クルスクの戦い
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クルスクの戦い(クルスクのたたかい、ドイツ語: Schlacht bei Kursk(シュラハト・バイ・クルスク)、ロシア語: Курская битва(クールスカヤ・ビートヴァ))は、第二次世界大戦中の1943年、東部戦線(独ソ戦)ソビエト連邦(以下ソ連)の都市であるクルスク周辺をめぐり、ナチス・ドイツ(以下ドイツ)軍とソ連軍(赤軍)との間で行われた戦闘の名称である。ドイツ軍の正式作戦名「ツィタデレ(城塞)作戦」(ドイツ語: Unternehmen Zitadelle 英語:Operation Citadel)。ドイツ側約2,800輌、ソ連側約3,000輌の合計約6,000輌[3]の戦車が戦闘に参加し、「史上最大の戦車戦」として知られている。クルスク戦車戦、クルスク会戦とも呼称される。
- 1 クルスクの戦いとは
- 2 クルスクの戦いの概要
クルスクの戦い
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1943年クルスクの戦いではイワン・コーネフが指揮するステップ戦線を中心に、大規模な欺瞞作戦が実施された。地雷、対空砲などが配置された防御陣地は入念に隠され、守備部隊は夜間にのみ移動した。赤軍は偽の飛行場建設、偽の無線通信、偽の物資の集中、陽動攻撃とあらゆる技法を用いて戦力を秘匿した。ドイツ軍は攻撃を開始するまで、赤軍の地雷原や砲撃陣地を察知することができず、思わぬ抵抗を受けることになる。
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クルスクの戦い
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1943年の春、カトゥコフはスタフカの要請に従い、第1戦車軍(ロシア語版)を組織した。第1親衛戦車旅団の属する第3機械化軍団もこれに加わった。3月、旅団はヴォロネジ戦線に移動した。第1戦車軍はイワン・チスチャコフ率いる第6親衛軍(ロシア語版)の後衛として、オボヤニ(ロシア語版)方面でクルスクの戦いへの準備に取り組み始めた。 1943年の夏、第1親衛戦車旅団はクルスクの戦いに参戦した。旅団司令官はウラジーミル・ゴレロフ(ロシア語版)親衛大佐が、第1戦車大隊司令官はニコライ・ガヴリシュコ(ロシア語版)親衛大尉が、第2戦車大隊司令官はS・ヴォフチェンコ親衛大尉が務めた。 7月5日、第1親衛戦車旅団はベルゴロド州ヤコヴレヴォ(ロシア語版)にて、第2SS装甲軍団麾下の第1SS装甲師団と交戦状態に入った。7月6日、ヤコヴレヴォ付近で約80両のドイツ軍戦車がヴォフチェンコ率いる第2戦車大隊の下へと進軍したが、この時、上空には最大70機のドイツ空軍機が飛来していた。大隊は待ち伏せていたドイツ軍戦車を襲撃したため戦闘となったが、この戦いで小隊を指揮していたヴァルデマル・シャランディン(ロシア語版)親衛中尉が戦死している。彼は2両のティーガーIともう1両他の戦車を撃破したが、その際彼が搭乗していたT-34も被弾した。しかし彼は、他のティーガーIも撃破するために燃え盛る戦車に引き返したとされる。他の小隊で指揮を執っていたユーリイ・ソコロフ(ロシア語版)親衛中尉は最後まで戦い抜いた。彼が残した手記には、ニコライ・ネクラーソフの一節から引用した「大切なことはただ一つ、人民と祖国を愛すること、それらに心と魂を捧げて奉仕すること。」の一文が記されていた。ゲオルギー・ベッサラボフ親衛上級中尉が待ち伏せていた地点には、およそ100両のドイツ戦車が向かっていた。戦車を至近距離まで引き付けた後、彼は3両のティーガーIと2両の中戦車を撃破した。大隊を指揮していたヴォフチェンコは途中で負傷したため、後任にはアレクサンドル・チトコフ大尉が就いている。 1943年7月7日、ソロンツィ(ロシア語版)において100両のティーガーを含む400両のドイツ戦車が、第1機械化旅団(I・V・メリニコフ大佐指揮)、第3機械化旅団(ロシア語版)(アマザスプ・ババジャニャン大佐指揮)、第10機械化旅団(ロシア語版)(I・ヤコヴレフ大佐指揮)、第1親衛戦車旅団(ウラジーミル・ゴレロフ(ロシア語版)親衛大佐指揮)、最高司令部予備第14戦闘駆逐旅団(I・ザボーチン大佐指揮)などに戦闘を仕掛けた。ドイツの第3SS装甲師団は3度にわたって第1親衛戦車旅団に攻撃を加え、その日のうちにポクロフカを制圧した。第1親衛戦車旅団の兵士は、戦闘中自身が撃破した戦車の識別に努めた。特にイヴァン・クリディン(ロシア語版)中尉が指揮する戦車中隊は、ティーガーIを10両含む28両の戦車撃破を記録した。 その他、ニコライ・ガヴリシュコ(ロシア語版)大尉が指揮していた旅団の第1戦車大隊も大きな戦果を上げている。彼の大隊は、1943年7月5日から9日にかけて33両のドイツ戦車を撃破した。そのうち10両がティーガーIであり、それ以外に15門の火砲、23台の自動車と最大で720人のドイツ軍将兵を破っている。ヴェルホペニエ(ロシア語版)ではV・カリンチュカ親衛少尉が2両のティーガーIを撃破した。その際に彼の搭乗するT-34が被弾し、彼自身も負傷したが、燃えさかるT-34を駆ってさらにもう1両戦車を撃破している。ウラジーミル・ボチコフスキー(ロシア語版)率いる戦車中隊は、イヴァン・カリュジニイなどとともに統率のとれた行動を取り評価された。 第1親衛戦車旅団は1週間にわたり、他のソ連部隊とともにドイツ軍の戦車部隊を阻み続けた。ソ連側の資料によると、5日間の戦闘で第1親衛戦車旅団は94両の戦車(うち30両がティーガーI)に損害を与えたほか、24両の戦車(うち5両がティーガーI)、28門の火砲、8機の航空機、1,500人ものドイツ将兵を撃破したとされている。 7月16日に第1親衛戦車旅団は戦線を離脱。8月2日に人員や資材の補充を行った後、第8機械化軍団の先駆けとしてクルスク南部でドイツ軍と交戦状態に入った(ルミャンツェフ作戦)。 8月3日の早朝、第1親衛戦車旅団は第142(ロシア語版)、第112戦車旅団(ロシア語版)とともに18kmを移動し、ドイツ軍の正面から突破口を開こうとした。ボリソフカ(ロシア語版)=ベッソノフカを結ぶ幹線道路に沿って進軍したソ連側の動きは、ドイツ軍に混乱を引き起こした。同日、戦車中隊のウラジーミル・ヴドヴェンコがドイツの戦車部隊を攻撃し、4両に火災を発生させ、ティーガーIを1両撃破する戦果を上げている。翌日にはドイツ軍の車列を破壊している。 8月6日の夜、第1大隊はオドノロボフカ駅を拠点に、ボリソフカ=ハリコフ間の鉄道と幹線道路を遮断した。第2大隊はアレクサンドロフカ(ロシア語版)駅に向かった。さらに軍を進めたため、旅団はドイツ軍の反撃を繰り返し受けたが持ちこたえ、コヴャギ(ロシア語版)駅に拠点を移してハリコフ=ポルタヴァ間の輸送路の遮断に成功している。旅団の作戦遂行中、戦車や火砲、航空機までもを巻き込んだ激しい戦闘が起こった。なかでもコミンテルンに因んで命名された州の農村地域はどのような事情があろうとドイツに占領されるなどあってはならないことであったため、特に熾烈な防衛戦が展開された。 8月8日、第1親衛戦車旅団の中隊司令官ヴドヴェンコ親衛上級中尉の戦車が被弾し、彼は車内で火災に巻き込まれ戦死した。同日、ゲオルギー・ベッサラボフ親衛上級中尉はデュホフ親衛中尉、リトヴィノフ親衛中尉などを伴って偵察部隊を組織した。コヴャギ駅付近では、ニコライ・ガヴリシュコ(ロシア語版)とS・ヴォフチェンコが主力から孤立した彼らの部隊の指揮を取ることに努めた。N・ニジニク親衛上級中尉は、ドイツの機関車を砲撃し、撃破した。5両を指揮下に置くS・ヴォフチェンコはドイツ軍に包囲されていたが、5両のティーガーIと3両の中戦車を撃破する戦果を上げた。その他、キレーエフ親衛中尉は操縦手兼整備士のチャロフとともに2両のティーガーIを撃破し、10両の中戦車による攻撃を退かせてさらに2両の戦車を炎上させた。 1943年10月23日、クルスクでの奮闘ぶりを評価された第1親衛戦車旅団には、ソビエト連邦最高会議幹部会令によりレーニン勲章が与えられた。これは旅団が初めて受章した勲章である。また、クルスクでの戦闘により戦死したヴァルデマル・シャランディン中尉は、1944年1月10日にソ連邦英雄称号が追贈された。同月、それまで旅団が所属していた第3機械化軍団が第8親衛機械化軍団(ロシア語版)に改称された。 ツィタデレ作戦発動により移動するドイツの戦車(1943年6月21日) 戦闘を行うドイツのティーガーI(1943年7月) クルスク付近で撃破されたドイツの戦車
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