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ルーマニア [Rumania]
〔「羅馬尼亜」とも書く〕
世界の流通コイン |
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ルーマニア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/02/06 22:15 UTC 版)
- ルーマニア
- România
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(国旗) (国章) - 国の標語: なし
- 国歌: 目覚めよ、ルーマニア人!

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公用語 ルーマニア語 首都 ブカレスト 最大の都市 ブカレスト 独立 オスマン帝国から
1877年5月9日通貨 ルーマニア・レウ(RON) 時間帯 UTC +2(DST: +3) ISO 3166-1 RO / ROU ccTLD .ro 国際電話番号 40
ルーマニアは、東ヨーロッパに位置する共和制国家。南西にセルビア、北西にハンガリー、北にウクライナ、北東にモルドバ、南にブルガリアと国境を接し、東は黒海に面している。首都はブカレスト。
東欧では数少ないロマンス系の言語であるルーマニア語を公用語として採用している国家であるが、宗教的には正教会の影響が強い。
目次 |
国名
正式名称はルーマニア語で România [romɨˈnia]。近似発音「ロムニア」。
マジャル語(ハンガリー語)の表記は Románia (ロマーニア)。
公式の英語表記は Romania (発音 /roʊˈmeɪniə/)。
国名の由来は、「ローマ人の国」の意味。第二次世界大戦後、社会主義化してからの正式名称は以下のように変遷している。
歴史
詳細は「ルーマニアの歴史」を参照
「モルダヴィア」も参照
古代にはガタエ人(ラテン語ではダキイ人)と呼ばれる民族が居住していた。ローマ帝国の領土となったことがあり、現在の国名もその時の状態である「ローマ人の土地(国)」を意味する。
紀元前513年、ドナウ川南でガタエ人の部族連合が、対スキュタイ人戦役中のペルシア王ダレイオス1世に敗れた(ヘロドトス『歴史』4巻93)。約600年後、ガタエ人(ダキイ人)は、ロ-マ帝国への侵攻に怒ったローマ皇帝トラヤヌスの2度の遠征(101年~106年)に敗れた。その王国の4分の1はローマ領となり、ローマ帝国の属州ダキアとなった。国歌の歌詞にトラヤヌスが登場するのは、こうした経緯からである。
238年から258年にかけて、ゴート人とカルピイ人がバルカン半島まで遠征した。ローマはドナウ川南まで後退し、以前の属領上モエシアの一部に新しく属領ダキアを再編した。
271年、かつてのダキアにゴート人の王国が建てられ、4世紀終わりまで続いた後、フン人の帝国に併呑された。中央アジア出身の遊牧民族が入れ替わりルーマニアを支配した。ゲピド人、アヴァールがトランシルヴァニアを8世紀まで支配した。その後はブルガール人がルーマニアを領土に収め、その支配は1000年まで続いた。この頃の史料には、ペチェネグ人、クマ人、ウゼ人への言及も見られる。その後、13世紀から14世紀にはバサラブ1世によるワラキア公国、ドラゴシュによるモルダヴィア公国の成立が続いた。
中世にはワラキア、モルダヴィア、トランシルヴァニアの3公国があった。完全な独立ではなく、オスマン帝国やハプスブルク家の支配下にあった。ワラキアとモルダヴィアは15世紀から16世紀にかけてオスマン帝国の属国であった。モルダヴィアは1812年東部のベッサラビアをロシア帝国に割譲した(パリ条約により1920年再合併)。北東部は1775年、オーストリア帝国領土となり、南東部のブジャクはオスマン帝国領であった。
トランシルヴァニアは11世紀にハンガリー王国の一部となり、王位継承により1310年以降アンジュー家、後にハプスブルク家領となったが、1526年にオスマン帝国の属国となった(オスマン帝国領ハンガリー)。18世紀には再びハプスブルク家のハンガリー王国領となり、第一次世界大戦の終わる1918年までその状態が続いた。
ワラキアとモルダヴィアは合同し、1877年に独立宣言を行った。1878年ベルリン会議で国際的に承認され、ルーマニア王国が成立。第一次世界大戦でトランシルヴァニアを併合した。同じ1918年ベッサラビアを回復したが、これは1940年再びソ連に占領され、最終的に割譲することとなる(現在はモルドバ共和国)。
1940年第二次世界大戦が始まると、ソビエト連邦はベッサラビアなど、ルーマニアの一部を占領した。国民は列強の領土割譲に対して無為無策であった国王カロル2世を批判し、退位させた。ルーマニアはドイツにつき枢軸国側として参戦した。この参戦により、ソ連が占領した地域を回復した。しかしドイツ敗退により、再度ソ連に侵攻され、1944年8月の政変で独裁体制を敷いていたイオン・アントネスク元帥ら親ドイツ派を逮捕して連合国側につき、王国内のドイツ軍を壊滅させた後にチェコスロバキアまで戦線を拡大し、対ドイツ戦を続けた。
戦後はベッサラビアとブコヴィナをソ連に割譲させられ、ソ連軍の圧力により共産化した。王制を廃止し、1947年にルーマニア人民共和国が成立した(1965年にルーマニア社会主義共和国に改称)。しかし、ニコラエ・チャウシェスクの独裁政権の元、次第にソ連とは一線を画す一国共産主義を唱え始め西側との結びつきも強めた。1989年、ニコラエ・チャウシェスクの独裁政権がルーマニア革命によって打倒され、民主化された。
2007年1月1日に欧州連合 (EU) に加盟した。加盟に際しては、改革が不十分であるとして欧州理事会によって再審査されたが、加盟後も改革を続行するとして承認された。
政治
詳細は「ルーマニアの政治」を参照
政体は大統領を国家元首とする共和制国家であり、国民から直接選挙で選ばれる大統領と議会から選出される首相が行政を行う半大統領制を採用している。大統領は任期が5年である(2004年までは任期4年)。立法権は二院制の議会に属し、下院(代議院)は定数332人、上院(元老院)は定数137人で両院とも任期は4年。司法権は最高裁判所に属している。
「ルーマニアの大統領」および「ルーマニアの首相」も参照
2004年には北大西洋条約機構 (NATO) に参加。2007年1月に欧州連合に加盟した。
2006年6月30日、ルーマニア最高国防評議会議長を兼任するバセスク大統領は、タリチェアヌ首相が29日イラク駐留部隊の年内撤退計画を発表したが、同評議会が同計画を拒否したことを明らかにした。同大統領は、熱烈な親米政治家として知られ、外交政策がある日突然変わってはならない、とタリチェアヌ首相を批判した。
2007年2月、選挙制度改革を進めようとする大統領と野党が対立。4月19日権力乱用を理由に大統領の職務停止案の投票が議会で行われ、賛成多数で可決された。4月20日ルーマニア憲法裁判所はバセスク大統領の職務停止を決定。バカロイウ上院議長が大統領代行に就任した。1か月後の5月20日にバセスクの弾劾の可否を問う国民投票が行われ、投票の結果は弾劾の否決。バセスクは大統領職に復帰した。これは、ルーマニア史上で大統領が議会に弾劾された最初のケースであり、大統領が国民投票で弾劾の可否を問われた最初のケースでもあり、さらに弾劾の否決の結果大統領が留任された最初のケースでもあった。
「ルーマニアの政党」も参照
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- 【ロシア】メチェル(MTLR)、ルーマニアで工場を取得IBTimes
- 現職バセスク氏の再選確実、ルーマニア山陰中央新報
- 俳優の死でワクチンに殺到 ルーマニア、新型インフル山陰中央新報
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