最初の戦闘(1904年-1905年)
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「戦艦」の記事における「最初の戦闘(1904年-1905年)」の解説
世界で最初に戦艦同士の本格的な戦闘が行われたのは、1904年の日露戦争だった。日露戦争の初期の黄海海戦には、日本の連合艦隊の戦艦4隻+装甲巡洋艦2隻とロシア第一太平洋艦隊(旅順)の6隻の戦艦が対戦し、翌年の日本海海戦では、日本の連合艦隊の戦艦4隻+装甲巡洋艦8隻と、ロシア第2及び第3太平洋艦隊(バルチック艦隊)の戦艦8隻他が対戦した。いずれも日本の連合艦隊の勝利に終わった。黄海海戦では逃走するロシア艦隊と追いかける日本艦隊の間で、距離1万m以上の遠距離砲戦が起こった。
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最初の戦闘
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3月28日払暁、イギリス海軍のA部隊(Force A)所属の空母フォーミダブル (HMS Formidable, R67) より、艦上攻撃機(アルバコア、ソードフィッシュ)が偵察に向かった。アルバコアはイタリア巡洋艦部隊の存在を掴んだ。イタリア側も、旗艦ヴィットリオ・ヴェネト (Vittorio Veneto) からIMAM Ro.43(英語版、イタリア語版)水上機が発進して偵察を実施、連合国軍巡洋艦部隊を発見した。3つに別れていたイタリア艦隊の一つ、第3戦隊司令官ルイージ・サンソネッチ(英語版、イタリア語版)上級少将が指揮する巡洋艦部隊(重巡洋艦トリエステ、トレント、ボルツァーノ、駆逐艦3隻)がイギリス巡洋艦部隊の攻撃にむかった。 クレタ島の南方海面で最初に直接砲火を交えたのは、ウィッペル提督(旗艦オライオン)のB部隊 (Force B) すなわち連合国軍巡洋艦部隊と、サンソネッチ提督の巡洋艦部隊であった。8時12分、イタリア重巡洋艦(トリエステ、トレント、ボルツァーノ)が距離23,000メートル前後で砲撃を開始した。B部隊はクイーン・エリザベス級戦艦が戦場に到着するまでの時間を稼ぐため距離をとろうとし、イタリア重巡部隊はそれを追撃した。イギリス軍の動きを罠と考えたイアキーノ提督は8時55分にサンソネッチに対し追跡を中止するよう命じた。そのため、サンソネッチ部隊は北西に向かい戦闘は中断した。この戦闘では両軍とも命中弾は得られなかった。 北西に向かったサンソネッチの部隊を追跡したB部隊は、イアキーノ提督が座乗する戦艦ヴィットリオ・ヴェネトと遭遇した。10時55分、旗艦ヴィットリオ・ヴェネトは距離27,000メートル前後で砲撃を開始した。また、サンソネッチ部隊も攻撃のため向きを変えたが、B部隊は南へ逃走した。ヴィットリオ・ヴェネトが航空攻撃を受けたことで戦闘は停止した。ヴィットリオ・ヴェネトの砲撃はB部隊旗艦オライオン (HMS Orion, 85) に挟夾となり、機関故障を起こした軽巡グロスター (HMS Gloucester, C62) や掩護の駆逐艦ヘイスティ (HMS Hasty, H24) などが危機に陥ったが、結局、命中弾は出なかった。 A部隊(本隊)では「新手のイタリア巡洋艦部隊接近」の偵察報告をうけて、B部隊を救うためフォーミダブルよりフルマー戦闘機2機とアルバコア雷撃機6機が発進した。1時間ほど飛行して戦場に到着すると、英連邦巡洋艦がヴィットリオ・ヴェネトにより窮地に追い込まれていたので、さっそくイタリア新鋭戦艦を攻撃する。11時27分、フォーミダブル第一次攻撃隊はイタリア新鋭戦艦に対して攻撃を開始した。さらにイタリア艦隊の上空にいたJu 88 2機のうち、1機が英戦闘機フルマーに撃墜されている。ヴィットリオ・ヴェネトに向けて発射された魚雷はすべて外れたが、敵空母の存在が明らかとなったことで11時40分にイアキーノ提督は撤退を決めた。フォーミダブル第一次攻撃隊は戦果こそなかったが、味方巡洋艦部隊の危機を救ったのである。 またロドス島より発進したイタリア空軍のSM.79雷撃機 2機がフォーミダブルを襲撃したが、回避されている。
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