軍法会議とは? わかりやすく解説

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ぐんぽう‐かいぎ〔グンパフクワイギ〕【軍法会議】

読み方:ぐんぽうかいぎ

軍人軍属などを裁判する特別刑事裁判所日本では大正10年1921)に設置昭和21年1946廃止軍事裁判所


【軍法会議】(ぐんぽうかいぎ)

軍人軍属関与した犯罪を扱う裁判。およびその裁判執り行うために配置され人員
大別して以下の2種類分けられる

常設軍法会議

基本的に憲兵組織隷下置かれ憲兵扱った事件担当する裁判所
国内法則って通常の裁判執行するもので、特殊な法律適用されるわけではない
審理裁決通常通り公開され被告人にも弁護士を呼ぶ権利がある。

ただし、以下の点で通常の裁判所異なる。

軍法会議の問題点

前述のような特性を持つ関係上、審理裁決公平性には多大な疑問余地がある。
軍隊そのもの維持管理法律上正当性より優先されるため、判決不公平になるのは構造避けられない
一例として、以下のような構造的歪み指摘されている。

ドイツなどいくつかの国家ではこれらの不公正性が重大な問題とされ、軍法会議の制度廃止された。
そうした国家では、一般裁判所が「軍刑法」に基づいて軍事的案件処理するものと定めるのが一般的である。

ドイツでは、これに加えて兵士不当な圧力から保護する制度整備されている。
イジメパワー・ハラスメントなどに対す法的な告発を行う権利が、階級問わず全ての兵士与えられている。

特設軍法会議

戦時招集され利敵行為敵前逃亡命令不服従など軍事的案件のみを扱う裁判
基本的に尉官上の軍人将校士官)を3人集めればいつでもどこでも開催する事ができ、通常の法よりも戦時法が優先される
つまり、戦時中軍隊が敵を射殺する事が許されるのと同じ理由から、容疑者をほぼ即時射殺する事も許される

こうした極度に簡易恣意的な裁判制度成り立つのは、まさしくそのような裁判制度が必要とされるためである。
有事において決断の遅れは将兵死に繋がるため、敵を殺害する決断に際して煩雑な手続き要求するべきではない。
そして利敵行為命令不服従を行う者は敵であるから、これを射殺する決断迅速に行われる必要がある
そうした決断間違いである可能性は非常に高いが、どんな頓珍漢命令であろう緊急時沈黙よりは望ましい。

とはいえこうした制度が「虐殺行為」を正当化するための言い訳利用される事は否めない
ただ、「特設軍法会議で下した決断が妥当であったかどうか」もそれ自体で軍法会議の対象なり得る案件である。
戦場での残虐行為はしばし許容されるが、決して「常に」「無制限に許容されるわけでもない

自衛隊の場合

現在の日本国憲法は「特別裁判所」の設置禁じており、このため自衛隊は軍法会議を設置していない。
自衛官その他の防衛省職員背広組)が関与した軍事的案件に対して一般刑法適用され刑事訴訟法則って処理される

この事から、「有事敵前逃亡命令不服従を正当に裁く事ができない」として憲法の改正求める声も一部にある。
一方で終審さえ最高裁判所管理であれば良いので、自衛隊内に裁判所設置する事は合憲である」と解釈する事も可能ではある。
ただし、日本国内事実上の軍法会議を設置する事は合憲か否か、という点について参考にできる判例はない。


軍法会議

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/12 15:07 UTC 版)

軍法会議(ぐんぽうかいぎ、court martial)とは、主として軍人に対し司法権を行使する軍隊内の機関。一般的には軍の刑事裁判所として知られる。軍事裁判所軍事法廷とも。




「軍法会議」の続きの解説一覧

軍法会議

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/06/09 05:19 UTC 版)

J・T・レディ」の記事における「軍法会議」の解説

レディはその軍歴の中で2度も軍法会議で裁かれている。1度目は3ヶ月間の禁固降格処分を受け、1996年2度目の軍法会議では不行跡除隊(bad conduct discharge)処分判決受けて海兵隊追われている。軍法会議では窃盗暴行命令不履行無許可離隊について有罪判決下された。彼はアリゾナ州メサ行われる予定だった2006年度復員軍人の日記念式典司会指名されていたが、この処分より取り消されている。

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軍法会議

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フィッツ・ジョン・ポーター」の記事における「軍法会議」の解説

1862年11月25日ポーター逮捕され第二次ブルランの戦い時の行動で軍法会議に掛けられた。この時までに、マクレランエイブラハム・リンカーン大統領解任されており、その部下対す政治的な配慮ができなかった。実際に面目潰されマクレランとの交友と、ポープ明け透け批判したことは、軍法会議における有罪宣告重要な理由になった。軍法会議の士官たちはマクレラン嫌悪していたアメリカ合衆国陸軍長官エドウィン・スタントン指名されており、その大半はその評決下した後に昇進したポーター1863年1月10日命令不服従と違法行為の廉で有罪とされ、1863年1月21日陸軍から免職された。

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軍法会議

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/12 22:03 UTC 版)

軍法」の記事における「軍法会議」の解説

平時は軍法会議の前に査問委員会を開く場合もあり、査問委員会軍法違反該当しない判断され場合は軍法会議は開かれない刑法でいう不起訴処分のような形になる場合もある。 違反軽微である場合司令官決裁Admiral's mast)という手続きによって減給奉仕命令などを受ける場合もある。これは違法行為対す刑罰ではなく内部規則による処罰と言える戦争映画などで軽微な違反をした者が便所掃除一週間などの罰を受けるのは軍法会議による刑罰ではなく司令官決裁である。 えひめ丸事故では原子力潜水艦グリーンビルのスコット・ワドル艦長司令官決裁減給処分になっただけで軍法会議は開かれていない現在のアメリカ軍では全軍共通の統一軍事裁判法( Uniform Code of Military Justice)によって裁かれる。

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軍法会議

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 04:49 UTC 版)

由美子ちゃん事件」の記事における「軍法会議」の解説

沖縄世論抗議高まりを受け、米軍当局は「厳重に処罰する」と発表捜査機関による裏付け捜査結果ハートは「容疑濃厚」とされ、アメリカ陸軍によって9月9日起訴された。起訴事実は、同日20時にライカム司令部によって公式発表されたが、その罪名は、殺人強姦少女誘拐3つである。 しかし、先述別の強姦事件起訴されパーカー犯行認めた一方ハート犯行否認した結果パーカー同年11月7日終身刑宣告され一方ハート裁判パーカーより遅れた検事ベンジャミン・M・ウォール (Benjamin M. Wall) 中尉検事補はチャールズMMシェパード (Charles M. A Shepherd) 中尉弁護人ジュリアン・B・キャリック (Julian B. Carrick) 大尉弁護士補はミルトン・E・ブリナー (Milton E. Brener) 中尉それぞれ担当した陪審員長は、ジョン・M・ライディック (John M. Lydick) 大佐担当した同年11月21日から、キャンプ瑞慶覧一般軍事法廷開かれた裁判集中審理進められ回数11回におよんだ第1回軍事公判は、ライカム第1号法廷21日9時から開かれたが、午前中陪審員13人への適格審査行っただけで休廷となり、午後非公開審理となった公判は、石川婦人会の代表が傍聴許され新聞社放送局記者も、各社1人ずつ取材に入ることを認められた。 ハート犯行自白しておらず、彼と被害者一緒にたとする目撃証言なければ事件当夜彼の所在説明されていなかった。また、証拠とされた日本教授が、ハート乗っていた車(緑と白のフォード)ドアハンドルとシートカバーに付着していた毛髪鑑定したところ、被害者一致したり、ハート殺害と結びついたりしたものはなく、教授は「髪の毛被害者のものである可能性がある」ということまでしか証言できなかった。ハート裁判通して無実主張したが、証言台に立つことは拒否した一方検察は軍法会議で、9歳少年による「顔ははっきりと(ハートとは)断言できないが、(事件現場の)採石場近くで、ハート似たGIの男を目撃した」という証言を最も重要な証拠とした。また、日本人ウェイトレスは、ハートズボン付着していた血痕について証言したハート死刑囚監房でも、毛髪遺留品について執着していた。 1955年12月5日14時から、検事有罪論告を、弁護人無罪主張する最終弁論それぞれ行ったその後陪審員による合議移り10人で構成された軍法会議は、59分間におよぶ審議行った。そして、陪審員長のライディック大佐は、ハート対し陪審員3分の2上の同意により、すべての罪状有罪である、とする旨の評決文を朗読した有罪最大証拠は、遺体付着していた体毛と、ハートの車から検出され体毛それぞれ一致したことだった。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/19 03:06 UTC 版)

ジョージ・ジャーメイン (初代サックヴィル子爵)」の記事における「軍法会議」の解説

サックヴィルはミンデンの戦い直後休暇をとり、戦闘から3週間後にはロンドン戻った。そして、9月10日戦時大臣第2代バリントン子爵ウィリアム・バリントンにより兵站副総監連隊長ドイツにおけるイギリス軍総指揮官から解任されグランビー侯爵後任兵站副総監総指揮となったホレス・ウォルポールによると、サックヴィルは直ちに軍法会議を求めたが、事件関連する士官全員ドイツにいるため不可能であると北部担当国務大臣の第4代ホルダーネス伯爵ロバート・ダーシーに拒否され兵站総監英語版)の初代リゴニア子爵ジョン・リゴニア(英語版)に至っては「軍法会議が欲しければドイツにでも向かえ」と皮肉をもって返答したという。最終的には軍法会議が1760年2月3日より行われたが、同年4月5日判決では戦時規則によりサックヴィルにフェルディナント命令に従う義務があり、したがってサックヴィルは命令不服従で有罪であるとされた。さらに「陛下対し何らかの軍事的な職務をもって奉仕する能力がない」(unfit to serve his majesty in any military capacity whatever)と判定され陸軍における昇進の道を完全に閉ざされた上、国王ジョージ2世がサックヴィルを枢密顧問官から除名するよう命じた。 この不遇期について、後年ホレス・ウォルポール回想したところによると、「イングランドにおいて、人目のつくところでジョージ卿(サックヴィル)の隣に座ったり、彼に話したりする勇気があったのは私、サー・ジョン・アーウィン(英語版)、そしてブランド氏の3人だけだった」という。スコットランド貴族第3アーガイル公爵アーチボルド・キャンベル英語版)は「彼はスコットランド人友人です。彼の悪口言わないようにしましょう」と述べ王太子ジョージもサックヴィルの処遇を「異例であり、我が国憲法に違反する」としたが、ウォルポールとサックヴィル自身除きだれもがサックヴィルの政治生涯終わりを告げた考えた

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軍法会議

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/01 04:06 UTC 版)

ホンダポイント遭難事件」の記事における「軍法会議」の解説

海軍の軍法会議は最終的に、この事件の原因は、ワトソン司令、および司令駆逐艦デルファイ航海長過失にあると結論づけた。一方で、たとえ艦隊運動の一部構成している場合であっても、艦についての最終責任はその艦長にあるという海軍伝統のっとり、各艦の艦長にも責任ありとした。

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軍法会議

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/21 13:38 UTC 版)

1702年8月の海戦」の記事における「軍法会議」の解説

交戦の後、ベンボウデュカスから手紙受け取った提督閣下先の月曜日には、貴殿船室夕食いただけるではないか望み抱いておりました。しかし神は他のやり方思し召しだったのでしょうすばらし戦い感謝します。かの臆病な貴殿職務怠った艦長たちは吊るされるべきでしょう、神に誓って、彼らにはそれがふさわしいと存じます。デュカス ジャマイカベンボウは軍法会議を開いた艦長たちは書類で、参戦しない旨を示し合わせていたのがわかり、デファイアンスカービーグリニッジウェイド怯懦命令不服従、職務放棄銃殺刑とした。ウィンザーコンスタブル禁錮刑となった。ペンデマスのハドソンは既に死亡しており、ブレダフォグファルマスヴィンセントは、ベンボウ温情示して停職処分だけを言い渡された。唯一ベンボウ味方であったウォルトンは、軍法会議から除外された。 ベンボウは、この負傷がもとで1702年11月4日死亡したカービーウェイド1703年4月16日軍艦ブリストルen:HMS Bristol (1653))の艦上銃殺刑処せられた。 カービー怯懦疑わしいともいわれる恐らくはとっつきにくい性格カービーと、平民出身で、一水兵から提督上りつめたベンボウとは反りが合わなかったのではないかとも考えられるベンボウの、不屈のフランス戦隊追撃は、一般大衆はこの戦いに、大い想像力刺激された。多くの「ベンボウ提督」「勇敢なベンボウ」と名づけられた曲が作られ100年以上にわたって水兵たちの間で愛唱され続けた

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軍法会議

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/05 06:44 UTC 版)

ベネディクト・アーノルド」の記事における「軍法会議」の解説

1779年12月アーノルド対す告発審問する軍法会議が始められた。判事席に座った多くの者がアーノルド行動戦争前半の論争について悪意抱いていたという事実にも拘らず1780年1月26日アーノルド小さな2件の告発除いて無罪とされた。アーノルドその後数ヶ月間この事実宣伝することに努めた。しかし、ワシントン5月19日生まれたアーノルド息子、エドワード・シッペン・アーノルドのことでお祝い述べた時から丁度1週間後ワシントンアーノルド行動に関する非難書を出版した総司令官アーノルド少将としてこの国のために傑出した働きをした士官称賛言葉を送る機会接して喜ばしい限りである。しかし、現時点義務感虚心坦懐なところでは、(告発された行動での)彼の行い軽率不適切だったと考えると宣言せざるを得ない。 — ジョージ・ワシントン出版したコメント, April 6, 1780 ワシントン非難書が出てから間もなくアーノルド出費に関する大陸会議査問で、アーノルドケベック侵攻の間に発生した出費十分に証明出来ず、彼がそれらを文書提出できなかったので、大陸会議に対して1,000ポンドほどの借金があると結論付けた。それら文書多くケベックからの退却時に失われていた。これに怒ったアーノルド4月下旬フィラデルフィア軍事指揮官職を辞任した

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軍法会議

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/07 16:32 UTC 版)

リチャード・レストック」の記事における「軍法会議」の解説

レストックは本国に戻るとマシューズなど後衛以外の艦長責任なすりつけようとし、パンフレット合戦がおきたが、レストックの情勢不利だった。しかし、彼に政界友人がおり、庶民院による公的調査英語版)にこぎつけることに成功した調査1745年3月から4月にかけて行われ世論二分した。ヘンリー・フォックスとジョージ・グレンヴィルは反マシューズ演説をし、レストックも冷静沈着態度庶民院議員に対応した一方マシューズ弁護無秩序興奮した態度をとっており、レストックが主張した海戦におけるマシューズ態度とも一致した。また海軍当局からもマシューズの(議会外での)人気警戒した海軍委員会英語版)はレストックを軍法会議にかけたが、軍法会議ではレストックに同情的な士官多数だったため彼は完全無罪となった

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軍法会議

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 04:28 UTC 版)

甘粕事件」の記事における「軍法会議」の解説

9月24日に軍法会議予審があり、事件概要明らかにされた。軍法会議の公判極めて性急に行われた。それらによると、甘粕大尉らは、大震災混乱乗じてアナキストらが不穏な動き起こし政府転覆しようとすると憂慮しアナキスト主要人物であった大杉伊藤殺害することを決めたという。 予審明らかになったところでは、9月16日大杉ら3人が鶴見から帰る途中自宅付近甘粕大尉東京憲兵隊本部付の次郎曹長(後に明らかになるところによれば、さらに鴨志田本多両名加えた4名)が張り込みをしており、子供だけは帰宅させてくれという大杉要望拒否して強引に3人を拉致し、麹町憲兵分隊連行した東京憲兵隊本部夕食出したが、大杉伊藤食べずだけが食べた大杉ナイフ借りて伊藤持っていた2人食べた午後8時、3人は別々の部屋移された。 甘粕予審調書大杉伊藤とを自分絞め殺した認めその様子を以下のように語った大杉応接室曹長雑談のような取り調べ受けていたが、入室し甘粕背後から柔道締め手で大杉の首を右手絞め苦しみもがく大杉の足を押さえた15分ほどでぐったりして亡くなったその後念のためとしてさらに麻縄絞めた午後9時15分次に甘粕階下隊長室に入れられ伊藤のもとを訪れ、しばらく会話して油断させると、同様に絞殺した。後に発見され検死資料明らかになった激しく執拗な暴行については、語られておらず、公判でも明らかにされることは無かった甘粕最初、「個人考えで3人全て殺害した」として、大杉伊藤との間の子供と誤解され橘宗一死に関して認めたが、軍法会議では、の死の経緯調書省略したことに官選弁護人塚崎直義疑念持って追及した。特に甘粕母親が「正彦は特に子供好きでした。罪とがもない子供手にかけるなど、あり得ない」と涙ながらに主張したことにより、自白一部撤回自分は「子供殺していない。包(こもづつ)みになったのを見て初めてそれを知った」と証言変えて大杉伊藤殺したのは認めたが、子供殺し自分ではないとした連行するために自動車乗せた最初から甘粕懐いていた。甘粕便所行ってくるといってその場離れ少年の死には立ち会っていないと主張した。 この供述撤回により予審内容覆されたことで、塚崎弁護士捜査やり直し公判中止申請したこのため陸軍省から橘宗一殺し再調査命令されると、たちまち10月5日鴨志田五郎本多重雄という2名の憲兵上等兵殺し共犯であるとして自首し6日には平井利一憲兵伍長見張り役として伊藤死に関与していたことを告白して自首被告人は5名となった鴨志田本多子供殺し認めたが、甘粕が「上官命令だからやりそこなうな」と話していたと証言して波紋呼んだ。しかし憲兵隊小泉少将小山大佐がこの証言否定した後、以後軍上層部関与した疑惑追及すらされなかった。結局は曹長鴨志田に「おまえがやれ」と命令したとされ、鴨志田本多手を下すことになった2人子供殺し躊躇したが、命令逆らえずに、鴨志田が首を絞め本多押さえて殺したは「甘粕大尉子供殺せ命令した」と主張し自分命令したのは甘粕であるとした。甘粕投げ槍態度で「が言うのですからその通りでしょう。私は軍人であります命令しました」と自分責任被ってやるのだと言わんばかり答弁をして、再度供述翻した甘粕遺体処分について話し合ったが、構外運び出す露見するとして難色示し本部裏の古井戸投げ込むこととした。甘粕は3名の着物ハサミ切って裸として包み古井戸落とした衣類は翌17日別の場所で焼却した。何も知らない人足指示して古井戸馬糞煉瓦投げ込んで埋められた。 動機については、関東大震災混乱乗じて無政府主義者朝鮮人扇動して騒動起こすという噂を信じていたとされた。甘粕は「大杉の次は堺利彦福田狂二を殺す予定だった」と述べた。さらに、最も危険視された無政府主義者大杉栄検挙されていないから「やっつけろ」という意見淀橋にあったが、警察ではできないか憲兵の方でやってくれないかという話だったとも、甘粕主張したが、淀橋署員らは「記憶にない」と殺依頼否定し真相解明に至らなかった。 また新聞では橘宗一殺害理由伊藤野枝殺害目撃したがためであると報じられたが、公判ではこれは取り上げられず、前述のように甘粕命令した事実のみが認定され子供死に関して理由経緯などについても解明されなかった。 なお、判士法務官小川次郎甘粕追及厳しかったとされるが、第1回公判の後、弁護側が被害者同郷かつ遠縁との理由忌避申請し交代させられている。しかし、小川法務官の娘である長森光代大杉家所在地小川出生地と近いことは事実だが小川自身もとより誰からも大杉遠縁だったと聞いたことはない、地元識者否定しているとする。この交代経緯については、当時から不審をもって受けとめられていたようで、その頃社会主義者弁護知られ弁護士山崎今朝弥は「(小川法務官は)大杉君の妹の亭主の兄の妻の妹の夫の祖父従兄弟養家先の孫である」と揶揄している。その後交代した法務官遠縁にあることが判明したともいわれるが、代わることはなかった。

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軍法会議

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/30 14:58 UTC 版)

リンディ・イングランド」の記事における「軍法会議」の解説

イングランド正式に起訴される直前、彼女は妊娠し2004年5月4日ノースカロライナ州フェーエットビル、フォートブラッグにある軍事施設移送された。 2003年アブグレイブ刑務所における、捕虜虐待することへの共謀からなる2つ訴因職務怠慢からなる1つ訴因暴行及び虐待からなる4つ訴因わいせつ行為からなる2つ訴因イングランド起訴された。 彼女は元々、最大38年禁固もたらすこととなる19起訴訴因かけられていたが、軍事裁判所2005年2月容疑減少させた。 この減少について、どのような説明もされなかった。 2005年5月におけるイングランド裁判時で、イングランド司法取引における有罪答弁不承認することを根拠として、軍事裁判官ジェイムズ・ペール大佐無効審理宣言した捕虜の首に紐を巻いたときも、また、イングランド写真の中で一緒にポーズするように頼んだときも、自分自身適法正当な武力行使記録しているものと考えていたと、チャールズ・グレイナーが証言したその後に、司法取引におけるグレイナーと共謀し捕虜虐待したことによる共謀告発でのイングランド有罪答弁を、ペール承服することができなかったためであった2005年9月26日再審において、共謀1つ訴因捕虜虐待4つ訴因、およびわいせつ行為1つ訴因の罪によりイングランド有罪判決受けたもう一つ共謀訴因問われなかった。2005年9月27日不名誉除隊加え禁固3年宣告された。検察側は4から6年禁固求刑し弁護側は禁固されるべきでない嘆願した。 この虐待における主犯とされるグレイナーは、前年10年禁固言い渡されている。4人の兵卒2人下級情報員がこの事件司法取引行っている。 彼らの判決0年拘禁なし、人事処分のみ)から8年6ヶ月までと多岐に及ぶ。 数個行政処分受けたものの、幹部職は裁判かけられなかった。

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軍法会議

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/15 01:50 UTC 版)

トゥーロンの海戦」の記事における「軍法会議」の解説

戦闘直後海戦のときに後衛戦隊指揮していた次席指揮官リチャード・レストック中将戦闘参加しなかったことについて軍法会議が開かれた。レストックはマシューズ信号が「戦列形成しつつ交戦せよ」であったことを指摘し戦列にまだ加わっていなかった後衛戦隊交戦義務はないと主張した。そのうえさらに、マシューズがみずから戦列崩して敵艦隊を攻撃したことを軍紀違反であると主張したその結果、レストックは無罪となり、マシューズ数人士官イギリス海軍から追放されることとなった。このことは、規則遵守臨機応変な対応という問題について大きな影を投げかけることとなった

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