スキピオ・アフリカヌスとは? わかりやすく解説

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スキピオ・アフリカヌス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/26 02:44 UTC 版)

プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アフリカヌス・マイヨル: Publius Cornelius Scipio Africanus Major, 紀元前236年 - 紀元前183年頃)は、共和政ローマの政治家、軍人プリンケプス・セナトゥスに3回指名された。スキピオ・アフリカヌスと称され、妻の甥に当たるスキピオ・アエミリアヌス(小スキピオ)と区別して大スキピオとも呼ばれる。第二次ポエニ戦争後期に活躍し、カルタゴの将軍ハンニバルザマの戦いで破り戦争を終結させた。グラックス兄弟の外祖父にあたる。


  1. ^ 現地民の族長であり、恩義を感じていたこの族長はスキピオの軍団編成を支援したという。
  2. ^ ここでのスキピオの行動は史家の間でも評価が分かれている。批判的なものとして、敗北させたハスドルバルを追跡しなかったことでローマ領であるガリア・トランサルピナからイタリアへの侵入を許してしまったという意見がある。一方、擁護的な意見としては、スキピオ自身にはヒスパニア戦線をこれ以上大きく展開させる意思がなかったこと、西へ逃れたハスドルバルを追跡することで東からギスコのカルタゴ勢によって挟み撃ちにされる危険性を危惧していたことなどが理由として挙げられている。また一説には、攻め落とした敵拠点を略奪したい自軍の兵士たちの要求に押されて動くに動けなかったともいわれている。
  3. ^ スキピオがヌミディアに赴いたこの時、イリッパの敗戦でヒスパニアから逃れた敵将ギスコも海路カルタゴへの帰還中にヌミディアに立ち寄っており、両者は出会っていたという話もある。それによると、相互不可侵の中立領域の港だったので両者とも平和裏に接し、シュファクス主催の晩餐に出席したという。スキピオの人格にギスコは非常に感銘を受けたという。
  4. ^ ここでのスキピオの戦術も評価と非難とが相半ばしている。評価する側は、前述のポリュビオスのようにスキピオが戦った中で一番目覚しい功績を挙げたと賞賛を惜しまない。他方非難する側の例としては、19世紀アメリカの軍事史家セオドア・エアオール・ドッジ(Theodore Ayrault Dodge)の「このだまし討ちはスキピオの臆病さから出た行為であり全体での戦況からすれば賞賛するには当らない」という言葉が挙げられる。もっとも戦略的に見れば、この夜襲によってシュファクスの軍勢を脱落させることができ、ウティカの包囲を強固にするという成果を挙げたことは確かである。
  5. ^ この時ハンニバルが引き連れてきた兵士とはどこの兵士だったのかということについては、現代の歴史家の間でも諸説ある。ある者はハンニバル麾下の歴戦の兵士たちは長い戦役でほとんど死に絶えてしまい、南イタリアで現地採用したイタリア人を連れて来ざるを得なかったと言い、ある者はイタリア戦役での損失は主に現地採用兵であったのでハンニバルは子飼いの精鋭部隊を温存しており、そのまま本国へ連れてきたと言っている。いずれにせよハンニバルはその長い戦役を通じて自らの精鋭部隊の補充を怠る事はなかっただろうし、帰国するにあたって兵士たちの中でも最良の者たちを連れてきたことは確かだろう


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