ソ連邦英雄
ソ連邦英雄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/25 22:13 UTC 版)
「ワレンチン・プルギン」の記事における「ソ連邦英雄」の解説
1940年1月、編集部に第39師団の用紙を用いた新しい命令書が届いた。これはプルギンを特別活動のために急ぎレニングラードへと派遣する必要があり、また3ヶ月以内に戻らなければ軍事運輸大学に送られたものと考えるようにと書かれていた。編集長は不自然な命令を訝しんだものの、結局は1月24日から4月25日の予定で出張が認められた。この期間について、プルギンはフィンランド戦線(冬戦争)へと派遣されていたと主張した。しかし、実際にはモスクワに留まり、同僚にして詐欺仲間だった友人のアパートに寝泊まりしつつ、歓楽街に入り浸っていた。 3月、モスクワ講和条約によって冬戦争が終結する。赤軍は一応の勝利を収めたものの、甚大な損害を被りつつ、フィンランド全土の占領には至らなかった。この事実が国民の動揺や軍部の不満につながることが危惧されたため、当局ではかの戦争が「英雄的な闘争」であったとする宣伝の一環として、3月から数ヶ月に渡って多数の勲章等の授与を発表し続けることになる。これを好機と見て、プルギンはソ連邦英雄の地位を得るために動き始めた。 3月、海軍人民委員部は第39師団の用紙を用いた推薦書を受け取った。これは、フィンランド白軍との戦いで勇敢と勇気を示した小隊指揮官にして『コムソモリスカヤ・プラウダ』紙軍事部副部長、ワレンチン・ペトロヴィチ・プルギンをソ連邦英雄に推薦するもので、プルギンの「輝かしい」受章経歴にも触れられていた。これを担当した海軍人民委員部の表彰部員は、既に勲章を複数受章していた上、『コムソモリスカヤ・プラウダ』紙で役職に付いているという人物の身元を改めて確認する必要はないと判断した。授与を最終的に決定する最高会議幹部会でも、多数ある候補者に埋もれたプルギンに気づく者はなかった。 4月21日、最高会議幹部会の命令に基づき、プルギンの「フィンランド白衛軍との戦いにおける勇敢、勇気、模範的な指揮」に対し、ソ連邦英雄の称号、レーニン勲章、金星章が授与された。4月22日には『コムソモリスカヤ・プラウダ』紙を始めとする大手各紙で報じられた。5月22日、ソ連邦英雄たるプルギンに関する特集記事が『コムソモリスカヤ・プラウダ』紙に掲載された。記事が準備されていることを知った時、プルギンは「私を英雄にする必要はない」と求めたものの、『コムソモリスカヤ・プラウダ』紙の15周年記念日が数日後に迫る中、編集部初のソ連邦英雄という「極めて喜ばしい」記事の掲載は避けられないものとなっていた。
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