には政界の友人がおり、庶民院による公的調査(英語版)にこぎつけることに成功した。調査は1745年3月から4月にかけて行われ、世論は二分した。ヘンリー・フォックスとジョージ・グレンヴィルは反マシューズの演説をし、レストックも冷静沈着な態度で庶民院議員に対応した。一方、マシューズの弁護は無秩序で興奮した態度をとっており、レストックが主張した海戦におけるマシューズの態度とも一致した。また海軍当局からもマシューズの(議会外での)人気を警戒した。海軍委員会(英語版)はレストックを軍法会議にかけたが、軍法会議ではレストックに同情的な士官が多数だったため彼は完全無罪となった。
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軍法会議
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9月24日に軍法会議予審があり、事件の概要が明らかにされた。軍法会議の公判も極めて性急に行われた。それらによると、甘粕大尉らは、大震災の混乱に乗じてアナキストらが不穏な動きを起こし政府を転覆しようとすると憂慮し、アナキストの主要人物であった大杉と伊藤を殺害することを決めたという。 予審で明らかになったところでは、9月16日に大杉ら3人が鶴見から帰る途中、自宅付近で甘粕大尉と東京憲兵隊本部付の森慶次郎曹長(後に明らかになるところによれば、さらに鴨志田と本多の両名を加えた4名)が張り込みをしており、子供だけは帰宅させてくれという大杉の要望を拒否して、強引に3人を拉致し、麹町憲兵分隊に連行した。東京憲兵隊本部で夕食を出したが、大杉と伊藤は食べず、橘だけが食べた。大杉はナイフを借りて伊藤が持っていた梨を2人で食べた。午後8時、3人は別々の部屋に移された。 甘粕は予審調書で大杉と伊藤とを自分が絞め殺したと認め、その様子を以下のように語った。大杉は応接室で森曹長と雑談のような取り調べを受けていたが、入室した甘粕は背後から柔道の締め手で大杉の首を右手で絞め、森は苦しみもがく大杉の足を押さえた。15分ほどでぐったりして亡くなった。その後、念のためとしてさらに麻縄で絞めた。午後9時15分、次に甘粕は階下の隊長室に入れられた伊藤のもとを訪れ、しばらく会話して油断させると、同様に絞殺した。後に発見された検死資料で明らかになった激しく執拗な暴行については、語られておらず、公判でも明らかにされることは無かった。 甘粕は最初、「個人の考えで3人全てを殺害した」として、大杉と伊藤との間の子供と誤解された橘宗一の死に関しても認めたが、軍法会議では、橘の死の経緯を調書で省略したことに官選弁護人塚崎直義が疑念を持って追及した。特に甘粕の母親が「正彦は特に子供好きでした。罪とがもない子供を手にかけるなど、あり得ない」と涙ながらに主張したことにより、自白を一部撤回。自分は「子供は殺していない。菰包(こもづつ)みになったのを見て、初めてそれを知った」と証言を変えて、大杉と伊藤を殺したのは認めたが、子供殺しは自分ではないとした。橘は連行するために自動車に乗せた最初から甘粕に懐いていた。甘粕は便所に行ってくるといってその場を離れ、少年の死には立ち会っていないと主張した。 この供述の撤回により予審の内容が覆されたことで、塚崎弁護士は捜査のやり直しと公判の中止を申請した。 このため、陸軍省から橘宗一殺しの再調査が命令されると、たちまち10月5日、鴨志田安五郎と本多重雄という2名の憲兵上等兵が橘殺しの共犯であるとして自首し、6日には平井利一憲兵伍長も見張り役として伊藤の死に関与していたことを告白して自首。被告人は5名となった。 鴨志田と本多は子供殺しを認めたが、甘粕と森が「上官の命令だからやりそこなうな」と話していたと証言して波紋を呼んだ。しかし憲兵隊の小泉少将と小山大佐がこの証言を否定した後、以後は軍上層部が関与した疑惑は追及すらされなかった。結局は森曹長が鴨志田に「おまえがやれ」と命令したとされ、鴨志田と本多が手を下すことになった。2人も子供殺しに躊躇したが、命令に逆らえずに、鴨志田が首を絞め、本多が押さえて殺した。森は「甘粕大尉が子供も殺せと命令した」と主張し、自分に命令したのは甘粕であるとした。甘粕は投げ槍な態度で「森が言うのですからその通りでしょう。私は軍人であります。命令しました」と自分が責任を被ってやるのだと言わんばかりの答弁をして、再度、供述を翻した。 甘粕と森は遺体の処分について話し合ったが、構外に運び出すと露見するとして森が難色を示し、本部裏の古井戸に投げ込むこととした。甘粕は3名の着物をハサミで切って裸として菰に包み、古井戸に落とした。衣類は翌17日に別の場所で焼却した。何も知らない人足に指示して、古井戸は馬糞や煉瓦を投げ込んで埋められた。 動機については、関東大震災の混乱に乗じて無政府主義者が朝鮮人を扇動して騒動を起こすという噂を信じていたとされた。甘粕は「大杉の次は堺利彦と福田狂二を殺す予定だった」と述べた。さらに、最も危険視された無政府主義者の大杉栄が検挙されていないから「やっつけろ」という意見が淀橋署にあったが、警察ではできないから憲兵の方でやってくれないかという話だったとも、甘粕と森は主張したが、淀橋署員らは「記憶にない」と殺害依頼を否定し、真相解明に至らなかった。 また新聞では橘宗一の殺害理由を伊藤野枝の殺害を目撃したがためであると報じられたが、公判ではこれは取り上げられず、前述のように甘粕が命令した事実のみが認定され、子供の死に関して理由や経緯などについても解明されなかった。 なお、判士の法務官小川關次郎は甘粕の追及に厳しかったとされるが、第1回公判の後、弁護側が被害者と同郷かつ遠縁との理由で忌避申請し、交代させられている。しかし、小川法務官の娘である長森光代は大杉家の所在地が小川の出生地と近いことは事実だが小川自身はもとより誰からも大杉と遠縁だったと聞いたことはない、地元の識者も否定しているとする。この交代の経緯については、当時から不審感をもって受けとめられていたようで、その頃社会主義者の弁護で知られた弁護士の山崎今朝弥は「(小川法務官は)大杉君の妹の亭主の兄の妻の妹の夫の祖父の従兄弟の養家先の孫である」と揶揄している。その後、交代した告森法務官も遠縁にあることが判明したともいわれるが、代わることはなかった。
※この「軍法会議」の解説は、「甘粕事件」の解説の一部です。
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軍法会議
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/30 14:58 UTC 版)
「リンディ・イングランド」の記事における「軍法会議」の解説
イングランドが正式に起訴される直前、彼女は妊娠し、2004年5月4日にノースカロライナ州フェーエットビル、フォートブラッグにある軍事施設に移送された。 2003年のアブグレイブ刑務所における、捕虜虐待することへの共謀からなる2つの訴因、職務怠慢からなる1つの訴因、暴行及び虐待からなる4つの訴因、わいせつ行為からなる2つの訴因でイングランドは起訴された。 彼女は元々、最大38年の禁固をもたらすこととなる19の起訴訴因がかけられていたが、軍事裁判所は2005年2月に容疑を減少させた。 この減少について、どのような説明もされなかった。 2005年5月におけるイングランドの裁判時で、イングランドの司法取引における有罪答弁を不承認することを根拠として、軍事裁判官ジェイムズ・ペール大佐は無効審理を宣言した。捕虜の首に紐を巻いたときも、また、イングランドに写真の中で一緒にポーズするように頼んだときも、自分自身は適法な正当な武力行使を記録しているものと考えていたと、チャールズ・グレイナーが証言した。その後に、司法取引におけるグレイナーと共謀し捕虜虐待したことによる共謀の告発でのイングランドの有罪答弁を、ペールは承服することができなかったためであった。 2005年9月26日、再審において、共謀の1つの訴因、捕虜虐待の4つの訴因、およびわいせつ行為の1つの訴因の罪によりイングランドは有罪判決を受けた。もう一つの共謀の訴因は問われなかった。2005年9月27日、不名誉除隊に加え、禁固3年が宣告された。検察側は4から6年の禁固を求刑し、弁護側は禁固されるべきでないと嘆願した。 この虐待における主犯とされるグレイナーは、前年に10年の禁固が言い渡されている。4人の兵卒と2人の下級軍情報員がこの事件で司法取引を行っている。 彼らの判決は0年(拘禁なし、人事処分のみ)から8年6ヶ月までと多岐に及ぶ。 数個の行政処分を受けたものの、幹部職は裁判にかけられなかった。
※この「軍法会議」の解説は、「リンディ・イングランド」の解説の一部です。
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軍法会議
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/15 01:50 UTC 版)
戦闘の直後、海戦のときに後衛戦隊を指揮していた次席指揮官のリチャード・レストック中将が戦闘に参加しなかったことについて軍法会議が開かれた。レストックはマシューズの信号が「戦列を形成しつつ交戦せよ」であったことを指摘し、戦列にまだ加わっていなかった後衛戦隊に交戦の義務はないと主張した。そのうえさらに、マシューズがみずから戦列を崩して敵艦隊を攻撃したことを軍紀違反であると主張した。その結果、レストックは無罪となり、マシューズと数人の士官がイギリス海軍から追放されることとなった。このことは、規則の遵守と臨機応変な対応という問題について大きな影を投げかけることとなった。
※この「軍法会議」の解説は、「トゥーロンの海戦」の解説の一部です。
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「軍法会議」の例文・使い方・用例・文例
- 軍法会議で.
- 軍法会議に付す
- 彼は脱営の廉をもって軍法会議に付せられた
- 軍法会議へまわす
- 旗艦上に軍法会議を開く
- 戦地軍法会議
- 軍法会議を開く
- 犯人を軍法会議へまわす
- 軍法会議による裁判に従う
- 兵士を。活動中で起こった犯罪よりもよりそれほど重くない罪の容疑にかける軍法会議
- 法務官という,旧軍法会議における役職
- ジェンキンスさんは,軍法会議が開かれる前に司法取引を行うことを希望していると言われている。
- 11月3日,神奈川県の米軍基地キャンプ座(ざ)間(ま)で,チャールズ・ジェンキンスさん(64)が軍法会議にかけられた。
- 軍法会議で,ジェンキンスさんは1965年の陸軍から北朝鮮への逃亡の一部始終を話した。
- 曽我さんは軍法会議で夫を弁護し,自分も夫も北朝鮮が好きではなかったと話した。
軍法会議と同じ種類の言葉
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