マタパン岬沖海戦
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マタパン岬沖海戦[2][3](マタパンみさきおきかいせん、英: Battle of Cape Matapan, 伊: Battaglia di Capo Matapan)は、第二次世界大戦中のギリシャ・イタリア戦争において、1941年(昭和16年)3月下旬に地中海でイギリス海軍及びオーストラリア海軍を基幹とする連合国軍と、イタリア王立海軍 (Regia Marina) の間で行われた海戦[4](地中海攻防戦)[注釈 4]。
注釈
- ^ クレタ島に臨時配備されていた第815海軍飛行隊(イラストリアス)など。
- ^ イタリア戦艦の砲撃が至近弾となった軽巡オライオン (HMS Orion, 85) [1]。
- ^ 第829海軍航空隊(フォーミダブル)の所属機。
- ^ a b 第二五、クリート島爭奪戰[5](中略)ギリシヤが未だ余喘を保つてゐた三月の末頃イギリス地中海艦隊はクリート島のスダ灣を根城として暴威を振つてゐた。三月廿六日、イタリー艦隊は夜陰に乗じてスダ灣に奇襲を試み碇泊地中のイギリス艦隊に砲撃を加へ一隻を撃沈したと公表してゐるが、これは廿八日夜の遭遇戰の前哨戦であつた。
夜襲とは小癪なとイギリス艦隊も腹を立て奮然攻撃に出たものと解される。イタリーの發表では、この海戰で「中型巡洋艦三隻、驅逐艦二隻、合計五隻を失つたが、敵方の大型巡洋艦一隻の側に大型砲彈を命中せしめて撃沈し、外他の二隻にも大損害を與へた」と言つてゐる。これに對してイギリスは「廿八日の海戰においてイタリーのリツトリオ級主力艦(三五,〇〇〇トン)一隻に損害を與へ、巡洋艦二隻に致命的打撃を與へた」と公表してゐる。夜の海戰の事であるから戰果について的確な數字を擧げ得ないのは當然であらうが、彼此綜合して見るとイタリーの巡洋艦三隻は大損害を受けて基地に歸る途中沈没したものであらう。乗組員の多數が救助されたと發表してゐるのはそのためだと思はれる。イギリスは自國艦隊の損害沈没については一切口を緘してゐるし、海戰の模様に就いても何も語つてゐないが、これだけの犠牲を出したのであるから相當大掛りな海戰で、激闘が交へられた事は想像に難くない。 - ^ 重巡3隻(ザラ、フィウメ、ポーラ)と駆逐艦2隻(ヴィットリーオ・アルフィエーリ、ジョズエ・カルドゥッチ)が沈没した[9]。
- ^ a b 第二六、獨伊空軍の英艦隊急襲[10] 此頃ドイツは英本土の空襲を間斷なく繼續しながらも、空軍に綽々たる余裕をもち、地中海、北阿作戰におけるイタリー危しと見て救援に馳せ向つたのである。これに氣を得たイタリー空軍もドイツ空軍と協力して隋所にイギリス艦隊を空爆してゐる。廿八日エーゲ海においてイタリー空軍はイギリスの護送船團、艦隊並に碇泊中の船舶を強襲し、航空母艦一隻及び巡洋艦二隻に猛爆を加へ、内巡洋艦一隻を撃沈した。廿九日にはドイツ空軍がマルタ島のハルフア飛行場を爆撃してゐるし、東地中海では獨伊共同でイギリス艦隊に猛攻を加へ、イタリーの雷撃機は巡洋艦一隻に魚雷を命中せしめ、爆撃機も航空母艦一隻に爆彈三個を命中せしめた。防禦の手薄な航空母艦のことであるから損傷は大きかつたであらう。
以上の如く地中海の海上では空海入亂れての激戰が續けられたが、卅日に至つてまたもや東地中海で伊英の海戰が表はれた。イギリスはこの海戰の戰果を次の如く數字を擧げて詳細に公表してゐる、「英軍は伊巡洋艦フィウメ、ポラ、ザラ(各一萬トン、八吋砲八門搭載、一九三〇-三一年完成)の三隻並に驅逐艦ヴインチンツオ・ジョベルチ(一,七三九トン、一九三六年完成) マエストラーレ(一,四四九トン、一九三四年完成)の二隻を撃沈した」と、これに對してイタリーは乙級巡洋艦ジオヴアンニ・デレ・バンデ・ネーレ號(五,〇六九トン、一九三一年竣工)を撃沈したものと推定されるとのイギリスの發表を全然否定し、クリート島附近のイギリス艦隊の損傷をイギリス海軍省が如何に發表するか深甚なる注意を以て期待すると公表してゐる。
お互に駈引もあらう、逆宣傳もあらうから公表の何割かを割引して受取らねば大勢を見誤る惧れはあるが、地中海における伊英艦隊の爭覇戰は、イタリーがイギリス艦隊に與へた打撃の代償としては寧ろ大きに過ぎる犠牲を拂ひ、イタリーは艦隊だけで決戰するに足る比率を割つてしまつたといふ感が深く、地中海の制海権は依然としてイギリスの手中に存すると言つても強ち正鵠を失した見方ではあるまいと思ふ。/ ここに於てかイタリーはドイツと協力して、空軍及び潜水艦によるイギリス艦隊撃攘の作戰をとるに至つたのである。勿論小競はあつた。それは四月十六日トリポリ近海の海戰の如く双方驅逐艦を失つた程度のものであつた。 - ^ 大破着底3隻(リットリオ、カイオ・ドゥイリオ、コンテ・ディ・カブール)、健在3隻(ヴィットリオ・ヴェネト、ジュリオ・チェザーレ、アンドレア・ドーリア)[21]。
- ^ イラストリアスの第824海軍飛行隊は空母イーグル (HMS Eagle) と陸上基地に配置転換し、第819海軍飛行隊は第815海軍飛行隊に統合された。
- ^ 1941年3月8日にアメリカ合衆国でレンドリース法が成立し、イギリス海軍の艦艇はアメリカで修理が可能となる[27]。その適用例第1号がイラストリアスになった[27]。
- ^ 中将(Ammiraglio di squadra)。英訳はSquadron Vice Admiral。フランス語のVice-amiral d'escadreより転じて。
- ^ ドイツ側は、第10航空軍団がイタリア海軍の直上支援を実施するし、1941年2月のイギリス軍H部隊によるジェノバ砲撃(グロッグ作戦)に一矢報いるチャンスだと吹き込んだ[32]。
- ^ 旗艦ヴェネトの護衛は第10駆逐隊(マエストラーレ、グレカーレ、リベッチオ、シロッコ)だったが、出港後に第13駆逐隊(グラナティーレ、フチニエーレ、ベルサリエーレ、アルピーノ)へ交代したという。
- ^ 軽巡2隻(カルカッタ、カーライル)や駆逐艦(ディフェンダー、ジャガー、ヴァンパイア)が護衛していた。
- ^ 軽巡ボナヴェンチャー (HMS Bonaventure, 31) や駆逐艦(デコイ、ジュノー)などが護衛していた。
- ^ この時点でのイギリス地中海艦隊は、クイーン・エリザベス級戦艦3隻(ウォースパイト、ヴァリアント、バーラム)と空母フォーミダブルを基幹としていた[34]。
- ^ 上級少将(Ammiraglio di divisione)。英訳はvice admiral。ただし、職席は戦隊司令官に限定される。
- ^ B部隊:軽巡洋艦オライオン (HMS Orion, 85) 、エイジャックス (HMS Ajax) 、グロスター (HMS Gloucester, C62) 、パース (HMAS Perth, D29) 、駆逐艦4隻(ヘイスティ、ヘレワード、アイレクス、ヴェンデッタ)。
- ^ 大破したイラストリアスから降りた第815海軍飛行隊がクレタ島に配備されていた。
- ^ ビスマルクの舵を破壊したのは、空母アーク・ロイヤル (HMS Ark Royal, 91) から発進した第810海軍飛行隊と第818海軍飛行隊のソードフィッシュから放たれた魚雷であった[42][43]。
- ^ ヴァリアントには、フィリップ王子(のちのエリザベス2世王配)が海軍士官として勤務していた。
- ^ ただし、攻撃隊に戦闘機を付随させる必要や、防御側に空母や戦闘機がいた場合の対処については、深く認識しなかったようである[58]。
出典
- ^ a b c d ヨーロッパ列強戦史 2004, p. 32.
- ^ 福田誠、光栄出版部 編集『第二次大戦海戦事典 W.W.II SEA BATTLE FILE 1939~45』光栄、1998年、ISBN 4-87719-606-4、262ページ
- ^ 『世界の艦船 増刊第41集 イタリア戦艦史』海人社、1994年、126ページ
- ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 71b-72三、一九四一年三月二十八日のマタパン岬沖海戦
- ^ 列強の臨戦態勢 1941, pp. 129–130原本235-237頁
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- ^ 三野、地中海の戦い 1993, p. 101.
- ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 112–123第二期/一九四一年一月~六月の年表 A.イタリア海軍の艦艇の損失
- ^ 列強の臨戦態勢 1941, pp. 130–131原本237-239頁
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- ^ 三野、地中海の戦い 1993, p. 71a二、一九四〇年十一月十一日~十二日のタラント港夜間攻撃
- ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 82–86タラント夜襲
- ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 242–247(1)タラント港奇襲
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- ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 45–48(4)英空母の能力と航空機の比較
- ^ マッキンタイヤー、空母 1985, pp. 46–49英海軍、空母搭載機の調達に悩む
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- ^ 大内、幻の航空母艦 2006, p. 119.
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- ^ 大内、幻の航空母艦 2006, pp. 132–133第9図 航空母艦スパルビエロ
- ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 362–364●航空母艦の有無の問題
- ^ マッキンタイヤー、空母 1985, p. 206.
- ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 359–360●レーダーの威力
- ^ 世界の艦船増刊第67集
- 1 マタパン岬沖海戦とは
- 2 マタパン岬沖海戦の概要
- 3 参加艦艇
- 4 その後
- 5 参考文献
- 6 関連項目
マタパン岬沖海戦
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「ポーラ (重巡洋艦)」の記事における「マタパン岬沖海戦」の解説
3月下旬、再びイタリア艦隊は東地中海のクレタ島南部においてイギリス輸送艦隊の迎撃を試みた。この作戦は3月27日から29日に行なわれたマタパン岬沖海戦を生じた。昼間の交戦の大部分において、ポーラと他の第3分艦隊はイタリア艦隊から離れた側に配置されており、この段階での作戦参加は生じなかった。戦艦ヴィットリオ・ヴェネトは空母フォーミダブルからの雷撃機によって雷撃され、撤退を余儀なくされた。また第3分艦隊は、さらにもう一度起こり得るイギリス軍の攻撃を防御するため、イタリア艦隊の左舷側に残された。その日遅くに行なわれたイギリス軍航空機の第二次空襲は、後退するヴィットリオ・ヴェネトの捕捉に失敗し、代わりにポーラの右舷側中央部へ1発の魚雷を投下、命中させた。攻撃の混乱でポーラはフィウメとほぼ衝突しかけており、停止を余儀なくされ、回避行動を取ることを妨げられていた。この損害で3箇所の区画が完全に浸水し、ボイラーのうち5基が使用不能となり、タービンへと供給する主な蒸気流通路も使えず、この艦は動けないままとなった。 イアキーノは3月28日の20時10分までポーラの窮状を知らなかった。状況が判明し、彼はポーラを保護するため、フィウメ、ザラ及び駆逐艦4隻を分離した。同時刻、イギリス軽巡洋艦HMSオライオンは艦載レーダーでポーラを発見し、この艦の位置を報告した。戦艦ヴァリアント、戦艦ウォースパイト、戦艦バーラムを中核とするイギリス艦隊はこの地点からわずか50海里ほど離れていた。イギリス艦艇はレーダーにより誘導され、イタリア側に接近した。22時10分、ポーラは戦艦ヴァリアントから約6海里離れていた。行動不能なイタリア巡洋艦の見張りは接近する艦型を判別し、友軍の艦艇であると仮定し、そこで彼らは案内のために赤い照明弾を発射した。ほぼ20分後、イギリス側は最初にザラを、次にフィウメを艦載サーチライトで照らし出した。イギリス戦艦は直射でフィウメ、ザラと2隻の駆逐艦を無力化した。 ポーラは作戦中、まず最初に単独離脱した。艦長は彼の艦が次の標的になるだろうと仮定し、乗員に非常弁を開け、艦から退去するよう命令した。深夜およそ10分過ぎに、暗闇の中で駆逐艦ハボックは未だ動力の復旧されないポーラを発見した。イギリス駆逐艦戦隊は現場に急行した。まず最初に、放棄されてまだ浮いたままのザラを発見した。駆逐艦HMSジャーヴィスはこの艦を雷撃、沈没させた。生存者を拾い上げた後、駆逐部隊はハボックと合流した。強襲隊はポーラを奪う準備を終えていたが、この重巡の大部分の乗員が海面へ飛び込んだことが判明した。残りの乗員は降伏の準備ができており、前甲板上に秩序なく集まっていた。ジャーヴィスは、ポーラから生き残りの士官22人と下士官兵236人を移乗させた。この後、ジャーヴィスが艦をサーチライトで照射する一方、駆逐艦HMSヌビアンがポーラを雷撃した。ポーラの弾庫は爆発し、艦は3月29日4時3分に沈んだ。合計328人の乗員が艦と共に没した。1946年10月18日、ポーラは海軍の記録簿から正式に抹消された。
※この「マタパン岬沖海戦」の解説は、「ポーラ (重巡洋艦)」の解説の一部です。
「マタパン岬沖海戦」を含む「ポーラ (重巡洋艦)」の記事については、「ポーラ (重巡洋艦)」の概要を参照ください。
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