フランス軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/19 19:52 UTC 版)
フランス軍(フランスぐん、フランス語: Forces armées françaises)は、フランス陸軍(Armée de Terre française)・フランス海軍(Marine nationale)・フランス航空宇宙軍(Armée de l'air française)およびフランス国家憲兵隊(Gendarmerie nationale française)を保有するフランスの軍隊。仏軍とも。
- 1 フランス軍とは
- 2 フランス軍の概要
フランス軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 01:16 UTC 版)
フランス軍は約40万人の常備兵で構成されており、その内の幾らかはクリミア戦争、アルジェリア戦役、イタリアでのオーストリアとの戦争、メキシコ出兵などを経験した歴戦の古参兵たちであった。 フランスは、国民皆兵による徴兵制の元祖とも言える国だったが、成年男子のうち少数が服するにすぎず、富裕層は金銭によって代理を立てることもできた。徴兵期間は7年と長い一方、予備役も後備役も無かったため、一般国民との遊離が顕著だった。ナポレオン3世は、1867年、アドルフ・ニール(英語版)にこの制度を改革させ、現役5年予備役4年とし、さらに兵役以外の者で「遊撃軍」を編成した。しかし、立法院の反対により、「遊撃軍」は有名無実化してしまっていた。1869年、後任のエドモン・ルブーフ(英語版)は、制度の不評のため改革を有効に実施できなかった。ルブーフは、数日で30万人を動員できると試算したが、輸送力や兵站の致命的欠陥により、実際は20万人未満だった。 歩兵は、当時の世界で量産されていた火器としては最新式といえる後装式のシャスポー銃を装備していた。ガス漏れ防止ゴムリングと小さめの弾丸を採用したことにより、シャスポー銃の最大有効射程は約1500mであり、装填時間も短かった。砲兵はライフリングを施した前装式のライット4砲(弾丸重量4kg)を装備していた。それに加えて、フランス軍は機関銃のさきがけともいえるミトラィユーズを装備していた。ミトラィユーズは大量の火力を集中できる強力な兵器であったが、射程が短い事と比較的機動性が低い事が欠点で、このため容易に撃破されがちだった。ミトラィユーズは砲架の上に取り付けられ、野砲と同じように砲兵隊の中に組み入れられた。フランス軍は名目的にはナポレオン3世がフランソワ・アシル・バゼーヌ、パトリス・ド・マクマオン、ルイ・ジュール・トロシュらの元帥とともに率いていた。
※この「フランス軍」の解説は、「普仏戦争」の解説の一部です。
「フランス軍」を含む「普仏戦争」の記事については、「普仏戦争」の概要を参照ください。
フランス軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/27 10:10 UTC 版)
デュムーリエの軍勢はオーストリア軍の2倍の人数だった。彼自身の北方軍には歩兵32,000、騎兵3,800、大砲100門があり、ジュマップではさらにフランソワ・ダルヴィル将軍(François d'Harville)率いる兵士4,000と大砲15門の支援を受けた。多くの年上の指揮官は経験豊富な兵士か貴族であり、その最たる例が中央部を率いたシャルトル公爵(後のフランス王ルイ=フィリップ1世)であった。右翼はピエール・リール・ド・ベルノンヴィル(英語版)が、左翼はジャン・アンリ・ベケー・フェラン(英語版)が指揮した。ダルヴィルは右翼への増援として投入された。 デュムーリエは数的優勢でオーストリア軍を押し切って陣地を奪取するつもりだった。計画ではまずベルノンヴィルとダルヴィルが攻撃した後、オーストリア軍の弱点である左翼を包囲する予定だった。続いて、フェランがジュマップの前にあるケアレニョン(英語版)を占領、ベルノンヴィルがオーストリア軍中央部を攻撃、ダルヴィルがモン・パリセルに移動して退路を断つ予定だった。
※この「フランス軍」の解説は、「ジュマップの戦い」の解説の一部です。
「フランス軍」を含む「ジュマップの戦い」の記事については、「ジュマップの戦い」の概要を参照ください。
フランス軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 08:05 UTC 版)
復位したナポレオンの戦略は英蘭軍とプロイセン軍を分断し、各個撃破することであった。ワーテルローの戦いに参加したナポレオンの北部方面軍(Armée du Nord)は72,000人で歩兵57,000、騎兵15,000、大砲250門からなっている。ナポレオンは政権を奪取すると18万人のルイ18世の軍隊に加えて緊縮財政のために長期休暇や非公式に除隊させられていた兵や1814年戦役で脱走していた者たちといった実戦経験のある兵をかき集めており、彼ら古参兵を中核に訓練未熟な新兵を合わせたものがワーテルローの戦いのナポレオンの軍隊だった。古参兵たちの士気は高く「前年の恥辱を晴らすべく、狂信的な熱意を示していた」と伝えられる。兵器は比較的充足していたが、多年の戦乱によって軍馬が著しく不足しており、馬術も不十分だった。この戦いのフランス軍騎兵は14個胸甲騎兵連隊、7個槍騎兵連隊からなっていた。 この戦いの1年前の1814年のフランス戦役ではナポレオンは圧倒的に不利な状況の中、彼の最高傑作といわれる程の戦術的技量を示した。だが、この1815年戦役では肉体的な衰えを見せており、何よりも時間を浪費しがちで戦機を幾度も失っている。長年、ナポレオンの参謀総長を務めたベルティエがナポレオンの復位に馳せ参ぜずドイツで自殺しており、代わってスールト元帥が総参謀長に就任したことも打撃となった。スールトは優れた野戦指揮官であったが、参謀畑には不慣れであり、ナポレオンの簡潔にすぎかつしばしば意味不明瞭な命令を適確に解釈して完璧な命令文書に仕上げるベルティエの特別な能力も持ち合わせていなかった。この結果、スールトは幾度も不手際や意味不明瞭な命令文書伝達を繰り返し、その度にフランス軍の作戦行動を鈍らせている。戦後、ナポレオンはスールトを「よい参謀長ではなかった」と述懐している。 北部方面軍の左翼を任され、ワーテルロー会戦では実戦指揮を執ることになるネイ元帥はナポレオンから「勇者の中の勇者」と呼ばれた歴戦の猛将であったが、ロシア遠征以後は移り気になり、気力の衰えを見せていた。前哨戦のカトル・ブラの戦いでは徒に逡巡して英蘭軍に決定的打撃を与える機会を逃している。ナポレオンもネイの戦略能力は低く評価していたが、ネイが兵士たちからカリスマ的人気を得ていたことが軍の一翼を任せた理由だった。
※この「フランス軍」の解説は、「ワーテルローの戦い」の解説の一部です。
「フランス軍」を含む「ワーテルローの戦い」の記事については、「ワーテルローの戦い」の概要を参照ください。
フランス軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/08 23:53 UTC 版)
「ナイト ミュージアム2」の記事における「フランス軍」の解説
ナポレオンの手下。青・白・赤というフランス国旗をモチーフにした軍服に赤い羽根飾りの付いた軍帽を被り、銃剣付きの銃を持っている。
※この「フランス軍」の解説は、「ナイト ミュージアム2」の解説の一部です。
「フランス軍」を含む「ナイト ミュージアム2」の記事については、「ナイト ミュージアム2」の概要を参照ください。
フランス軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/22 22:07 UTC 版)
「タイ・フランス領インドシナ紛争」の記事における「フランス軍」の解説
インドシナのフランス軍は約50,000人で構成され、41個歩兵大隊、2個砲兵連隊、および工兵大隊で構成されていた。そのうちフランス人は12,000人で、残りはインドシナ人であった。フランス軍は装甲車両が不足しており、タイ王国陸軍の約100台に対してルノー FT-17 軽戦車わずか20台しか配備していなかった。タイ国境近辺は、第3トンキン狙撃兵連隊(フランス語版)と第4トンキン狙撃兵連隊(フランス語版)(トンキン狙撃兵)のインドシナ軍を主力として、モンタニャール(英語版)大隊、植民地歩兵連隊(英語版)の大隊、フランス外人部隊などが駐留していた。 海軍は軽巡洋艦ラモット・ピケ1隻、通報艦デュモン・デュルヴィル(フランス語版)、アミラル・シャルネ(フランス語版)、タウール(フランス語版)、マルヌの4隻を有していた。 空軍は約100機、うち稼働機は約60機を持っていたと思われる。内訳は、ポテーズ 25 TOE偵察/戦闘爆撃機30機、ファルマン F.222重爆撃機4、ポテーズ 542(フランス語版)爆撃機6、モラーヌ・ソルニエ MS.406戦闘機9、ロワール 130偵察/爆撃機8。
※この「フランス軍」の解説は、「タイ・フランス領インドシナ紛争」の解説の一部です。
「フランス軍」を含む「タイ・フランス領インドシナ紛争」の記事については、「タイ・フランス領インドシナ紛争」の概要を参照ください。
フランス軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 14:22 UTC 版)
フランス軍は一部の部隊指揮官が社交のためにパリへ出向いており招集に間に合わないなど、指揮官の足並みが乱れており、総指揮官のアンギャン公も若干22歳と経験不足だった。しかしJean de GassionやBaron de Sirotなどの経験豊富な指揮官も擁していた。 しばしばフランス軍は軽量で機動性の高い野戦砲を装備していたと言われるが、裏付けとなる明確な史料は残されていない<。
※この「フランス軍」の解説は、「ロクロワの戦い」の解説の一部です。
「フランス軍」を含む「ロクロワの戦い」の記事については、「ロクロワの戦い」の概要を参照ください。
フランス軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 03:26 UTC 版)
トーチ作戦実行時、カサブランカには次の艦艇が存在していた。 戦艦ジャン・バール 第2軽戦隊(司令官レイモン・ゲルベ・ド・ラフォンド少将)軽巡洋艦プリモゲ 大型駆逐艦ミラン、アルバトロス、ル・マラン 駆逐艦ラルション、フグー、フロンデュール、ブーロネー、ブレストア、タンペート、シムーン スループ、掃海艇など19隻 潜水艦11隻 これらカサブランカのフランス海軍部隊はFélix Michelier中将の指揮下にあった。戦艦ジャン・バールは艤装中であり航走しての戦闘は不可能であったが38cm主砲は第一砲塔の4門のみ砲撃が可能であった。また、大型駆逐艦ル・マランはドックに入っており、駆逐艦タンペートとシムーンは衝突による損傷の修理中であった。このほか、カサブランカとフェドハラ周辺には、4門の194mm砲など備えたエル・ハンク (El Hank) 砲台など複数の砲台が存在していた。
※この「フランス軍」の解説は、「カサブランカ沖海戦」の解説の一部です。
「フランス軍」を含む「カサブランカ沖海戦」の記事については、「カサブランカ沖海戦」の概要を参照ください。
「フランス軍」の例文・使い方・用例・文例
- フランス軍はワーテルローの戦いで敗北した。
- 同意された方針は、いくつかの地点にいるフランス軍隊を確実に占拠した位置から撤退させることを伴うものだった
- フランス軍はドイツを打ち負かした
- フランス北部の戦いで、ヘンリー5世率いる英国人の大弓の射手が、1415年にはるかに大きなフランス軍を決定的に破った
- 初代モールバラ公爵とサヴォイのウジェーヌ王子は、スペイン継承戦争の1704年にフランス軍を破った
- 1214年、フィリップ・アウグスツス王率いるフランス軍は中世で最大規模の激戦の1つとされる戦いで敵の連合軍を破った
- 1745年の戦争で、サクセ元帥率いるフランス軍がカンバーランド侯爵率いる英国軍とその同盟軍を破った
- メキシコ軍が1862年にフランス軍を破った戦い
- 1792年にフランス軍はオーストリア、プロシア軍を破った(フランス砲兵隊による連続砲撃は有名)
- 1815年6月18日の戦いで、ブリュッハーとウェリントン公爵率いるプロシア軍と英国軍がナポレオン率いるのフランス軍を破った
- フランス軍の勲章
- フランス国外における軍務のための、フランス軍のかつての外国人部隊
- エドワード3世の息子で、百年戦争中に、クレシーとポアティエでフランス軍を破った(1330年−1376年)
- フランスの将軍で、アメリカ革命において、特にヨークタウンでフランス軍隊を指揮した(1725年−1807年)
- フランス軍のページへのリンク