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東ローマ帝国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/02/05 02:22 UTC 版)
東ローマ帝国(ひがしローマていこく)は、東西に分割統治されて以降のローマ帝国の東側の領域を指す通称である。
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- ^ 「ギリシア人という言葉はビザンツ時代は蔑視語で、異教徒や偶像崇拝者を意味した」(尚樹啓太郎『ビザンツ帝国史』東海大学出版会、1999年、p.1)
- ^ ただし、標準ドイツ語発音では「ビュツァンツ」に近い。
- ^ カール大帝以前は、西欧諸国の王やローマ教皇は名目上ではコンスタンティノポリスの皇帝の臣下ということになっていた。
- ^ 井上浩一(大阪市立大学教授)など。
- ^ 日本史でいうと古墳時代から室町時代に相当する。
- ^ これより正教会が誕生する。なお、最終的に東西教会の分裂が起きたのは一般に1054年が目安とされるが、分裂が確定した年代については異説も存在する(詳しくは東西教会の分裂を参照)。
- ^ この要請にこたえて実施された軍事行動が第1回十字軍である。
- ^ 小アジア西部のニカイア帝国、小アジア北東部のトレビゾンド帝国、バルカン半島南西部のエピロス専制侯国など。
- ^ ロシア帝国。もっともロシアではキプチャク・ハン国のハンも東ローマ皇帝も「ツァーリ」と呼んでおり、キリスト教世界全体を支配する普遍的な帝国としての「ローマ帝国」を、どこまで志向していたのかについては諸説あって定かではない。
- ^ 帝位継承法のようなものはなく、「元老院・市民・軍の推戴」が皇帝即位の条件だったため。
- ^ 逆に近代のギリシアでは、その民族主義的思想から、「帝国民の大半がギリシア人であり、中世の東ローマ帝国はギリシア人国家だった」という主張がされたこともあった。メガリ・イデアも参照のこと。
- ^ 中期以降の東ローマ帝国の宮廷においては「市民(デーモス)」という役人が雇われていた。彼らの仕事は新皇帝を歓呼で迎えることであり、「ローマ市民の信任を得たローマ皇帝」という体裁を守ることが目的であった。ただし、コンスタンティノポリスの市民は、7世紀のヘラクレイオス帝の後継者争いや11世紀後半の混乱の時代などでは、皇帝の廃立に実際に関与している。これは、建前ながらも皇帝位の正当性が市民にあるという観念が生きていたからである。
- ^ ただし中世のバグラトゥニ朝アルメニア王国自体は、東ローマと敵対していたことが多かった。また帝国で活躍したアルメニア人も文化的にはギリシャ化していた
- ^ これはかつての古代ローマ帝国でも同様であった。民族に関係なくローマ市民権を持っていた者がローマ人であり、アラブ人のローマ皇帝やムーア人(黒人)のローマ皇帝候補者も存在した。
- ^ 渡辺金一『中世ローマ帝国』(岩波新書)第一章
- ^ 井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』(講談社〈講談社現代新書〉、1990年、204頁)、ミシェル・カプラン『黄金のビザンティン帝国—文明の十字路の1100年』(井上浩一監修、松田廸子・田辺希久子訳、創元社〈「知の再発見」双書〉、1993年、90頁)
[続きの解説]
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