北アフリカ諸国とイギリスの同盟
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「オスマン帝国の対プロテスタント政策」の記事における「北アフリカ諸国とイギリスの同盟」の解説
詳細は「en:Anglo-Moroccan alliance」を参照 1551年に「獅子」と呼ばれたトーマス・ウィンダム(The Lion of Thomas Wyndham)の航海についで、1585年にイギリスの「バーバリー会社」が設立され、イギリスと北アフリカ諸国、特にモロッコとの交易は発展した。エリザベス1世と北アフリカ諸国の外交関係と同盟が結ばれた。イギリスはスペインに敵対するサアド朝のモロッコと交易関係を持つようになり、教皇の禁止令に反して、モロッコに武器、弾薬、木材、金属を売り、モロッコから砂糖を輸入した。このことは、スペイン駐留のローマ教皇大使(Nuncio)が、エリザベスについて以下のように書かせることとなった。「この女性によって考えられない悪はない。彼女は、実に悲しむべきことに、武器、特に大砲でモロッコ(サアド朝のスルターン・アブドゥル=マリク)を援助するのだ。」 モロッコでは1576年にサアド朝君主スルターン・アブー・アブドゥッラーフ・ムハンマド2世が、オスマン朝の後援を受けた叔父のムハンマド・アル=ムタワッキルに廃位される事件が起きていた。ムハンマド2世は敵対していたポルトガルに亡命し、ポルトガル王セバスティアン1世は十字軍の名目でムハンマド2世の復位を援助し、北アフリカに17,000人の軍勢とムハンマド2世を伴って親征した。(スペイン国王フェリペ2世はセバスティアン王の親征を思いとどまるよう説得したものの叶わなかった) 新スルターンとなったアブドゥル=マリク(ムハンマド・アル=ムタワッキル)は自らも軍を率いて、タンジェに上陸したポルトガル軍を迎撃した。1578年8月4日に両軍の会戦したアルカセル・キビールの戦いは、ポルトガル国王セバスティアンとモロッコの前スルターンであるムハンマド2世と、現スルターン・アブドゥル=マリクの三者が一堂に会したため「三王の戦い」とも呼ばれるが、アブドゥル=マリク率いるサアド朝軍の勝利に終わったものの、激戦となったため「三王」全員が戦死するという事態となった。セバスティアン王の戦死の後、フェリペ2世がポルトガル王位の継承を要求したため、この戦いは1640年までポルトガルはハプスブルク家の王を戴くスペインとの同君連合となる契機となってしまった。またモロッコではアブドゥル=マリクの死後、弟のアフマド・アル=マンスールが即位し、サアド朝の最盛期を迎える。イングランドのエリザベス1世がサアド朝のアブドゥル=マリクに援助したのは、北アフリカでモロッコの君主位を巡りスペイン、ポルトガルが介入する国際紛争的な様相を呈した時期であった。 1600年、モロッコの配者となったサアド朝のスルターン・ムーラーイ・アフマド・アル=マンスール(英語版)(Mulai Aḥmad al-Manṣūr)は、主要な秘書であるアブド・エル・オウアヘッド・ベン・メッサオウド(英語版)(アブル=ワーヒド・ブン・マスウード ‘Abd al-Wāhid b. Mas‘ūd)をエリザベス1世の宮廷への大使としてイギリスへ派遣した。アブル=ワーヒド一行は、エリザベスの宮廷に6ヶ月滞在し、スペインに対する同盟を交渉した。モロッコの支配者はイギリス艦隊がスペインに侵攻するのを援助するつもりであったが、エリザベスはこれを断った。しかし、保証のために大使館を建てることを歓迎し、さらに、商業協定を締結したのである。エリザベス1世は艦隊派遣のために10万ポンドを要求し、スルターン・アフマドはお金を送るための大型帆船を要求するなどしながら、二人はさまざまな共同軍事計画を議論した。エリザベス1世は「軍需品をモロッコに送ることに同意し、彼女とムーライ・アフマド・アル=マンスールはしばしば、スペインに対する共同作戦を話し合った」。しかし、議論は決定することなく推移し、大使館設立後二年以内に両方の統治者は逝去した。
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