クルスクの戦いとは? わかりやすく解説

クルスクの戦い

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クルスクの戦い(クルスクのたたかい、ドイツ語: Schlacht bei Kursk(シュラハト・バイ・クルスク)ロシア語: Курская битва(クールスカヤ・ビートヴァ))は、第二次世界大戦中の1943年東部戦線独ソ戦ソビエト連邦(以下ソ連)の都市であるクルスク周辺をめぐり、ナチス・ドイツ(以下ドイツ)軍とソ連軍(赤軍)との間で行われた戦闘の名称である。ドイツ軍の正式作戦名「ツィタデレ(城塞)作戦」(ドイツ語: Unternehmen Zitadelle 英語:Operation Citadel)。ドイツ側約2,800輌、ソ連側約3,000輌の合計約6,000輌[3]の戦車が戦闘に参加し、「史上最大の戦車戦」として知られている。クルスク戦車戦クルスク会戦とも呼称される。




「クルスクの戦い」の続きの解説一覧

クルスクの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 05:47 UTC 版)

赤軍」の記事における「クルスクの戦い」の解説

1943年クルスクの戦いではイワン・コーネフ指揮するステップ戦線中心に大規模な欺瞞作戦実施された。地雷対空砲などが配置され防御陣地入念に隠され守備部隊夜間にのみ移動した赤軍は偽の飛行場建設、偽の無線通信、偽の物資集中陽動攻撃あらゆる技法用いて戦力秘匿した。ドイツ軍攻撃開始するまで、赤軍地雷原砲撃陣地察知することができず、思わぬ抵抗を受けることになる。

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クルスクの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 18:40 UTC 版)

第1親衛戦車旅団」の記事における「クルスクの戦い」の解説

1943年の春、カトゥコフはスタフカ要請従い、第1戦車軍(ロシア語版)を組織した第1親衛戦車旅団属す第3機械化軍団もこれに加わった3月旅団ヴォロネジ戦線移動した。第1戦車軍はイワン・チスチャコフ率いる第6親衛軍ロシア語版)の後衛として、オボヤニ(ロシア語版方面でクルスクの戦いへの準備取り組み始めた1943年の夏、第1親衛戦車旅団はクルスクの戦いに参戦した旅団司令官はウラジーミル・ゴレロフ(ロシア語版親衛大佐が、第1戦車大隊司令官はニコライ・ガヴリシュコ(ロシア語版親衛大尉が、第2戦車大隊司令官はS・ヴォフチェンコ親衛大尉務めた7月5日第1親衛戦車旅団ベルゴロド州ヤコヴレヴォ(ロシア語版)にて、第2SS装甲軍団麾下第1SS装甲師団交戦状態に入った7月6日、ヤコヴレヴォ付近で約80両のドイツ軍戦車がヴォフチェンコ率いる第2戦車大隊の下へと進軍したが、この時、上空には最大70機のドイツ空軍機が飛来していた。大隊待ち伏せていたドイツ軍戦車襲撃したため戦闘となったが、この戦いで小隊指揮していたヴァルデマル・シャランディン(ロシア語版親衛中尉戦死している。彼は2両のティーガーIともう1両他の戦車撃破したが、その際彼が搭乗していたT-34被弾した。しかし彼は、他のティーガーI撃破するために燃え盛る戦車引き返したとされる。他の小隊指揮を執っていたユーリイ・ソコロフ(ロシア語版親衛中尉最後まで戦い抜いた。彼が残した手記には、ニコライ・ネクラーソフ一節から引用した大切なことはただ一つ人民祖国愛すること、それらに心と魂を捧げて奉仕すること。」の一文記されていた。ゲオルギー・ベッサラボフ親衛上級中尉待ち伏せていた地点には、およそ100両のドイツ戦車向かっていた。戦車至近距離まで引き付けた後、彼は3両のティーガーIと2両の中戦車撃破した大隊指揮していたヴォフチェンコは途中で負傷したため、後任にはアレクサンドル・チトコフ大尉就いている。 1943年7月7日、ソロンツィ(ロシア語版)において100両のティーガーを含む400両のドイツ戦車が、第1機械化旅団I・V・メリニコフ大佐指揮)、第3機械化旅団ロシア語版)(アマザスプ・ババジャニャン大佐指揮)、第10機械化旅団ロシア語版)(I・ヤコヴレフ大佐指揮)、第1親衛戦車旅団(ウラジーミル・ゴレロフ(ロシア語版親衛大佐指揮)、最高司令部予備14戦闘駆逐旅団(I・ザボーチン大佐指揮)などに戦闘仕掛けたドイツ第3SS装甲師団3度わたって第1親衛戦車旅団攻撃加えその日のうちにポクロフカを制圧した第1親衛戦車旅団兵士は、戦闘中自身撃破した戦車識別努めた。特にイヴァン・クリディン(ロシア語版中尉指揮する戦車中隊は、ティーガーI10両含む28両の戦車撃破記録した。 その他、ニコライ・ガヴリシュコ(ロシア語版大尉指揮していた旅団第1戦車大隊大きな戦果上げている。彼の大隊は、1943年7月5日から9日にかけて33両のドイツ戦車撃破したそのうち10両がティーガーIであり、それ以外15門の火砲23台の自動車最大720人のドイツ軍将兵破っている。ヴェルホペニエ(ロシア語版)ではV・カリンチュカ親衛少尉が2両のティーガーI撃破したその際彼の搭乗するT-34被弾し、彼自身負傷したが、燃えさかるT-34駆ってさらにもう1両戦車撃破している。ウラジーミル・ボチコフスキー(ロシア語版率い戦車中隊は、イヴァン・カリュジニイなどとともに統率のとれた行動を取り評価された。 第1親衛戦車旅団1週間にわたり、他のソ連部隊とともにドイツ軍戦車部隊阻み続けたソ連側資料によると、5日間の戦闘第1親衛戦車旅団94両の戦車(うち30両がティーガーI)に損害与えたほか、24両の戦車(うち5両がティーガーI)、28門の火砲、8機の航空機、1,500人ものドイツ将兵撃破したとされている。 7月16日第1親衛戦車旅団戦線離脱8月2日人員資材補充行った後、第8機械化軍団先駆けとしてクルスク南部ドイツ軍交戦状態に入ったルミャンツェフ作戦)。 8月3日早朝第1親衛戦車旅団は第142ロシア語版)、第112戦車旅団ロシア語版とともに18kmを移動しドイツ軍正面から突破口開こうとした。ボリソフカ(ロシア語版)=ベッソノフカを結ぶ幹線道路沿って進軍したソ連側の動きは、ドイツ軍混乱引き起こした同日戦車中隊のウラジーミル・ヴドヴェンコがドイツ戦車部隊攻撃し、4両に火災発生させ、ティーガーIを1両撃破する戦果上げている。翌日にはドイツ軍車列破壊している。 8月6日の夜、第1大隊はオドノロボフカ駅を拠点に、ボリソフカ=ハリコフ間の鉄道幹線道路遮断した第2大隊アレクサンドロフカロシア語版)駅に向かった。さらに軍を進めたため、旅団ドイツ軍の反撃繰り返し受けた持ちこたえ、コヴャギ(ロシア語版)駅に拠点移してハリコフポルタヴァ間の輸送路の遮断成功している。旅団作戦遂行中、戦車火砲航空機までもを巻き込んだ激し戦闘起こったなかでもコミンテルン因んで命名された州の農村地域どのような事情があろうとドイツ占領されるなどあってはならないことであったため、特に熾烈な防衛戦展開された。 8月8日第1親衛戦車旅団中隊司令官ヴドヴェンコ親衛上級中尉戦車被弾し、彼は車内火災巻き込まれ戦死した同日、ゲオルギー・ベッサラボフ親衛上級中尉はデュホフ親衛中尉リトヴィノフ親衛中尉などを伴って偵察部隊組織した。コヴャギ駅付近では、ニコライ・ガヴリシュコ(ロシア語版)とS・ヴォフチェンコが主力から孤立した彼らの部隊指揮を取ることに努めた。N・ニジニク親衛上級中尉は、ドイツ機関車砲撃し撃破した。5両を指揮下に置くS・ヴォフチェンコはドイツ軍包囲されていたが、5両のティーガーIと3両の中戦車撃破する戦果上げた。その他、キレーエフ親衛中尉操縦手整備士チャロフとともに2両のティーガーI撃破し10両の中戦車による攻撃退かせてさらに2両の戦車炎上させた。 1943年10月23日クルスクでの奮闘ぶりを評価され第1親衛戦車旅団には、ソビエト連邦最高会議幹部会令によりレーニン勲章与えられた。これは旅団初め受章した勲章である。また、クルスクでの戦闘により戦死したヴァルデマル・シャランディン中尉は、1944年1月10日ソ連邦英雄称号追贈された。同月それまで旅団所属していた第3機械化軍団が第8親衛機械化軍団ロシア語版)に改称された。 ツィタデレ作戦発動により移動するドイツ戦車1943年6月21日戦闘を行うドイツティーガーI1943年7月クルスク付近撃破されたドイツ戦車

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