MC4作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/10 03:45 UTC 版)
MC4作戦(MC4さくせん)は、第二次世界大戦の地中海攻防戦において、1941年(昭和16年)1月上旬に連合国軍が地中海で実行したギリシャと英領マルタへの補給作戦[1]。 エクセス船団 (Convoy Excess) 、MW5 1/2船団、ME5 1/2船団、ME6船団の護衛が含まれる。エクセス作戦 (Operation Excess) と呼ばれることもある[2]。 本作戦では、ドイツ空軍 (Luftwaffe) が初めて地中海戦域に登場した[3]。第10航空軍団に所属するJu-87 スツーカ (Junkers Ju 87 Stuka) の急降下爆撃により1月10日にイギリス軍装甲空母イラストリアス (HMS Illustrious, R87) が撃破され、11日に軽巡サウサンプトン (HMS Southampton, C83) が沈没する[4][5]。 さらに枢軸国空軍がマルタ島に空襲を敢行した[6][注釈 1]。 連合国軍は航空戦で損害を受けつつも、作戦目標を達成した。
注釈
- ^ 第二三、英伊トブルグ海空戰[7] 北阿のリビア戰線で頑張つてゐたイタリー軍は、一個師團の寡兵を以て能く味方に三倍する濠洲軍、シリア佛軍を向ふに廻してトブルク港を死守してゐたが、港内にあつた沿岸防備艦サン・ジヨルジオ號(九,二三二トン)の自沈を最後として本年一月廿三日陥落した。これに先立つこと一ヶ月即ち一九四〇年十二月廿二日、イタリー海軍はイギリスの護送船團をトブルク港外で攻撃した。當時イタリー海軍は海上より陸戰に協力して英佛の歩兵、砲兵、機械化部隊等に砲撃を加へてゐたのであるが、偶々イギリス護送船團を發見、こゝぞとばかり挑みかゝり五隻の商船と巡洋艦一隻を撃沈したが、イタリーも舊式巡洋艦一隻を失つた。アフリカ戰線は當時極めてデリケートな状態だった爲かイタリー、イギリス共にその詳細の經過を公表してゐない。今年に入つてからの海戰らしい海戰の行はれたのは一月十日イタリー海軍の爆撃機編隊がシシリー島沖にイギリスの大艦隊を發見、熾烈な防空砲火を冒して大擧これに襲ひかゝり主力艦一隻に命中彈を浴びせたといふ海空戰である。イタリーの發表では之と同時に他の編隊がマルタ島を空襲して海空基地に銃爆撃を加へ、地上の敵機五機を爆碎し、船舶二隻に命中彈を與へたといふが、イギリスは之については一言も發表してゐないところを見ても大した戰果が擧らなかつた様子だ。
- ^ 大破着底3隻(リットリオ、カイオ・ドゥイリオ、コンテ・ディ・カブール)、健在3隻(ヴィットリオ・ヴェネト、ジュリオ・チェザーレ、アンドレア・ドーリア)[14]。
- ^ イタリア王立海軍は艦隊根拠地をナポリに変更した。
- ^ 第10航空兵団や、第10航空艦隊と表記する場合もある[16]。
- ^ 第10航空軍団には、第1急降下爆撃航空団の第1飛行隊と第3飛行隊、第2急降下爆撃航空団の第2飛行隊が含まれていた[6]。全体の保有機数は、中型爆撃機(He111、Ju88)120、単座戦闘機(Bf109)40、偵察機(Fw190)20、急降下爆撃機(Ju-87)150であったという[17]。
- ^ 駆逐艦フォークナー (HMS Faulknor, H62) 、フューリー (HMS Fury, H76) 、フォレスター (HMS Forester, H74) 、フォーチュン (HMS Fortune, H70) 、ファイアドレーク (HMS Firedrake, H79) 。
- ^ アメリカ海軍のクレムソン級駆逐艦 (Clemson-class destroyer) スチュワート (USS Stewart, DD-224) とは別艦。オーストラリア海軍のいわゆる屑鉄戦隊 (Scrap Iron Flotilla) 。
- ^ イタリア水雷艇キルケ― (Circe) は逃げ切ったあと、姉妹艦が沈んだ海域に戻ってきて救助をおこなった。ヴェガの生存者は数名しかおらず、フォンターナ艇長ふくめ100名以上が戦死した。
- ^ ヴェガを沈めたのは、英軽巡2隻(サウサンプトン、ボナベンチャー)とする資料がある[27]。
- ^ 生存者を僚艦に収容したあと、軽巡オライオン (HMS Orion, 85) が自沈処理した。
脚注
- ^ a b 撃沈戦記(II) 1988, pp. 246a-249エクセス作戦
- ^ スミス、Stuka 1974, pp. 93a-94飛んで火に入る夏の虫
- ^ a b 撃沈戦記(II) 1988, pp. 245a-246ドイツ空軍援助に登場
- ^ 呪われた海 1973, p. 231.
- ^ a b Ju87シュツーカ 1983, pp. 42a-44地中海と北アフリカ(1941年1月~1943年5月)
- ^ a b c d e Ju87シュツーカ 1983, p. 42b.
- ^ 列強の臨戦態勢 1941, p. 128原本232-233頁
- ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 38–39(五)ギリシャ進攻
- ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 86–89イタリアのギリシャ侵攻
- ^ 呪われた海 1973, p. 229.
- ^ 撃沈戦記(II) 1988, pp. 244–245「イラストリアス」地中海へ
- ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 71–72二、一九四〇年十一月十一日~十二日のタラント港夜間攻撃
- ^ ウォースパイト 1998, pp. 172–173カニンガムの池
- ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 242–247(1)タラント港奇襲
- ^ スミス、Stuka 1974, pp. 91–92追随を許さぬ英地中海艦隊の威力
- ^ 三野、地中海の戦い 1993, p. 97.
- ^ 撃沈戦記(II) 1988, p. 250.
- ^ スミス、Stuka 1974, pp. 92–93地中海に目をむけたヒトラー
- ^ スミス、Stuka 1974, p. 93b.
- ^ a b c d 撃沈戦記(II) 1988, p. 247.
- ^ 撃沈戦記(II) 1988, pp. 242–244装甲空母の誕生
- ^ a b c d e スミス、Stuka 1974, p. 94b.
- ^ a b c 撃沈戦記(II) 1988, p. 248.
- ^ ウォースパイト 1998, pp. 176–178ルフトバッファ(ドイツ空軍)の参戦
- ^ スミス、Stuka 1974, pp. 94a-95英船団の前途にかかる暗雲
- ^ 撃沈戦記(II) 1988, pp. 249a-251船団を阻止せよ
- ^ 三野、地中海の戦い 1993, p. 111第二期/一九四一年一月~六月の年表、A.イタリア海軍の艦艇の損失
- ^ a b c d e スミス、Stuka 1974, p. 95b.
- ^ スミス、Stuka 1974, pp. 95a-97「スツーカ」の鮮やかな手ぎわ
- ^ 撃沈戦記(II) 1988, p. 249b.
- ^ Ju87シュツーカ 1983, p. 22長距離型“リハルト”
- ^ 撃沈戦記(II) 1988, pp. 251a-254不沈の「イラストリアス」
- ^ スミス、Stuka 1974, pp. 97–99致命傷を受けた「イラストリアス」
- ^ ウォースパイト 1998, p. 178.
- ^ スミス、Stuka 1974, pp. 98–100「イラストリアス」ドックへの苦難の道
- ^ スミス、Stuka 1974, p. 99.
- ^ a b c d e f スミス、Stuka 1974, p. 100b.
- ^ a b c d e 撃沈戦記(II) 1988, p. 253.
- ^ スミス、Stuka 1974, pp. 101a-103殴り込みをかけた「スツーカ」
- ^ スミス、Stuka 1974, p. 102.
- ^ スミス、Stuka 1974, p. 103b.
- ^ a b スミス、Stuka 1974, pp. 100a-101巨艦を救った血と汗の記録
- ^ スミス、Stuka 1974, p. 101b.
- ^ 三野、地中海の戦い 1993, p. 113第二期/一九四一年一月~六月の年表、B.イギリス海軍の艦艇の損失
- ^ スミス、Stuka 1974, p. 103a地中海にとどろく「スツーカ」の勇名
- ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 98–103マタパン岬沖海戦
- ^ スミス、Stuka 1974, pp. 117–118.
- ^ Ju87シュツーカ 1983, pp. 44–45クレタ島(1941年5月20日~6月1日)
- 1 MC4作戦とは
- 2 MC4作戦の概要
- 3 結果
固有名詞の分類
- MC4作戦のページへのリンク