北アフリカ戦線
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北アフリカ戦線(きたアフリカせんせん)は、第二次世界大戦において1940年9月のイタリア軍によるエジプト侵攻から、1943年5月のチュニジアの戦いにより、枢軸国軍の壊滅・ヨーロッパ本土撤退までを指す。エジプトからモロッコまで、北アフリカ北岸で行われた。
注釈
- ^ a b c d 1942年11月-1943年5月
- ^ a b c d 1942年11月8日から11日まで。ヴィシー政権は公式には武装中立政策をとり、枢軸国および連合国の交戦国からの武力侵攻に対して軍事行動を行った。フランス領北アフリカのヴィシー軍が連合国に忠誠を誓ったことで、枢軸国はヴィシーがこの政策を継続することは信頼できないと確信し、フランスに侵攻し占領した(アントン作戦)。)
- ^ ダルランは1942年11月に連合国に加わり、アフリカのフランス軍に停戦と自由フランスとの統一を命じ、フランス領北アフリカの文民・軍事高等弁務官に就任した。後の1942年12月24日、彼は暗殺された。
- ^ Historian Giorgio Rochat wrote:
Considering that about 100,000 Italian prisoners were taken in East Africa and that prisoners taken by the Americans were mainly in Sicily, the total is around 340,000–350,000.Sono circa 400.000 i prigionieri fatti dagli inglesi in Etiopia e in Africa settentrionale, 125.000 presi dagli americani in Tunisia e in Sicilia, 40.000 lasciati ai francesi in Tunisia ("There were about 400,000 prisoners taken by the British in North Africa and in Ethiopia, 125,000 taken by the Americans in Tunisia and Sicily, 40,000 by the French in Tunisia") - ^ トーチ作戦の間のみ(1942年11月8日–16日)
- ^ 5個歩兵師団、リビア兵団隷下の3個師団及び黒シャツ師団3個ならびに戦車大隊11個などが所属していた[16]。
- ^ エジプト領内のメルサ・マトルーに防衛拠点を構築し、そこまでは交戦を避ける方針だった[17]。
- ^ 1941年1月1日に第13軍団に改称[20]。
- ^ 作戦開始にあたりイギリス空軍のイタリア空軍基地への攻撃[23]とイギリス海軍艦艇による艦砲射撃が行なわれている[22]。
- ^ この結果、アーチボルド・ウェーヴェルは6月21日に中東軍総司令官を解任され、7月5日にクロード・オーキンレックが総司令官に任命された[36]。
- ^ 前線に近いベンガジは爆撃と機雷により港としての機能を失っていた[38]。
- ^ ジョージ・パットン少将指揮のアメリカ合衆国第2、第3機甲師団及び同第9歩兵師団(3分の2)の約3万5,000名[51]。
- ^ フリーデンドール少将指揮のアメリカ合衆国第1機甲師団及び同第9歩兵師団(2分の1)の約3万9,000名[51]。
- ^ ライダー少将指揮のアメリカ合衆国第34歩兵師団、同第9歩兵師団(3分の1)同第1機甲師団(2分の1)及びイギリス第78歩兵師団の約3万3,000名[51]。
出典
- ^ Carell, p. 597
- ^ Zabecki, North Africa
- ^ Cartier, Raymond. La Seconde Guerre Mondiale, vol4: 1943-Juin1944 [The Second World War, vol4: 1943-June1944]. Press Pocket. p. 40
- ^ Playfair, Volume IV, p. 460. United States losses from 12 November 1942
- ^ Atkinson, p. 536
- ^ Roma: Instituto Centrale Statistica' Morti E Dispersi Per Cause Belliche Negli Anni 1940–45 Roma 1957
- ^ Colin F. Baxter. "The War in North Africa, 1940–1943: A Selected Bibliography". 1996. Page 38. 500,000 prisoners are listed as being taken in North Africa, East Africa, and Sicily; as 150,000 POWs were taken in the Allied invasion of Sicily and about 100,000 in East Africa, this would leave ~250,000 to be taken in North Africa; 130,000 during Operation Compass, and 120,000 afterwards.
- ^ Carell, p. 596
- ^ Barclay, Mediterranean Operations
- ^ Porch, Douglas: "The Path to Victory: The Mediterranean Theater in World War II", 2004, p. 415.
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- ^ 『ライフ ロンメル対モントゴメリー』、P.115
- ^ a b c 『北アフリカ戦線』(2009)、p.78
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- ^ 『砂漠のキツネ』P.400 - 464
- ^ 『ライフ ロンメル対モントゴメリー』、P.163
- ^ 『ライフ ロンメル対モントゴメリー』、P.188-192
- ^ a b 『ライフ ロンメル対モントゴメリー』、P.195
- 1 北アフリカ戦線とは
- 2 北アフリカ戦線の概要
- 3 概要
- 4 参考文献
北アフリカ戦線
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しかしポプスキー私兵団が本格的に活動し始める前に、北アフリカに展開した枢軸軍の大部分は連合軍により駆逐されていた。マレス・ライン(英語版)に対する攻勢が始まると、ポプスキー私兵団はLRDGと共同して山岳部・峡谷の捜索任務に従事し、モントゴメリー将軍率いる英第8軍の西進を援護した。ポプスキー私兵団は1943年のチュニジアにて東進していた英第1軍および米第2軍団と合流した最初の英第8軍部隊となった。またカセリーヌ峠の戦いが始まるとポプスキー私兵団は偵察および襲撃任務を果たすべく頻繁に投入されるようになり、その際に600名のイタリア兵を捕虜にするという戦果もあげている。 1943年夏、ポプスキー私兵団はアルジェリアおよびチュニジアに配置され、イタリア派遣に向けてLRDG、SAS、コマンドス、王立装甲軍団(英語版)などからの新規隊員募集を行い、その結果として戦力は35名まで拡大され、さらに2個戦闘偵察隊と小規模な司令部(HQ)が新たに編成された。一時期、第1空挺師団(英語版)のグライダーを利用し、ジープを装備したポプスキー私兵団をシシリーの前線後方に降下させることが検討されていたが、実行直前になって撤回された。
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北アフリカ戦線
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北アフリカの砂漠ではイギリス軍が、装甲部隊や歩兵と砲兵が共に形成する「バランスのとれた諸兵科連合部隊」というような連携について、代わりとなるアプローチを開発した。ロドルフォ・グラツィアーニ元帥率いるイタリア第10軍は、装備の不足と行き届かない指揮のため、イギリス第8軍麾下の連邦軍部隊のアプローチに対し速やかに屈した。 エルヴィン・ロンメル将軍の指揮下に置かれるドイツアフリカ軍団の到来は、イギリス軍のアプローチのいくつもの弱点を強調するものであった。静止して統制のないイタリア軍部隊を攻撃するとき、各機甲師団の歩兵と砲兵は少数でも充分だった。しかし高度に機動し、よく統制のとれたドイツ軍部隊に対するには、人員不足の連邦軍部隊では不十分であると証明された。 ヨーロッパ大陸へ侵攻を開始した連合軍は機甲戦において効果的に戦果を上げはじめたが、これは戦争後期の数年のことである。1942年及び1943年、連合軍は一貫して北アフリカ砂漠での機甲戦に負け続けた。理由は誤った戦術によるもので、ことに対戦車目的での機甲部隊の配置の妨害へと陥ったことによる。
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北アフリカ戦線
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「アーチボルド・ウェーヴェル (初代ウェーヴェル伯爵)」の記事における「北アフリカ戦線」の解説
1939年7月28日に中東駐留軍司令部(英語版)司令官(英語版)に就任し、19世紀以来イギリス軍が駐留し続けるイギリスの半植民地エジプト・カイロに駐留した。中東軍の管轄範囲はエジプトのみならず当時イギリス支配下・影響下に置かれていた中東の広範囲に及んでいた。 同年9月に第二次世界大戦が開戦して英独が交戦状態となり、1940年6月にはイタリア領リビアを有するイタリアとも交戦状態になった。ウェーヴェルはエジプト、スーダン、シリア、イラク、ソマリランド、パレスチナ、キプロスなど支配地域の防衛を固めた。 首相ウィンストン・チャーチルはバトル・オブ・ブリテン中の8月にもウェーヴェルに対してリビア侵攻を開始するよう命じたが、ウェーヴェルは準備不足を理由に拒否した。その翌9月にリビアのイタリア軍のエジプト侵攻が開始された。チャーチルは攻勢命令を出し続けたが、ウェーヴェルは守勢に徹した。イタリアがギリシャ戦線で泥沼に陥ったのを見てウェーヴェルはいよいよ攻勢を開始し、12月よりコンパス作戦を発動して9万人の兵力で25万人のイタリア軍を撃破し、リビアのキレナイカ地方を占領した。 しかしこの後チャーチルがウェーヴェルの反対を無視して北アフリカの兵力をギリシャへ送る命令を下した。その結果、1941年2月に派遣されてきたエルヴィン・ロンメルらドイツ軍の反撃を前になすすべももなく後退する羽目になり、3月末までにイギリス軍はトブルクを除くキレナイカ地域から駆逐された。 ウェーヴェルはただちに反撃の攻勢に出るのは無理だと主張していたが、チャーチルがしつこく即時反撃の命令を下したため、1941年6月にウェーヴェルは400両の戦車の増援を受けて大規模反撃作戦「バトルアクス作戦」を開始することになった。しかしロンメルが迅速な反撃を行ったため、わずか3日でイギリス軍の攻勢は失敗に終わった。激怒したチャーチルにより中東軍司令官の地位を解任された。
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北アフリカ戦線
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ドイツアフリカ軍団として通常の装甲師団と比較して規模の小さい第5軽師団(後に第21装甲師団へ改編)が投入され、後に第15装甲師団も投入された。 ドイツの主戦場はあくまでソ連であり、ソ連では戦力として通用しない旧式戦車が回されてきたため、I号戦車に火炎放射器を載せるなど、現地改造が頻繁に行われた。 チュニジアに追い詰められた後、アフリカ装甲軍に改組された。この時期に第10装甲師団が新たに送り込まれている。VI号戦車も実戦投入された。 アフリカに送り込まれた3個装甲師団は結局チュニジアで壊滅した。
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北アフリカ戦線
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詳細は「北アフリカ戦線」を参照 北アフリカの戦いが始まると、上空では伊英空軍の激しい空戦が繰り広げられた。両者の戦いはほぼ拮抗していて、また装備された戦闘機は同じ複葉機が中心であった。イギリス空軍がグラディエイターを主力とする一方、イタリア空軍もフィアット CR.32とCR.42を主戦力としていた為である。後に両者は共に新たな戦闘機を受領し、個々の空戦の模様は劇的には変化するが、全体的な面においては依然両者互角の状態が続いた。戦況が大きく動くのは空軍の戦いの結果ではなく、陸軍同士の戦いの結果によるものであった。陸軍の敗北(コンパス作戦)に巻き込まれる形で、イタリア空軍は、(敵に鹵獲されるのを防ぐため)多量の航空機を破壊して後方に撤退しなければならなくなった。 それ以降は形勢は英軍側に傾き、後にドイツ軍が戦線に参加すると、北アフリカ上空は英独空軍の戦いの場へと変わった。北アフリカのイタリア空軍はドイツ空軍に命運を託した格好に零落れざるをえなかった。それでも1942年には、イタリア空軍は400機までに運用台数を回復させて、ドイツ空軍の次に甘んじる形ではあったが、確かな戦果を挙げていった。ドイツアフリカ軍団の指揮官エルヴィン・ロンメルによる英軍への最初の反抗作戦が開始された時、イタリア空軍部隊はイギリス空軍を追い払って制空権を確保している。またクルセイダー作戦でドイツ軍が後退した時も、イタリア空軍は英軍の爆撃隊に多大な損害を与えて退却を助けた。 しかしエル・アラメインの戦いでイタリア空軍はイギリス空軍との交戦で多くの損失を蒙り、以降英空軍に苦戦する状況が常に続くこととなった。加えて陸上でも枢軸側の不利が決定的になった事もあり、次第に劣勢を深めていった。チュニジアの戦いに至った時点で、もはや北アフリカのイタリア空軍に戦力は殆ど残っていなかった。
※この「北アフリカ戦線」の解説は、「イタリア空軍」の解説の一部です。
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北アフリカ戦線
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「ウィンストン・チャーチル」の記事における「北アフリカ戦線」の解説
イタリアのムッソリーニは大戦初期には中立を保っていたが、フランス戦のドイツの勝利が確実となった1940年6月になってドイツ側で参戦した。しかしイタリア軍は貧弱でフランスのアルプス山脈防衛部隊に返り討ちにされてしまった。続くバトル・オブ・ブリテンにはイタリア空軍も一部参加していたが、やはりその働きは杜撰を極めた。だがムッソリーニは、地中海の覇権を目指し、ヒトラーの援助の申し出も拒否して独断でエジプト王国(名目上独立国家だったが、実質的にはイギリスの軍事支配下にあった)とギリシャに侵攻を開始した。チャーチルは乏しいイギリスの物資と戦力をこの地中海の戦いに注ぎこんだ。アメリカの参戦を促すためにイギリスの勝利が必要であったが、簡単に戦勝を上げられそうなのは目下この戦域だけだったからである。この目論見は奏功し、1940年12月にエジプト駐留イギリス軍はイタリア軍を返り討ちにし、逆にイタリア植民地リビアへ侵攻し、イタリア軍をトリポリまで追い詰めた。イタリア軍を北アフリカから駆逐できればイギリスは地中海を自由に動けるようになり、物資確保の面で有利であった。またギリシャ戦線でもイタリア軍は敗北し、イギリスはここに空軍基地を設置してドイツの重要な資源地であるルーマニアの油田への空襲も狙えるようになった。 ヒトラーも看過できなくなり、地中海にドイツ軍派遣を決定した。1940年12月にはギリシャのイタリア軍救出のためのマリータ作戦を発動し、ついで1941年1月にはゾネンブルーメ作戦を発動してドイツアフリカ軍団がトリポリへ送られるようになり、2月にはその指揮官としてエルヴィン・ロンメル中将が派遣された。 一方チャーチルは中東軍司令官アーチボルド・ウェーヴェルの訴えを無視して北アフリカの兵力を強引にギリシャに割いたが、ドイツ軍に蹴散らされた。 ロンメル指揮下の北アフリカ・ドイツ軍もこれに乗じて1941年3月末からイギリス軍に対する攻勢を開始し、リビアのほとんどの地域からイギリス軍は駆逐された。トブルクだけはオーストラリア軍の勇戦でなんとか持ちこたえたが、そこも包囲された。チャーチルは6月にもトブルク包囲を解こうとイギリス中東軍司令官ウェーヴェル大将に命じてバトルアクス作戦を開始させたが、ドイツ軍に蹴散らされた。チャーチルはウェーヴェルを解任し、クロード・オーキンレック大将を後任とすると、11月にもクルセーダー作戦を開始させ、ドイツ軍を後退させた。しかし1942年5月からドイツ軍の反攻があり、6月までにリビアからイギリス軍は駆逐された(ガザラの戦い)。チャーチルはトブルク陥落を恐れ、守備軍に死守命令を下したが、司令官が独断で降伏してしまった。 トブルク陥落は、この数か月前のシンガポール陥落と相まって、イギリス国内に強い衝撃を与え、戦時中のチャーチル批判は1942年7月に最も強まった。議会では内閣不信任案が提出された。挙国一致内閣のオール与党だったため、不信任案自体は大差で否決されたものの、戦時の挙国一致内閣で内閣不信任案が提出されること自体が異例であった。このようなことは一次大戦時にも起きたことはなく、チャーチルはこれを「深刻な挑戦状」と捉えたという。19世紀以来続いているイギリスのエジプト占領体制も揺らぎ始めた。エジプト駐留イギリス軍は書類を焼き始め、パレスチナへの撤退準備を開始していた。これを見たエジプト民族主義者たちの間にはロンメルがイギリスの圧政から解放してくれるという期待感が広がっていた。エジプト王ファールーク1世も独立のチャンスが来たと見て反英内閣の組閣を計画したが、エジプトの実質的支配者であるイギリス大使ミレス・ランプソン (初代キラーン男爵)がエジプト王の宮殿を包囲し、「イギリスに逆らうつもりなら拉致する」と無法な脅迫をしたことでこの計画は水泡に帰した。もしエジプトをドイツ軍に突破された場合、失われるのはエジプト支配権だけではなかった。北アフリカのドイツ軍がコーカサスに進軍している東部戦線のドイツ軍と合流することになり、イギリスの「インドの道」は閉ざされ、大英帝国アジア支配体制のすべてが崩壊する恐れがあった。 だが、ロンメルの快進撃はここまでだった。ドイツ軍が勢いに乗って開始したエジプトへの進軍は7月中に停滞した。チャーチルは8月3日にもエジプト首都カイロに入り、チュニジアに上陸予定の英米軍支援のための攻勢に出ることを拒否したオーキンレックを解任し、第8軍司令官にバーナード・モントゴメリーを任じて新体制を整えた。10月から11月にかけてのエル・アラメインの戦いでモントゴメリー率いるイギリス軍はロンメルのドイツ軍を撃破し、さらに11月にモロッコとアルジェリアに英米軍の上陸が成功した。1943年3月にはロンメルは戦線を離脱し、北アフリカのドイツ軍は5月までに降伏した。
※この「北アフリカ戦線」の解説は、「ウィンストン・チャーチル」の解説の一部です。
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