北アフリカ戦線とは? わかりやすく解説

北アフリカ戦線

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/20 14:45 UTC 版)

北アフリカ戦線(きたアフリカせんせん)は、第二次世界大戦において1940年9月のイタリア軍によるエジプト侵攻から、1943年5月のチュニジアの戦い英語版により、枢軸国軍の壊滅・ヨーロッパ本土撤退までを指す。エジプトからモロッコまで、北アフリカ北岸で行われた。




注釈

  1. ^ a b c d 1942年11月-1943年5月
  2. ^ a b c d 1942年11月8日から11日まで。ヴィシー政権は公式には武装中立政策をとり、枢軸国および連合国の交戦国からの武力侵攻に対して軍事行動を行った。フランス領北アフリカのヴィシー軍が連合国に忠誠を誓ったことで、枢軸国はヴィシーがこの政策を継続することは信頼できないと確信し、フランスに侵攻し占領した(アントン作戦)。)
  3. ^ ダルランは1942年11月に連合国に加わり、アフリカのフランス軍に停戦と自由フランスとの統一を命じ、フランス領北アフリカの文民・軍事高等弁務官に就任した。後の1942年12月24日、彼は暗殺された。
  4. ^ Historian Giorgio Rochat wrote:
    Sono circa 400.000 i prigionieri fatti dagli inglesi in Etiopia e in Africa settentrionale, 125.000 presi dagli americani in Tunisia e in Sicilia, 40.000 lasciati ai francesi in Tunisia ("There were about 400,000 prisoners taken by the British in North Africa and in Ethiopia, 125,000 taken by the Americans in Tunisia and Sicily, 40,000 by the French in Tunisia")
    Considering that about 100,000 Italian prisoners were taken in East Africa and that prisoners taken by the Americans were mainly in Sicily, the total is around 340,000–350,000.
  5. ^ トーチ作戦の間のみ(1942年11月8日–16日)
  6. ^ 5個歩兵師団、リビア兵団隷下の3個師団及び黒シャツ師団3個ならびに戦車大隊11個などが所属していた[16]
  7. ^ エジプト領内のメルサ・マトルーに防衛拠点を構築し、そこまでは交戦を避ける方針だった[17]
  8. ^ 1941年1月1日に第13軍団に改称[20]
  9. ^ 作戦開始にあたりイギリス空軍のイタリア空軍基地への攻撃[23]とイギリス海軍艦艇による艦砲射撃が行なわれている[22]
  10. ^ この結果、アーチボルド・ウェーヴェルは6月21日に中東軍総司令官を解任され、7月5日にクロード・オーキンレックが総司令官に任命された[36]
  11. ^ 前線に近いベンガジは爆撃と機雷により港としての機能を失っていた[38]
  12. ^ ジョージ・パットン少将指揮のアメリカ合衆国第2、第3機甲師団及び同第9歩兵師団(3分の2)の約3万5,000名[51]
  13. ^ フリーデンドール少将指揮のアメリカ合衆国第1機甲師団及び同第9歩兵師団(2分の1)の約3万9,000名[51]
  14. ^ ライダー少将指揮のアメリカ合衆国第34歩兵師団、同第9歩兵師団(3分の1)同第1機甲師団(2分の1)及びイギリス第78歩兵師団の約3万3,000名[51]

出典

  1. ^ Carell, p. 597
  2. ^ Zabecki, North Africa
  3. ^ Cartier, Raymond. La Seconde Guerre Mondiale, vol4: 1943-Juin1944 [The Second World War, vol4: 1943-June1944]. Press Pocket. p. 40 
  4. ^ Playfair, Volume IV, p. 460. United States losses from 12 November 1942
  5. ^ Atkinson, p. 536
  6. ^ Roma: Instituto Centrale Statistica' Morti E Dispersi Per Cause Belliche Negli Anni 1940–45 Roma 1957
  7. ^ Colin F. Baxter. "The War in North Africa, 1940–1943: A Selected Bibliography". 1996. Page 38. 500,000 prisoners are listed as being taken in North Africa, East Africa, and Sicily; as 150,000 POWs were taken in the Allied invasion of Sicily and about 100,000 in East Africa, this would leave ~250,000 to be taken in North Africa; 130,000 during Operation Compass, and 120,000 afterwards.
  8. ^ Carell, p. 596
  9. ^ Barclay, Mediterranean Operations
  10. ^ Porch, Douglas: "The Path to Victory: The Mediterranean Theater in World War II", 2004, p. 415.
  11. ^ 『北アフリカ戦線』 (2009)、p.73
  12. ^ 山崎 (2009)、pp.335-337
  13. ^ 山崎 (2009)、p.285
  14. ^ 『北アフリカ戦線』 (2009)、pp.10-12
  15. ^ 『北アフリカ戦線』 (2009)、p.12
  16. ^ 『北アフリカ戦線』(2009)、pp.13-14
  17. ^ ムーアヘッド (1977)、pp.25-26
  18. ^ 『北アフリカ戦線』 (2009)、pp.20-21
  19. ^ 『北アフリカ戦線』 (2009)、p.14
  20. ^ 山崎 (2009)、p.196
  21. ^ 『北アフリカ戦線』(2009)、p.38
  22. ^ a b 『北アフリカ戦線』(2009)、pp.15-16
  23. ^ ムーアヘッド (1977)、p.37
  24. ^ a b 『北アフリカ戦線』(2009)、p.16
  25. ^ a b 『北アフリカ戦線』(2009)、pp.16-17
  26. ^ ムーアヘッド (1977)、p.109
  27. ^ 山崎 (2009)、pp.198
  28. ^ 『北アフリカ戦線』(2009)、p.17
  29. ^ ムーアヘッド (1977)、pp.114-116
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  31. ^ 山崎 (2009)、pp.213-214
  32. ^ 山崎 (2009)、p.216
  33. ^ ムーアヘッド (1977)、p.119
  34. ^ 『北アフリカ戦線』(2009)、pp.41-43
  35. ^ 『北アフリカ戦線』(2009)、pp.24-26
  36. ^ 山崎 (2009)、p.246
  37. ^ a b 『北アフリカ戦線』(2009)、p.50
  38. ^ ムーアヘッド (1977)、p.185
  39. ^ 『北アフリカ戦線』(2009)、p.28
  40. ^ ムーアヘッド (1977)、pp.195-198
  41. ^ 『北アフリカ戦線』(2009)、pp.51-53
  42. ^ 『北アフリカ戦線』(2009)、p.53
  43. ^ 山崎 (2009)、p.295
  44. ^ 山崎 (2009)、pp.295-298
  45. ^ 『北アフリカ戦線』(2009)、p.64
  46. ^ 山崎 (2009)、pp.299
  47. ^ 『北アフリカ戦線』(2009)、pp.67-70
  48. ^ 『ライフ ロンメル対モントゴメリー』、P.105
  49. ^ 『北アフリカ戦線』(2009)、pp.70-72
  50. ^ 『ライフ ロンメル対モントゴメリー』、P.115
  51. ^ a b c 『北アフリカ戦線』(2009)、p.78
  52. ^ 『北アフリカ戦線』(2009)、p.77
  53. ^ 『砂漠のキツネ』P.400 - 464
  54. ^ 『ライフ ロンメル対モントゴメリー』、P.163
  55. ^ 『ライフ ロンメル対モントゴメリー』、P.188-192
  56. ^ a b 『ライフ ロンメル対モントゴメリー』、P.195


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北アフリカ戦線

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ポプスキー私兵団」の記事における「北アフリカ戦線」の解説

しかしポプスキー私兵団本格的に活動し始め前に北アフリカ展開した枢軸軍大部分連合軍により駆逐されていた。マレス・ライン(英語版)に対す攻勢が始まると、ポプスキー私兵団はLRDGと共同して山岳部峡谷捜索任務従事しモントゴメリー将軍率いる英第8軍西進援護したポプスキー私兵団1943年チュニジアにて東進していた英第1軍および米第2軍団合流した最初の英第8軍部隊となった。またカセリーヌ峠の戦いが始まるとポプスキー私兵団偵察および襲撃任務を果たすべく頻繁に投入されるようになり、その際600名のイタリア兵を捕虜にするという戦果もあげている。 1943年夏、ポプスキー私兵団アルジェリアおよびチュニジア配置されイタリア派遣向けてLRDG、SASコマンドス王立装甲軍団英語版)などからの新規隊員募集行いその結果として戦力35名まで拡大され、さらに2個戦闘偵察隊小規模な司令部(HQ)が新たに編成された。一時期第1空挺師団英語版)のグライダー利用しジープ装備したポプスキー私兵団シシリー前線後方降下させることが検討されていたが、実行直前になって撤回された。

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北アフリカ戦線

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機甲戦」の記事における「北アフリカ戦線」の解説

北アフリカ砂漠ではイギリス軍が、装甲部隊歩兵砲兵が共に形成するバランスのとれた諸兵科連合部隊」というような連携について、代わりとなるアプローチ開発したロドルフォ・グラツィアーニ元帥率いイタリア第10軍は、装備の不足行き届かない指揮のため、イギリス第8軍麾下連邦軍部隊アプローチ対し速やかに屈したエルヴィン・ロンメル将軍指揮下に置かれるドイツアフリカ軍団到来は、イギリス軍アプローチいくつも弱点強調するものであった静止して統制のないイタリア軍部隊攻撃するとき、各機甲師団歩兵砲兵少数でも充分だった。しかし高度に機動し、よく統制のとれたドイツ軍部隊対するには、人員不足連邦軍部隊では不十分であると証明された。 ヨーロッパ大陸侵攻開始した連合軍機甲戦において効果的に戦果上げはじめたが、これは戦争後期数年のことである。1942年及び1943年連合軍一貫して北アフリカ砂漠での機甲戦負け続けた理由誤った戦術よるもので、ことに対戦車目的での機甲部隊配置妨害へと陥ったことによる

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北アフリカ戦線

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アーチボルド・ウェーヴェル (初代ウェーヴェル伯爵)」の記事における「北アフリカ戦線」の解説

1939年7月28日中東駐留軍司令部英語版司令官英語版)に就任し19世紀以来イギリス軍駐留し続けイギリス半植民地エジプト・カイロに駐留した中東軍の管轄範囲エジプトのみならず当時イギリス支配下・影響下に置かれていた中東広範囲及んでいた。 同年9月第二次世界大戦開戦し英独交戦態となり、1940年6月にはイタリア領リビア有するイタリアとも交戦状態になった。ウェーヴェルはエジプトスーダンシリアイラクソマリランドパレスチナキプロスなど支配地域防衛固めた首相ウィンストン・チャーチルバトル・オブ・ブリテン中の8月にもウェーヴェルに対してリビア侵攻開始するよう命じたが、ウェーヴェルは準備不足理由拒否した。その翌9月リビアイタリア軍エジプト侵攻開始された。チャーチル攻勢命令出し続けたが、ウェーヴェルは守勢徹したイタリアギリシャ戦線泥沼陥ったのを見てウェーヴェルはいよいよ攻勢開始し12月よりコンパス作戦発動して9万人兵力25万人イタリア軍撃破しリビアキレナイカ地方占領した。 しかしこの後チャーチルがウェーヴェルの反対無視して北アフリカ兵力ギリシャへ送る命令下したその結果1941年2月派遣されてきたエルヴィン・ロンメルドイツ軍の反撃前になすすべももなく後退する羽目になり、3月末までにイギリス軍トブルクを除くキレナイカ地域から駆逐された。 ウェーヴェルはただちに反撃攻勢に出るのは無理だ主張していたが、チャーチルしつこく即時反撃命令下したため、1941年6月にウェーヴェルは400両の戦車増援受けて大規模反撃作戦バトルアクス作戦」を開始することになった。しかしロンメル迅速な反撃行ったため、わずか3日イギリス軍の攻勢失敗終わった激怒したチャーチルにより中東軍司令官地位解任された。

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北アフリカ戦線

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機甲師団」の記事における「北アフリカ戦線」の解説

ドイツアフリカ軍団として通常の装甲師団比較して規模小さい第5軽師団(後に第21装甲師団改編)が投入され、後に第15装甲師団投入された。 ドイツ主戦場はあくまでソ連であり、ソ連では戦力として通用しない旧式戦車回されてきたため、I号戦車火炎放射器載せるなど、現地改造頻繁に行われたチュニジア追い詰められた後、アフリカ装甲軍改組された。この時期第10装甲師団新たに送り込まれている。VI号戦車実戦投入された。 アフリカ送り込まれた3個装甲師団は結局チュニジア壊滅した

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北アフリカ戦線

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イタリア空軍」の記事における「北アフリカ戦線」の解説

詳細は「北アフリカ戦線」を参照 北アフリカ戦いが始まると、上空では伊英空軍激し空戦繰り広げられた。両者戦いはほぼ拮抗していて、また装備され戦闘機は同じ複葉機中心であったイギリス空軍グラディエイター主力とする一方イタリア空軍フィアット CR.32とCR.42を主戦力としていた為である。後に両者は共に新たな戦闘機受領し個々空戦模様劇的に変化するが、全体的なにおいては依然両者互角の状態が続いた戦況大きく動くのは空軍戦いの結果ではなく陸軍同士戦いの結果よるものであった陸軍敗北コンパス作戦)に巻き込まれる形で、イタリア空軍は、(敵に鹵獲されるのを防ぐため)多量航空機破壊して後方撤退しなければならなくなったそれ以降形勢英軍側に傾き、後にドイツ軍戦線参加すると、北アフリカ上空英独空軍戦いの場へと変わった北アフリカイタリア空軍ドイツ空軍に命運託した格好零落れざるをえなかった。それでも1942年には、イタリア空軍400機までに運用台数回復させて、ドイツ空軍次に甘んじる形ではあったが、確かな戦果挙げていった。ドイツアフリカ軍団指揮官エルヴィン・ロンメルによる英軍への最初反抗作戦開始された時、イタリア空軍部隊イギリス空軍追い払って制空権確保している。またクルセイダー作戦ドイツ軍後退した時も、イタリア空軍英軍爆撃隊に多大な損害与えて退却助けた。 しかしエル・アラメインの戦いイタリア空軍イギリス空軍との交戦多く損失を蒙り、以降英空軍苦戦する状況が常に続くこととなった加えて陸上でも枢軸側の不利が決定的になった事もあり、次第劣勢深めていった。チュニジア戦い至った時点で、もはや北アフリカイタリア空軍戦力は殆ど残っていなかった。

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北アフリカ戦線

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ウィンストン・チャーチル」の記事における「北アフリカ戦線」の解説

イタリアムッソリーニ大戦初期には中立保っていたが、フランス戦ドイツ勝利が確実となった1940年6月になってドイツ側参戦した。しかしイタリア軍貧弱フランスアルプス山脈防衛部隊に返り討ちにされてしまった。続くバトル・オブ・ブリテンにはイタリア空軍一部参加していたが、やはりその働き杜撰極めた。だがムッソリーニは、地中海覇権目指しヒトラー援助申し出拒否して独断エジプト王国名目上独立国家だったが、実質的にイギリスの軍事支配下にあった)とギリシャ侵攻開始したチャーチル乏しイギリス物資戦力をこの地中海の戦い注ぎこんだ。アメリカ参戦促すためにイギリスの勝利が必要であったが、簡単に戦勝上げられそうなのは目下この戦域けだったからである。この目論見奏功し、1940年12月エジプト駐留イギリス軍イタリア軍返り討ちにし、逆にイタリア植民地リビア侵攻しイタリア軍トリポリまで追い詰めたイタリア軍北アフリカから駆逐できればイギリス地中海自由に動けるようになり、物資確保の面で有利であった。またギリシャ戦線でもイタリア軍敗北しイギリスはここに空軍基地設置してドイツ重要な資源地であるルーマニア油田への空襲狙えようになったヒトラー看過できなくなり地中海ドイツ軍派遣決定した1940年12月にはギリシャイタリア軍救出のためのマリータ作戦発動し、ついで1941年1月にはゾネンブルーメ作戦発動してドイツアフリカ軍団トリポリ送られるようになり、2月にはその指揮官としてエルヴィン・ロンメル中将派遣された。 一方チャーチル中東軍司令官アーチボルド・ウェーヴェル訴え無視して北アフリカ兵力強引にギリシャ割いたが、ドイツ軍に蹴散らされた。 ロンメル指揮下の北アフリカ・ドイツ軍もこれに乗じて1941年3月末からイギリス軍対す攻勢開始しリビアのほとんどの地域からイギリス軍駆逐された。トブルクだけはオーストラリア軍勇戦でなんとか持ちこたえたが、そこも包囲された。チャーチル6月にもトブルク包囲解こうイギリス中東軍司令官ウェーヴェル大将命じてバトルアクス作戦開始させたが、ドイツ軍に蹴散らされた。チャーチルはウェーヴェルを解任し、クロード・オーキンレック大将後任とすると、11月にもクルセーダー作戦開始させ、ドイツ軍後退させた。しかし1942年5月からドイツ軍反攻があり、6月までにリビアからイギリス軍駆逐された(ガザラの戦い)。チャーチルトブルク陥落恐れ守備軍に死守命令下したが、司令官独断降伏してしまった。 トブルク陥落は、この数か月前のシンガポール陥落相まってイギリス国内に強い衝撃与え戦時中チャーチル批判1942年7月に最も強まった議会では内閣不信任案提出された。挙国一致内閣オール与党だったため、不信任案自体大差否決されたものの、戦時挙国一致内閣内閣不信任案提出されること自体異例であったこのようなことは一次大戦時に起きたことはなく、チャーチルはこれを「深刻な挑戦状」と捉えたという。19世紀以来続いているイギリスエジプト占領体制揺らぎ始めたエジプト駐留イギリス軍書類焼き始めパレスチナへの撤退準備開始していた。これを見たエジプト民族主義者たちの間にはロンメルイギリス圧政から解放してくれるという期待感広がっていた。エジプトファールーク1世独立チャンスが来たと見て反英内閣組閣計画したが、エジプト実質的支配者であるイギリス大使ミレス・ランプソン (初代キラーン男爵)がエジプト王の宮殿包囲し、「イギリスに逆らうつもりなら拉致する」と無法な脅迫をしたことでこの計画水泡に帰した。もしエジプトドイツ軍突破された場合失われるのはエジプト支配だけではなかった。北アフリカドイツ軍コーカサス進軍している東部戦線ドイツ軍合流することになり、イギリスの「インドの道」は閉ざされ大英帝国アジア支配体制のすべてが崩壊する恐れがあった。 だが、ロンメル快進撃ここまでだった。ドイツ軍勢い乗って開始したエジプトへの進軍7月中に停滞したチャーチル8月3日にもエジプト首都カイロ入りチュニジア上陸予定英米支援のための攻勢に出ることを拒否したオーキンレックを解任し、第8軍司令官バーナード・モントゴメリー任じて新体制整えた10月から11月にかけてのエル・アラメインの戦いモントゴメリー率いイギリス軍ロンメルドイツ軍撃破し、さらに11月モロッコアルジェリア英米の上陸が成功した1943年3月にはロンメル戦線離脱し北アフリカドイツ軍5月までに降伏した

※この「北アフリカ戦線」の解説は、「ウィンストン・チャーチル」の解説の一部です。
「北アフリカ戦線」を含む「ウィンストン・チャーチル」の記事については、「ウィンストン・チャーチル」の概要を参照ください。

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