ペデスタル作戦とは? わかりやすく解説

ペデスタル作戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/18 14:55 UTC 版)

ペデスタル作戦[1](ペデスタルさくせん、英語:Operation Pedestal)は、第二次世界大戦地中海攻防戦英語版において、1942年(昭和17年)8月中旬に連合国軍地中海で実施した増援輸送作戦英語版ジブラルタルからマルタ島へむかう連合国軍輸送船団と地中海艦隊H部隊)を、枢軸国軍が邀撃した[2]。連合軍は大損害を受けたがマルタへの補給に成功して作戦目標を達成し、戦局の転換点となった[3]。イタリア側では戦闘の発生時期から8月中旬の戦いイタリア語: Battaglia di mezzo agosto)と呼称するほか、マルタ島では船団の中核を成した石油タンカーオハイオサンタ・マリアの祝祭日 (8月15日) に到着したことからサンタ・マリア船団 (マルタ語: Il-Konvoj ta' Santa Marija)と呼ばれている。




  1. ^ 夜間空襲をおこなうソードフィッシュ (Fairey Swordfish) やウェリントン (Vickers Wellington) 、昼間強襲をおこなうブレンハイム (Bristol Blenheim) など[37]
  2. ^ マルタを拠点に行動していたK部隊Force K)、B部隊英語版など[41]。1941年11月9日にはデュースブルク船団が全滅し[42]、同年後半の船舶損耗率は80%近くにまで達した[43]
  3. ^ 連合軍の輸送船団だけでなく、主力艦も被害を受けた[52]。ドイツ海軍のU-81によって英空母アーク・ロイヤル (HMS Ark Royal,91) が[53]U-331によって英戦艦バーラム (HMS Barham) が撃沈されている[54][55]
  4. ^ 当時はモスクワの戦いの最中で、第二航空軍団は独ソ戦で消耗したあと再建されたばかりだった[56]
  5. ^ 南方軍航空部隊司令長官(第二航空艦隊)アルベルト・ケッセルリンク空軍元帥には、二重の命令が与えられた[57]。(a)南部イタリアと北アフリカ間の制空権と制海権を獲得し、マルタの制圧によってリビアおよびキレナイカ間の安全を確保せよ。/(b)地中海における連合軍の交通を麻痺させ、イギリスのトブルクおよびマルタ向けの補給を停止させよ。
  6. ^ ワスプからスピットファイアV型48機が発進し、47機が進出した[68]
  7. ^ 空母2隻からスピットファイア64機が発進し、4機が事故喪失、1機が空母に引返し、59機がマルタに進出した[12]
  8. ^ マルタ島の年間降水量は約550mm程度のため[74]、1881年 (明治14年) には世界初の商業的な海水淡水化が開始されるなど人工的に生産された真水に依存していた[75]
  9. ^ マルタに空襲を敢行していたドイツ空軍も、ロンメル軍団支援のため北アフリカに派遣されている[83]
  10. ^ トブルクの一ヶ月の物資揚陸量は20,000トンにすぎず、さらにイギリス軍の空襲で海上からの補給は事実上不可能だった[86]
  11. ^ 宇垣纏(当時、連合艦隊参謀長)『戦藻録』(1942年7月11日記事)[89]野村武官、阿部武官、それぞれ獨乙伊太利の企図を打電し来る。伊太利、獨乙は勢に乗じアレキサンドリヤを先にする事とし、同時にマルタ攻略を行ふと云ふ。さるにても伊国の重油欠乏は戦争中に歎しき事なり。汽車輸送にて千五百屯を軍艦に分けては一部出動可能と云ふ。斯る事にては伊海軍の活動望み難し。(ドイツ事情略) 愈々中近東の戦勢有利なるに於ては我も亦西進之に対応する所無かるべからず。伊の切望する西印度洋に対する敵勢減殺海上交通を潜水艦ならば可なるも、水上艦艇を持ち行くは多大の冒険なり。矢張り正攻法の順序に依り錫蘭セイロン)攻略が先決ならずやと考ふ。
  12. ^ B作戦は南西方面艦隊隷下の第一南遣艦隊(司令長官大川内傳七中将)旗艦香椎と、連合艦隊からの増援部隊で実施予定だった[97]
  13. ^ キング・ジョージ5世級戦艦のうちキング・ジョージ5世は (HMS King George V) は1942年5月1日に味方駆逐艦と衝突事故を起こし、修理中だった[98]デューク・オブ・ヨーク (HMS Duke of York, 17) はティルピッツなどに備えており、アンソン (HMS Anson, 79) は6月下旬に竣工したばかりで地中海に派遣されなかった。
  14. ^ スピットファイア1機が故障のために帰投し、インドミタブルに収容された。
  15. ^ アルジェ沖で、フェーリアスを護衛していた英駆逐艦ウールヴァリン (HMS Wolverine,D78) はイタリア潜水艦ダガブール (Dagabur) を体当たりで沈めた。このためウールヴァリンは艦首を大きく損傷し、ジブラルタルで修理した。
  16. ^ このあと航空偵察によりイタリア水上艦隊の出撃が判明したので、軽巡洋艦カリブディス (HMS Charybdis, 88) と駆逐艦2隻が再度派遣された[24]
  17. ^ 実際には、B-24部隊は中近東からの集結が間に合わず作戦行動はとれない状態だった[127]
  18. ^ 他に英潜水艦サファリ (HMS Safari) も行動していた。
  19. ^ 連合軍側はドイツ側の魚雷艇をEボートと呼称していた。
  20. ^ オハイオは第二次世界大戦終結後に浮揚され、港外に再海没処分となった[135]

脚注

  1. ^ 福田誠、光栄出版部 編集『第二次大戦海戦事典 W.W.II SEA BATTLE FILE 1939~45』、光栄、1998年、ISBN 4-87719-606-4、280ページ
  2. ^ a b 三野、地中海の戦い 1993, pp. 161a-167ペデスタル作戦
  3. ^ a b c 三野、地中海の戦い 1993, pp. 167a-172生き返ったマルタ、そしてトーチ作戦
  4. ^ スミス、Stuka 1974, pp. 154–155地中海戦線三つの局面
  5. ^ 海戦、連合軍対ヒトラー 1971, pp. 150–151.
  6. ^ a b 三野、地中海の戦い 1993, pp. 117–120北アフリカの戦いとマルタの重要性
  7. ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 125–129思わぬ敵 ― ドイツUボート
  8. ^ a b 三野、地中海の戦い 1993, pp. 136–137第四期/一九四二年一月~六月まで
  9. ^ a b 三野、地中海の戦い 1993, pp. 142–144マルタ島に危機迫る
  10. ^ マッキンタイヤー、空母 1985, p. 94.
  11. ^ a b c d 呪われた海 1973, p. 235.
  12. ^ a b Spitfire 1971, p. 141補充するとすぐ空襲
  13. ^ スミス、Stuka 1974, pp. 163–164英軍、強気のマルタ島輸送計画
  14. ^ a b スミス、Stuka 1974, pp. 165–166バイガラス船団空前の大損害
  15. ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 153–154第四期/一九四二年一月~六月の年表
  16. ^ a b Luftwaffe 1971, pp. 137a-138激烈、マルタ島攻防戦
  17. ^ 海戦、連合軍対ヒトラー 1971, pp. 239–240.
  18. ^ a b c 三野、地中海の戦い 1993, pp. 159–161訪れた転換期
  19. ^ a b スミス、Stuka 1974, p. 166b.
  20. ^ a b c d 三野、地中海の戦い 1993, p. 163.
  21. ^ a b c スミス、Stuka 1974, pp. 166a-168ペデスタル船団へ全力攻撃
  22. ^ a b マッキンタイヤー、空母 1985, pp. 146a-151独伊軍、マルタ船団撃滅に奔命
  23. ^ 海戦、連合軍対ヒトラー 1971, p. 241〈ペデスタル作戦〉1942年8月11~13日
  24. ^ a b c d e f g h i 海戦、連合軍対ヒトラー 1971, p. 252.
  25. ^ a b c 三野、地中海の戦い 1993, p. 165.
  26. ^ a b c d e 三野、地中海の戦い 1993, p. 166.
  27. ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 176–177第五期 一九四二年七月~十二月の年表
  28. ^ 呪われた海 1973, p. 240.
  29. ^ a b Luftwaffe 1971, pp. 138a-139ロンメル西へ退却
  30. ^ マッキンタイヤー、空母 1985, pp. 142a-146マルタ島へ強行補給
  31. ^ a b 呪われた海 1973, p. 226(クレタ陥落後の地中海航路と勢力図)
  32. ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 110–111第二期/一九四一年一月~六月の年表
  33. ^ 海戦、連合軍対ヒトラー 1971, p. 194.
  34. ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 105–110ギリシャ情勢とクレタ島をめぐる戦い
  35. ^ マッキンタイヤー、空母 1985, p. 142b.
  36. ^ Spitfire 1971, p. 135.
  37. ^ 海戦、連合軍対ヒトラー 1971, p. 195.
  38. ^ 潜水艦戦争 1973, pp. 137–138(7)地中海の潜水艦 一九四〇~一九四二年/イギリス潜水艦の行動
  39. ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 321–327地中海におけるイギリス潜水艦
  40. ^ 補給戦 2006, p. 315.
  41. ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 120–122K部隊の栄光
  42. ^ 呪われた海 1973, pp. 224–225.
  43. ^ 呪われた海 1973, p. 228.
  44. ^ 補給戦 2006, pp. 303–305砂漠では何が必要だったか
  45. ^ 海戦、連合軍対ヒトラー 1971, p. 199(地中海航路図)北アフリカへの枢軸側の補給路
  46. ^ ロンメル戦車軍団 1984, pp. 142–143.
  47. ^ 補給戦 2006, p. 316.
  48. ^ 呪われた海 1973, p. 227.
  49. ^ a b 呪われた海 1973, p. 234.
  50. ^ スミス、Stuka 1974, pp. 159–160マルタ島攻撃作戦
  51. ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 132–133第三期/一九四一年七月~十二月の年表
  52. ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 315–320地中海でのドイツ潜水艦
  53. ^ 潜水艦戦争 1973, p. 129.
  54. ^ 潜水艦戦争 1973, p. 130.
  55. ^ 海戦、連合軍対ヒトラー 1971, pp. 207–208.
  56. ^ 呪われた海 1973, p. 233.
  57. ^ 海戦、連合軍対ヒトラー 1971, pp. 208–209.
  58. ^ Luftwaffe 1971, pp. 133–136英のマルタ補給を阻止
  59. ^ ピーター&アンソニー 1986, p. 57.
  60. ^ ピーター&アンソニー 1986, p. 58.
  61. ^ 海戦、連合軍対ヒトラー 1971, p. 225.
  62. ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 138–141第二次シルテ湾海戦
  63. ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 144–147ビガラス船団、西へ
  64. ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 147–151ハープーン船団、東へ
  65. ^ a b Luftwaffe 1971, pp. 136–137ロンメル軍団支援
  66. ^ ピーター&アンソニー 1986, p. 51-56.
  67. ^ 海戦、連合軍対ヒトラー 1971, p. 156.
  68. ^ Spitfire 1971, p. 139米空母で48機輸送
  69. ^ Spitfire 1971, pp. 140–141はげしい独伊空軍の攻撃
  70. ^ 海戦、連合軍対ヒトラー 1971, p. 221.
  71. ^ 呪われた海 1973, p. 239.
  72. ^ 海戦、連合軍対ヒトラー 1971, p. 237.
  73. ^ マッキンタイヤー、空母 1985, p. 145.
  74. ^ Malta's Water: Is it Safe to Drink?”. マルタ航空. 2021年8月3日閲覧。
  75. ^ Water Culture and Water Conflict in the Mediterranean Area”. 戦略国際問題研究所. 2021年8月3日閲覧。
  76. ^ ピーター&アンソニー 1986, p. 62.
  77. ^ ロンメル戦車軍団 1984, pp. 85–89トブルクとマルタ島の攻略を計画
  78. ^ 海戦、連合軍対ヒトラー 1971, p. 222.
  79. ^ 呪われた海 1973, pp. 236–239.
  80. ^ ロンメル戦車軍団 1984, p. 115.
  81. ^ 補給戦 2006, p. 325.
  82. ^ 補給戦 2006, p. 326.
  83. ^ スミス、Stuka 1974, pp. 160–161北アフリカのロンメル新攻勢
  84. ^ スミス、Stuka 1974, pp. 161–162宿願のトブルク陥落!
  85. ^ ロンメル戦車軍団 1984, pp. 112–114短時間でトブルク占領
  86. ^ 補給戦 2006, p. 328.
  87. ^ 海戦、連合軍対ヒトラー 1971, p. 224.
  88. ^ ロンメル戦車軍団 1984, pp. 136–138.
  89. ^ 戦史叢書54 1972, p. 117a「戦藻録」の記事
  90. ^ 呪われた海 1973, pp. 260–262.
  91. ^ 海戦、連合軍対ヒトラー 1971, p. 278PQ17船団の潰滅 1942年7月
  92. ^ 潜水艦戦争 1973, pp. 245–249輸送船団PQ17
  93. ^ マッキンタイヤー、空母 1985, pp. 118–122米海軍、ミッドウェイで幸運の勝利
  94. ^ 戦史叢書54 1972, pp. 110–117八 作戦重点を印度洋に移行/移行の経緯
  95. ^ マッキンタイヤー、空母 1985, pp. 122–124"台風の眼"ガダルカナル
  96. ^ 戦史叢書54 1972, pp. 75–77第二章 印度洋作戦の推進とその中止(昭和十七年五月~同八月)/一、全般経過の概要
  97. ^ 戦史叢書54 1972, pp. 119–121九 B作戦計画とその取りやめ
  98. ^ 呪われた海 1973, p. 255.
  99. ^ スミス、Stuka 1974, pp. 164–165ハープーン船団の惨害
  100. ^ ロンメル戦車軍団 1984, p. 140.
  101. ^ Shores, Cull and Malizia 1991, pp. 451–52
  102. ^ a b Nailer, p. 164
  103. ^ a b マッキンタイヤー、空母 1985, p. 146b.
  104. ^ マッキンタイヤー、空母 1985, p. 147.
  105. ^ 呪われた海 1973, p. 241.
  106. ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 178a-181(1942年7月~12月)B.イギリス海軍の艦艇の損失
  107. ^ 海戦、連合軍対ヒトラー 1971, p. 242.
  108. ^ a b c マッキンタイヤー、空母 1985, p. 148.
  109. ^ Luftwaffe 1971, p. 137b.
  110. ^ a b 海戦、連合軍対ヒトラー 1971, p. 243.
  111. ^ 三野、地中海の戦い 1993, p. 161b.
  112. ^ 戦史叢書54 1972, p. 117b.
  113. ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 360–362●中期以後の燃料の不足
  114. ^ a b 海戦、連合軍対ヒトラー 1971, p. 245.
  115. ^ 海戦、連合軍対ヒトラー 1971, p. 244.
  116. ^ マッキンタイヤー、空母 1985, p. 149.
  117. ^ a b スミス、Stuka 1974, p. 169b.
  118. ^ a b c Luftwaffe 1971, p. 138b.
  119. ^ a b 海戦、連合軍対ヒトラー 1971, p. 246.
  120. ^ a b マッキンタイヤー、空母 1985, p. 150.
  121. ^ ピーター&アンソニー 1986, p. 148-150.
  122. ^ a b c 海戦、連合軍対ヒトラー 1971, p. 248.
  123. ^ a b 三野、地中海の戦い 1993, p. 164.
  124. ^ 海戦、連合軍対ヒトラー 1971, p. 249.
  125. ^ 三野、地中海の戦い 1993, p. 178b(1942年7月~12月)A.イタリア海軍の艦艇の損失
  126. ^ ピーター&アンソニー 1986, p. 181-182.
  127. ^ ピーター&アンソニー 1986, p. 181.
  128. ^ 海戦、連合軍対ヒトラー 1971, pp. 250–251.
  129. ^ 海戦、連合軍対ヒトラー 1971, p. 253.
  130. ^ スミス、Stuka 1974, p. 169a後始末は「スツーカ」にまかせ
  131. ^ a b c 海戦、連合軍対ヒトラー 1971, p. 255.
  132. ^ 海戦、連合軍対ヒトラー 1971, p. 254.
  133. ^ ピーター&アンソニー 1986, p. 241.
  134. ^ ピーター&アンソニー 1986, p. 254-255.
  135. ^ ピーター&アンソニー 1986, p. 257-260.
  136. ^ a b 三野、地中海の戦い 1993, p. 167b.
  137. ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 355–358●海軍と空軍の連携のまずさ
  138. ^ スミス、Stuka 1974, pp. 170–171おとろえゆく独伊空軍兵力
  139. ^ a b 補給戦 2006, p. 329.
  140. ^ 戦史叢書54 1972, pp. 136–137獨軍の後退
  141. ^ ロンメル戦車軍団 1984, p. 158イギリス軍、エル・アラメイン攻撃(1942年10~11月)
  142. ^ ピーター&アンソニー 1986, p. 98.
  143. ^ a b HMS Jervis (F 00)”. www.uboat.net. 2021年8月1日閲覧。



ペデスタル作戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/11 06:25 UTC 版)

ラフォーレイ (駆逐艦・2代)」の記事における「ペデスタル作戦」の解説

8月9日出撃したラフォーレイは、海上封鎖によって深刻な物資不足に陥ったマルタ島救援する大規模輸送作戦ペデスタル作戦の護衛艦艇に加わる。8月10日にラフォーレイとルックアウトは、マルタ島スピットファイア戦闘機輸送する空母フューリアス護衛就いた。だが、8月11日空母イーグル雷撃されたため、2隻はフューリアスから離れ生存者救助向かった。ラフォーレイとルックアウト、そして救難曳船1隻はイーグル生存者927名を救助した生存者駆逐艦ケッペル英語版)に移した後、ラフォーレイは再び船団護衛戻ったその日午後、ラフォーレイとフューリー英語版)、フォアサイトはイタリア海軍潜水艦ブリン英語版に対して攻撃加えた不成功終わった。 翌8月12日船団激し空襲さらされた。損害避けるためラフォーレイと数隻の僚艦シチリア海峡到達した際に船団から分離し8月14日まで現場海域とどまった後に翌日ジブラルタル帰投した。だが次の日には、ラフォーレイは新たなマルタ島への戦闘機輸送のためフューリアス軽巡洋艦カリブディス護衛して出撃した。部隊8月18日戻り、ラフォーレイは8月21日からジブラルタル沖合での対潜哨戒従事した9月4日にラフォーレイとルックアウトジブラルタル入港する商船レインスター(Leinster)の護衛を行う。それからラフォーレイは改装のためサウザンプトン向かい9月17日到着10月11月大部分改装工事費やした改装完了後はスカパ・フローライトニング改装後公試慣熟訓練実施した。2隻はリバプールからジブラルタルへ向かう兵員輸送船ダッチェス・オブ・アトール(英語版)を護衛しながらジブラルタル到着した12月21日にKMF5船団護衛中だったラフォーレイとライトニングUボートU-562(英語版)に雷撃され兵員輸送船ストラシャラン(Strathallan)の救援活動参加している。ラフォーレイはストラシャランの乗員救助し船体曳航したがオラン到着直前沈んでしまった。

※この「ペデスタル作戦」の解説は、「ラフォーレイ (駆逐艦・2代)」の解説の一部です。
「ペデスタル作戦」を含む「ラフォーレイ (駆逐艦・2代)」の記事については、「ラフォーレイ (駆逐艦・2代)」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ペデスタル作戦」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ペデスタル作戦」の関連用語

ペデスタル作戦のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ペデスタル作戦のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのペデスタル作戦 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのラフォーレイ (駆逐艦・2代) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS