目撃証言
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「バリュージェット航空592便墜落事故」の記事における「目撃証言」の解説
エバーグレーズでボートに乗って釣りをしていた2人と自家用飛行機に乗っていた別の2人が592便の最期を目撃していた。目撃者によれば墜落直前、機体は右に傾いた状態で低空を飛行していた。そのまま機体は右に傾き続け、機首はほぼ垂直になるまで下がっていった。最終的に592便は垂直な姿勢で湿地帯に墜落し、大量の水しぶきと煙が立ち上った。目撃者の1人は事故現場を見て、まるで墜落により592便が消えて無くなったようだと述べた。
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目撃証言
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いくつかの証言では「たてがみのような毛が生えていた」、「潮を吹いていた」、「上下に身をくねらせて泳いでいた」などと哺乳類的な特徴がうかがえる。シーサーペントの一般的なイメージは巨大な蛇状の爬虫類というものであるが、目撃証言では哺乳類的な特徴を示すものが多い。また、別のいくつかの証言では「ワニのような形であった」、「亀のような頭であった」などと爬虫類的な特徴がうかがえる。 フランスの理学博士ジャン・ジャック・バルロワは目撃証言を検証した結果シーサーペントを次のように分類している。 1種以上の魚類 かなり巨大なウナギ状の未知生物。大ウナギ、スーパーイールとも呼ぶ。1930年1月31日、デンマークの海洋調査船ダナ号は南大西洋で体長1.84mのレプトセファルス(ウナギなどの稚魚)を捕獲した。他にも巨大なレプトセファルスの捕獲例はいくつかあり、5cm程度のレプトセファルスが20倍も大きい1m程度の成魚になるウナギの例から、これらが20倍の成魚になればシーサーペントと呼べるほどの大きさになるとされた。しかし、すべてのレプトセファルスが20倍も大きくなるわけではなく、深海魚の一種トカゲギスの中には、レプトセファルスに似た形態のまま、ほぼ成体の20cm程度まで成長するものがおり、巨大レプトセファルスはこうしたウナギ以外の魚の誤認だとされる(レプトケファルス#巨大なレプトケファルスも参照のこと)。 1種以上の爬虫類 モササウルス。横に身をくねらせて泳ぐのは爬虫類の特徴であり、ワニ状の生物の目撃証言からシーサーペントの1種はモササウルスまたはそれに類似した爬虫類であるとする。モササウルスは白亜紀に生息した巨大なワニ状の海棲爬虫類である。 5種の哺乳類 スーパーカワウソ 昔鯨類に属する未知生物。北極海周辺に生息するとされる。 多びれ 昔鯨類に属する未知生物。ヴェトナム・マダガスカルなど熱帯の海に生息するとされる。「ムカデ」、「オオムカデクジラ」と呼ばれている未知生物がこれに当たるとされる。 多こぶ 昔鯨類または海牛類に属する未知生物。北アメリカの大西洋側に生息するという。 ウミウマ アザラシなどが属する鰭脚類の未知生物。ウマのようなシーサーペントの正体はこれであるとされる(キャディの消失した死骸の残された資料はこの正体を示している可能性がある)。 長首 鰭脚類に即ずる未知生物。長い首をもったアシカのような未知生物が存在すると言う。 その他の研究者もさまざまにシーサーペントを分類している。ベルナール・ユーヴェルマン(英語版)は上記の他に以下の候補を挙げている。 巨大なサメ - これは絶滅生物であるメガロドンを指しており、多くの目撃証言は確かにメガロドンを指しているように見える。ただし、一部でメガロドンの映像として駿河湾で撮影されたオンデンザメの映像が流出しているが、このオンデンザメは7mもの巨体であった。 あらゆるカメの父 - 途方もなく巨大なカメ。 巨大オタマジャクシ - 黄色に黒い縞が入ったオタマジャクシ状の生物が存在する可能性があるという。 巨大な無脊椎動物
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目撃証言
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1883年、硬い外皮に覆われたシーサーペントの死体がベトナムのアロン湾hongay浜で発見されたと伝えられている。目撃者のトラン・ヴァン・コン(Tran Van Con)は、死体の全長は18メートルほどあり、全体にわたって60センチの間隔で甲殻の体節があったと言っている。それぞれの体節には一対の突起がついていて、それぞれの長さは70センチだった。体色は上部が焦茶色で下部が浅黄色だった。この頭のない死体はのちに海に捨てられた。この件は、38年経ってA. クレンプフ博士に知らされた(これがコンリットである)。 1899年、イギリス海軍の軍艦ナーシサスがアルジェリアのファルコン岬付近を航行中、舷側の水兵たちが「海の怪物」を目撃した。その動物の体長は45メートルほどであると計測され、さらに「数え切れないほどのヒレがあり」、船と同じペースを保つのに充分なほどの速度で進んでいた。この動物は30分にわたって目撃されていた。
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目撃証言
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「北朝鮮によるルーマニア人拉致」の記事における「目撃証言」の解説
ルーマニア人拉致被害者については、曽我ひとみの夫チャールズ・ジェンキンスの著書『告白』(2005年)の証言で広く知られるようになった。ジェンキンスによれば、ジェンキンスら4人のアメリカ投降兵は1972年まで小家屋での軟禁状態に置かれた。そのうちの1人、ジェームズ・ドレスノクの結婚相手がルーマニア人ドイナ・ブンベアであった。ドイナ・ブンベアはイタリア在住のルーマニア人で、1978年10月にローマで拉致されたとみられる。2人のあいだにはリカルド(1980年生)、ガブリエル(1984年生)の2人の息子がいた。ガブリエルは「ガビ」と呼ばれていた。ドイナ・ブンベアは1997年1月、北朝鮮で癌のため死去した。北朝鮮の土に埋葬されたくないというドイナの望みにより、遺体は火葬された。なお、ドレスノクはその後、1999年に北朝鮮人とトーゴ人の混血女性ダダと結婚した。 ルーマニア紙 "Evenimentul Zilei" は、ジェンキンスの著作をもとにドイナ・ブンベアの報道を展開し、彼女の家族を突き止めた。それによれば、彼女は、失踪前に両親に何度も電話をかけ、イタリア人から日本で美術展覧会を開かないかとのオファーを受けたことで興奮していたという。また、彼女の友人からは「ドイナが死亡した」との電話を受け取った。しかし、その3日後に「拉致されている」とのドイナ本人からの電話を受け取っている。ドイナの弟もまたガブリエルという名であり、失踪時、彼女は28歳、弟のガブリエルはまだ11歳であった。失踪の2年前の1976年、彼女は一時ルーマニアに帰国しており、弟と過ごしている。ドイナの家族が、イギリス制作のドキュメンタリー番組「休戦ラインを超えて(Crossing the Line)」を2006年末に視聴したところ、ドイナの息子のガブリエルが登場しており、彼女によく似ていたという。彼女は自分の愛した弟の名を息子にもつけたと思われる。
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目撃証言
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「リチャード・ウォーレイ」の記事における「目撃証言」の解説
1718年10月、サウスカロライナのロバート・ジョンソン植民地総督は、ムーディという男が率いる海賊船がチャールストン湾に現れたという通報を受け、討伐隊を編成して派遣することにした。そこで港に碇泊していたメディテレニアン号には砲24門、キング・ウィリアム号には砲30門、リヴェンジ号には砲8門、さらにもう1隻のスループ船に砲6門を積み込み、海賊討伐船とした。船長たちには戦利品を分配してもよいと約束し、総督自身も同行することになった。 彼らが出港する3日ほど前、港の沖に海賊本船と僚船のスループ船が現れ、水先案内を求める信号を送ってきた。彼らは小島で水を補給しようとしていたが、偵察船に阻まれて叶わなかった。討伐隊の準備が整うと、総督自らメディテレニアン号に乗り組み、4隻の船を率いて出港した。近付いてきた海賊船が接舷したところで討伐隊は一斉に大砲を露わにし、一斉射を浴びせた。海賊船がウォーレイのものだと判明し、総督はキング・ウィリアム号と共に沖に向かった海賊本船を追跡し、他の2隻に岸に向かったスループ船を追跡させた。戦闘の結果、2隻の討伐船の砲撃によりスループ船に乗っていたウォーレイは戦死し、総督も本船を投降させることに成功した。 本船はヴァージニア岬でウォーレイに拿捕された囚人護送船だということが判明し、男100人、女30人が乗っていた。男たちの多くは海賊に加わったかどでカロライナにて絞首刑に処された。 総督が討伐隊の準備に関しての情報が漏れないよう細心の注意を払ったにも関わらず、一部の悪党がこれを海賊に知らせてしまっていた。当初通報されたムーディはこの報せを受けてただちに出港し、代わりにウォーレイがやって来て討伐されてしまったのである。一方のムーディは逃亡した後ミネルヴァ号からワインを奪うなどの海賊行為を働き、最終的にはニュープロビデンス島で王の赦免を受けた。
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目撃証言
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「北朝鮮によるタイ人拉致」の記事における「目撃証言」の解説
1982年7月、初めて北朝鮮へ渡り、のちに金正日専属の料理人となる藤本健二は、最初に料理人を務めることになる平壌の「安山館」のカラオケバーで日本人マスターとママ、タイ人ホステス7人を目撃した。話を聞くとタイで「日本に仕事がある」と騙されて拉致されてきた女性たちであった。藤本によれば、契約料月額1,500ドルで彼女たちに売春をさせ、その稼ぎをすべて彼女たちのものとした。タイの女性たちは「私たちは、もうどうにもならない」と諦め顔であったという。しかし、その後藤本を北朝鮮に斡旋した貿易会社の社長が平壌を訪れ、女性に売春させるような店なら自分はもう従業員を紹介しないと宣告すると、ここでの売春は停止されたという。 1978年1月に金正日によって拉致され、1986年3月に脱出に成功した韓国の有名な女優、崔銀姫は、北朝鮮での抑留生活のなか、1979年から1980年にかけての時期に東北里の招待所で散歩中にポルトガル領マカオから拉致されてきた「ミス・孔」(本名、孔令譻)と知り合った。「ミス・孔」はマカオのリスボア・ホテルの宝石店で働いていた1978年7月2日、蘇妙珍というもう1人の女性とともに拉致された中国人女性で、拉致当時20歳であった。崔銀姫が「ミス・孔」から聞いた話によれば、彼女たちはその日、日本人を名乗る裕福そうな男性2人に観光ガイドを頼まれており、彼らのガイドのため海岸に行った。すると、そこでナイトクラブで働いているという10歳くらい年上の初対面の女性と一緒になった。4人がボートに乗せられ海岸付近を巡回したのち、沖に出て無理やり大きな船に乗せられて北朝鮮に連行された。このなかのひとりがタイ人女性アノーチャ・パンジョイであった。 曽我ひとみの夫チャールズ・ジェンキンス(1965年1月入北)は、北朝鮮でラリー・アレン・アブシャー(英語版)二等兵(1962年5月入北)、ジェームズ・ドレスノク一等兵(1962年8月入北)、ジェリー・パリッシュ(英語版)伍長(1963年12月入北)ら他の米軍逃亡兵とともに抑留生活を送った。アブシャー二等兵は1980年にタイ人アノーチャ・パンジョイと結婚、2人はジェンキンス・曽我夫妻の近所に住んだ。1983年、夫のラリー・アブシャーは心臓発作で亡くなるが、その後もジェンキンス夫妻とは親しく交流した。1989年、アノーチャはドイツ人男性と再婚することになったと言い、ジェンキンス夫妻はそれ以来、彼女をみていない。アノーチャの再婚相手は工作員であったようである。 ジェンキンスの著した『告白』によれば、アノーチャはタイ北部のチェンマイ近郊の小さな村の出身で、曽我ひとみより2、 3歳年上、マカオには出稼ぎで来ており、マッサージガールをしていた。アノーチャが拉致されたのは「ミス・孔」が拉致されたのと同日で、アノーチャを乗せて北朝鮮に向けて連行した船のなかには、アジア人女性が他に2人いたという。アノーチャはその後、長らく行方不明だったが、ジェンキンスの証言や彼が持ち帰った写真などから、2005年に平壌で生存していることが確認され、そのことはタイ国内でも報道された。アノーチャの兄スカム・パンジョイは、父の死後も、マカオで失踪した妹が生きていることをずっと信じていた。甥のバンジョン・パンジョイも父スカムの手紙を持参し、東京へ6度訪れている。北朝鮮当局はアノーチャの拉致を否定したが、タイ政府は外交圧力を続けている。
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目撃証言
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 20:18 UTC 版)
伝聞以外の目撃証言については、ブルックス弁護人が「それでは只今のお話になった不法行為もしくは殺人行為というものの現行犯を、あなたご自身いくらくらいご覧になりましたか」との反対尋問を行い、マギーは「私は自分の証言の中ではっきりと申してあると思いますが、ただわずか一人の事件だけは自分で目撃いたしました」と回答した。その目撃によれば、1937年12月17日、マギーは家のバルコニーから中国人が一人殺されるのを目撃した。中国人に日本兵が誰何すると、中国人は逃げ去り、それを日本兵は追いかけて射殺した。 一方、マギー牧師の日記には「私たちは本当は殺害現場を見ていません」と書かれている。
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目撃証言
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 20:18 UTC 版)
ブルックス弁護人は「強姦の現行犯をご覧になったことがありますか。もしあるとすれば、それはいくつくらいでありますか」との反対尋問も行い、マギーは「私が見ましたのは、一人の男が実際に強姦行為をしていたのであります。もう一つの二人の男というのは、女の子と寝台に横たわっていたのでありますが、その父親のいうには、私がその所に行きますよりすでに前に強姦していたということであります」と答えている。
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目撃証言
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「日本航空46E便エンジン脱落事故」の記事における「目撃証言」の解説
第2エンジンが脱落する以前に、機内火災の兆候は無かった。地上の目撃者は、エンジンが脱落した際に火の玉か閃光のようなものを見たと証言した。地上に落下したエンジンから火災は起こらなかったが、最初に脱落したエンジンを目撃した人物は、蒸気のようなものが立ち上っていたと話した。そのため、アンカレッジの消防隊はエンジンに水を噴射した。
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目撃証言
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「ニュルンベルク・フルクディンスト108便墜落事故」の記事における「目撃証言」の解説
108便の最後の瞬間は50人ほどの地域住民に目撃されていた。そのうち10人は詳細な目撃情報を提供した。そのため、調査委員会は機体の飛行経路や状態などを推測することができた。 目撃者の1人は機体が約45度の機首下げ状態で雲を突き抜けてきたと証言した。このときの雲低はおよそ200メートル (660 ft)と推定された。そのまま機体は10 - 20メートル (33 - 66 ft)まで降下し、再び上昇した。この急上昇は他の目撃者も見ていた。さらに、3度目に機体が雲の中へ入った後、エンジン音が大幅に減少したと証言した。その後、機体は片方の主翼が燃えた状態で雲から出てきて地表に激突した。
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目撃証言
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「別府3億円保険金殺人事件」の記事における「目撃証言」の解説
1976年(昭和51年)9月13日の第16回公判と翌日の第17回公判には、「転落現場に向かう日産・サニーを見た。運転していたのは男だった。」などと証言していた鮮魚商が証人として出廷し、運転していた男は荒木に「よく似ている。九分九厘似ている。間違いないと思う。」と証言した。 鮮魚商は捜査段階では日産・サニーに注目した理由を「前を走っていたから」と話していたが、公判では、弁護人の「車を運転していれば毎日無数の車とすれ違ったり並走するのに、その車の運転者に興味を持ったのはなぜか」との疑問に、「友だちの車に似ていたから」と答えた。弁護人はさらに、鮮魚商は、警察では「荒木に酷似した男だが、断定はできない」と述べ、検察では「確かに似た男だった」と言い、法廷では「間違いないと思う」と微妙に表現が変わっている点を問いただし、荒木自身も被告人席から身を乗り出して横顔を見せつけながら「あなたが見たというのはこの私か」と迫った。弁護側の執拗な追及に、かえって鮮魚商は「いや絶対にあんた本人だ。あの夜のあんたの顔を忘れることはできない。」と叫ぶように断定した。荒木は、公判後の9月22日、鮮魚商を偽証罪と誣告罪で大分地検に告訴した。 鮮魚商は公判では迷惑がかかるからと友人の名前を明かさなかったが、検察は所有者と車両を特定して9月20日に写真撮影した。その車両は、1000cc2ドア44年型の日産・サニーだった(転落した車両は1000cc2ドア43年型)。ただし、その写真を証拠申請したのは約2年半後の1979年(昭和54年)3月19日で、光の反射により車両の色がはっきり分からないものであった。なお、その車両は、1977年(昭和52年)3月22日に廃車にされており、色は青だった。鮮魚商は、後の第58回公判にも呼ばれてその場で友人の名を明かしたが、弁護人は「ふつう人は、車を色でおぼえるが、所有する車種や年式を知りながら、色をまちがえるなどまったく不自然である」と指摘している。
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目撃証言
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「別府3億円保険金殺人事件」の記事における「目撃証言」の解説
「事故」の直前に荒木が運転しているのを見たとする鮮魚商の証言については、弁護人の「色の違う(友人)車ではないかと思う筈がない」との主張に対して「白っぽい本件車両を見て、これを(友人)車ではないか、ひいては(友人)が運転しているのではないかと思って見たという(鮮魚商)証言には、この点に関する限り、不自然な嫌いがある」とし、「この点は、当裁判所も(鮮魚商)証言を全面的には信用できないと考えているところである」として一定の理解を示しつつも、「しかし、知人の(友人)が本件車両と同型のニッサンサニー車を持っていたのは事実であるから、自動車の車種、型式などに興味を持っている(鮮魚商)が、問題のニッサンサニー車を特に関心を持って見たということは極く自然な成行きであって」「運転者の人相や服装も十分記憶に残り得るものと思料される」、捜査段階では「知人の名を出せばその知人にも迷惑がかかることになるのではないかということをおそれた」というのも「一応首肯できる説明であり、別段不自然と決めつける程のものではない」などとし、「この一事をもって、(鮮魚商)証言全体の信用性を損なう程のものではない」として鮮魚商の証言の信用性を認めた。そして、「第三埠頭に居合わせた者が本件車両の転落時に接着した前後の時刻に本件車両以外の白っぽいニッサンサニー車を見かけた形跡が全くないことを考えると、(鮮魚商)が目撃したニッサンサニー車は本件車両であり、これを運転していたのは被告人であったと優に認定することができる」、「本件車両が第三埠頭入口を左折してから転落するまでの間に運転者が交替するような事態が考えられない以上、転落時に本件車両を運転していたのは当然被告人であると推認することができる」とした。
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「調布市PA-46墜落事故」の記事における「目撃証言」の解説
事故現場の近所に住む70代の女性は、「自宅にいたらドスンという音が聞こえて、はじめは車がどこかに突っ込んだのかと思った。その後も何度か何かが爆発するような音が聞こえたので、近くまで見に行ったら、真っ黒な煙がもうもうと上がっていて、2、3人くらいが乗る大きさの飛行機の機体の一部が見えた。また、近所の人に話を聞いたら、墜落する直前に子どもの声で『助けて』と聞こえたと話していた。今も消防車や救急車がたくさん来ていて、すぐ近所なので怖くて足が震えている」と話した。 現場付近にある調布市立調布中学校の教諭は、「部活動があるので、先ほど学校に来たら、飛行機が落ちたというので大騒ぎになっていた。煙が上がっている様子は学校からも見える。当時、校内には部活動をしている生徒がいたが、被害は出ていない。今は保護者から子どもは大丈夫かという問い合わせが相次いでおり、対応しています」と話した。なお同校には1980年(昭和55年)8月、航空測量用の小型機が調布飛行場を離陸直後に失速し、校庭に墜落して乗員2人が死亡しており、その際に運輸省航空事故調査委員会(当時)は「エンジンを駆動させる燃料ポンプ内の構造不備が原因」とする調査結果を発表している。
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「オスカー・スレイター事件」の記事における「目撃証言」の解説
そもそもランビーは、事件当夜の聴取においては、犯人を識別することはできない、と述べていた。にもかかわらず、ランビーは公判においてスレイターが犯人であると断言し、ニューヨークの法廷でスレイターの識別をためらったこと自体を否定した。弁護側から「アメリカでは何を根拠にスレイターを識別したのか」と尋ねられると、「歩き方と背の高さと、黒っぽい髪と、それに横顔です」と答えた。弁護側が証言の変遷を追及すると、「ですから今言っているんです」と述べて沈黙した(ガスリー判事は後日、ランビーを評して「知的容量の少ない、浅薄で無分別な女性」と述べている)。 残る2人の証人のうち、バロウマンは証言を「とてもよく似ている」から「疑いがない」に変更し、アダムスは警察署でも高等法院でも一貫して「非常によく似ている」とだけ述べて断言を避けた。なお、ランビーが語った犯人の特異な歩き方については、バロウマンとアダムスは、犯人の歩き方に目に付く点はなかったと述べ、3人に付き添ってニューヨークまで出向いたパイパー警部は、スレイターの歩き方に特徴はないと証言した。同じく証人たちにニューヨークまで同行した裁判所書記官は、足元を注視していればその特徴に気付くだろうと述べた。 グラスゴー地下鉄ケルビンブリッジ駅の出札係は、事件当日の19時30分から20時までの間に、スレイターによく似た男が、非常に慌てた様子で駅に駆け込んできたと証言した。しかし、その男は黒いコート姿で髭は剃っていたうえ、現場から駅までは走って5、6分しかかからない。そのうえ直後の20時15分には、スレイター行きつけの食料品店の店員が、スレイターがセント・ジョージズ・ロードの自宅前に立っているのを目撃している。にもかかわらず、この店員は検察側証人リストから外され、弁護側にもその存在すら知らされなかった。また、事件直後にフラットの表で2人の男を目撃したと証言していた市民も(上記参照)、検察側から46号という証人番号まで与えられながら、法廷に喚問されることはなかった(ただし、警察署での面通しでは彼女も、目撃した男の片方がスレイターであったと識別している)。 犯人の髭については、バロウマンとアダムスは剃っていたと証言した。これについて弁護側は、事件後の21日深夜から25日までに会ったスレイターが、かなり目立つ口髭を生やしていたのを見た証人が複数いる と反論した。 さらに弁護側は、事件当夜に現場から1マイルほど離れたビリヤード場(下図参照)で18時30分頃までスレイターと一緒であったという2人の証言から、スレイターのアリバイを主張した(ただし、この2人は時刻を時計で確かめてはいない。加えてスレイターは足が速かったという)。また、スレイターの愛人と使用人も、スレイターは事件当日の夜7時に自宅で夕食をとっていたと証言している。さらに、スレイターは事件直後の21時45分頃、行きつけの市内のクラブ(下図参照)に子鹿色の防水製オーバーコートと灰暗色のドニゴール・ハット姿で現れているが、そのときの着衣には何の乱れもなかった、とクラブの主人は証言した。
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