パッセロ岬沖海戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 00:39 UTC 版)
パッセロ岬沖海戦 (パッセロみさきおきかいせん、英語: Action off Cape Passero) は[1]、第二次世界大戦の地中海攻防戦において、1940年(昭和15年)10月11日深夜から10月12日未明にシチリア島南東沖でイギリス海軍の地中海艦隊と、イタリア王立海軍の駆逐艦及び水雷艇との間で戦われた海戦である[注釈 1]。
注釈
- ^ a b c 第一七、シシリー海峡英伊夜戰[8] 日本海海戰の大勝利を永遠に記念するために定められた海軍記念日は五月廿七日となつてゐるが、實際は廿七、廿八の兩日に亙つて海戰が續けられたのであつた。東郷大将麾下の聯合艦隊が哨艦信濃丸の「敵艦見ゆ」の警報を接受し、意氣衝天「撃滅」を確信して出動以來、廿七日は日没まで主力同志の激闘が交へられ大勢は既に決したが、最後の結末をつけたのは廿七日の夜から廿八日朝にかけての水雷隊の活躍であつた。舷々相摩し、敵艦の備砲が俯角の度を過ぎて發砲が出來ぬまで敵に接近した水雷隊の活躍によつて、バルチック艦隊は覆滅してしまつたのである。白晝堂々と立向つては到底勝味がないが、奇襲以てこれに當れば大艦をも屠り得るのが水雷隊の特色である。
一九四〇年十月十一日夜から翌拂暁にかけてマルタ島シシリー海峡上にて哨戒中のイタリー水雷隊は有力なイギリス艦隊に遭遇し砲火を交へた。夜中のことであるから双方とも敵状の偵察が不充分だつたと見えて各々違つた宣傳を行つてゐるが、イギリス側は航空母艦の外に南米ウルガイ沖の海戰で勇名を馳せたアジヤツクス號(六,九三七トン)及びヨーク號(八,二五九トン)ともう一隻ネプチユーン型(七,二六〇トン)の巡洋艦が加わつてゐたらしく、イタリー側は乙級巡洋艦を旗艦として驅逐艦二隻、水雷艇三隻位の勢力だつたらしい。イタリー側は魚雷の猛攻により、ネプチユーン型の一隻を撃沈し、水雷艇二隻、千四百トン級の驅逐艦一隻を失つたと發表してゐるが、イギリスはアジヤツクスがアイメロ型驅逐艦二隻を撃沈、更に大型の一隻にも損傷を與へ、後僚艦ヨークがこれを撃沈したと發表してゐる。イタリー側は自己の損害を明かにした上、戰果を公表してゐるのだから、英艦の撃沈は確實と思はれるが、午前二時半而も戰闘最中の視認は困難だつたに相違ない。夜が明け渡つてからイタリー空軍は索敵の結果東方に退却中の同艦隊を發見、高角砲と艦載機の邀撃を排して、航空母艦の艦首及び甲級巡洋艦の甲板に命中彈を與へ、敵機を二機撃墜したが、致命的打撃を與へるまでには至らなかつた。この空中戰でイタリーも一機失つてゐる。 - ^ 地中海艦隊司令長官はカニンガム中将で[4]、戦艦ウォースパイト (HMS Warspite) に将旗を掲げていた。
- ^ 貨物船4隻(クラン・マコーリー、クラン・ファーガスン、ラナークシャー、メムノン)、防空巡(カルカッタ、コヴェントリー)、駆逐艦4隻。
- ^ 戦艦4隻(ウォースパイト、ヴァリアント、マレーヤ、ラミリーズ)、空母2隻(イーグル、イラストリアス)、巡洋艦6隻(ヨーク、グロスター、リヴァプール、エイジャックス、オライオン、シドニー)、駆逐艦16隻からなる。
- ^ この時は異常がなかったが、ジャッジメント作戦 (Operation judgement) 決行直前に燃料漏れ事故が発生し、ターラント港に奇襲をかける英空母はイラストリアス1隻になった[6](タラント空襲)[7]。
- ^ 10月14日の空襲で損傷したリヴァプールは、僚艦オライオン (HMS Orion, 85) に曳航され、16日アレクサンドリアに戻った。
脚注
- ^ Struggle for the Middle Sea, p.57
- ^ a b 撃沈戦記 1988, p. 325.
- ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 91–92第一期/一九四〇年三月~十二月の年表/A.イタリア海軍の艦艇の損失
- ^ ヨーロッパ列強戦史 2004, p. 111.
- ^ 撃沈戦記(II) 1988, pp. 244–245「イラストリアス」地中海へ
- ^ ヨーロッパ列強戦史 2004, p. 112.
- ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 82–85タラント夜襲
- ^ 列強の臨戦態勢 1941, pp. 122–123(原本221-223頁)
- 1 パッセロ岬沖海戦とは
- 2 パッセロ岬沖海戦の概要
- 3 参考文献
- 4 外部リンク
- パッセロ岬沖海戦のページへのリンク