スパダ岬沖海戦
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スパダ岬沖海戦 (スパダみさきおきかいせん、英語: Battle of Cape Spada) [1][2]は、第二次世界大戦中の地中海攻防戦において、1940年(昭和15年)7月19日に地中海のクレタ島北西沖で発生した海戦[3]。 イギリス海軍およびオーストラリア海軍の水雷戦隊と、イタリア王立海軍の軽巡洋艦2隻が交戦した[注釈 1]。 海戦は、イタリアの軽巡洋艦2隻と、イギリスの駆逐艦4隻との間で始まった[注釈 2]。その後オーストラリアの軽巡洋艦シドニー (HMAS Sydney) とイギリスの駆逐艦ハヴォック (HMS Havock, H43) が加わって形勢が逆転した[6]。戦闘の結果、イタリアの軽巡洋艦バルトロメオ・コレオーニ (Bartolomeo Colleoni) が撃沈され、カサルディ提督が将旗を掲げる軽巡ジョヴァンニ・デレ・バンデ・ネーレ (Giovanni delle Bande Nere) は逃げ切った[注釈 1][7]。
注釈
- ^ a b 第一六、伊の退嬰長蛇を逸す[4] 潜水艦ばかりでなしにイタリー海軍全體の指導精神には次のやうな事が言へると思ふ。/ イタリーがドイツと比較して強大を誇り得るものは海軍力だけである。なまじ海軍力を使つてこれを失つてしまへば、戰後の講話會議の際ドイツに對する發言權を喪失してしまふかも知れぬ。出來るなら海軍力をそのまゝにして置きたい。使ふにしても最小限度に止めたい。この考へ方がイタリー海軍を引込思案にし、進んで敵を破るよりは退いて守るに如かずといふ消極退嬰の戰法をとる事を餘儀なからしめたのではなからうか。それがため、イギリス艦隊から受けた損害を加算すれば莫大な數字に上るのだ。/ 無傷な帝國海軍は日本の至寶であり、儼然たる海軍を背景にすればこそ我外交上の發言も重きを加へる所以であるが、海軍の實力を行使する必要が起きた際は苟くも力の出し惜しみをしてはならぬ事は、イタリーがいゝ手本を示してゐる。
昨年七月十九日午前三時イタリーの乙級巡洋艦ジョンアニ・デルレ・バンデネーレ號及びバルトロメオ・オルレオーン號の兩艦はクリート島沖でシドニー級の巡洋艦一隻及び驅逐艦四隻よりなる艦隊と遭遇海戰を交へた。イタリー兩艦は同型で五,〇六九トン、主砲は一五.二糎砲八門、速力卅七節、共に一九三一年に就役してゐる。一方のイギリス巡洋艦はシドニー級だといふから、六,八三〇トン、主砲は一五糎六門、速力卅二浬四分の一、驅逐艦を加へたところで數が多いか少いだけで實力は大した距りがなかつた筈だ。然るにイタリー側は敵艦に損傷を與へたものの撃沈し得なかつたに反し、コルレオーオン號先づ敵彈のため航行の自由を奪はれ、遂に沈没してしまつたのである。/ 急を聞いて驅けつけたイタリー空軍は爆撃を加へて驅逐艦一隻を撃沈した。/ この海戰で氣のつく事は飛行機と軍艦の強力、つまりイタリーが海軍獨自の空軍を保有してゐたなら、味方の巡洋艦が砲戰を交へるに先立つてイギリス艦隊を叩き得た事であらうといふ事と、潜水艦を随伴して艦隊行動をとつてゐたらなら砲力は伯中して居り、速力はずつと優れてゐたのであるからもつと手際のいゝ戰が出來たであらうといふ事だ。 - ^ 三野『地中海の戦い』(1993年)276頁では、連合軍艦隊を豪州海軍軽巡シドニー、英海軍駆逐艦4隻(アイレックス、ヒーロー、ハイぺリオン、ハボック)とする[5]。
- ^ イタリア側は“プンタスティロ沖海戦” (Battaglia di Punta Stilo) と呼称する[9]。
- ^ Ammirarlio di divisione。英訳はvice admiral。但し、注釈ではrear admiral upper half に相当するとの表記あり。
- ^ カソス海峡の東側にはドデカネス諸島のカソス島がある。
- ^ 時刻はイギリス側のもの。イタリア側より1時間遅い。以下同じ。
- ^ 木俣『ヨーロッパ列強戦史』(2004年)88頁では、対潜掃蕩中のイギリス駆逐艦を3隻(ハイぺリオン、ヒーロー、アイレックス)と記述する[10]。
- ^ 近距離戦ならば、魚雷を有するイギリス駆逐艦が数的優勢を生かして優勢となる[6]。
- ^ トブルク港の偵察をおこない、対空砲火で撃墜されたという。
- ^ この時点におけるイーグルの艦隊航空隊は、第813海軍飛行隊と第824海軍飛行隊だった。
脚注
- ^ 福田誠、光栄出版部 編集『第二次大戦海戦事典 W.W.II SEA BATTLE FILE 1939~45』、光栄、1998年、ISBN 4-87719-606-4、256ページ
- ^ 『世界の艦船 増刊第54集 イタリア巡洋艦史』海人社、2000年、158ページ
- ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 76–81カラブリア岬海戦とスパダ岬海戦
- ^ 列強の臨戦態勢 1941, pp. 121–122(原本219-221頁)
- ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 276–278(6)高速軍艦同士の戦闘/スパダ岬沖海戦
- ^ a b c d ヨーロッパ列強戦史 2004, p. 90.
- ^ イカロス、世界の巡洋艦 2018, pp. 108–109(イタリア海軍)ジュッサーノ/バルビアーノ級軽巡洋艦 コンドッチェリ級第1群
- ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 60–61(1)フランスとの戦争
- ^ 三野、地中海の戦い 1993, p. 80.
- ^ a b ヨーロッパ列強戦史 2004, p. 88.
- ^ a b ヨーロッパ列強戦史 2004, p. 89.
- ^ ヨーロッパ列強戦史 2004, p. 889.
- ^ ヨーロッパ列強戦史 2004, p. 96.
- ^ a b ヨーロッパ列強戦史 2004, p. 92.
- ^ ヨーロッパ列強戦史 2004, p. 93aスパダ岬の海戦(1940年7月19日)海戦行動図
- ^ a b ヨーロッパ列強戦史 2004, p. 97.
- ^ a b ヨーロッパ列強戦史 2004, p. 94.
- ^ ヨーロッパ列強戦史 2004, p. 95.
- 1 スパダ岬沖海戦とは
- 2 スパダ岬沖海戦の概要
- 3 参考文献
- 4 関連項目
スパダ岬沖海戦
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「バルトロメオ・コレオーニ (軽巡洋艦)」の記事における「スパダ岬沖海戦」の解説
「スパダ岬沖海戦」も参照 イギリスの小型タンカーの船団がルーマニアからギリシャ水域へと向かっているとの情報に基づき、カサルディ提督が率いる第2戦隊にその攻撃が命じられた。7月17日、第2戦隊はトリポリから出撃した。7月19日、第2戦隊(旗艦バンデネーレ)はクレタ島西のアンティキティラ海峡からエーゲ海へ入った。そこでイギリス海軍の第2駆逐戦隊 (2nd Destroyer Flotilla) に所属する駆逐艦4隻(アイレクス、ヒーロー、ヘイスティ、ハイペリオン )と遭遇、戦闘となる(スパダ岬沖海戦)。イギリス駆逐艦群は友軍のいる北東へ逃走し、それを追跡するイタリア軽巡2隻との間で砲火が交わされた。 だが、戦闘海域にオーストラリア海軍のパース級軽巡洋艦 (Perth class light cruser) シドニー (HMAS Sydney) とイギリス駆逐艦ハヴォック (HMS Havock, H43) が現れると、情況が一変する。イタリア側はハボックも軽巡洋艦と誤認し、戦力的に不利になったと判断して戦闘を切り上げようとした。イタリア軽巡洋艦2隻(バンデネーレ、コレオーニ)は南西へと向かい、今度はイギリス艦隊がイタリア軽巡を追撃した。 砲撃戦の最中、シドニー(艦長コリンズ大佐)の発射した6インチ砲弾2発がバルトロメオ・コレオーニに命中し、「バルトロメオ・コレオーニ」の速力が低下する。旗艦バンデネーレ(カサルディ提督)は窮地に陥った姉妹艦を掩護することなく逃走したので、「バルトロメオ・コレオーニ」はイギリス駆逐艦に包囲されて集中砲火を浴びた。その後、英駆逐艦(アイレクス、ハイペリオン)が発射した魚雷のうち計2本が命中し、コレオーニはスパダ岬沖で転覆、沈没した。生存者はイギリス側各艦(アイレクス、ハイペリオン、ハヴォック)により救助された。救助された人数は525名とするもの と、545名とするもの がある。その内、Umberto Novaro艦長など51名は負傷しており、その後Novaro艦長は死亡している。他にギリシャの貨物船に7名が救助されているが、121名が死亡した。
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