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ササンちょう ―てう 【―朝】
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サーサーン朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/02/04 13:44 UTC 版)
サーサーン朝(サーサーンちょう、Sassanid、アラビア語 ساسانيون Sāsāniyūn 、ペルシア語 ساسانيان Sāsāniyān 、226年 - 651年)はイラン高原・メソポタミアなどを支配した王朝・帝国。しばしばササン朝ペルシア、ササン朝ペルシャ、ササン朝ペルシア帝国、ササン朝ペルシャ帝国とも呼ばれる。単にペルシア帝国またはペルシャ帝国といった場合はこの王朝かアケメネス朝を指すことが多い。 首都はクテシフォン(現在のイラク)。ゾロアスター教を国教とし、アケメネス朝ペルシャの復興を目標とした。その支配領域はエーラーン・シャフル Ērān Šahr と呼ばれ、おおよそアナトリア東部、アルメニアからアムダリア川西岸、アフガニスタン周辺まで及んだ。ペルシアを支配した勢力の中で、ゾロアスター教を国教とした最後の国である。
目次 |
概要
サーサーン朝は、アケメネス朝と同じくイラン高原のパールス地方から勃興した勢力で、特に始祖アルダフシール(アルダシール1世)自身がゾロアスター教の神官階層から出現したこともあって、様々な変遷はあったもののゾロアスター教と強い結びつきを持った帝国であった。
後世への影響
後期サーサーン朝では官僚的中央集権化が進み、その諸制度は後のアッバース朝などのイスラム帝国に引き継がれた。また、後代にはサーサーン朝最後の君主ヤズデギルド3世の娘シャフル・バーヌーがシーア派の第3代イマーム・フサインの妻の一人となり、第4代イマーム・アリー・ザイヌルアービディーンの生母となった、といったものやサファヴィー朝の宗祖サイイド・サフィーユッディーン・イスハーク(1252/3年 - 1334年)がサーサーン王家の血を引いているなどの伝承が生まれた。
特にアッバース朝が衰退をはじめる10世紀以降もカスピ海南岸の地域ではズィヤール朝やバーワンド家などサーサーン朝時代まで遡る名家が存在しており、この地域からイラン的な習俗を強く持ったブワイフ朝が勃興しイラクやイラン高原全域を席巻した。他の地域同様、アラブ征服時代以降にイラン方面まで進出したイスラームの預言者ムハンマドの一族であるハーシム家などの後にサイイドと呼ばれる人々と婚姻を結んで来た歴史を持つ。
そのため、現在のイラン民族にとって、アケメネス朝ではなく、サーサーン朝の方が直接の国家的祖先と見なされている。これは近代化の影響だけでなく、そもそもサーサーン朝時代の歴史などを編纂し始めた王朝末期やアッバース朝時代の頃には、すでにアケメネス朝時代は神話化・伝説化し、セレウコス朝時代については失伝、パルティア時代も殆ど忘れ去られていた状態で、過去への歴史的な憧憬は神話時代を除くとペルシア文学ではサーサーン朝後期のホスロー1世の時代が特に賞揚されてきた伝統によっている。特にホスロー1世は「公正なるアヌーシルワーン」(「不滅なる霊魂」を意味する中期ペルシア語、アノーシャグ・ルワーン anōšag ruwān に由来するアラビア語の訛音)とも呼ばれ、統治者・君主の模範として仰がれた。ペルシア語の通用したアナトリアやイラン高原以東の地域では、フェルドウスィーの『シャー・ナーメ』の他に、ホスロー2世を題材にしたニザーミーの『ホスローとシーリーン』などペルシア語文芸とともにサーサーン朝時代についての知識が受容された。
歴史
起源
サーサーン朝の起源については不明な点が多い。サーサーン朝を開いたのはアルダシール1世であるが、彼の出自は謎に包まれている。まず王朝の名に用いられているサーサーンと言う人物が何者であるのかもはっきりしない。サーサーンが王位に付いたという事実は現在までのところ確認されてはいないし、サーサーンに関する伝説でも、アケメネス朝の後裔とするものやパールスの王族であったとするもの、神官であったとするものなどがある。アルダシールの父親バーバク(パーパクとも)はパールス地方の支配権を持った王であり、サーサーン朝が実際に独立勢力となったのは彼の時代である。彼はサーサーンの息子とも遠い子孫ともいわれる。しかし、バーバクは間もなくパルティアと戦って敗れ、結局パルティアの宗主権下に納まった。そしてバーバクの跡を継いだアルダシール1世がサーサーン朝を偉大な帝国として起こすことになる。
アルダシール1世は西暦224年に即位すると再びパルティアとの戦いに乗り出し、エリマイス王国などイラン高原の諸国を次々制圧し、226年にはホルミズドの戦いでパルティア王アルタバヌス4世と戦って勝利を収め、「諸王の王」というアルサケス朝の称号を引き継いで使用した。この勝利によってパルティアの大貴族がアルダシール1世の覇権を承認するようになった。230年にはメソポタミア全域を傘下に納め、セウェルス朝の介入を排してアルメニアにまで覇権を及ぼした。東ではクシャーナ朝やトゥーラーンの王達との戦いでも勝利を納め、彼らに自らの宗主権を承認させ、旧パルティア領の大半を支配下に置くことに成功した。
以後サーサーン朝とローマ諸王朝(東ローマ諸王朝)はサーサーン朝が滅亡するまで断続的に衝突を繰り返した。アルダシール1世の後継者シャープール1世は、セウェルス朝との戦争で戦果を挙げた。244年、シリア地方の安全保障のためにサーサーン朝が占領していたニシビスなどの都市を奪回すべくゴルディアヌス3世がサーサーン朝へと侵攻した。これを迎え撃ったシャープール1世はマッシナの戦いでゴルディアヌス3世を戦死させた。そして、新皇帝となったフィリップスとの和平において莫大な賠償金を獲得した。後にヴァレリアヌスが再度サーサーン朝と開戦したが、シャープール1世は260年のエデッサの戦いでヴァレリアヌスを捕虜にするという大戦果を収めた。シャープール1世は馬上のシャープール1世にひざまずいて命乞いをするヴァレリアヌスの浮き彫りを作らせた。そしてこれ以後、「エーラーンとエーラーン外の諸王の王」(Šāhān-šāh Ērān ud Anērān)を号するようになった。
王位継承問題と弱体化
シャープール1世が死去すると長男のホルミズド1世(ホルミズド・アルダシール)が即位したが、間もなく死去したので続いて次男のバハラーム1世が即位した。バハラーム1世の治世ではシャープール1世の時代に祭司長となっていたカルティール(キルデール)が影響力を大幅に拡大していった。カルティールは王と同じように各地に碑文を残しており、その絶大な権力がうかがい知れる。ゾロアスター教の祭司として宗教活動に勤しんだ彼は異端宗教の排除を主張し、マニ教や仏教、ネストリウス派キリスト教などの排斥を進めた。マニ教の経典によればカルティールは教祖マニの処刑に関わっていたとされる。
バハラーム1世が死去すると、その弟であったナルセ1世と、息子であったバハラーム2世との間で不穏な気配が流れた。既にバハラーム1世の生前にバハラーム2世が後継者に指名されていたが、ナルセ1世はこれに激しく反発した。しかしカルティールや貴族の支持を得たバハラーム2世が即位した。バハラーム2世の治世にはホラーサーンの反乱や対ローマ戦の敗北などがあったが、ホラーサーンの反乱は鎮圧した。カルティールは尚も強い影響力を保持し続けた。バハラーム2世の死去後、その息子バハラーム3世が更に王位に就く。
ナルセ1世はこれに強く反対し、またカルティールなどと敵対する中小の貴族の支援を受けバハラーム3世を排除した。王位についたナルセ1世はメソポタミア西部やその他の州の奪回を目指して東ローマ軍と戦い、西メソポタミアを奪回。一方でアルメニアを喪失し、両国の間に和平協定が結ばれ、和平は40年間に渡って維持された。
統治体制の完成
ナルセ1世の死後、ホルミズド2世の短い治世を経てシャープール2世が即位した。シャープール2世は生まれる前に貴族や聖職者達によって擁立された。ホルミズド2世には多くの息子がいたが、長男は貴族たちによって殺害され、次男、三男は幽閉されて王位から退けられた。そしてまだ生まれてすらいない胎児であったシャープール2世が即位することが決定され、シャープール2世の母親のお腹の上に王冠が戴せられた。こうしてシャープール2世は生まれると同時に即位し、少年時代を通じて貴族達の傀儡として過ごした。しかし、長じるに順って実権を握りサーサーン朝史上最長の在位期間を持つ王となった。シャープール2世はスサの反乱を速やかに鎮圧し城壁を破壊。また前王の死後領内に侵入していたアラブ人と戦ってこれを撃退し、アラビア半島の奥深くまで追撃して降伏させた。ローマ軍との戦いでは、侵攻してきたユリアヌスを戦死させ、アルメニアの支配権を握るなどした。東方のトゥーラーンではフン族の一派と思われる集団が侵入したが、シャープール2世は彼らを同盟者とすることに成功した。
対外的な成功を続けたシャープール2世は、領内統治に関しては数多くの都市を再建し各地に要塞と城壁を築いて外敵の侵入に備えた。また、ナルセ1世以来の宗教寛容策を捨ててゾロアスター教の教会制度を整備し、キリスト教やマニ教への圧力を強めた。こうしてシャープール2世の治世では、サーサーン朝の統治体制が1つの完成を見たとされる。
中間期
シャープール2世の跡を継いで379年に王となったアルダシール2世、続くシャープール3世は短命に終わる。バハラーム4世の治世に入るとフン族が来襲したが、バハラーム4世は彼らを同盟した。
バハラーム4世の死後、ヤズデギルド1世が即位した。ヤズデギルド1世は「罪人」の異名を与えられているが、その真の理由は分かっていない。友人にキリスト教徒の医師がいたためにキリスト教に改宗したからだとも言われ、またヤズデギルド1世の許可の下でセレウキア公会議が開かれたためとも言われているが、ヤズデギルド1世がキリスト教徒に特別寛容であったかどうかは判然としていない。ヤズデギルド1世の死後、再び王位継承の争いが起き、短命王が続いた後バハラーム5世が即位した。
バハラーム5世の治世に東方からエフタルの侵入があった。バハラーム5世はこれを抑えて中央アジア方面でのサーサーン朝の勢力を拡大したが、以後エフタルはサーサーン朝の悩みの種となる。また、バハラーム5世はゾロアスター教聖職者の言を入れてキリスト教徒の弾圧を行ったために多くのキリスト教徒が国外へ逃亡した。亡命者を巡ってサーサーン朝とテオドシウス朝の間で交渉が持たれたが決裂、戦争に敗北し領内におけるキリスト教徒の待遇改善を約束した。
バハラーム5世の跡を継いだ息子のヤズデギルド2世は、テオドシウス朝との紛争の後、相互不可侵を結んだ。また父と同じくエフタルと戦い勝利を納めたが、国内において、キリスト教徒であったアルメニア人をゾロアスター教に改宗を迫り動乱が発生した。テオドシウス朝がアルメニアを支援したが、ヤズデギルド2世が勝利しキリスト教の煽動者を処刑、支配を固めた。
エフタルの脅威
ヤズデギルド2世の治世末期より、強大化したエフタルはサーサーン朝への干渉を強めた。ヤズデギルド2世は東部国境各地を転戦したが、決定的打撃を与えることなく西暦457年世を去った。彼の二人の息子、ホルミズドとペーローズ1世は王位を巡って激しく争いペーローズ1世はエフタルの支援を受け帝位に就いた。その後、ペーローズ1世はエフタルの影響力を排除すべく469年にエフタルを攻めたが、敗れてペーローズ1世は捕虜となり、息子のカワード1世を人質に差し出しエフタルに対する莫大な貢納を納める盟約を結んだ。旱魃により財政事情は逼迫、484年再度エフタルを攻めたが敗死した。
ペーローズ1世の死後、貴族達によってバラーシュ1世が推挙され帝位に就いたが、人質に出ていたカワード1世がエフタルの庇護の下でバラーシュ1世から帝位を奪った。しかし、マズダク教の扱いを巡り貴族達と対立したため幽閉されて廃位され、ジャーマースプが皇帝となった。幽閉されたカワード1世は逃亡してエフタルの下へ逃れ、エフタルの支援を受け再び首都に乗り込んだ。ジャーマースプは抵抗することなく帝位返還に同意、カワード1世が復位した。カワード1世はエフタルへの貢納の費用を捻出するため東ローマ領へ侵攻して領土を奪うとともに領内各地の反乱を鎮圧した。また、帝位継承に際して貴族の干渉を受けずにこれを行うことを目指し、後継者を息子のホスロー1世とした。
最盛期
カワード1世の跡を継いだホスロー1世の治世はサーサーン朝の最盛期と称される。ホスロー1世は父帝の政策を継承して大貴族の影響力排除を進め、またマズダク教の活動を抑制して社会秩序を回復、軍制改革にも取り組んだ。とりわけ中小貴族の没落を回避のため、軍備費用の自己負担を廃止して武器を官給とした。一方、宗教政策に力を入れ、末端にも聖火の拝礼を奨めるなど神殿組織の再編を試みた。
一方、東ローマではキリスト教学の発達に伴って異教的学問の排除が進み、529年にはアテネのアカデミアが閉鎖された。このために失業した学者が数多くサーサーン朝に移住し、ホスロー1世は学問を奨励して彼らのための施設を作って受け入れた。この結果、ギリシア語やラテン語の文献が多数翻訳された。
ホスロー1世からホスロー2世の時代にかけて、各地の様々な文献や翻訳文献を宮廷の図書館に収蔵させたと伝えられている。宗教関係では『アヴェスター』などのゾロアスター教の聖典類も書写され、これらの注釈などのために各種のパフラヴィー語による『ヤシュト』もこの時期に文書化された。『アヴェスター』書写のためアヴェスター文字も既存のパフラヴィー文字を改良して創制され、現存するゾロアスター教文献など一連のゾロアスター教資料群の基礎はこの時期に作成されたものを直接の起源としていると現在考えられている。現存しないが、後の『シャー・ナーメ』の前身となる、古代からサーサーン朝時代まで続く歴史書『フワダーイ・ナーマグ』(Χwadāy Nāmag)は、この頃に編纂されたと思われる。[1]
タバリーなどの後代の記録では、ホスロー1世の時代から(おもにホスロー2世の時代にかけて)ギリシア語に翻訳されていた古典の天文・医学・自然科学などの諸文献がパフラヴィー語(中期ペルシア語)へ大量に翻訳され宮廷の図書館へ収蔵されたことが伝えられており、さらに『パンチャ・タントラ』などのインド方面のサンスクリット諸文献も積極的に移入・パフラヴィー語訳が作られたという。(この時期のインド方面からの文物の移入については、例えば、チェスがインドからサーサーン朝へ移入された経緯が述べられているパフラヴィー語による歴史物語、『チャトラング(シャトランジ)解き明かしの書』もホスローと彼に仕えた大臣ブズルグ・ミフルの話である。)
5世紀前後からオマーンやイエメンといったアラビア半島へ遠征や鉱山開発などのため入植を行わせており、イラク南部のラフム朝などの周辺のアラブ系王朝も傘下に置くようになった。
ホスロー1世は、ユスティニアヌス1世の西方経略の隙に乗じて圧力を掛け貢納金を課し、また度々東ローマ領へ侵攻して賠償金を得た。ユスティニアヌス朝との間に50年間の休戦を結ぶと、東方で影響力を拡大するエフタルに対して突厥と同盟を結び攻撃を仕掛け、長年の懸案であったエフタルを滅亡させた。一方でエフタルの故地を襲った突厥との友好関係を継続すべく婚姻外交を推し進めたが対立に至り、結局エフタルを滅ぼしたものの領土の拡張は一部に留まった。
滅亡
ホスロー1世の死後、息子のホルミズド4世が即位。590年にクーデターに遭い、両目を潰された後、処刑された。跡を継いでホルミズド4世の息子ホスロー2世が即位したが、東方でバフラーム・チョービーンの反乱が発生したためホスロー2世は東ローマ国境付近まで逃走した。ユスティニアヌス朝のマウリキウスの援助を得て反乱を鎮圧したが、当のユスティニアヌス朝で政変が起こりマウリキウスが殺されフォカスが帝位を僭称すると、仇討を掲げて攻めた。初戦で大勝を収め、613年にはシリアのダマスクス、翌614年にはエルサレムを陥落させ、615年にはエジプト全土を占領し、アナトリアを占領、アケメネス朝の旧領域を支配地に組み入れた。このときエルサレムから「真なる十字架」を持ち帰ったという。
東ローマ帝国では610年にヘラクレイオスがフォカスを倒して皇帝位に即き、ヘラクレイオス朝を興していた。ホスロー2世によるサーサーン朝軍の連年の侵攻によって、ヘラクレイオスは即位直後からシリア、聖地エルサレム、エジプトなど帝国領土の大半を失陥することになり、一時はコンスタンティノープルも包囲されヘラクレイオス自身も故地カルタゴまで逃亡を計ろうとした。しかし、622年に反撃へ転じ、被占領地を避け黒海東南部沿岸から直接中枢部イラクへ侵入した。サーサーン朝はアヴァールと共同でヘラクレイオス不在の首都コンスタンティノポリスを包囲したが撃退される。ヘラクレイオスの親卒する東ローマ軍がクテシフォン近郊へ侵攻、ホスロー2世の長年に渡る戦争と内政を顧みない統治で疲弊を招いていた結果、クテシフォンで反乱が起こりホスロー2世は息子のカワード2世に裏切られ殺された。
カワード2世は即位するとヘラクレイオス朝との関係修復のため聖十字架を返還したが、程なくして病死。王位継承の内戦が発生した。長期に渡る混乱の末、29代目で最後の王となるヤズデギルド3世が即位したが、サーサーン朝の国力は内乱やイラク南部におけるディジュラ・フラート河とその支流の大洪水に伴う流路変更と農業適地の消失(湿地化の進行)により消耗していた。
アラビア半島に勃興したイスラム共同体が勢力を拡大、東ローマ領に続きサーサーン領へ侵入し始める。633年にハーリド・イブン=アル=ワリード率いるイスラム軍がイラク南部のサワード地方に侵攻。現地のサーサーン軍は敗れ、サワード地方の都市の多くは降伏勧告に応じて開城した。636年カーディシーヤの戦いで敗北、首都クテシフォンが包囲されるに及んでヤズデギルド3世は陥落前に逃亡、サーサーン朝の領国では飢饉や疫病が蔓延していたという。クテシフォンの北東にあったジャルーラーウでザグロス山脈周辺から軍を召集して反撃を試みたが、イスラム軍の攻撃を受け大敗した。
641年にヤズデギルド3世はライ、クーミス、イスファハーン、ハマダーンなどイラン高原西部から兵を徴集して6万とも10万とも言われる大軍を編成、対してウマルも軍営都市のバスラクーファから軍勢を招集する。642年にニハーヴァンドの戦いでサーサーン軍とイスラム軍は会戦、サーサーン軍は敗れた。敗戦後イスファハーンからパールス州のイスタフルへ逃れたが、イスファハーンも643年から644年にかけてイスラム軍に制圧された。再起を計って東方へ逃れケルマーンやスィースターンへ赴くが、現地辺境総督(マルズバーン)の反感を買って北へ逃れざるを得なくなりホラーサーンのメルヴへ逃れた。しかし、651年にヤズデギルド3世はメルヴ総督のマーフワイフの裏切りにより殺害され、サーサーン朝は断絶した。
サーサーン朝の滅亡は、ムスリムにとってはイスラーム共同体が世界帝国へ発展していく契機となった栄光の歴史として記憶されている。
固有名詞の分類
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