休戦とは? わかりやすく解説

きゅう‐せん〔キウ‐〕【休戦】

読み方:きゅうせん

[名](スル)

戦争中合意により戦闘行為一時中止すること。「—条約

争いごと一時中止すること。「論争一時—にする」

「休戦」に似た言葉

停戦

(休戦 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 21:04 UTC 版)

停戦(ていせん)とは戦争や武力紛争の一時的な停止をいう。


  1. ^ Tony Paterson (2003年12月24日). “WWI Christmas Truce Started By Thousands Of German Soldiers” (英語). Rense.com. 2011年2月11日閲覧。


「停戦」の続きの解説一覧

休戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 01:16 UTC 版)

普仏戦争」の記事における「休戦」の解説

1871年1月18日パリ本拠を置く国防政府プロイセン休戦交渉行ったパリ食糧欠乏し、ガンベタの地方軍度重なる敗戦浮足立っている状況受けて1月24日フランス外相ジュール・ファーブルはビスマルク講和条件議論するためにヴェルサイユ赴いたまた、ナポレオン三世愛人であったヴィルジニア・オルドイーニビスマルク会見しプロイセンによる「パリ占領」がいかに"致命的"なものになるかを説得したビスマルクは、国防政府パリ郊外幾つかの主要な要塞プロイセン軍明け渡すという条件の下で、直ちパリ包囲中止し食糧ドイツ軍兵糧数百食も含む)を搬入することに合意した。これらの要塞なければフランス軍はもはやパリ防衛することはできないパリ世論プロイセン対すいかなる形の開城にも譲歩にも強く反対していたが、国防政府認識では、譲歩せずに戦争続けた所でパリ陥落はもはや時間の問題であり、ガンベタの地方軍ドイツ軍突破してパリを救うことはほぼ不可であろうという認識であった1月25日、ジュール・トロシュ首相辞任して、ジュール・ファーブルがその後任となり、その2日後ファーブル首相ヴェルサイユにて降伏文書署名し、翌午前0時に休戦が発効した幾つかの情報源によればファーブルパリに戻る移動途中で涙を流し彼の娘の腕の中に泣き崩れたという。そして真夜中パリ周辺銃声止んだ1月30日、ガンベタはトゥールパリからの通信受け取り政府降伏した知らされた。彼は怒り狂って降伏拒否し直ちオルレアンドイツ軍攻撃開始した。その攻撃は、予想されていたとおり、失敗した2月5日パリ外交部代理人がガンベタと討議するためにトゥール到着し翌日ガンベタは辞任して地方軍指揮権国防政府返し国防政府直ちフランス全土での休戦を命じた

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休戦

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ロシア・ポーランド戦争 (1654年-1667年)」の記事における「休戦」の解説

ロシアによるポーランド・リトアニア共和国対す進撃は、これを好機見たスウェーデン王カール10世グスタフによる北方戦争引き起こしたスウェーデン共和国首都ワルシャワ進駐した。これを受け、アファナシー・オルディン=ナシチョーキンはポーランド人との交渉開始して11月2日休戦したその後ロシアロシア・スウェーデン戦争引き起こしてスウェーデンリヴォニア攻め入りリガ包囲したリヴォニアにおける複雑な情勢ウクライナ政情悪影響及ぼした共和国を敵とするフメリニツキースウェーデン同盟者見ており、この休戦をロシアの裏切りと考えて1657年8月急死するまでツァーリ手を切るための計画練っていた。彼の後継者となったイヴァン・ヴィホーウシクィイは、共和国内で孤立化したスウェーデン軍破って国外追い出したポーランド人達とハージャチの和約結んで和解することを選択した

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休戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/23 15:01 UTC 版)

ロシア・ポーランド戦争 (1605年-1618年)」の記事における「休戦」の解説

スモレンスク陥落後、1612年から1617年の間、ロシア・ポーランド間の国境はしばらく静かだったが、公式な休戦協定はまだなかった。シュラフタ貴族)たちが構成するセイム議会)は、ジグムント3世モスクワ守りきれなかったことを責めた。彼らは、軍事費負担自分たちの上のしかかるために王に税を払うのに抵抗感持ってきたが、抵抗はさらに強まりジグムント3世わずかな軍事費しか集められなくなったポーランド正規軍はこれに対して反乱おこしたり、貴族など認められていた抵抗権行使しコンフェデラツィア(konfederacja, 連盟)と呼ばれるものを招集し団結し王に対抗した。 この時に軍人たち結成した「konfederacja rohaczewska」は、ポーランド・リトアニア共和国史上でも最も大きく、かつ最も堕落したコンフェデラツィアで、1612年から自国領内略奪して回り1614年5月17日のロハティン (Rohatyn) の戦いで最も反抗的な一派敗北喫するまで暴れまわったコンフェデラツィア残ったメンバーたちは国から給料受け取り抵抗をおさめ、主導者だったヤン・カルヴァツキ (Jan Karwacki) はスタニスワフ・コニェツポルスキ (Stanisław Koniecpolski) に捕らえられ鎖で繋がれて、コニェツポルスキの師であったジュウキェフスキのもとに送られリヴィウ処刑された。さらに、ジグムント3世オスマン帝国からも、ポーランドウクライナウクライナ・コサックオスマン領への侵入行ったとして抗議された。これによりポーランド・リトアニア共和国対ロシア戦でオスマン帝国からの支援を受ける望み失われたロシアも、大動乱治まったとは言い難い状態が続きポーランド・リトアニア共和国の弱い時期つけこんだ攻撃をする力はなかった。1613年2月21日貴族・聖職者庶民構成する身分制議会ゼムスキー・ソボルは、17歳になったミハイル・ロマノフ新たなツァーリ選出した。その父で、かつて有力なボヤーレであり大動乱最中にも権力争い参加したフョードル当時フィラレート)は1619年ゲルモゲン死後空位となっていたモスクワ総主教就任したロマノフ家有力なボヤーレであり、イヴァン4世の妻アナスタシア・ロマノヴナミハイル祖母姉妹だった。 こうした有力な背景はあったが新ツァーリミハイルには反対勢力多かったマリナ・ムニシュフヴナはなおも息子イヴァンツァーリ地位につけよう動き南東部コサック支持を得るために動いていた(1614年拠点アストラハンから追い出され、後に捕まり獄死した)。有力なボヤーレ権力争い奔走しミハイルツァーリ地位から引き下ろそう画策した。北西部ノヴゴロド占領するスウェーデン武力介入イングリア戦争)を続けており、ノヴゴロドツァーリ選出されカール・フィリップ公を名目だけでなく実質的なツァーリにしようと動いたが、ポーランド王ヴワディスワフほどの支持得られず、1617年ストルボヴァの和約を結び、ノヴゴロド放棄する代わりにイングリアなどを割譲させて大動乱から手を引いた両国とも内乱が続く間、小さな武装勢力盛んに活動していた。ポーランド傭兵集団リソフチツィは1612年時点ではスモレンスク守備行い正規軍連盟組んで反乱行っていた間はロシア侵入からポーランド守っていた。しかし1615年指導者のアレクサンデル・リソフスキはならず者たちを集めて六つ部隊編成しロシア侵入した。彼はブリャンスク攻囲し、ユーリ・シャホフスコイ公の率い救援軍カラチェフ付近破った。彼はドミトリー・ポジャルスキー率い大軍前衛何度も破ったが、ポジャルスキーは攻撃かわりに防御移り、陣を固めた。 リソフスキはベリョフ、リフビン(現在のチェカリン)を焼き、ペレミシリを落とし北へ転じてルジェフロシア軍破り、さらに北のカシン進んでトルジョーク焼きロシア軍による攻撃受けないまま大量略奪品持ってポーランド帰った。リソフスキと彼の軍は1616年秋までロシア国境残っていた。リソフスキは同年10月11日に突然病没したが、彼の軍リソフチツィはなおもロシアにとって脅威であった1616年にはクルスク奪いロシア軍ボルホフ破っている。

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休戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/25 09:44 UTC 版)

アメリカ軍によるドミニカ共和国占領 (1965年-1966年)」の記事における「休戦」の解説

戦闘8月31日まで続いたが、この日に休戦が宣言された。警察平和維持活動ブラジル軍引き渡されたので、アメリカ軍大半はそれから間もなく引き上げたが、その作戦本部第82空挺師団第1旅団残り1966年8月まで駐屯していた。この旅団の1個大隊引き上げたのは1966年9月だった。 特にサンティアゴ・デ・ロス・カバリェロスにあるホテル・マトゥムへの攻撃など、打ち続く不穏攻撃直面していたカーマニョは、アメリカ合衆国政府突き付けられ調停案に合意したドミニカ暫定大統領ガルシア・ゴドイがカーマニョ大佐イギリスへドミニカ大使武官として派遣した1966年、元大統領ホアキン・バラゲールが、大統領選挙でフアン・ボッシュを破って当選した。これにはジョンソン政権からの公然支援があった。ボッシュ権力返り咲くことは無かった。バラゲールは当初から抑圧的だが高度に政治的に巧み統治行って比較安定した時代となり、その政権22年間続くことになった

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休戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 04:44 UTC 版)

サパティスタの反乱」の記事における「休戦」の解説

しかし、メキシコ都市部市民がこの反乱注目すると、メディア大規模な街頭行動通じて交戦双方への休戦を呼びかけた。これを受けて政府側は停戦宣言しサパティスタ側も対話路線転換図った

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休戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 06:20 UTC 版)

イベリア戦争」の記事における「休戦」の解説

531年のカリニクムの戦い直後ユスティニアヌス1世特使であるヘルモゲネス英語版)がカワード1世の下を訪れ停戦交渉開始したものの合意得られなかった。ユスティニアヌス1世自国立場強化するための措置講じ同時にカワード1世に対して外交戦を展開したユスティニアヌス1世サーサーン朝対抗してエチオピアアクスム王国イエメンヒムヤル王国との同盟関係構築試みたものの、同盟提案失敗終わった同年ペルシア軍はマルティロポリス(現在のシルヴァン英語版))を包囲した(マルティロポリス包囲戦英語版))。しかし包囲後間もなくカワード1世死去したために包囲断念し532年春に東ローマ帝国使節新しサーサーン朝の王であるホスロー1世在位531年 - 579年)との間で新たな交渉開始したユスティニアヌス1世ペルシアとの戦争追求するよりも、おそらくすでにローマ帝国失われた西半分領土回復することにより焦点当てていた。一方即位間もないホスロー1世にとっては戦争継続するよりも自らの地位固めることに専念する必要があった。最終的に双方合意達し永久平和条約英語版)が532年9月締結された(休戦状態は8年弱の間継続した)。両国すべての占領地返還し東ローマ帝国サーサーン朝対し110センテナリア11,000ポンド、約5,000キログラム)の金を一括払いすることで合意した東ローマ帝国はラジカの要塞取り戻しイベリアサーサーン朝支配下に留まったものの、国を離れていたイベリア人は、東ローマ帝国領土留まるイベリアへ戻ることを認められた。

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休戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/26 06:08 UTC 版)

クリスマス休戦」の記事における「休戦」の解説

クリスマス休戦は主にフランドル地方展開する英独軍の間で生じた公的な停戦ではなかったため、クリスマス休戦様々な形始まった例えば、ある地域展開していたイギリス軍将校アルフレッド・デューガン・チャター(Alfred Dougan Chater)によればクリスマスの日の朝10時頃、塹壕胸壁越しドイツ兵が手を振るのが見えたという。それから次々と兵士たち塹壕から這い出ていき、自然と停戦状態が生じたのであるフランス北部戦っていたイギリス軍将校チャールズ・ブレーワー(Charles Brewer)は、クリスマスイブ夜にドイツ軍塹壕の中で何かが光るのを目にした。ゆっくりと頭を上げてみると、輝いていたのは飾られクリスマスツリーであり、さらにドイツ語で『きよしこの夜』を歌うのも聞こえてきた。これを聞いたイギリス兵たちも、英語で『きよしこの夜』を歌った。そして夜が明けると、両軍兵士それぞれ塹壕出て停戦状態が生じたのだという。 英独将兵らはクリスマス休戦最中両軍戦死者遺体回収し合同埋葬式行ったほか、酒類タバコチョコレートといった品物サイン交換記念写真撮影などでクリスマス祝ったいくつかの地域では、鉄条網砲弾穴に囲まれ塹壕間の無人地帯サッカー試合が行われた。まともなボールがなかった場合空き缶小さ土嚢代わりに使われた。 停戦発端は、多く場合ドイツ側だったという。これは当時ドイツ軍優勢将兵らに精神的な余裕があったことに加え戦前イギリス働いていて英語を話せる者が多かったためである。 ほとんどの地域において日没と共に停戦状態は終結したが、一部では元旦まで戦闘状態が停止していた。 一方クリスマス休戦快く思わない者も少なからずいた。それは例えば、戦友殺した敵を許せない将兵や、戦意低下危惧する高官らである。当時上等兵として従軍していたアドルフ・ヒトラーは、クリスマス祝おうとする仲間たちを「戦時中このようなことをするべきではない」と叱りつけたという。停戦生じず戦闘状態が継続した地域もあり、クリスマス祝おう塹壕出て殺害され兵士多数いる。また、1914年末の時点イギリス海外派遣軍BEF)は連合国軍主力ではなくクリスマス休戦生じた地域西部戦線全体から見ればごく一部であった連合国軍主力であり、なおかつ国土戦場化していたフランス、そして国土占領下置かれているベルギー兵士多くは、ドイツ軍クリスマス祝おうとしなかった。 その後BEF司令官ジョン・フレンチ将軍は、このような非公式停戦今後認めない旨を厳命した。ドイツ帝国陸軍参謀総長エーリッヒ・フォン・ファルケンハイン将軍クリスマス休戦を受け、「持ち場離れ敵陣向かおうとした者は撃て」という旨の命令発している。1915年以降クリスマスこうした停戦生じことはなく、1918年休戦まで戦闘状態が継続することになる。

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休戦

出典:『Wiktionary』 (2021/11/11 03:21 UTC 版)

名詞

きゅうせん

  1. 交戦国同士合意により戦闘行為一時的に中止すること。(戦闘状態は継続する。)

関連語

動詞


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