ローマとの戦争
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193年頃、ローマ皇帝コンモドゥスが側室や親衛隊などの手で暗殺され、新たにペルティナクスがローマ皇帝となった。だがペルティナクスもわずか3ヶ月で暗殺され、ローマでは何人もの皇帝が乱立し、深刻な内乱が発生した。これに対してヴォロガセス5世は乱立したローマ皇帝の1人ニゲルを支持し、ローマ領シリア、そしてアナトリア東部に侵入した。 ローマの内乱では属州パンノニアの総督であったセプティミウス・セウェルス(ポエニ系の人物であり、彼の家族はフェニキア語しか話せなかったという)がローマ市に無血入場し、他の皇帝に対し優位にたった。セウェルスはニゲルに対抗してアナトリアへ向かい、パルティア軍はニシビス(現トルコ領ニサイビン)でこれに対したが敗れて撤退した。 196年、ガリアでの反乱鎮圧のためにセウェルスが西へ向かうと、ヴォロガセス5世は反撃に転じたが、従属王国の1つアディアバネ王国の王ナルセスの反乱が発生したためこれを攻撃してナルセスを殺した。197年にはセウェルスが再び前線に戻り、パルティア領内に侵入してきた。ヴォロガセス5世は兵力をまとめてクテシフォンまで撤退したが、劣勢となり更に退却したため198年にはクテシフォンはローマに占領された。 しかし補給部隊を叩いてローマ軍を撤退に追い込むことに成功し、戦争は終結した。
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ローマとの戦争
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「アンティオコス3世 (セレウコス朝)」の記事における「ローマとの戦争」の解説
詳細は「ローマ・シリア戦争」を参照 アンティオコス3世はさらなる拡大のため、アナトリアにあったアッタロス朝(ペルガモン王国)やエーゲ海地方への進出を目指した。紀元前196年頃にはトラキアにまで進んだものの、これらの事態に対しギリシアの諸小国は、第二次ポエニ戦争に勝利し地中海での影響力を拡大していた共和政ローマに支援を求めた。すでにポエニ戦争中よりギリシアのアエトリア同盟とローマは同盟関係を結んでおり、ギリシア地方に勢力を拡大しようとするセレウコス朝とローマとの対立は著しいものとなった。 アンティオコス3世はローマとの戦いに敗れて逃れてきたカルタゴの将軍ハンニバルの影響もあってか、寡少な戦力を持ってギリシアへ進軍したが、ローマも対抗してマニウス・アキリウス・グラブリオの指揮の下で軍を派遣し、紀元前191年にテルモピュライの戦いで両軍は激突した。 アンティオコス3世はこの戦いで敗れ、アナトリアに撤退した。その後、再び軍を整えてローマ軍に相対したが、マグネシアの戦いでスキピオ・アシアティクスとスキピオ・アフリカヌスの率いるローマ軍に決定的な敗北を喫し、アパメアの和約を結んでローマと講和した。この和約によって、セレウコス朝は他国との同盟、捕虜の獲得の禁止、軍備制限などを課せられ、膨大な賠償金を要求された。 この敗北は、アンティオコス3世がそれまでの勝利で得てきた多くの成果を無に帰した。パルティアやバクトリアではただちに離反の動きが強まり、アナトリア方面での領土も失われた。ローマへの賠償金支払いの財源に困ったアンティオコス3世は、スサの神殿で略奪してそれを確保しようとしたが、現地人の猛反発を受け、紀元前187年に暗殺された。そして息子のセレウコス4世が王位を継いだ。
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ローマとの戦争
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「アンティオコス3世」の記事における「ローマとの戦争」の解説
詳細は「ローマ・シリア戦争」を参照 アンティオコス3世は更なる拡大のため、アナトリアにあったアッタロス朝(ペルガモン王国)やエーゲ海地方への進出を目指した。紀元前196年頃にはトラキアにまで進んだものの、これらの事態に対しギリシアの諸小国は第二次ポエニ戦争に勝利し地中海での影響力を拡大していた共和政ローマに支援を求めた。すでにポエニ戦争中よりギリシアのアエトリア同盟とローマは同盟関係を結んでおり、ギリシア地方に勢力を拡大しようとするセレウコス朝とローマとの対立は著しいものとなった。 アンティオコス3世はローマとの戦いに敗れ逃れてきたカルタゴの将軍ハンニバルの影響もあってか、寡少な戦力を持ってギリシアへ進軍したが、ローマも対抗してマニウス・アキリウス・グラブリオの指揮の下で軍を派遣し、紀元前191年にテルモピュライの戦いで両軍は激突した。 アンティオコス3世はこの戦いで敗れアナトリアに撤退した。その後再び軍を整えてローマ軍に相対したがマグネシアの戦いでスキピオ・アシアティクスとスキピオ・アフリカヌスの率いるローマ軍に決定的な敗北を喫しアパメアの和約を結んでローマと講和した。この和約によってセレウコス朝は他国との同盟、捕虜の獲得の禁止、軍備制限などを課せられ、膨大な賠償金を要求された。 この敗北はアンティオコス3世が今までの勝利で得てきた多くの成果を無に帰した。パルティアやバクトリアではただちに離反の動きが強まり、アナトリア方面での領土も失われた。ローマへの賠償金支払いの財源に困ったアンティオコス3世は、スサの神殿で略奪してそれを確保しようとしたが、現地人の猛反発を受け紀元前187年に暗殺された。そして息子のセレウコス4世が王位を継いだ。
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ローマとの戦争
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詳細は「ミトリダテス戦争」を参照 伝えられるところによれば、紀元前88年に西アナトリアを征服した後に、ミトリダテス6世はそこに住む全てのローマ人の殺害を命令し、男・女・子供の別は無く約8万人のローマ人が殺害されたとされる(この事件は「Asiatic Vespers」として知られる)。カッパドキア王アリオバルザネス1世も追放、息子のアリアラテス9世を王位に就けた。 ミトリダテス6世がギリシアへの侵入を企てたことにより、ルキウス・コルネリウス・スッラはミトリダテス追討の為に軍を率いてギリシアに向かったが、その直後にスッラ不在のローマに民衆派のガイウス・マリウスが軍を率いて攻め込みローマ市を制圧。マリウスが全権を掌握すると共にスッラに与する閥族派を殺害するに及んだものの、マリウスは暫く後に死亡した。マリウス死後に実権を握ったキンナはミトリダテス6世討伐の「正規軍」を派遣(実態はスッラへの対応)したことから、ミトリダテス6世にとっては眼前のスッラ率いるローマ軍を挟撃できる好機でもあったが、スッラ軍と2度戦って共に敗北した。それでも不利な情勢にあるスッラに対し有利な条件で講和を結ぶよう手回ししたが、スッラは応じずミトリダテス6世は撤兵を余儀なくされた(第一次ミトリダテス戦争)。 紀元前83年、ローマ軍が先の戦争で結んだ講和を破り、カッパドキア及びポントス領へと侵攻。ミトリダテス6世はローマへ抗議の使者を送ると共に軍を率いて迎撃してローマ軍を撃破。その後の講和で若干ながら領土を得た(第二次ミトリダテス戦争)。 紀元前74年、ローマがビテュニアを併合(実際にはビテュニア王ニコメデス4世がローマへ領土を遺贈)したことに異を唱えアルメニアやボスポロスと結んでビテュニアを攻撃。ローマと再び戦端を開いた。最初にルキウス・リキニウス・ルクッルス、次にグナエウス・ポンペイウスと相対し、一時期は優位に戦況を進めるが最終的にミトリダテス6世の敗北に終わった(第三次ミトリダテス戦争)。
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ローマとの戦争
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270年にローマ皇帝となったルキウス・ドミティウス・アウレリアヌスは北方異民族の侵入を撃退すると、ローマから分離・割拠した西のガリア帝国、東のパルミラ王国に目を向けた。アウレリアヌスはパルミラに降伏を勧告したが、272年にゼノビアはアウグストゥスの女性形である「アウグスタ」を自称、ウァバッラトゥスには「アウグストゥス」を名乗らせると共にこれを記念した貨幣を発行し、ローマに対抗する姿勢を見せた。 272年、アウレリアヌスはパルミラへ親征し抵抗したビザンティオン等を陥落させた。ゼノビアはウァバッラトゥスと共に軍を率いてローマ軍を迎え撃った。ゼノビア自らが陣頭に立って士気を鼓舞し、戦闘指揮はアエギュプトゥス攻略で活躍したザブダスに委任したが、2度の戦い(アンティオキア近郊及びエメサ)にいずれも大敗を喫し、ウァバッラトゥスは戦死した(捕虜となった後に死亡したともされる)。 ゼノビアはパルミラへと逃れて、籠城準備を整えた。ローマ軍はパルミラを包囲したが、兵站線が延びきっていたことに加えて、現住のアラブ人による攻撃が包囲を困難とした。当初、ゼノビアはサーサーン朝からの支援も期待していた。しかしエジプトを攻略したプロブスが軍を率いてパルミラへ到着したため、ローマ軍の兵站線が確保され、軍勢は飛躍的に増加した。敗戦を悟ったゼノビアはペルシアへ逃亡を図ったものの、ユーフラテス川を越える前にローマ軍に捕縛された。弁明の場においてはローマに対する反乱の責任を臣下達に押し付け、自らは命乞いに徹したという。結局、ゼノビアは助命されたが、引き換えに配下の将兵達は処刑された。この後パルミラ市はローマに降伏。273年に王国は瓦解した。
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ローマとの戦争
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紀元前3世期後半、ボイイ族は北イタリアの他のガリア人やエトルリア人と同盟を組み、ローマと対立した。彼らはハンニバルに従って戦い、紀元前216年にローマの将軍ルキウス・ポスティミウス・アルビヌス (en)を殺害し、その頭蓋骨で生贄用ボウルを作ったという。その少し前、紀元前224年にテラモンの戦いでローマ軍に敗退し、紀元前193年にはムティナ(現在のモデナ)近郊で決定的に敗退した。本拠地を失ったボイイ族の大半はイタリアから去っていった。
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