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アッタロス朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/03/06 04:03 UTC 版)
アッタロス朝(英語:Attalid dynasty、紀元前282年 - 紀元前133年)とは、セレウコス朝から独立しアナトリア西部を治めた王国である。ヘレニズム国家の一つで、ペルガモン王国やアッタロス朝ペルガモンとも称される。
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歴史
アッタロス朝の歴史は、パフラゴニア人であるフィレタイロスがペルガモンの管理をリュシマコスによって任されたときに始まる。セレウコスのアジア侵入時に、フィレタイロスはリュシマコスを裏切り、リュシマコスが破れると、セレウコス朝の主権の下でペルガモンを統治した。その後、アンティオコス1世がセレウコス朝の王位につくと、フィレタイロスはセレウコス朝と同盟を結ぶとともに、他の国家や都市との関係を深めた。
紀元前263年にピレタイロスの甥エウメネス1世が王位を継承すると、アッタロス朝は、プトレマイオス朝と友好的な関係になり、これを後ろ盾として、アンティオコスに対して進軍をする。サルディス(en)近郊でセレウコス朝を破ったエウメネス1世は、セレウコス朝からの独立を果たした。一方、当時小アジアの国家や都市にとって脅威となっていたガラティア人に対しては、進貢により彼らの略奪を避けるという方法をとった。
紀元前241年にアッタロス1世がエウメネス1世の後を継ぐと、ガラティア人に対しての進貢を止め、その結果起こった戦争でガラティア人を破った。この勝利によってアッタロス1世は王の称号を得るとともに、周辺都市からは救済者(soter)として迎えられた。 その後、アッタロス1世は、アンティオコス・ヒエラクス、セレウコス3世との戦争に勝利し、小アジアでの領土を拡大するが、まもなくセレウコス朝の軍隊を率いるアカイオスによって領土の多くを奪われた。アカイオスが自らを独立した君主と宣言したため、アッタロス1世はアンティオコス3世とともにこれを破り、その結果、アンティオコスは小アジアでもセレウコス朝の領土を再び確立することになった。東方での戦いの一方で、アッタロス1世は、アイトリア同盟やデルポイに寄付を行うことにより、西方との友好関係を築きつつあった。共和政ローマとマケドニア王ピリッポス5世との間に戦争が起こると、アイトリア同盟の友好国としてアッタロス1世はローマ側に加わり、その結果アッタロス朝はローマの友好国となった。ピリッポス5世が東方への遠征を開始すると、アッタロス1世はロドスとともにピリッポス5世の軍隊と戦うとともに、ローマにこのことを報告した。アッタロス1世自身は、この戦争でローマ軍とともに戦う中で死亡するが、ローマの協力を求めたことは、その後のローマの東方進出への道を開いたと言える。これらの戦争の一方で、アッタロス1世は、都であるペルガモンに壮麗な建物を建て、また芸術品を集めた。
アッタロス1世の息子エウメネス2世が王位を継いだのちも、ローマとの友好的な関係は続けられた。アンティオコス3世が小アジア西部に侵入すると、諸都市はローマに救援を求めたため、ローマはアンティオコス3世に対して開戦(シリア戦争)し、エウメネス2世もその同盟関係からローマ側にたって参戦した。エウメネス2世は、特にセレウコス朝の敗北を決定づけるマグネシアの戦いで活躍した。 その後アパメアにおいて、ローマのマンリウス・ウルソ率いる和平使節により領土の調停が行われ、アッタロス朝は小アジアの大部分の領土を獲得することになった。一方で、エウメネス2世はガラティアに遠征を行い、その勝利によってアッタロス1世と同じように救済者の称号を得た。マケドニアのペルセウスとガラティア人に対する戦いのあたりから、アッタロス朝とローマとの関係は悪化した。その他の地域との関係では、セレウコス朝とは同盟関係にあり、カッパドキアのアリアラテス4世、ポントスのミトリダテス4世などとの関係も良好であり、ただビテュニアのプルシアス2世だけがアッタロスに対して敵意を持っていた。エウメネス2世は、芸術の後援者としてもアッタロス1世を引き継ぎ、図書館やゼウスの祭壇を設立した。
アッタロス2世がエウメネス2世より王位を継ぐと、論争を招くようなすべての事案に対してローマに報告するようになり、ローマとの関係も改善された。また、アッタロス朝に対して敵意を抱いていたビテュニアとも、プルシアス2世に代わりニコメデス2世が王位に就くと、関係が改善された。
紀元前139年になると、アッタロス3世が王位に就いた。アッタロス3世は紀元前133年に、自らの王国をローマに委ねるという遺書を残して死んだ。アッタロス3世の死後、エウメネス2世の庶子と考えられるアリストニコスが王位を要求して反乱を起こすが、小アジアの国々の援助を受けたローマ軍が鎮圧し、アッタロス朝の領土はローマに帰すことになった。
経済
穀物、鉱物、毛織物などの生産が活発で富にあふれた国家であった。 王国の主要な収入源は、従属都市などに課された生産物の10分の1を収める税であった。また王国内に輸送された品物に課される関税もあった。戦争時には臨時に課される税もあった。農村部の土地所有者は土地税を支払い、支払いができないときは土地を奪われ、王の財産とされた。軍事植民地では、税を払うという条件の下で兵士に土地が与えられた。神殿に属する財産を利用するために、王が神殿管理者を指名したり、神殿の収入源を没収することもあった。その他、王室工場で生産される織物、なめし革、羊皮紙、王領からの生産物も大きな収入源であった。
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