【戦闘爆撃機】(せんとうばくげきき)
戦闘機としての任務と、攻撃機としての任務を併せ持つことが可能な戦闘機のこと。
戦闘攻撃機に比べて明確な区分はないが、爆弾や空対地ミサイル・空対艦ミサイルの搭載量が多い一方、堅牢なハードポイントを持つため運動性能が低く、空対空戦闘よりも対地攻撃に主任務が置かれた戦闘機を指すことが多い。
戦闘爆撃機
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/11 10:13 UTC 版)
戦闘爆撃機(せんとうばくげきき)は、爆弾などを搭載し対地攻撃を行う武装搭載量が多い戦闘機[1]。戦闘攻撃機(せんとうこうげきき)も同項で扱う。
注釈
出典
- 1 戦闘爆撃機とは
- 2 戦闘爆撃機の概要
- 3 脚注
戦闘爆撃機
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/09 07:56 UTC 版)
「メッサーシュミット Bf110」の記事における「戦闘爆撃機」の解説
Bf110は制空戦闘機・長距離護衛戦闘機としてはバトル・オブ・ブリテンでの失敗で否定されたが、腐っても戦闘機であり双発機としては高速を誇り、哨戒や船団護衛任務であればもちろん従来通り運用することができた。そもそもBf110は仕様段階で爆弾懸吊が検討されていた機体であり、戦闘爆撃機としての運用は言わば当然のことである。210実験隊ではBf110C-4/BやBf109E-4/Bを用いた戦闘爆撃機戦術の研究が行われていた。 また、後継機となるはずであったMe210の開発失敗もあり、E型、F型、そしてG型の一部はこの後も永く北アフリカやバルカン半島で戦闘爆撃機として使用された。C型でもC-4/B、C-7という爆装可能な型があったが、E型は最初からETC50ラック(爆弾懸吊装置)を装備し、強力な爆装が可能な仕様となっている。1940年10月から実戦に投入され、東部戦線、地中海、北アフリカ戦線で活躍した。 1941年6月のバルバロッサ作戦では、Bf110は第26駆逐航空団の2個飛行隊78機(稼動機51機、C型およびE型)と、中央軍集団所属の第210高速爆撃航空団第I,第II飛行隊(機数不詳)が全てであった。『ドイツ空軍全史』によれば全機種合わせて3904機、うち双発戦闘機102機である。またプライス (1971)によれば、双発戦闘機は90機である。 その年の冬には第26駆逐航空団はドイツ本国に引き揚げるが、地上攻撃でかなりの戦果を挙げたと言う。1943年7月のクルスクの戦いでは、17機が参加したが戦局にはあまり影響を与えなかったようだ。 1942年の遅い時期、ソ連軍の戦車に対向するため、レヒリーン(ドイツ語版)で対戦車実験戦闘隊 (Versuchskommando für Panzerbekämpfung) が創設された。この部隊にはJu87G (BK3.7 37mm機関砲を両翼に装備)、Ju88P (75mm砲を装備) のほか、やはりBK3.7を胴体下面に装備したBf110も第110対戦車中隊に配備されたが、あまり良い結果は得られなかった。 地中海及び北アフリカ戦線でもBf110は活躍した。第26駆逐飛行団第III飛行隊は1940年末、シチリア島へ派遣され、哨戒や船舶攻撃、そして自軍船舶の護衛を行った。1941年半ばには連合軍の反撃に備え第8、第9中隊が北アフリカに移動し、ドイツアフリカ軍団が守勢に立たされていたクルセーダー作戦を支援した。その結果両中隊はドイツおよびクレタ島への撤退を強いられるほどの損害を被り一時は第7中隊のほんの半ダースの戦力しか持たない状態で最後の攻勢であるエル・アラメインの戦いを支援。第7中隊も消耗するが1942年5月には再集結を果たし、1943年5月に最終的にドイツアフリカ軍団は壊滅し北アフリカから撤退するものの、その時まで任務を全うした。
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戦闘爆撃機
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/07 00:00 UTC 版)
サイレンの艦上爆撃機。翼下へ対地ミサイルを満載し、防御用の旋回機銃を背面に持つ。航空戦力に限れば、技術的に地球はサイレンと互角以上の戦いが可能である。
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戦闘爆撃機
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「宇宙戦艦ヤマトシリーズの航空機・宇宙艇」の記事における「戦闘爆撃機」の解説
戦闘爆撃機は、『ヤマトよ永遠に』に登場する架空の軍用機。デザイン担当は板橋克己。 暗黒星団帝国で使用されている大型艦上戦闘爆撃機である。全長は60メートルにもおよび、同時期の同帝国の航空機と比べ、約2倍の大きさを誇る。主武装として機体上部に触手型の3門の光線砲を装備。この砲身も、新円盤型戦闘機同様、超磁性体関節ギア採用によりフレキシブルに可動する。正面の赤い部分がコックピットであり、ここに4人分の座席のような物体が見える。その大柄な外観とは裏腹に、高層ビルの間を高速で飛行できるほどの飛行性能を持つ。 『ヤマトよ永遠に』時における暗黒星団帝国の主力艦上機の一つであり、地球侵攻部隊の重要な航空兵力として、多数が巨大輸送艦によって運ばれた。また、前線補給中間基地にも配備されている。劇中では確認出来ないが、巨大宙母の主要艦載機でもある。カラーリングはほぼ黒一色でまとめられている。 PS2版『宇宙戦艦ヤマト イスカンダルへの追憶』『宇宙戦艦ヤマト 暗黒星団帝国の逆襲』『宇宙戦艦ヤマト 二重銀河の崩壊』にも、暗黒星団爆撃機として登場。また『宇宙戦艦ヤマト 二重銀河の崩壊』では、触手型の3門の光線砲を廃し、代わりに重戦闘機と同デザインである大型のビームキャノンを2門装備した暗黒星団新型爆撃機が登場している。
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戦闘爆撃機
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/10 05:32 UTC 版)
一式戦は両翼下に最大250kg爆弾を1発ずつ懸架ないし落下タンクとの併用が可能であった。しかし大型爆弾を搭載した場合飛行性能が大幅に低下し最大の利点である運動性能が犠牲になる他、脚部の強度が不十分であるため離着陸に注意が必要であるなど運用上の制限が存在した。 主に大戦中期以降には飛行分科「戦闘」の部隊において、一式戦(一式戦に限らず三式戦・四式戦・二式複戦)といった陸軍戦闘機は通常爆弾・タ弾(クラスター爆弾)・カ弾(焼夷弾)を搭載した戦闘爆撃機として対地および対艦攻撃に積極的に使用されている。 さらに飛行第31戦隊・飛行第65戦隊などの飛行分科「襲撃」の部隊は「爆装一式戦」に機種改変し爆撃(襲撃)任務に投入されている。特に沖縄戦従軍下の第65戦隊は整備隊が考案したチャフ散布装置を各機に装備させる、超低空飛行を行うなどし沖縄近海の連合軍艦船や制圧下の地上施設に対し通常攻撃で戦果を挙げた。 第64戦隊の爆装一式戦による対艦攻撃の確実戦果一例として、1945年2月11日、ラムリー島の戦いにおいてイギリス海軍艦艇攻撃に出撃した12機のうち、池沢軍曹機と僚機の池田軍曹機の2機が2,200t級駆逐艦「パスファインダー」に急降下爆撃を敢行、艦尾に2発の直撃弾を与え大破させている。「パスファインダー」は戦線を離脱しイギリス本国に曳航されたものの、損傷激しく戦後廃艦となっているため事実上の撃沈であった。 また輸送船団掩護時に、本来は想定されていない任務であるが小型爆弾を装備しての対潜哨戒機としても運用されている。1944年10月以降のフィリピン防衛戦では、一式戦を装備する飛行第20戦隊が機体を洋上迷彩たる濃紺に塗装し制空戦闘機兼対潜哨戒機としてこれを運用していた。ほか、1944年4月14日11時20分頃、アンダマン諸島沖船団掩護中の飛行第26戦隊石川清曹長機が、船団前方3,000m付近で敵潜水艦が放った魚雷航跡3本を発見。基地に無線報告するとともに敵潜推定位置に爆弾を投下、航走中の魚雷に対して機関砲を射撃、それでも魚雷は1,200名乗船の輸送船「松川丸」に迫ったため、これに体当たりし2本を爆発させ輸送船を護った事例がある(石川曹長は戦死後任陸軍少尉、個人感状拝受)。
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